表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/81

第五十六話 



 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、久しぶりに薄く晴れていた。


 雲はある。


 けれど、昨日のように重くはない。


 灰色の層は高く持ち上がり、その切れ間から淡い朝日が差し込んでいる。


 校舎の石壁は、やわらかい金色を帯びていた。


 尖塔の先端も、霧のような白さから抜け出し、空へ細く伸びている。


 中庭の芝には、夜露が光っていた。


 ひと粒ひと粒が、朝の弱い光を受けて、小さく揺れている。


 風は穏やかだった。


 制服の裾を軽く撫でるだけの風。


 噴水の水音は、今日も変わらなかった。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 その音を思い出しながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋で手帳を開いていた。


 昨夜の最後の言葉。


 本物かもしれない封書の前で、息をする。


 怖さは消えなかったが、段階を飛ばさずに受け取れたことが、今日の第五班の成果だった。


 昨日、封書が来た。


 宛先はレオン・ヴォルツ。


 開封は、放課後、東棟第二面談室で担当教師立ち会いのもと。


 昼に封書を受け取ってから放課後までの時間は、ひどく長かった。


 鞄の中に封書があるだけで、歩くたびにその重さを感じた。


 紙と封蝋だけのはずなのに、剣より重かった。


 放課後、教師が開封した。


 中身は、ローゼンベルク家からの一次返答だった。


 即時の班変更要求ではない。


 正式記録を受領し、ローゼンベルク家内で継続確認を行う。


 エリシア・フォン・ローゼンベルク本人の認識を尊重する。


 詳細な返答は後日。


 現時点では、学園での通常活動継続に異議なし。


 レオンは、その言葉を昨夜何度も書き写した。


 何度書いても、胸の奥が少し震えた。


 即時班変更要求ではない。


 通常活動継続に異議なし。


 本人の認識を尊重。


 最終決着ではない。


 完全な承認でもない。


 だが、止められなかった。


 切られなかった。


 エリシアの声も、消されなかった。


 その事実は、確かに大きかった。


 けれど、今朝。


 レオンの身体は、安堵だけで満たされてはいなかった。


 むしろ、足元が少し震えている。


 昨日まで張り詰めていたものが、一気に緩みかけている。


 安心していいのか。


 まだ早いのではないか。


 詳細返答は後日だ。


 ヴォルツ家からの反応はまだ来ていない。


 ローゼンベルク家内で継続確認という言葉も、良い意味にも悪い意味にも取れる。


 そう考え始めると、また胸が重くなる。


 だが、昨日の返答が最悪ではなかったことも事実だ。


 その安堵を、なかったことにするのも違う。


 レオンは手帳へ一行書いた。


 安堵は油断ではない。


 安堵を受け取ることと、警戒を捨てることは違う。


 書いて、少しだけ息を吐く。


 今日の課題は、そこだ。


 安心しすぎない。


 でも、安心を拒まない。


 安堵してもいい日にも、足はまだ震えている。


 その震えを隠さず、今日も歩く。


    ◆


 寮の廊下に出ると、空気は昨日より少し軽かった。


 ローゼンベルク家からの一次返答が届いたこと。


 即時班変更要求ではなかったこと。


 通常活動継続に異議なしだったこと。


 その情報は、すでに学園中へ広がっていた。


 もちろん、詳細は知られていない。


 だが、大枠は伝わっている。


 廊下の声にも、昨日までとは違う響きがあった。


「第五班、止められなかったんだろ」

「ローゼンベルク家、即時変更要求なしって」

「エリシア様の認識も尊重って聞いた」

「よかったな」

「でも詳細返答は後日らしい」

「まだ終わりじゃないか」

「でも、最悪じゃなくてよかったよな」


 最悪じゃなくてよかった。


 その言葉を聞いた瞬間、レオンの胸に小さな熱が灯った。


