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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第五十五話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、重く曇っていた。


 雨は降っていない。


 けれど、空全体に灰色の幕がかかっている。


 朝日は雲の向こうに隠れ、校舎の石壁は白さを失っていた。


 尖塔の先も、少しだけ霞んで見える。


 中庭の芝は湿っている。


 夜露なのか、空気そのものが水を含んでいるのか、葉先はいつもより重たげに垂れていた。


 風はほとんどない。


 噴水の水音だけが、今日も変わらず響いていた。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 レオン・ヴォルツは、寮の部屋でその音を思い出しながら手帳を開いていた。


 昨日の最後の言葉。


 来ないことに慣れた頃、心は一番揺れやすい。


 だから、未着にも新着にも、同じように事実確認を置く。


 昨日、第五班は封書で揺れた。


 中庭を横切った事務職員。


 手にしていた深い色の封書。


 遠目には紋章も宛先も見えない。


 ただ、それだけで全員が止まりかけた。


 レオンも。


 フィーネも。


 アルトも。


 ユーリスも。


 エリシアも。


 全員が、来たのかと思った。


 ローゼンベルク家からか。


 ヴォルツ家からか。


 正式記録への返答か。


 けれど、違った。


 封書は別の教師へ渡された。


 別件だった。


 ただ、それだけ。


 だが、もし午前の演習で“新着ありは内容不明”“返答ありでも内容確定ではない”“段階を飛ばさない”と学んでいなかったら、きっと崩れていた。


 演習で学んだ言葉が、放課後の現実で必要になった。


 それが昨日だった。


 そして今日。


 レオンは、胸の奥に別の予感を抱えていた。


 昨日は別件だった。


 だから今日も別件とは限らない。


 昨日は来なかった。


 だから今日も来ないとは限らない。


 昨日は封書を見て揺れた。


 だから今日、本物が来た時に落ち着けるとは限らない。


 むしろ、昨日の別件があったからこそ、今日また封書を見た時、心はさらに揺れるかもしれない。


 あれは違った。


 でも、今度は。


 そう思うはずだ。


 レオンは手帳に短く書く。


 本物かもしれない、は事実ではない。


 可能性だ。


 可能性で息を止めるな。


 書き終えて、ペンを置く。


 胸は重い。


 だが、言葉にしたことで少しだけ輪郭ができた。


 今日は、たぶん長い。


 返答が来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 別件かもしれない。


 だが、どれであっても、段階を飛ばしてはいけない。


 レオンは制服の袖を通した。


 灰色の制服が、今日の空と少し似ていた。


    ◆


 寮の廊下に出ると、空気は昨日より重かった。


 昨日の封書騒動が、もう学園内に広がっている。


 ただし、騒ぎ方は以前より静かだ。


 誰かを責める声ではない。


 けれど、全員が思っている。


 昨日は違った。


 なら、次は。


「昨日の封書、別件だったんだろ」

「ああ、第五班宛じゃなかったらしい」

「でも、見たらそりゃ止まるよな」

「次に来たら本物かもしれないし」

「今日あたり来るのかな」

「いや、まだ早いだろ」

「でも昨日みたいなことがあると、落ち着かないよな」


 本物かもしれない。


 その言葉が廊下の壁に反響するように聞こえた。


 レオンは歩きながら、自分の手帳の文字を思い出す。


 本物かもしれない、は事実ではない。


 可能性だ。


 可能性で息を止めるな。


 可能性は、無視できない。


 だが、可能性を事実として扱えば崩れる。


 今日もまた、そこから始まる。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水のそば。


 手帳を開いている。


 けれど、文字を書いているわけではなかった。


 開いたページに視線を落としたまま、何かを考えている。


 レオンが近づくと、彼女は顔を上げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 声は少し硬い。


 フィーネ自身もそれに気づいているようだった。


「昨日の封書、夢に出ました」


「そうか」


「はい。職員さんが封書を持ってきて、でも何度開いても中身が真っ白で」


 彼女は苦笑する。


「変な夢です」


「変ではない」


 レオンは言った。


「気になっているんだ」


「はい」


 フィーネは素直に頷いた。


「昨日は、別件だとわかって安心しました。でも夜になってから、もし次が本物だったらって考えてしまって」


「俺もだ」


「レオンさんも」


「ああ」


 フィーネは少しだけ安心した顔をした。


 それから、手帳を胸に抱える。


「今日の共有は、“本物かもしれないと思って息が止まりそうになる”です」


「良い共有だ」


「はい」


 一拍。


「でも、息が止まりそうになるって言ったら、まず息をするべきですよね」


「そうだな」


 レオンは頷く。


「本物かどうか確認する前に、息をする」


 フィーネは手帳に書く。


 本物かもしれない。

 まず息をする。

 次に事実確認。


 その文字を見て、レオンも小さく頷いた。


    ◆


 アルト・レイヴンは、周囲を気にしながらやって来た。


 昨日より少し落ち着いている。


 だが、事務棟の方へ視線が流れる回数は多い。


 レオンたちの前に立つと、アルトは深く頭を下げた。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 フィーネが返す。


