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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第五十三話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、淡く曇っていた。


 夜の名残を含んだ薄い雲が、青を柔らかく覆っている。


 雨の匂いはない。


 けれど、空は完全には晴れず、朝日は雲の向こうから少し遅れて差し込んでいた。


 校舎の石壁は、白というより灰に近い光を帯びている。


 尖塔の影はぼんやりと伸び、中庭の芝には夜露が残っていた。


 風は弱い。


 葉を揺らすというより、そこにある空気を少しだけ撫でる程度だった。


 噴水の水音は、今日も同じだった。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 その音を聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋で目を覚ました。


 いつもより少し早かった。


 目覚めた瞬間、胸の奥が重い。


 何かがあったからではない。


 何も来ていないからだ。


 正式記録は、昨日の正午前に外部確認元へ提出された。


 ローゼンベルク家。


 おそらくヴォルツ家にも。


 自分たちの言葉は、学園の外へ出た。


 昨日の夜、レオンは手帳に書いた。


 待つとは、返答を想像して崩れることではなく、返答が来るまで今できる一歩を止めないことだ。


 頭ではわかっている。


 だが、朝になった途端、身体の方が先に反応していた。


 返答は来たのか。


 夜のうちに事務棟へ届いていないか。


 父は読んだのか。


 ローゼンベルク家はどう受け止めたのか。


 エリシアの家では、何か話し合われたのか。


 外の世界で何が起きているのか、自分には見えない。


 見えないから、想像が膨らむ。


 想像は、時に魔法人形より厄介だった。


 目に見えない。


 止めても、また別の場所から現れる。


 斬れない。


 流せない。


 ただ胸の中で形を変える。


 レオンはベッドから起き上がり、机へ向かった。


 手帳を開く。


 昨日の最後の文字をもう一度見る。


 明日また、戻る。


 戻る。


 今日も、戻る日だ。


 返事が来ない朝にも、学園は動く。


 講義はある。


 課題は始まる。


 フィーネは中庭にいるだろう。


 アルトは手帳を持って来るだろう。


 ユーリスは、待つのが嫌いだと言いながらも来るだろう。


 エリシアも、自分の日常へ戻ろうとしているはずだ。


 なら、レオンも行く。


 返事が来ていないことを理由に、今日を空白にしてはいけない。


 レオンは制服へ袖を通した。


 灰色の制服。


 いつもと同じ布の感触が、少しだけ現実へ引き戻してくれた。


    ◆


 寮の廊下へ出ると、朝の空気は静かだった。


 だが、完全な静けさではない。


 昨日正式記録が提出されたことは、学園中が知っている。


 そして今日、返答が来るかどうかを、皆どこかで気にしている。


 廊下の端から、小さな声が聞こえた。


「返答、すぐ来るのかな」

「いや、さすがに早すぎるだろ」

「でも公爵家だぞ」

「ヴォルツ家も絡むし」

「第五班、今日普通に授業出るのかな」

「出るだろ。先生が通常通りって言ってたし」

「でも落ち着かないよな」


 落ち着かない。


 その通りだった。


 けれど、その声に責める響きはなかった。


 ただ、自分たちも同じなら落ち着かないだろう、という理解に近い。


 それでも、レオンの胸は少し重くなる。


 他人から言われる“落ち着かないだろう”は、時々本当に落ち着かなくさせる。


 レオンは歩きながら、廊下の窓を見る。


 空は淡い灰色。


 まだ返答はない。


 少なくとも、レオンのもとには何も来ていない。


 事実は、それだけだ。


 今ここ。


 まず、中庭へ行く。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水の近く。


 いつもの場所。


 ただし今日は、手帳を開かず、両手で胸に抱えていた。


 レオンを見ると、彼女は少しだけ安心したように表情を緩めた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 レオンが隣へ立つと、フィーネは噴水の水面へ視線を戻した。