 そうだ。


 最悪ではなかった。


 そこは、ちゃんと受け取っていい。


 しかし、すぐに別の声も聞こえる。


「これで第五班も一安心かな」

「いや、ヴォルツ家がまだだろ」

「ローゼンベルク家も継続確認って言ってるし」

「安心しすぎると危ないな」


 安心しすぎると危ない。


 それも、その通りだ。


 安堵と警戒。


 その両方が、廊下の空気に混ざっている。


 今日の学園は、少しだけ呼吸が戻っている。


 だが、完全には戻っていない。


 レオン自身と同じだった。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水のそば。


 今日は手帳を開いていなかった。


 胸に抱えて、水面を見ている。


 昨日より表情は柔らかい。


 けれど、目元には少し赤みがある。


 あまり眠れなかったのかもしれない。


 レオンが近づくと、彼女は顔を上げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 少し沈黙が落ちる。


 だが、重い沈黙ではなかった。


 フィーネは小さく息を吸って言った。


「昨日、少し泣きました」


 あまりにまっすぐな言葉だった。


 レオンは黙って聞く。


「部屋に戻ってから、即時班変更要求ではないって言葉を思い出して」


 一拍。


「ずっと怖かったんだなって、後からわかりました」


 レオンは頷いた。


「そうか」


「はい」


 フィーネは手帳を少し握る。


「でも、朝になったら、安心していいのかわからなくなりました」


「俺もだ」


「レオンさんも?」


「ああ」


「そうですか」


 フィーネは少しだけ安心したように笑った。


「今日の状態共有は、安堵している。でも、安堵していいのか不安、です」


「良い共有だ」


 レオンは言った。


 フィーネは頷く。


「安堵をなかったことにしない。でも、油断もしない」


「それだな」


 フィーネは手帳を開き、書いた。


 安堵している。

 でも、安堵していいのか不安。

 安堵を消さない。

 油断にしない。


 その文字は、少し震えていた。


 だが、確かに書かれていた。


    ◆


 アルト・レイヴンは、いつもより少し早く来た。


 目元が赤い。


 泣いたのか、眠れなかったのか。


 あるいはその両方かもしれない。


 けれど、顔には少しだけ明るさがあった。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 フィーネが返す。


 アルトは二人を見て、深く息を吐いた。


「昨日、俺……部屋で何回も“止まらなかった”って言いました」


 声が少し震えている。


「声に出して?」


 フィーネが優しく聞く。


「はい」


 アルトは恥ずかしそうに頷く。


「即時班変更要求ではないって。通常活動継続に異議なしって。何回も」


「それでいい」


 レオンが言う。


 アルトは少し目を伏せる。


「でも、今朝になったら、まだ詳細返答は後日だって思い出して」


「ああ」


「安心したあとに、また怖くなるの、変じゃないですか」


「変ではない」


 レオンは即答した。


「安堵したから、次の不安が見える」


「安堵したから」


「そうだ」


 アルトは少し考えた。


「昨日までは、即時班変更が怖すぎて、その先が見えてなかったんですね」


「ああ」


「それが一つ避けられたから、次が見える」


「そういうことだ」


 アルトは手帳を開いた。


 安堵したから、次の不安が見える。


 そう書く。


 そして少しだけ笑った。


「じゃあ、怖いけど、少し進んだんですね」


「進んだ」


 レオンは頷いた。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は軽い足取りで来た。


 だが、その軽さは少し不安定だった。


 昨日の緊張が抜けた反動で、軽くなりすぎているのかもしれない。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは三人を見て、最初に言った。