 アルトはすぐに言った。


「昨日の封書のこと、ずっと考えてました」


「ああ」


「別件だったのに、すごく疲れました」


「それだけ反応した」


「はい」


 アルトは手帳を開く。


「昨日、段階を飛ばさないって書きました。でも、実際に封書を見た瞬間、頭の中ではもう返答だと思ってました」


「俺もだ」


「レオンさんも?」


「ああ」


 アルトは少しだけほっとしたように息を吐いた。


「今日もし封書が来たら、俺、また飛ばしそうです」


「なら、先に言っておく」


 レオンが答える。


「封書を見たら?」


 アルトは少し考えて言う。


「封書がある、です」


「次は」


「宛先不明」


「次は」


「内容不明」


「次は」


「返答とは限らない」


「良い」


 アルトは手帳に書き足した。


 封書がある。

 宛先不明。

 内容不明。

 返答とは限らない。


 書きながら、少し笑う。


「順番にすると、少し落ち着きます」


「順番は大事だ」


「はい」


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は珍しく静かに来た。


 軽口を言う前に、事務棟の方を一度見た。


 そして自分で苦笑する。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは肩をすくめた。


「見た。今、完全に見た」


「事務棟をか」


「うん。朝一で見た。もう駄目だな」


「駄目ではない」


 フィーネが言う。


「見たことを言えたので」


「フィーネ、優しいな」


「事実です」


 ユーリスは少し笑った。


「じゃあ、今日の俺の共有。封書っぽいものを見ると、軽口が消える」


「昨日も消えていたな」


 レオンが言う。


「消えた。俺、自分でもびっくりした」


 一拍。


「でも、消えるなら消えるって言う。無理に軽くしない」


「それでいい」


 ユーリスは頷く。


「あと、もし本物が来たら、俺はたぶん笑おうとする」


 フィーネが首を傾げる。


「笑おうとする?」


「うん。怖い時に、軽くしようとして笑うかもしれない」


 それは、ユーリスらしい自己分析だった。


「逃げの軽さかもしれないな」


 レオンが言う。


「そう。だから、その時は止めてくれ」


「わかった」


 ユーリスは少しだけ息を吐いた。


「頼む」


    ◆


 四人はしばらく噴水のそばに立っていた。


 空は重い。


 水音は変わらない。


 今日は、昨日と同じ待つ日ではない。


 “本物かもしれない”という可能性が強くなった日だ。


 返答はまだ来ていない。


 それが事実。


 だが、昨日封書を見たことで、全員の意識は“来るかもしれない”へ向いている。


 レオンは三人を見る。


「今日の合言葉は、段階を飛ばさない」


 フィーネが頷く。


「まず息をする」


 アルトも。


「封書がある、から始める」


 ユーリスも。


「笑って逃げそうなら止める」


「最後だけ個人用ですね」


 フィーネが少し笑う。


 その笑いで、空気が少しだけ緩んだ。


    ◆


 東棟へ向かう道では、いつもより事務職員の姿が目立った。


 実際に増えているのか。


 それとも、こちらが気にしているから目につくのか。


 判別がつかない。


 職員が書類を持って歩く。


 生徒が一瞬見る。


 別の職員が小箱を運ぶ。


 また視線が集まる。


 昨日の封書騒動のせいで、学園全体が小さな連絡にも反応しやすくなっていた。


 誰かが小さく言う。


「あれ、関係ある?」

「ただの教材じゃない?」

「でも事務棟から来たぞ」

