第五十四話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、昨日より少しだけ明るかった。
雲は残っている。
けれど、薄い。
朝日はその雲を透かし、校舎の石壁へ淡い光を落としていた。
中庭の芝には夜露が光り、風が吹くたび、小さな雫が葉先で揺れる。
噴水の水音は、今日も同じだった。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
変わらない音。
けれど、レオン・ヴォルツの胸は、昨日ほど強くは沈んでいなかった。
返答は、まだ来ていない。
昨夜まで、何度もそう確認した。
正式記録は外部確認元へ提出された。
だが、一日目には返答は来なかった。
当然といえば当然だ。
ローゼンベルク家も、ヴォルツ家も、受け取ってすぐに答えるわけではない。
学園側も、数日を要する可能性があると言っていた。
だから、今日も来ないかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ隙が生まれた。
昨日ほど気にしなくてもいいのではないか。
今日は普通に過ごせるのではないか。
そう思いかけて、レオンは手帳を開いた。
昨日の最後の一行。
未着の不安を抱えたままでも、事実と状態を分ければ、今日の一歩は止めずに済む。
未着は事実。
気になるのは状態。
昨日、それを何度も確認した。
演習でも、食堂でも、エリシアの手帳でも。
だが、今日は別の危うさがある。
返答が来ないことに、少し慣れ始めている。
慣れることは悪くない。
待つ日々を続けるには、慣れも必要だ。
けれど、慣れは時に油断になる。
どうせ今日も来ない。
そう思った時、人は事実確認を怠る。
来ない前提で動く。
そして、何かが来た時に大きく崩れる。
レオンは手帳を閉じた。
今日は、未着二日目。
昨日とは違う。
不安に飲まれる一日ではなく、未着に慣れ始める一日。
だからこそ、危ない。
そう思いながら、レオンは制服の襟を整えた。
今日もまた、学園は動く。
返答が来ても、来なくても。
◆
寮の廊下へ出ると、昨日より声は軽かった。
正式記録提出の直後にあった張り詰めた空気は、少しだけ薄れている。
生徒たちは、まだ返答を気にしている。
だが、昨日のように職員が歩くたび全員が固まるような空気ではない。
「返答、まだ来てないんだろ」
「まあ、昨日出したばっかだしな」
「今日も来ないんじゃない?」
「さすがに早すぎるよ」
「第五班も少し落ち着いたかな」
「落ち着けるといいけど」
今日も来ないんじゃない。
その言葉に、レオンは少しだけ反応した。
そうかもしれない。
だが、そう決めつけてはいけない。
未着は事実。
今日も来ない、は推測。
その違いを、昨日学んだばかりだ。
レオンは足を止めず、中庭へ向かった。
◆
フィーネ・ルークは、噴水の近くにいた。
今日は手帳を開いていた。
だが、昨日ほど緊張した顔ではない。
レオンを見ると、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
レオンは隣に立つ。
「今日は少し落ち着いているな」
「はい。昨日よりは」
フィーネは手帳を閉じた。
「でも、少しだけ変な感じです」
「変?」
「昨日は、返答が来ていないことにずっと揺れていました。でも今日は、来ないだろうなって思ってしまって」
「ああ」
「それはそれで、よくない気がします」
レオンは頷いた。
同じことを考えていた。
「未着に慣れ始めている」
「はい」
フィーネは噴水を見る。
「慣れることは必要です。でも、来ないと決めつけるのは違いますよね」
「ああ」
「今日の状態共有は、昨日と少し違います」
「何だ」
「返答が気になっている、ではなく」
一拍。
「返答が来ないと思い込みそうになっている、です」
その言葉に、レオンは静かに頷いた。
「良い共有だ」
フィーネは少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
◆
アルト・レイヴンは、昨日より足取りが軽かった。
だが、軽すぎる。
手帳を持っているが、開いていない。
周囲を気にする回数も昨日より少ない。
それは良いことにも見える。
しかし、レオンには少しだけ危うく見えた。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
フィーネが返す。
アルトは少し明るい声で言った。
「今日は、少し大丈夫そうです」
「そうか」