「昨日、部屋に戻ってから笑った」


「笑った?」


 アルトが聞く。


「うん。なんか、急に力抜けて。笑いながら、ちょっと泣いた」


 ユーリスは軽く言った。


 だが、その声は少しだけ掠れていた。


「俺、思ってたより怖かったみたいだ」


 フィーネが静かに頷く。


「私もです」


「だよな」


 ユーリスは噴水を見る。


「でも今日、ちょっと危ない。安心して軽くなりすぎそう」


「自覚しているなら言え」


 レオンが言う。


「言ってる」


「なら良い」


 ユーリスは少し笑った。


「今日の俺は、安堵で軽口が増えそう。逃げじゃなくても、増えすぎたら止めてくれ」


「わかった」


 フィーネが言う。


「必要な軽さか、安堵の反動か、見ます」


「頼む」


 ユーリスは少しだけ真面目に頷いた。


    ◆


 四人は噴水のそばで、短い確認をした。


 フィーネ。


 安堵している。


 でも、安堵していいのか不安。


 アルト。


 止まらなかったことに安心した。


 でも、詳細返答が怖い。


 ユーリス。


 安堵で軽くなりすぎそう。


 レオン。


 安心を拒まない。


 だが、詳細とヴォルツ家の反応はまだ。


 安堵と警戒。


 両方を持つ。


 確認し終えると、フィーネが小さく言った。


「今日は、昨日より歩きやすいですね」


「そうだな」


 アルトも頷く。


「でも、足はまだ少し震えてます」


 ユーリスが笑う。


「俺も」


 レオンも言った。


「俺もだ」


 三人が少し驚いた顔をする。


 レオンは続けた。


「安堵しても、震えは残る」


 フィーネが微笑む。


「今日の言葉ですね」


「ああ」


    ◆


 東棟へ向かう道は、昨日とは違っていた。


 昨日は、封書を見るたびに空気が止まった。


 今日は、少しだけ動いている。


 生徒たちも、完全に緊張しているわけではない。


 けれど、第五班を見る目には、労わりと期待が混ざっていた。


「よかったな」

「でもまだ終わってないんだろ」

「それでも一歩進んだよな」

「エリシア様、少し安心したかな」

「第五班も、今日は少し顔色いいな」


 顔色がいい。


 そう見えているらしい。


 実際、昨日よりはいいのだろう。


 だが、その顔色の内側に震えが残っていることは、外からは見えない。


 レオンは歩きながら、改めて思った。


 記録にも、噂にも、表情にも、全部は出ない。


 だから、状態共有が必要なのだ。


    ◆


 教室に入ると、ハルト・グレイナーがいつもより少しだけ穏やかな顔をしていた。


 彼なりに、昨日の返答を受け取ったのだろう。


 カイル・ローダンはすでに席に座り、書類を整理していた。


「即時班変更要求なし」


 カイルが言う。


「ああ」


 レオンは頷いた。


「大きいな」


「大きい」


 カイルは珍しく、短く評価した。


 ハルトが腕を組む。


「だが、終わりではない」


「わかっている」


「ならいい」


 ユーリスが少し笑う。


「ハルト式おめでとう?」


「違う」


「じゃあ、ハルト式釘刺し?」


「それだ」


 ハルトが即答したので、少し笑いが起きた。


 カイルは淡々と続ける。


「今日の危険は、二つある」


「二つ?」


 フィーネが聞く。


「一つは、安堵を拒むこと。もう一つは、安堵に飲まれること」


 レオンは頷いた。


 まさに今朝から考えていたことだ。


「安堵を拒むと、ずっと緊張状態が続き、反動が大きくなる。安堵に飲まれると、詳細返答や別の反応への備えが緩む」


 アルトが手帳を開く。


「安堵を拒まない。でも、飲まれない」


「そうだ」


 カイルは言った。


 ハルトが少し不機嫌そうに言う。


「面倒だな」


「感情は面倒だ」


 カイルが返す。


「しかし、扱わなければ演習にも影響する」


 その通りだった。


    ◆


 一限目。


 教師は教室へ入ると、黒板へ向かった。


 書かれた文字は。


 安堵。


 教室が静かになる。


 教師はチョークを置き、振り返った。


「昨日、外部確認元より一次返答が届いた」


 生徒たちの視線が、ほんの少し第五班へ向きかける。


 だが、すぐに戻る。


「内容の詳細はここでは扱わない。ただし、関係生徒の通常活動継続に異議がない旨は確認されている」


 教室の空気が少し緩んだ。


 改めて、教師の口から確認された。


 通常活動継続に異議なし。


 その言葉は、やはり大きい。


「今日は、安堵を扱う」


 教師は言った。


「安堵は油断と同じではない」


 黒板に二つの言葉が書かれる。


 安堵。

 油断。


「安堵とは、張っていたものが一部緩むことだ。必要な反応である」


 一拍。


「油断とは、未確認の危険まで消えたものとして扱うことだ」


 レオンは静かに聞く。


 今朝の手帳の言葉と重なる。


 安堵は油断ではない。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「一次返答後の第五班に必要なことは何だ」