「落ち着けって」


 落ち着け。


 その言葉を言う側も、少し落ち着いていない。


 レオンたちは歩幅を揃えた。


 フィーネが小さく言う。


「今、職員さんが書類を持っている」


 アルトが続ける。


「宛先不明」


 ユーリスも。


「返答とは限らない」


 レオンが締める。


「今ここ」


 短い確認を重ねながら、四人は東棟へ入った。


    ◆


 教室に入ると、ハルト・グレイナーがいつもより不機嫌そうに見えた。


 腕を組み、机の端に座っている。


 カイル・ローダンは席で書類を読んでいたが、目がいつもより少しだけ鋭い。


「今日は全体が過敏だ」


 カイルが言った。


「ああ」


 レオンは頷く。


「昨日の封書のせいだ」


 ハルトが低く言う。


「関係ない封書一つで、あれだけ空気が止まるとはな」


「お前も止まったのか」


 ユーリスが聞く。


 ハルトは一瞬黙った。


「……止まってはいない」


「本当に?」


「少し見ただけだ」


「それを止まったって言うんじゃないか?」


「ベルク」


「はい」


 カイルが淡々と続ける。


「今日、本物が来る可能性は昨日より高いわけではない」


「そうなのか」


 アルトが聞く。


「提出から日数が経ったという意味では、昨日よりは高いかもしれない。しかし“昨日封書を見たから今日来る”という因果はない」


 フィーネが頷く。


「昨日の封書と今日の返答は、別の話」


「そうだ」


 カイルは言った。


「人は、直前に似た刺激を受けると、次も関連があると思いやすい。だが、事実は分けろ」


 レオンは手帳に書きたくなる言葉だと思った。


 昨日の封書と今日の返答は、別の話。


 似た刺激に引っ張られない。


    ◆


 一限目。


 教師は教室へ入ると、黒板へ向かった。


 チョークが走る。


 書かれた文字は。


 前触れ。


 教室が静まり返る。


「昨日、中庭において、事務職員が封書を持って移動したことで一部生徒が反応した」


 教師は淡々と言った。


 隠さない。


 それを今日の主題にする。


「あれは今回の正式記録への返答ではない。別件である」


 教室に小さな息が広がる。


 改めて事実確認が行われた形だ。


「だが、多くの者が“本物かもしれない”と反応した」


 一拍。


「今日は、その“かもしれない”を扱う」


 教師は黒板にもう一つ書く。


 可能性。


「可能性は無視してはならない。しかし、可能性を事実として扱ってはならない」


 レオンは静かに聞いた。


「ヴォルツ」


「はい」


 立ち上がる。


「封書を見た時、第五班が確認すべき段階を言え」


 レオンは朝の確認を思い出す。


「まず、封書がある。次に、宛先不明。内容不明。返答とは限らない」


「続けろ」


「仮に宛先が第五班または関係者だと確認されても、内容は未確認です。仮に返答だと確認されても、内容確定ではありません。読むまで判断しない」


 教師は頷いた。


「良い」


 そして全体を見る。


「段階を飛ばすな。“本物かもしれない”は、まだ本物ではない」


 その言葉が、重く落ちた。


    ◆


 午前の課題は、前触れ対応演習だった。


 演習区画には、いくつかの“前触れ”が配置されていた。


 封書に似た札。


 事務職員役の人形。


 通知音。


 遠くで光るランプ。


 どれも、何かが来たように見える。


 しかし、そのすべてが課題に関係するとは限らない。


 班員は、それらに反応しすぎず、必要な確認を行いながら標識を移送する。


 教師は言った。


「本物の前触れもあれば、無関係な刺激もある。確認せずに決めつけるな」