「はい。昨日来なかったので、今日もたぶん来ないかなって」
言った瞬間、アルト自身がはっとした。
フィーネも少し目を向ける。
レオンは静かに言った。
「それは推測だ」
「……はい」
アルトは手帳を開いた。
「すみません。今、自分で言って気づきました」
「謝罪より」
フィーネが言う。
「調整」
アルトはすぐに答えた。
そして手帳に書いた。
未着は事実。
今日も来ないは推測。
書きながら、少し恥ずかしそうに笑う。
「昨日は不安で崩れそうでした。今日は油断で崩れそうです」
「そういう日だ」
レオンは言った。
「はい」
アルトは頷いた。
「今日の俺の共有は、来ないと思い込みそう、です」
「良い」
◆
ユーリス・ベルクは、軽い足取りでやって来た。
昨日より明らかに元気そうだった。
ただ、その元気さもまた、少しだけ危うい。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます、ユーリスさん」
ユーリスは三人を見て、笑った。
「今日は昨日より空気軽いな」
「そうだな」
「俺も少し楽」
「来ないと思っているのか」
レオンが聞くと、ユーリスは一瞬黙った。
そして、苦笑する。
「バレた?」
「ああ」
「正直、今日も来ないだろって思ってる」
「推測だな」
「だな」
ユーリスは噴水の縁に手を置いた。
「昨日は、未着って言われるたびに揺れた。でも今日は、未着に慣れたせいで、逆に“来ない前提”で動きそう」
フィーネが頷く。
「私もです」
アルトも。
「俺も」
ユーリスは軽く息を吐いた。
「じゃあ、今日の俺は油断で走りすぎるかもしれないな」
「昨日も似たようなことを言っていた」
「昨日は不安で速くなる。今日は油断で速くなる」
「厄介だな」
「本当に」
少しだけ笑いが起きた。
だが、笑った上で共有する。
それが今の第五班だった。
◆
東棟へ向かう道。
昨日より学園全体の空気は緩んでいた。
それは悪いことではない。
だが、ところどころに“今日も来ないだろう”という空気がある。
「返答なんて数日後だろ」
「今日は普通に授業だな」
「まあ、何もない日だよ」
「昨日が重すぎたし」
何もない日。
その言葉が、妙に危うく聞こえた。
何もないと決めつけた日ほど、何かが来た時に崩れる。
レオンは歩きながら言った。
「今日の事実」
三人が見る。
「現時点で返答は来ていない」
フィーネが続ける。
「今日も来ないとは限らない」
アルトも。
「来るとも限らない」
ユーリスが締める。
「つまり、今ここ」
「ああ」
短い確認。
それだけで、少し歩幅が整った。
◆
教室に入ると、ハルト・グレイナーが机に座っていた。
いつもより少し気が抜けている。
カイル・ローダンは本を読んでいたが、顔を上げるとすぐに言った。
「今日は油断の日だ」
開口一番だった。
ユーリスが笑う。
「おはようより先にそれ?」
「必要だからだ」
カイルは本を閉じる。
「昨日、返答は来なかった。今日も来ない可能性は高い。だから、多くの者が気を抜く」
「来ない可能性は高いんだな」
ハルトが言う。
「高い。しかし、確定ではない」
カイルは淡々と返した。
「高い可能性を、確定のように扱うと崩れる」
レオンは頷いた。
「今日の講義だな」
「おそらく」
ハルトは腕を組む。
「面倒だな。来ないなら来ないでいいだろ」
「そう思っている時に来ると崩れる」
カイルが言う。
ハルトは少し黙った。
「……それはある」
珍しく素直に認めた。
ユーリスが言う。
「ハルトも油断する?」
「しない」
「本当に?」
「……多少はする」
「正直でよろしい」
「黙れ」
空気が少しだけ緩む。
だが、カイルの言葉は残った。
高い可能性を、確定のように扱わない。
◆
一限目。
教師は教室へ入ると、黒板へ向かった。
チョークが走る。
書かれた文字は。
慣れ。
教室が静まり返る。
「正式記録提出から一日が経過した」
教師の声は静かだった。
「現時点で返答は未着である」
昨日と同じ事実。
だが、今日はその響きが少し違う。
「一日目、未着は不安を生む」
一拍。
「二日目、未着は慣れを生む」
教師は黒板を軽く叩いた。
「慣れは必要だ。待つ時間を過ごすためには、常に初日の緊張でいることはできない」
教室の空気が少し緩む。
「だが、慣れは油断にもなる」
その一言で、再び引き締まった。
「今日も来ないだろう。どうせ返答はまだ先だろう。そう思い込むと、事実確認が弱くなる」
レオンは静かに聞いていた。
今朝の自分たちそのものだった。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「未着二日目の第五班に必要な共有は何だ」