 レオンは少し考えた。


「安堵を受け取ることです」


 教師は黙って続きを待つ。


「即時班変更要求ではなかったこと。通常活動継続に異議なしだったこと。エリシア様本人の認識が尊重されたこと。それらは、良かったこととして受け取る必要があります」


 一拍。


「ただし、詳細返答は後日です。ヴォルツ家からの反応もまだです。だから、安心を理由に確認を止めない」


 教師は頷いた。


「良い」


 短い評価。


「全員、覚えておけ。安堵を拒むな。だが、安堵を根拠に未確認事項を消すな」


    ◆


 午前の課題は、安堵下連携演習だった。


 課題内容は標識移送。


 魔法人形二体。


 障害壁一つ。


 難度は高くない。


 ただし、演習中に“良い情報”が入る。


 例えば、障害壁停止。


 魔法人形一体停止。


 移送距離短縮。


 それらの良い情報を受けた時に、油断せず、しかし安堵を拒まず動けるかを見る。


 第五班は区画に入った。


 標識は中央奥。


 前衛型一体、軽量型一体。


 障害壁は中央にある。


 レオンは三人を見る。


「良い情報が入っても、確認を続ける」


 フィーネが頷く。


「安堵を共有します」


 アルトも。


「支援を雑にしないようにします」


 ユーリスも。


「軽くなりすぎたら言う」


 鐘が鳴る。


 演習開始。


    ◆


 フィーネの初期報告。


「正面前衛、右軽量、障害壁中央。標識は奥」


 レオンが指示。


「前衛は俺。ユーリス標識へ。アルト、右軽量足止め。フィーネ、障害壁」


 動き出す。


 前衛型を流す。


 アルトが土を出す。


 ユーリスが標識へ向かう。


 その時、魔法装置の音声が響く。


『障害壁、停止』


 良い情報。


 戻り道が楽になる。


 フィーネの表情が少し緩む。


「障害壁停止。安堵しました。でも軽量型は継続」


 すぐに共有。


 アルトが言う。


「俺も楽だと思いました。足止め継続します」


 ユーリスが軽く笑いかける。


「俺、ちょっと走りそう。速度維持」


 レオンも言う。


「俺も判断が軽くなりかけた。前衛確認継続」


 動きは安定している。


 標識へ到達。


 ユーリスが確保。


 次の音声。


『右軽量型、一時停止』


 さらに良い情報。


 敵が一体止まる。


 アルトの土が少し緩む。


「支援、抜きかけました。まだ再起動の可能性あり、維持します」


 フィーネが補足。


「右軽量、一時停止。完全停止ではありません」


 その一言が重要だった。


 一時停止。


 完全停止ではない。


 レオンは頷く。


「良い。ユーリス、標識を戻せ。右警戒は維持」


「了解」


 戻り。


 障害壁は停止中。


 右軽量も止まっている。


 あまりに楽に見える。


 そこで、ユーリスが軽口を言いかけた。


「これ、今日は楽――」


 言いかけて止まる。


「安堵で軽口増えかけた。警戒戻す」


 フィーネが小さく笑いながらも、すぐに言う。


「前衛型、レオンさんの左へ回り込み気配」


 レオンは反応する。


「見えた。左を流す」


 前衛型を流す。


 その瞬間、右軽量型が再起動した。


 フィーネが叫ぶ。


「右軽量、再起動!」


 アルトが即座に土を強める。


「足止め維持してます!」


 維持していたから間に合った。


 ユーリスが標識を抱え直す。


「台座まで四歩」


 レオンが進路を空ける。


「直進」


 標識設置。


 鐘が鳴る。


    ◆


 教師が近づく。


「第五班、評価、上」


 四人が姿勢を整える。


「安堵情報への反応はあった。だが、安堵を共有し、確認を継続できた点、良」


「はい」


「特にルーク。“一時停止”と“完全停止”を分けた点、良い」


「はい」


「レイヴン、支援を抜きかけたことを自己申告し、維持した点、良」


「はい」


「ベルク、軽口が安堵由来だと認識し、戻った点、良」


「はい」


「ヴォルツ、良い情報後も前衛確認を継続した点、良」


「はい」


 教師は全体へ言った。


「良い情報は、悪い情報と同じくらい人を揺らす。悪い情報では硬くなり、良い情報では緩みすぎる。どちらも状態共有の対象だ」


 良い情報も、人を揺らす。


 その言葉は、昨日の返答そのものだった。


    ◆


 訓練後。


 第五班は端に集まった。


 アルトが深く息を吐く。


「一時停止と完全停止、全然違いますね」


「そうですね」


 フィーネが頷く。


「昨日の一次返答にも似ています」


 ユーリスが言う。