「来ていませんね」


「何が」


 わかっていて聞いた。


 フィーネは少し苦笑する。


「返答です」


「ああ。来ていない」


「私のところにも、何もありません」


 そう言ってから、彼女は小さく息を吐いた。


「当たり前ですよね。昨日出したばかりですし」


「ああ」


「でも、朝起きた時、もしかしたら何か来ているかもって思ってしまいました」


「俺もだ」


 フィーネはレオンを見る。


「レオンさんも?」


「父から何か来ているかもしれないと思った」


「……そうですよね」


 彼女は静かに頷く。


「待つって、何もしないことじゃないと昨日言われました」


「ああ」


「でも、何かをしていても、頭の端にずっとありますね」


「ある」


「今日、状態共有が遅れたら、たぶんそれが原因です」


 フィーネは自分で言った。


 先に共有した。


 それは大事なことだった。


「なら、遅れそうな時に言え」


「はい」


「返答が気になっている、と言えばいい」


 フィーネは少しだけ目を伏せ、頷いた。


「はい。今日の私の状態共有は、そこからですね」


 彼女は手帳を開き、短く書いた。


 返答が気になっている。

 だから、見えているものを声に出して戻る。


 その文字を見て、レオンは静かに頷いた。


    ◆


 アルト・レイヴンは、少し早めに来た。


 いつもより周囲を気にしている。


 誰かが事務棟の方から来るたびに、つい目で追ってしまうのだろう。


 レオンとフィーネのもとへ来ると、彼はすぐに頭を下げた。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 アルトは手帳を開きかけて、やめた。


 そして小さく言った。


「朝から、何度も事務棟の方を見てしまいました」


「俺もだ」


 レオンが答えると、アルトは少しだけ驚く。


「レオンさんもですか」


「ああ」


「俺だけじゃないんですね」


「違う」


 フィーネも言う。


「私もです」


 アルトは少しだけ表情を緩めた。


「俺、昨日は“言葉だけじゃなく行動も一緒に出る”って書きました」


「ああ」


「でも、外で読む人が本当に行動まで見てくれるかはわからないって、朝になって思ってしまって」


 その不安は当然だった。


 記録には演習結果も所見もある。


 だが、読む人がどこを重視するかはわからない。


「わからないことは、わからないままだ」


 レオンは言った。


 アルトの顔が少し強張る。


「だが、だからこそ、今日の行動を止めるな」


「今日の行動」


「ああ。記録が読まれている間にも、お前は今日の支援をする」


 アルトはその言葉を噛みしめるように黙った。


「今日の支援は、まだ外へ出ていませんよね」


「そうだ」


「じゃあ、今日も積み上げるんですね」


「ああ」


 アルトは手帳を開いた。


 今日も積み上げる。


 そう書いた。


 短い言葉。


 だが、今の彼には必要な言葉だった。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は少し眠そうにやって来た。


 目の下にわずかに疲れがある。


 それでも、口元にはいつもの軽さが少しだけ残っていた。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは三人を見るなり、片手を上げた。