 第五班は区画へ入る。


 標識は中央奥。


 魔法人形二体。


 障害壁一つ。


 そして、区画の右奥に封書を持った人形が立っている。


 それだけで、アルトの肩が動いた。


「封書があります」


 彼はすぐに言った。


 良い。


 飲み込まず、共有した。


 フィーネが続ける。


「宛先不明。内容不明」


 ユーリスも。


「返答とは限らない」


 レオンが頷く。


「標識移送を優先。封書人形は教師指示があるまで無視」


 鐘が鳴る。


 演習開始。


    ◆


 初動。


 フィーネが状況を出す。


「正面前衛一、左軽量一。障害壁は標識手前。右奥に封書人形、動きなし」


「前衛は俺。ユーリス標識へ。アルト、左軽量。フィーネ、封書人形は視界端で維持」


「はい」

「了解」

「はい」


 動き出す。


 前衛型を受ける。


 ユーリスが標識へ向かう。


 アルトが土を出す。


 その時、右奥の封書人形が一歩動いた。


 アルトの土が少し揺れる。


「封書人形、動きました。支援揺れました。補正します」


 フィーネがすぐに言う。


「封書人形、こちらへ直進ではありません。右側通路へ移動中」


 ユーリスも走りながら言う。


「関係不明。標識まで四歩」


 レオンは前衛型を流しながら指示する。


「封書人形は追わない。標識優先」


 次に、魔法装置の通知音が鳴る。


 軽い鐘のような音。


 昨日の“新着あり”を思わせる。


 フィーネの声が一瞬止まりかける。


 だが、すぐに言う。


「通知音あり。内容不明。前衛位置変化なし」


 レオンが頷く。


「良い」


 標識を確保。


 戻りに入る。


 障害壁が起動する。


 その瞬間、右奥のランプが赤く光った。


 アルトがそちらを見そうになる。


「ランプ点灯、見ました。意味不明。戻ります」


 自分で戻る。


 ユーリスが言う。


「俺も気になった。標識保持中、速度落とす」


 フィーネが叫ぶ。


「障害壁、中央閉鎖! 左へ!」


 レオンが指示する。


「左へ。アルト、風弱支援」


「はい!」


 左へ進む。


 封書人形がまた動く。


 今度はこちらへ近づくように見える。


 レオンの胸が一瞬鳴る。


 近づいている。


 来るのか。


 いや。


 演習中。


 内容不明。


 宛先不明。


「封書人形、接近気配。だが内容不明。進路維持」


 レオンは声に出した。


 フィーネが続ける。


「標識台座まで五歩。封書人形との接触なし」


 ユーリスが少し笑う。


「じゃあ今は標識」


 台座へ。


 標識設置。


 鐘が鳴った。


    ◆


 教師が近づく。


「第五班、評価、上」


 四人が姿勢を整える。


「前触れへの反応はあった。だが、各段階を確認し、課題目的を維持した点を評価する」


「はい」


「レイヴン、封書人形への初期反応を自己申告した点、良」


「はい」


「ルーク、封書人形の進路と通知音の内容不明を分けた点、良」


「はい」


「ベルク、標識保持中に速度調整を行った点、良」


「はい」


「ヴォルツ、接近気配を認めつつ、内容不明として進路維持した点、良」


「はい」


 教師は言った。


「前触れに見えるものが、すべて本件に関係するとは限らない。関係する可能性があるから確認する。関係すると決めつけて崩れるな」


 関係する可能性があるから確認する。


 関係すると決めつけない。


 今日の言葉が、また一つ増えた。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、前触れ対応演習の話が広がっていた。