「即時班変更要求なし。でも完全解決じゃない」


「ああ」


 レオンは頷いた。


「通常活動継続に異議なし。でも詳細返答は後日」


 フィーネが手帳を開く。


「一時停止と完全停止を分ける」


 アルトも書く。


「良い情報でも支援を抜かない」


 ユーリスも。


「安堵の軽口、増えすぎ注意」


 レオンも手帳に記した。


 安堵は受け取る。

 油断にしない。

 良い情報も状態共有。


    ◆


 昼休み。


 食堂の空気は、昨日より明るかった。


 ローゼンベルク家の一次返答が最悪ではなかったことは、生徒たちにも安心を与えたのだろう。


 ただし、教師の講義の影響か、完全に浮かれている者は少ない。


「第五班、上評価だって」

「安堵下連携演習だろ」

「良い情報も人を揺らすってやつ」

「一時停止と完全停止は違うって」

「それ、今回の返答そのものだな」

「即時変更なしは良いけど、最終じゃないってことか」


 第五班の席では、四人が少しだけ落ち着いて食事を取っていた。


 フィーネが言う。


「今日は、ご飯の味が少しします」


 その言葉に、アルトが笑った。


「昨日はしなかったですか」


「昨日は、封書のことでいっぱいで」


「俺もです」


 ユーリスがパンを持ちながら言う。


「俺は昨日、食べた記憶が薄い」


「今日は?」


「今日はある」


 ユーリスはパンを見て、少し笑った。


「安堵って、こういうところにも出るんだな」


「そうだな」


 レオンも頷いた。


 食事の味がする。


 それも、安堵の一つだった。


 小さい。


 だが、大事だ。


    ◆


 放課後。


 中庭に出ると、エリシア・フォン・ローゼンベルクが噴水のそばにいた。


 今日は、昨日より少し顔色が良かった。


 ただ、目元には疲れが残っている。


 レオンたちに気づくと、彼女は静かに会釈した。


「皆様」


「エリシア様」


 フィーネが返す。


 少しの沈黙。


 昨日の一次返答をどう扱うか。


 それぞれが少し迷っている。


 最初に口を開いたのは、エリシアだった。


「昨日は、少し眠れました」


 その言葉に、フィーネが柔らかく笑う。


「よかったです」


「はい」


 エリシアは手帳を持っていた。


 最近、彼女も持ち歩くようになった小さな手帳。


「でも、今朝になってまた不安になりました」


「俺たちもです」


 アルトが言う。


 エリシアは彼を見る。


「そうなのですね」


「はい。安心したあとに、詳細返答が怖くなりました」


 エリシアは静かに頷く。


「私もです」


 ユーリスが言う。


「今日の講義、安堵でした」


「安堵」


 フィーネが説明する。


「安堵は油断ではない。安堵を拒まない。でも、安堵を根拠に未確認事項を消さない」


 エリシアはその言葉を、ゆっくり受け取った。


「安堵を拒まない」


「はい」


 エリシアは少しだけ目を伏せた。


「私は、少し拒もうとしていたかもしれません」


「なぜ」


 レオンが聞く。


「安心すると、あとで傷つくのが怖いからです」


 その言葉に、五人の間の空気が静かになった。


 安心すると、あとで傷つくのが怖い。


 それは、とても正直な言葉だった。


 フィーネが小さく頷く。


「わかります」


 アルトも。


「俺も、わかります」


 ユーリスも、今日は軽く流さなかった。


「うん。わかる」


 レオンも言った。


「俺もだ」


 エリシアは少しだけ驚いたように四人を見る。


 それから、微かに笑った。


「皆様もなのですね」


「ああ」


「なら、少しだけ安心してみます」


 エリシアは手帳を開いた。


 安堵を拒まない。

 でも、油断にしない。

 安心するとあとで傷つくのが怖い。

 それでも、昨日の良かったことは良かったこととして受け取る。


 丁寧に書く。


 書き終えた後、彼女は息を吐いた。


「昨日の返答で、私の認識を尊重すると書かれていました」


「はい」


 フィーネが頷く。


「その言葉が、嬉しかったです」


 エリシアは言った。


 静かに。


 震えながら。


「嬉しかった、と言っていいのか、少し迷いました。でも、嬉しかったです」


 レオンは、その言葉を聞いて胸が熱くなった。


「言っていいと思います」


 エリシアはレオンを見る。


「はい」


 そして、少しだけ笑った。


「嬉しかったです」


 その二度目の言葉は、一度目より少しだけ強かった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 第五十六話。