「待つの、一日目から嫌だな」


「早いな」


 レオンが返す。


「昨日から嫌だったから、実質二日目」


 フィーネが少し笑う。


「そうですね。提出される前から待っていました」


「だろ?」


 ユーリスは噴水を見た。


「俺、夜中にちょっと目が覚めた。何も来るはずないのに、来たんじゃないかって」


「同じだ」


 レオンが言うと、ユーリスは少し驚いて、それから笑った。


「全員、待つの下手だな」


「そうらしい」


 フィーネも頷く。


「でも、下手なら共有できます」


「それな」


 ユーリスは軽く指を鳴らす。


「今日の俺の共有。待つのが嫌すぎて、動きが早くなりそう」


「それはありそうだ」


 レオンが言う。


「だから、俺が走りすぎたら止めてくれ」


「わかった」


 フィーネが真面目に頷く。


「進路だけでなく、速度も見ます」


 アルトも言う。


「風を強めすぎないようにします」


 ユーリスは少しだけ笑った。


「助かる」


 待つ不安は、それぞれ違う形で出る。


 フィーネは声が遅れるかもしれない。


 アルトは事務棟を気にしすぎるかもしれない。


 ユーリスは早く動きすぎるかもしれない。


 レオンは、考えすぎて判断が重くなるかもしれない。


 なら、先に言う。


 それだけで、少しだけ戻りやすくなる。


    ◆


 東棟へ向かう道では、いつもより事務棟へ向かう視線が多かった。


 レオンたちだけではない。


 他の生徒たちも、職員が歩くたびに目を向ける。


 正式記録が提出された以上、返答は学園を通じて来る可能性が高い。


 つまり、事務棟の動きが気になる。


 誰かが封書を持っているだけで、空気が少し動く。


「あれ、関係ある?」

「違うだろ」

「普通の連絡じゃない?」

「でも封蝋が」

「遠くて見えないって」


 噂というより、過敏反応。


 カイルが言っていた通りだった。


 レオンも、職員の手元に目が行きそうになる。


 だが、フィーネが先に言った。


「事実確認」


 レオンは彼女を見る。


 フィーネは少し照れたように、でも真面目に言った。


「封書を持っているから、私たち宛とは限りません」


「ああ」


 レオンは頷いた。


「助かった」


 フィーネは小さく頷く。


「私も、言って戻りました」


 アルトも続ける。


「事務棟を見すぎてました。戻ります」


 ユーリスも。


「俺も。足早くなってた」


 四人は歩幅を少し揃えた。


 今日の課題は、もう始まっているのかもしれない。


    ◆


 教室に入ると、カイル・ローダンがすでに席に座っていた。


 ハルト・グレイナーは窓際に立っている。


 いつもの光景。


 しかし、二人とも今日は事務棟の方角を一度は見たのだろう。


 そんな気配があった。


 カイルがレオンたちを見る。


「まだ返答はない」


「ああ」


 レオンが答える。


「今日来る可能性は低い」


「そうだろうな」


「だが、低いとわかっていても気になる」


 カイルは自分で言った。


 珍しく、感情に近い言葉だった。


 ハルトが腕を組んだまま言う。


「事務職員が封書を持っていただけで、教室の空気が動いた」


「やはりか」


「馬鹿馬鹿しいが、俺も見た」


 ハルトは少し不機嫌そうだった。


 自分も反応したことが気に入らないのだろう。


 ユーリスが言う。


「ハルトも待つの下手組か」


「一緒にするな」


「でも見たんだろ?」


「見ただけだ」


「それを下手って言うんだよ」


 ハルトが睨む。


 だが、本気で怒っているわけではなかった。


 カイルが静かに言う。


「待つことに上手い下手はある。だが、下手だから悪いわけではない。自覚して対処すればいい」


「今日の講義みたいですね」


 フィーネが言う。


 カイルは少しだけ目を伏せる。


「おそらく、実際にそうなる」


 やはり。


 教師は今日も、今の状況そのものを講義にするのだろう。


    ◆


 一限目。


 教師は教室へ入ると、黒板へ向かった。


 チョークが走る。


 書かれた文字は。


 未着。


 教室が静まり返った。


 返答が来ていないこと。


 それ自体を、今日の主題にする。


 教師はチョークを置き、振り返った。


「正式記録は昨日、外部確認元へ提出された」


 声は淡々としている。


「現時点で、返答は来ていない」


 教室の空気が少し動く。


 やはり。


 まだ。


 当然。


 そうした気配が混じる。


「未着とは、何も起きていないという意味ではない」


 教師は続ける。


「外部では確認が進んでいるかもしれない。まだ開封されていないかもしれない。別の手続きに回っているかもしれない。現時点ではわからない」


 一拍。


「わからないことを、想像で埋めようとすると崩れる」


 レオンの胸に、その言葉が落ちた。


「未着の間に必要なのは、推測ではなく通常行動だ」


 黒板にさらに書かれる。


 通常行動。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「返答が未着の時、第五班に必要な共有は何だ」


 レオンは少し考えた。


「返答が来ていないという事実」


 教師は続きを待つ。


「それから、返答が気になっているという状態共有です」


 教室が静かになる。


「気にするな、ではなく。気になっていると認める。その上で、今の課題へ戻る」


 一拍。


「第五班では、フィーネは声が遅れるかもしれない、アルトは事務棟を見すぎるかもしれない、ユーリスは動きが早くなるかもしれない、俺は判断が重くなるかもしれないと共有しました」