「封書人形とか出たらしいぞ」

「嫌すぎる」

「通知音とかランプとかも」

「第五班、よくやったな」

「前触れに見えるものが全部関係あるとは限らないって」

「でも関係あるかもしれないから確認は必要なんだろ」

「難しいな」


 第五班の席では、四人が少し疲れながら食事を取っていた。


 ユーリスがパンをちぎる。


「今日の演習、性格悪いな」


「必要ではあった」


 レオンが言う。


「わかってるけどさ」


 フィーネが手帳を開く。


「封書がある。宛先不明。内容不明。返答とは限らない」


 アルトも書く。


「関係する可能性があるから確認する。関係すると決めつけない」


 ユーリスも紙片に書く。


「前触れっぽいだけでは前触れじゃない」


「お前の表現は軽いな」


「でもわかりやすいだろ」


「まあな」


 少し笑いが生まれた。


 その時。


 食堂の入口に、事務職員が現れた。


 手には封書。


 深い青の封蝋。


 今度は、距離が近かった。


 見える。


 封蝋の色。


 歩いてくる方向。


 食堂のざわめきが、明らかに止まった。


 職員はまっすぐ第五班の席へ向かっている。


 アルトの手が止まる。


 フィーネの顔が白くなる。


 ユーリスの笑みが消える。


 レオンの胸が強く鳴った。


 今度は。


 いや。


 段階。


 レオンは低く言った。


「封書がある」


 フィーネが震えながら続ける。


「職員さんがこちらへ向かっています」


 アルトも。


「宛先、まだ未確認」


 ユーリスが息を吐く。


「内容不明」


 職員は第五班の席の前で止まった。


 丁寧に頭を下げる。


「レオン・ヴォルツ様」


 宛先確認。


 レオンは静かに立ち上がった。


「はい」


 職員は封書を差し出す。


「担当教師より、こちらをお預かりしております。開封は、放課後、東棟第二面談室にて担当教師立ち会いのもと行うようにとのことです」


 食堂全体が静まり返る。


 開封は放課後。


 第二面談室。


 担当教師立ち会い。


 つまり。


 まだ内容はわからない。


 レオンは封書を受け取った。


 手に重みがある。


 深い青の封蝋。


 ヴォルツ家のものではない。


 ローゼンベルク家の封蝋とも違う。


 学園の中継封。


 外部から届いたものを、学園が封じ直したものか。


 あるいは、学園内の管理封か。


 まだわからない。


 レオンは息を吸った。


「承知しました」


 職員が去っていく。


 食堂は、まだ静かだった。


 フィーネが小さく言う。


「宛先は確認されました」


 アルトが続ける。


「でも内容は未確認」


 ユーリスも。


「返答かどうかも、まだ確定じゃない」


 レオンは封書を見つめた。


 手のひらの中で、重い。


 本物かもしれない。


 でも、まだ中身を見ていない。


「段階を飛ばさない」


 レオンは言った。


 自分に言い聞かせるように。


    ◆


 放課後までの時間は、長かった。


 講義の声も、教本の文字も、少し遠い。


 封書は鞄の中にある。


 開けてはいけない。


 放課後、担当教師立ち会いのもと。


 つまり、待つしかない。


 だが、ただの未着ではない。


 封書は来た。


 宛先も確認された。


 内容は未確認。


 返答かどうかも、未確定。


 段階が、一つ進んだ。


 それだけで、待つ時間の重さが変わる。


 フィーネは何度も深呼吸していた。


 アルトは手帳に“内容未確認”と何度も書いている。


 ユーリスは無理に軽口を言おうとして、途中でやめた。


 レオンは、鞄の中の封書の重さをずっと感じていた。


 紙一枚かもしれない。


 だが、剣より重かった。


    ◆


 放課後。


 東棟第二面談室。


 レオン、フィーネ、アルト、ユーリス。


 そしてエリシア。


 五人は、担当教師の前に立っていた。


 部屋の空気は静かだった。


 教師は封書を机の上に置くよう促した。


 レオンは鞄から封書を出す。


 深い青の封蝋が、机の上で鈍く光る。


 教師が言う。


「これより、外部確認元より届いた連絡を確認する」


 外部確認元。


 つまり、返答だ。


 だが、内容はまだわからない。


 教師は封蝋を確認する。


「学園管理封。外部より受領後、内容未開封のまま管理封印されたものだ」


 未開封。


 つまり、教師もまだ中身を知らない。


 部屋の空気がさらに重くなる。


 教師はレオンを見る。


「開封する前に確認する。今わかっている事実は何だ」


 レオンは息を吸った。