「未着に慣れ始めていることです」
教師は続きを待つ。
「昨日は、返答が気になっているという状態共有が必要でした。今日は、返答が来ないと思い込みそうになっているという共有が必要です」
一拍。
「来ないだろう、は推測です。事実ではありません」
教師は頷いた。
「良い」
短い評価。
「全員、覚えておけ。不安だけでなく、油断も状態共有の対象だ」
◆
午前の課題は、慣れ対応演習だった。
内容は、昨日の未着対応演習と似ていた。
だが、違いがある。
最初は未着通知が何度も入る。
そして途中で、一度だけ“新着あり”の音声が入る。
ただし、それが本当に自分たちに関係するものかは、確認するまでわからない。
つまり、来ない前提に慣れたところで、突然“何かが来た”と知らされる演習だった。
第五班は区画へ入る。
標識は中央奥。
魔法人形三体。
障害壁一つ。
護送対象なし。
レオンは三人を見る。
「未着に慣れすぎない」
フィーネが頷く。
「来ないと思い込みそうになったら言います」
アルトも。
「油断して支援が雑になったら言います」
ユーリスも。
「来ない前提で走ったら止めてくれ」
「わかった」
鐘が鳴る。
演習開始。
◆
初動は安定していた。
昨日よりも動きは軽い。
軽すぎるくらいだった。
フィーネの報告も早い。
「正面前衛、右軽量、奥魔法型。障害壁は標識手前、未起動」
レオンが指示する。
「前衛は俺。ユーリス標識へ。アルト、右軽量。フィーネ、魔法型」
動く。
前衛型を受ける。
ユーリスが走る。
少し速い。
フィーネがすぐに言う。
「ユーリスさん、少し速いです」
「油断で速い。落とす」
ユーリスが即答する。
アルトの足止めも少し雑だった。
「土、浅いです。補正します」
自分で言う。
魔法装置の音声。
『外部返答、未着』
昨日ほど揺れない。
むしろ、少し流しすぎる。
フィーネが言う。
「未着を流しすぎました。魔法型、詠唱準備」
レオンも気づく。
未着通知に慣れて、周囲確認が一瞬薄くなった。
「戻る。アルト、水準備」
「はい」
もう一度、音声。
『外部返答、未着』
今度も揺れない。
だが、揺れなさすぎる。
レオンは言った。
「慣れすぎている。確認しろ」
フィーネが即座に状況を出す。
「前衛レオンさん正面、右軽量足止め中、魔法型詠唱開始寸前、標識までユーリスさん二歩」
アルトが続ける。
「足止め残り五秒。水、届きます」
ユーリスも。
「標識二歩。速度維持」
よし。
戻った。
その瞬間。
魔法装置の音声が変わった。
『外部連絡、新着あり』
空気が止まった。
新着あり。
たったそれだけ。
だが、四人の動きが一瞬で揺れた。
フィーネの声が止まる。
アルトの土が崩れかける。
ユーリスの足が止まる。
レオンの胸も強く鳴った。
来たのか。
本当に。
返答か。
ローゼンベルク家か。
ヴォルツ家か。
違う。
演習だ。
まだ確認していない。
レオンは歯を食いしばった。
「事実確認!」
自分にも向けて叫んだ。
「新着ありは事実。内容不明!」
フィーネがはっとする。
「内容不明! 魔法型、詠唱開始!」
アルトが土を立て直す。
「土、崩れかけました。補正! 水、出します!」
ユーリスが再び動く。
「止まった。戻る! 標識確保!」
水が走る。
魔法型の詠唱が乱れる。
ユーリスが標識を持つ。
軽量型が抜ける。
フィーネが声を出す。
「右軽量、標識側へ。距離近い!」
レオンが前衛を流しながら指示する。
「アルト、風弱支援。ユーリス、右へ逸れるな。直進」
「はい!」
「了解!」
標識を運ぶ。
台座へ置く。
鐘が鳴った。
◆
訓練棟に、長い沈黙が落ちた。
全員、息を吐くのが遅れた。
教師が近づいてくる。
「第五班、評価、上」
四人が姿勢を整える。
「ただし、新着あり音声への初動反応は大きい」
「はい」
レオンは答えた。
「未着通知への慣れが出た後だったため、反応差が大きくなった」
教師は淡々と言う。
「だが、ヴォルツが“内容不明”を明示し、事実確認へ戻した点、良」
「はい」
「ルーク、停止後の復帰、魔法型報告、良。レイヴン、支援崩れかけを自己申告し補正、良。ベルク、停止を共有し再始動、良」
三人が返事をする。
「覚えておけ。“新着あり”は“返答あり”ではない。“返答あり”も“内容確定”ではない。段階を飛ばすな」
その言葉が、深く刺さった。
新着あり。
返答あり。
内容確定。
それぞれ違う。
段階を飛ばせば、想像で崩れる。
◆
訓練後。
第五班は端に集まった。
ユーリスが額に手を当てる。