 教師は頷いた。


「良い」


 短い一言。


「未着の不安を消そうとするな。消えない。ならば、状態として扱え」


 その言葉は、今日の第五班だけでなく、教室全体に必要なものだった。


    ◆


 午前の課題は、未着対応演習だった。


 演習区画の入口で、教師は説明した。


「演習中、何度か“未着通知”が入る。内容は、返答が来ていないという情報だ。新しい情報ではない。だが、音声で入るたびに意識が揺れる。それにどう対応するかを見る」


 つまり、来ていないという知らせに、何度も揺さぶられる。


 ただそれだけ。


 だが、今の第五班には十分な負荷だった。


 区画へ入る。


 標識は中央奥。


 魔法人形三体。


 障害壁一つ。


 護送対象はなし。


 レオンは三人を見る。


「未着通知が入ったら、状態共有へ戻る」


 フィーネが頷く。


「はい。返答が気になったら、気になったと言います」


 アルトも。


「事務棟を思い出したら、視線が外れたと言います」


 ユーリスも。


「走りたくなったら、速くなってるって言う」


 レオンは頷く。


「俺は判断が重くなったら言う」


 鐘が鳴る。


 演習開始。


    ◆


 初動は安定していた。


 フィーネが声を出す。


「正面前衛一、右軽量一、奥魔法型。障害壁は標識手前、未起動」


 レオンが指示する。


「前衛は俺。ユーリス、標識へ。アルト、右軽量。フィーネ、魔法型詠唱を見ろ」


「はい」

「了解」

「はい」


 動き出す。


 前衛型を受ける。


 ユーリスが標識へ向かう。


 アルトが足止め。


 魔法型はまだ詠唱していない。


 その時、魔法装置の音声が響いた。


『外部返答、未着』


 ただそれだけ。


 だが、四人の動きが一瞬揺れた。


 フィーネの声が止まりかける。


 アルトの視線が横へ逃げる。


 ユーリスの足が少し速くなる。


 レオンの判断も重くなる。


 すぐに、フィーネが自分で言った。


「返答、気になりました。魔法型、まだ詠唱なし。右軽量、足止め継続」


 アルトも。


「視線、外れました。戻します。足止め残り短い」


 ユーリスも。


「足、速くなった。標識まで二歩、速度落とす」


 レオンも言う。


「判断が重くなった。今は標識優先」


 四人の声が重なる。


 戻る。


 ユーリスが標識を確保。


 魔法型が詠唱を始める。


 フィーネが叫ぶ。


「魔法型、詠唱開始!」


 レオンが指示する。


「アルト、水で乱せ。ユーリス、戻り左。障害壁に注意」


「はい!」

「了解!」


 水が走る。


 詠唱が乱れる。


 戻り道へ向かう。


 再び音声。


『外部返答、未着』


 今度は、アルトの風が弱くなる。


「また気になりました。風、弱い。強めます」


 フィーネが補足。


「障害壁、起動気配。左戻り危険、右へ変更推奨」


 ユーリスが反応。


「右へ変更!」


 レオンが前衛型を流しながら言う。


「右へ。俺が前を空ける」


 標識を運ぶ。


 右へ抜ける。


 軽量型が追う。


 ユーリスが少し焦る。


「速くなりそう」


 フィーネが即座に言う。


「台座まで六歩。焦らなくても間に合います」


「助かる」


 ユーリスが速度を調整。


 台座へ。


 標識設置。


 鐘が鳴った。


    ◆


 教師が近づいてくる。


「第五班、評価、上」


 四人が姿勢を整える。


「未着通知への初回反応は大きかった。だが、各員が自分の揺れを即時共有し、課題へ戻った点、良」


「はい」


「ルーク、返答が気になったことを認めた上で情報共有へ戻った。良」


「はい」


「レイヴン、視線外れと支援弱化を自分で言えた。良」


「はい」


「ベルク、速度上昇を自己認識し、調整した。良」


「はい」


「ヴォルツ、判断の重さを共有し、標識優先へ戻した。良」


「はい」


 教師は続けた。


「返答が来ていないという情報は、何度聞いても新しい情報ではない。しかし、心理的には毎回揺れる。その揺れを、事実と状態に分けられた点を評価する」


 事実と状態。


 返答は未着。


 それは事実。


 気になっている。


 それは状態。


 混ぜると崩れる。


 分ければ戻れる。


 今日の演習は、それを体で教えてくれた。


    ◆


 訓練後。


 第五班は端に集まった。


 ユーリスが深く息を吐く。


「未着って言われるだけで、あんなに揺れるとはな」


「はい」


 フィーネも頷く。


「来ていないことなんて、わかっているのに」


 アルトが手帳を開く。


「でも、音で言われると、胸が動きました」


「俺もだ」


 レオンは言う。


「判断が重くなった」


 ユーリスが笑う。


「全員、ちゃんと下手だったな」


「待つのがか」


「うん」


 フィーネが少し笑う。


「でも、下手でも戻れました」


「そうだな」


 アルトが書く。


 事実。

 返答は未着。

 状態。

 気になる。

 分ける。


 フィーネも書く。


 気になったら、気になったと先に言う。

 その後、見えているものを声にする。


 ユーリスも紙片に書く。


 未着は新情報じゃない。

 でも毎回揺れる。

 揺れたら速度を見る。


 レオンも手帳に記す。


 事実と状態を分ける。

 未着は事実。

 判断が重くなるのは状態。

 状態を共有し、課題へ戻る。


 書くことで、少しだけ整理される。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、未着対応演習の話題が広がっていた。