「外部確認元より連絡が届いたこと」


「他には」


「内容は未確認」


「他には」


「返答内容は未確定」


「良い」


 教師は頷いた。


「段階を飛ばすな」


 レオンは頷く。


「はい」


 教師が封を切る。


 紙の音が、やけに大きく響いた。


 フィーネの呼吸が浅い。


 アルトは手帳を握っている。


 ユーリスは口を閉じている。


 エリシアは背筋を伸ばし、しかし手は少し震えていた。


 教師が中の書面を取り出す。


 目を通す。


 沈黙。


 長い。


 あまりに長い。


 レオンは息を止めそうになる。


 フィーネが小さく言った。


「息を」


 自分にも、皆にも。


 レオンは息を吸った。


 教師は顔を上げる。


「まず、事実のみ伝える」


 五人の視線が集まる。


「これは、ローゼンベルク家からの一次返答である」


 エリシアの肩が小さく揺れた。


 一次返答。


 最終判断ではない。


 まだ、一次。


 教師は続ける。


「内容は、即時の班変更要求ではない」


 その瞬間、誰かの息が漏れた。


 アルトかもしれない。


 フィーネかもしれない。


 レオン自身かもしれない。


 即時班変更要求ではない。


 最悪ではない。


 だが、まだ続きがある。


 教師は書面へ視線を落とした。


「ただし、正式記録の内容を受領し、ローゼンベルク家内で継続確認を行うとのこと。加えて、エリシア・フォン・ローゼンベルク本人の認識を尊重する旨が記されている」


 エリシアの目が大きく揺れた。


 本人の認識を尊重する。


 その言葉が、部屋に落ちる。


 教師は続ける。


「詳細な返答は後日。現時点では、学園での通常活動継続に異議なし」


 通常活動継続。


 異議なし。


 その言葉が、重く、静かに胸へ沈んだ。


 終わりではない。


 だが、止められなかった。


 班変更要求ではない。


 エリシアの認識も、尊重される。


 レオンは、手が震えていることに気づいた。


 教師は五人を見た。


「ここまでが、確認できた事実だ。解釈は急ぐな」


 段階を飛ばすな。


 最後まで、それだった。


    ◆


 面談室を出た後。


 五人は中庭へ向かった。


 空は曇っている。


 夕方の光は弱い。


 噴水の水音だけが、いつものように響いていた。


 誰もすぐには話さなかった。


 即時班変更要求ではない。


 継続確認。


 本人の認識を尊重。


 通常活動継続に異議なし。


 詳細返答は後日。


 それぞれの言葉が、胸の中で何度も響く。


 最初に口を開いたのは、アルトだった。


「……止まらなかったんですね」


 声が震えていた。


「今はな」


 レオンは答える。


 あえて、そう言った。


 完全に安心しきらない。


 でも、事実は受け取る。


 フィーネが胸に手を当てる。


「即時班変更要求ではない」


「はい」


 ユーリスが空を見上げる。


「通常活動継続に異議なし」


 エリシアは、少しだけ目を潤ませていた。


「本人の認識を尊重する、と」


 彼女の声は震えていた。


 だが、確かにそこにあった。


 レオンは静かに言う。


「良かった」


 短い言葉だった。


 それ以上、今は言えなかった。


 エリシアは頷いた。


「はい」


 長い沈黙。


 その沈黙は、恐怖だけではなかった。


 安堵。


 疲労。


 まだ終わっていない緊張。


 それらが混ざった沈黙だった。


 ユーリスが小さく言う。


「……息していいやつだよな、これ」


 フィーネが少し笑った。


「はい。息していいと思います」


 アルトも笑いながら、少し泣きそうになった。


「よかった……」


 レオンも、ようやく息を吐いた。


 長く。


 深く。


 本物かもしれない封書の前で、息をする。


 今日は、その日だった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 第五十五話。


 本物かもしれない封書の前で、息をする。


 朝。

 昨日の封書騒動。

 別件だった。

 だから今日も別件とは限らない。

 昨日は来なかった。

 だから今日も来ないとは限らない。

 本物かもしれない、は事実ではない。

 可能性。

 可能性で息を止めるな。


 フィーネ。

 封書の夢。

 中身が真っ白。

 本物かもしれないと思って息が止まりそうになる。

 まず息をする。

 次に事実確認。


 アルト。

 封書を見ると段階を飛ばしそう。

 封書がある。

 宛先不明。

 内容不明。