「いや、今のは心臓に悪い」
「はい」
アルトの声も少し震えている。
「新着ありって言われただけなのに、返答だと思いました」
フィーネも頷く。
「私もです。完全に止まりました」
「俺もだ」
レオンは認めた。
「一瞬、来たと思った」
四人は黙った。
その沈黙は重い。
だが、必要な沈黙だった。
ユーリスが言う。
「これ、本当に来た時、大丈夫かな」
「わからない」
レオンは正直に答えた。
「でも、今日練習した」
「新着ありは内容不明」
フィーネが言う。
「返答ありでも内容確定ではない」
アルトが続ける。
「段階を飛ばさない」
ユーリスが息を吐く。
「それ、手帳に書いとこ」
三人が同時に手帳や紙片を出した。
レオンも書く。
新着あり=内容不明。
返答あり=内容未確認。
内容を見るまで判断しない。
段階を飛ばさない。
◆
昼休み。
食堂では、慣れ対応演習の話題が広がっていた。
「第五班、今日“新着あり”って音声で止まったらしい」
「そりゃ止まるだろ」
「でも内容不明って戻したって」
「新着ありは返答ありじゃない、返答ありも内容確定じゃないって先生が言ってた」
「段階を飛ばすな、か」
「それ大事だな」
食堂の空気も、昨日とは違う。
未着の不安から、未着への慣れ。
そして、新着への過剰反応。
皆、自分にも覚えがあるのだろう。
アルトが食事をしながら言った。
「もし本当に事務職員さんが来たら、俺、今日のこと思い出します」
「俺もだ」
ユーリスが言う。
「でも、実際来たらまた止まりそう」
フィーネが頷く。
「止まっても、戻ればいいです」
「そうだな」
レオンは言った。
「止まらないことを目標にしない。止まったら、段階を確認して戻る」
四人は頷いた。
◆
放課後。
中庭に出ると、エリシア・フォン・ローゼンベルクがいた。
今日は手帳を持っている。
噴水の近くで、何かを書いていた。
レオンたちに気づくと、彼女は顔を上げる。
「皆様」
「エリシア様」
フィーネが返す。
エリシアは少しだけ苦笑した。
「今日、私も油断していました」
「油断?」
「はい。昨日返答が来なかったので、今日も来ないだろうと」
アルトが小さく笑う。
「俺たちもです」
ユーリスが言う。
「今日の講義、慣れでした」
「慣れ」
エリシアは小さく繰り返す。
フィーネが説明する。
「未着一日目は不安。二日目は慣れ。でも、慣れは油断にもなるって」
「その通りですね」
エリシアは手帳へ視線を落とす。
「私も、来ない前提で過ごしかけました」
レオンは言う。
「今日の演習では、“新着あり”で止まりました」
エリシアの表情が少し強張る。
「新着あり」
「演習です」
「あ……はい」
彼女は胸に手を当て、息を吐いた。
演習だと聞いても、一瞬反応している。
それほど、この言葉は強い。
ユーリスが軽く言う。
「新着ありは内容不明、らしいです」
エリシアは瞬きをする。
「内容不明」
アルトが続ける。
「返答ありでも、内容確定ではない」
フィーネも。
「段階を飛ばさない」
エリシアは静かに聞いていた。
そして、手帳を開く。
「書きます」
彼女は丁寧に書いた。
新着ありは内容不明。
返答ありでも内容確定ではない。
段階を飛ばさない。
書き終えた後、少しだけ笑う。
「また、皆様の真似です」
「良いと思います」
レオンが言う。
エリシアは頷いた。
「はい。少し落ち着きます」
その時だった。
中庭の向こう、事務棟へ続く回廊から、一人の職員が歩いてきた。
手には封書がある。
深い色の封蝋。
距離があり、紋章までは見えない。
中庭の空気が、一瞬で止まった。
フィーネの手帳を持つ手が強張る。
アルトの呼吸が止まりかける。
ユーリスの表情が消える。
エリシアも、静かに息を呑んだ。
レオンの胸も、強く鳴った。
新着あり。
封書。
まさか。
いや。
段階を飛ばすな。
レオンは低く言った。
「事実確認」
自分にも、四人にも。
「職員が封書を持っている。内容不明。宛先不明」
フィーネが震えながら続ける。
「こちらへ向かっているかも、まだ不明」
アルトも。
「封蝋、紋章未確認」
ユーリスも息を吐く。
「返答とは限らない」
エリシアも、手帳を握りながら言った。
「段階を飛ばさない」
職員は中庭を横切った。
こちらへ来るように見えた。
だが、途中で右へ曲がった。
別の教師のもとへ向かい、封書を渡す。
教師はそれを受け取り、職員と短く話す。
第五班ではなかった。
ローゼンベルク家でも、ヴォルツ家でもなかった。
ただの別件だった。
五人の間に、長い息が落ちた。
ユーリスが小さく笑う。
「……心臓に悪い」