「第五班、未着って言われる演習やったらしい」

「それだけ?」

「それだけで揺れるんだろ」

「いや、わかる。返事待ちってしんどい」

「上評価だったって」

「揺れたけど戻ったらしい」

「返答未着は事実、気になるのは状態って先生が言ってたって」

「それ、普通に使えそう」


 普通に使えそう。


 その声に、レオンは少しだけ目を向けた。


 たしかに、これは第五班だけの話ではない。


 誰かの返事を待つ時。


 結果を待つ時。


 試験の発表を待つ時。


 家からの手紙を待つ時。


 人は、未着というだけで揺れる。


 その揺れを、事実と状態に分ける。


 それは、学園全体にとっても意味があるのかもしれない。


 アルトが少し嬉しそうに言う。


「俺たちの演習、誰かの役に立ってるんですかね」


「かもしれない」


 フィーネが微笑む。


「そうだと、少し嬉しいですね」


 ユーリスが肩をすくめる。


「教材第五班」


「その言い方はどうなんですか」


 アルトが苦笑する。


 少しだけ笑いが生まれた。


    ◆


 放課後。


 中庭に出ると、エリシア・フォン・ローゼンベルクがいた。


 彼女は回廊の柱のそばではなく、今日は噴水の近くに立っていた。


 少し珍しい。


 レオンたちに気づくと、静かに会釈する。


「皆様」


「エリシア様」


 フィーネが返す。


 エリシアは少しだけ苦笑した。


「今日は、事務棟を見る回数が多くなってしまいました」


 その正直な言葉に、アルトが少し笑う。


「俺もです」


 ユーリスも。


「全員そうです」


 レオンも頷く。


「俺もです」


 エリシアは少しだけ安心したように息を吐いた。


「返答は、未着ですね」


「はい」


 フィーネが言う。


「今日の演習でやりました。返答未着は事実。気になるのは状態」


「事実と状態」


 エリシアは小さく繰り返す。


「良い分け方ですね」


「はい。少し楽になりました」


 アルトが言う。


 エリシアは噴水を見る。


「私も、今それを書いておきたいです」


 彼女は小さな手帳を取り出した。


 レオンは少し驚く。


 エリシアも手帳を持っていた。


 彼女はそれに短く書く。


 返答は未着。

 気になる。

 でも、それは状態。


 書き終えると、彼女は少しだけ微笑んだ。


「皆様の真似です」


 フィーネが嬉しそうに目を細める。


「エリシア様も、書くんですね」


「はい。最近、少し」


 エリシアは手帳を閉じる。


「言葉にすると、少しだけ自分の外に置ける気がします」


 その言葉に、レオンは深く頷いた。


 手帳は、ただ記録するだけではない。


 胸の中にあるものを、少し外へ置く場所でもある。


「良いと思います」


 レオンが言うと、エリシアは静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 そして五人は、少しの間、噴水の音を聞いていた。


 返答は来ていない。


 だが、今ここには五人がいる。


 その事実を、誰も急いで言葉にしなかった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 第五十三話。


 返事が来ない朝にも、課題は始まる。