 返答とは限らない。

 順番にすると少し落ち着く。


 ユーリス。

 封書っぽいものを見ると軽口が消える。

 もし本物が来たら、怖くて笑おうとするかもしれない。

 逃げの軽さなら止める。


 カイル。

 昨日の封書と今日の返答は別の話。

 似た刺激に引っ張られない。


 ハルト。

 昨日の封書で少し見た。

 止まってはいないと言い張る。


 講義。

 前触れ。

 “本物かもしれない”を扱う。

 可能性は無視してはならない。

 しかし、可能性を事実として扱ってはならない。

 封書がある。

 宛先不明。

 内容不明。

 返答とは限らない。

 仮に宛先が確認されても、内容は未確認。

 仮に返答だと確認されても、内容確定ではない。

 読むまで判断しない。

 “本物かもしれない”は、まだ本物ではない。


 午前課題。

 前触れ対応演習。

 封書人形。

 通知音。

 赤いランプ。

 前触れに見えるものがすべて本件に関係するとは限らない。

 関係する可能性があるから確認する。

 関係すると決めつけて崩れない。

 評価、上。


 昼。

 本物の封書。

 事務職員が第五班席へ。

 宛先、レオン・ヴォルツ。

 開封は放課後、東棟第二面談室で担当教師立ち会いのもと。

 封書がある。

 宛先確認。

 内容未確認。

 返答かどうかも未確定。

 段階を飛ばさない。


 放課後。

 第二面談室。

 外部確認元より届いた連絡。

 内容未開封のまま管理封印。

 開封前確認。

 外部確認元より連絡が届いた。

 内容未確認。

 返答内容未確定。

 教師が開封。

 ローゼンベルク家からの一次返答。

 即時の班変更要求ではない。

 正式記録を受領し、ローゼンベルク家内で継続確認。

 エリシア本人の認識を尊重する旨。

 詳細返答は後日。

 現時点では、学園での通常活動継続に異議なし。

 ここまでが事実。

 解釈は急がない。


 中庭。

 止まらなかった。

 即時班変更要求ではない。

 通常活動継続に異議なし。

 本人の認識を尊重。

 息していい。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、本物かもしれない封書が来た。


 そして、それは本当に外部確認元からの連絡だった。


 ローゼンベルク家からの一次返答。


 最終ではない。


 詳細でもない。


 すべてが終わったわけでもない。


 けれど、即時班変更要求ではなかった。


 通常活動継続に異議なし。


 エリシア本人の認識を尊重。


 その言葉が、どれほど重いか。


 今夜になって、少しずつ胸に染みてきている。


 昼に封書を受け取ってから、放課後までの時間は長かった。


 封書は鞄の中にある。


 開けられない。


 中身はわからない。


 その重さを抱えたまま、講義を受ける。


 あれは、剣より重かった。


 でも、段階を飛ばさなかった。


 少なくとも、飛ばしきらなかった。


 封書がある。


 宛先がある。


 内容は未確認。


 返答かどうか未確定。


 開封して、初めて一次返答だとわかった。


 内容を読んで、初めて即時班変更要求ではないとわかった。


 段階を一つずつ踏んだ。


 それでも怖かった。


 でも、息はできた。


 レオンは最後に一行を書く。


 本物かもしれない封書の前で、息をする。


 その下に、もう一行。


 怖さは消えなかったが、段階を飛ばさずに受け取れたことが、今日の第五班の成果だった。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 曇っていて、星はほとんど見えない。


 けれど、胸の奥には少しだけ光がある。


 最終返答はまだ。


 詳細確認もまだ。


 ヴォルツ家からの反応も、まだ来ていない。


 それでも今日は、少しだけ眠れる気がした。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、エリシアの震えた声を思い出す。


 本人の認識を尊重する、と。


 その言葉を、彼女はどれほど待っていただろう。


 レオンには、完全にはわからない。


 けれど、あの時の彼女の表情は、きっと忘れない。


 噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 今日は、落ちた後に少しだけ息ができた日だった。


 明日もまた、続く。


 だが今夜は。


 止まらなかったことを、静かに抱いて眠りたかった。

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