「本当に」
フィーネが胸に手を当てる。
アルトは少しだけ膝が抜けそうになっていた。
エリシアも、ほっとしたように息を吐く。
レオンも、ようやく手の力が抜けた。
だが、崩れなかった。
段階を確認した。
宛先不明。
内容不明。
返答とは限らない。
それを声に出せた。
「練習しておいてよかったですね」
エリシアが言った。
その声は少し震えていた。
だが、笑っていた。
「ああ」
レオンは頷いた。
「本当に」
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
第五十四話。
来ないことに慣れた頃、心は一番揺れやすい。
朝。
未着二日目。
昨日ほど沈んでいない。
少し慣れている。
慣れは必要。
だが、油断にもなる。
どうせ今日も来ない、は推測。
フィーネ。
返答が来ないと思い込みそうになっている。
それを状態共有にする。
アルト。
今日は少し大丈夫そう。
昨日来なかったので、今日もたぶん来ないかなと思ってしまう。
未着は事実。
今日も来ないは推測。
昨日は不安で崩れそうだった。
今日は油断で崩れそう。
ユーリス。
今日は空気が軽い。
今日も来ないだろうと思っている。
昨日は不安で速くなる。
今日は油断で速くなる。
カイル。
今日は油断の日。
高い可能性を確定のように扱うと崩れる。
ハルト。
来ないなら来ないでいい。
でも、そう思っている時に来ると崩れる。
多少は油断する。
講義。
慣れ。
未着一日目は不安を生む。
未着二日目は慣れを生む。
慣れは必要。
しかし、慣れは油断にもなる。
不安だけでなく、油断も状態共有の対象。
午前課題。
慣れ対応演習。
未着通知に慣れすぎる。
周囲確認が薄くなる。
途中で“外部連絡、新着あり”。
全員が止まる。
新着ありは事実。
内容不明。
魔法型詠唱、軽量型接近。
戻る。
評価、上。
新着ありは返答ありではない。
返答ありも内容確定ではない。
段階を飛ばすな。
昼。
新着ありは内容不明。
返答ありは内容未確認。
内容を見るまで判断しない。
段階を飛ばさない。
放課後。
エリシア。
昨日返答が来なかったので、今日も来ないだろうと思っていた。
手帳に書く。
新着ありは内容不明。
返答ありでも内容確定ではない。
段階を飛ばさない。
職員が封書を持って中庭へ。
深い色の封蝋。
全員が止まりかける。
事実確認。
職員が封書を持っている。
内容不明。
宛先不明。
こちらへ向かっているかも不明。
封蝋、紋章未確認。
返答とは限らない。
段階を飛ばさない。
職員は別の教師へ封書を渡す。
別件。
練習しておいてよかった。
レオンはペンを止めた。
今日は、返答が来なかった。
だが、何もなかったわけではない。
未着に慣れ始めた。
来ないだろうと思いかけた。
その油断の中で、新着ありという言葉に揺れた。
そして放課後、本物の封書に揺れた。
あれは、自分たち宛ではなかった。
ただの別件だった。
それでも、胸は強く鳴った。
もし、今日の演習をしていなかったら。
もし、段階を飛ばすなという言葉を持っていなかったら。
たぶん、あの封書を見た瞬間に崩れていた。
レオンは最後に一行を書く。
来ないことに慣れた頃、心は一番揺れやすい。
その下に、もう一行。
だから、未着にも新着にも、同じように事実確認を置く。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星は少しだけ見える。
明日、返答が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
今日の封書のように、別件かもしれない。
新着あり。
内容不明。
返答あり。
内容未確認。
段階を飛ばさない。
その言葉を、明日も持っていく必要がある。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、放課後の中庭を思い出す。
封書を見た瞬間の沈黙。
全員で言葉を重ねた事実確認。
別件だとわかった後の長い息。
あの一連の流れは、きっと正式記録には残らない。
だが、第五班には残る。
エリシアの手帳にも、きっと残る。
それでいい。
明日もまた、待つ。
不安にも、慣れにも、油断にも、揺れながら。
それでも、段階を飛ばさずに。
レオンは静かに目を閉じた。
噴水の水音を思い出す。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
来ない日も。
来そうに見えた日も。
その音だけは、変わらず続いていた。