 安堵してもいい日にも、足はまだ震えている。


 朝。

 ローゼンベルク家一次返答の翌日。

 即時班変更要求ではない。

 通常活動継続に異議なし。

 本人の認識を尊重。

 最終決着ではない。

 でも、止められなかった。

 安堵は油断ではない。

 安堵を受け取ることと、警戒を捨てることは違う。


 フィーネ。

 昨日、部屋で少し泣いた。

 即時班変更要求ではない、を思い出して。

 ずっと怖かったと後からわかった。

 安堵している。

 でも、安堵していいのか不安。

 安堵を消さない。

 油断にしない。


 アルト。

 部屋で何度も“止まらなかった”と言った。

 即時班変更要求ではない。

 通常活動継続に異議なし。

 でも今朝、詳細返答は後日だと思い出してまた怖くなる。

 安堵したから、次の不安が見える。

 怖いけど、少し進んだ。


 ユーリス。

 部屋で笑った。

 笑いながら少し泣いた。

 思っていたより怖かった。

 今日は安堵で軽口が増えそう。

 必要な軽さか、安堵の反動か見てもらう。


 カイル。

 安堵を拒むこと。

 安堵に飲まれること。

 今日の危険は二つ。

 安堵を拒むと緊張が続く。

 安堵に飲まれると備えが緩む。


 ハルト。

 終わりではない。

 ハルト式釘刺し。


 講義。

 安堵。

 安堵は油断と同じではない。

 安堵とは、張っていたものが一部緩むこと。

 必要な反応。

 油断とは、未確認の危険まで消えたものとして扱うこと。

 安堵を拒むな。

 だが、安堵を根拠に未確認事項を消すな。


 午前課題。

 安堵下連携演習。

 良い情報が入る。

 障害壁停止。

 右軽量型一時停止。

 フィーネ、一時停止と完全停止を分ける。

 アルト、支援を抜きかけたが維持。

 ユーリス、安堵の軽口に気づいて戻る。

 レオン、良い情報後も前衛確認を継続。

 評価、上。

 良い情報は、悪い情報と同じくらい人を揺らす。


 昼。

 食事の味が少しする。

 それも安堵。


 放課後。

 エリシア。

 昨日は少し眠れた。

 でも今朝、また不安。

 安心すると、あとで傷つくのが怖い。

 安堵を拒まない。

 油断にしない。

 昨日の良かったことは良かったこととして受け取る。

 本人の認識を尊重する、と書かれていて嬉しかった。

 嬉しかった、と言っていいのか迷った。

 でも、嬉しかった。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、安堵を学ぶ日だった。


 安堵なんて、ただ楽になることだと思っていた。


 だが、違った。


 安堵にも怖さがある。


 安心すると、あとで傷つくのが怖い。


 エリシアの言葉は、深く残った。


 レオン自身も、同じだった。


 即時班変更要求ではなかった。


 通常活動継続に異議なしだった。


 エリシア本人の認識が尊重された。


 それは嬉しい。


 よかった。


 そう思う。


 でも、すぐに胸の奥で別の声がする。


 まだ詳細返答は後日だ。


 ヴォルツ家の反応はまだだ。


 ローゼンベルク家内で継続確認という言葉も残っている。


 安心しすぎるな。


 浮かれるな。


 油断するな。


 その声が、安堵を押し戻そうとする。


 だが、今日わかった。


 安堵を拒み続けると、心はずっと緊張したままになる。


 それは、長くは続かない。


 だから、安堵は受け取る。


 でも、未確認事項を消さない。


 その両方が必要だ。


 レオンは最後に一行を書く。


 安堵してもいい日にも、足はまだ震えている。


 その下に、もう一行。


 震えたままでも、昨日の良かったことを良かったと言えるなら、それは油断ではなく前進だ。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 雲は薄く、星がいくつか見えている。


 最終返答はまだ。


 ヴォルツ家からの反応もまだ。


 だが今日は、少しだけ眠れるかもしれない。


 昨日よりも、少しだけ。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、エリシアの声を思い出す。


 嬉しかったです。


 一度目は迷うように。


 二度目は少しだけ強く。


 その声を、レオンは忘れないと思った。


 噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 安堵で少しだけ浮いた心も、また静かに戻っていく。


 明日も続く。


 けれど今夜は、止まらなかったことと、嬉しかったと言えたことを、静かに抱いて眠りたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