 朝。

 正式記録提出後、待つ一日目。

 返答は未着。

 何も来ていないからこそ胸が重い。

 想像は、魔法人形より厄介。

 斬れない。

 流せない。

 胸の中で形を変える。


 フィーネ。

 返答は来ていない。

 待つのは苦手。

 返答が気になって、状態共有が遅れるかもしれない。

 返答が気になっていると先に言う。

 その後、見えているものを声に出して戻る。


 アルト。

 支える側にもなりたい、が外でどう読まれるか不安。

 言葉だけではない。

 行動も一緒に出る。

 今日も積み上げる。


 ユーリス。

 待つのが嫌い。

 夜中に目が覚めた。

 待つのが嫌すぎて、動きが早くなりそう。

 先に共有。


 カイル。

 まだ返答はない。

 今日来る可能性は低い。

 低いとわかっていても気になる。

 事実確認。


 ハルト。

 事務職員が封書を持っていただけで教室の空気が動いた。

 馬鹿馬鹿しいが、俺も見た。


 講義。

 未着。

 現時点で返答は来ていない。

 未着とは、何も起きていないという意味ではない。

 ただ、現時点ではわからない。

 わからないことを想像で埋めようとすると崩れる。

 未着の間に必要なのは、推測ではなく通常行動。

 返答が未着という事実。

 返答が気になっているという状態。

 未着の不安を消そうとするな。

 消えない。

 ならば、状態として扱え。


 午前課題。

 未着対応演習。

 演習中に“外部返答、未着”の音声。

 新しい情報ではない。

 だが毎回揺れる。

 フィーネ、返答が気になったと共有し、情報へ戻る。

 アルト、視線が外れ、支援が弱くなったと共有。

 ユーリス、速度が上がったと共有。

 レオン、判断が重くなったと共有。

 評価、上。

 事実と状態を分ける。

 未着は事実。

 気になるのは状態。


 昼。

 事実と状態の分け方が、他の生徒にも広がる。

 教材第五班。


 放課後。

 エリシア。

 事務棟を見る回数が多くなった。

 返答は未着。

 気になる。

 でも、それは状態。

 エリシアも手帳に書く。

 言葉にすると、少しだけ自分の外に置ける気がする。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、返事が来なかった。


 ただそれだけ。


 だが、その“ただそれだけ”が重かった。


 何も来ないことは、何も感じないことではない。


 未着という事実は、何度も胸を揺らした。


 返答は来ていない。


 その情報は変わらない。


 それでも、朝、廊下で聞けば揺れる。


 講義で聞けば揺れる。


 演習中に音声で聞けば揺れる。


 食堂で噂を聞けば揺れる。


 事務職員が歩けば揺れる。


 返事が来ない一日目は、思ったより長かった。


 けれど、今日、学んだことがある。


 未着は事実。


 気になるのは状態。


 この二つを分けるだけで、少し戻れる。


 消す必要はない。


 気にするな、と自分に命じても、気になるものは気になる。


 なら、気になっていると認める。


 その上で、今見えているものを声に出す。


 レオンは最後に一行を書く。


 返事が来ない朝にも、課題は始まる。


 その下に、もう一行。


 未着の不安を抱えたままでも、事実と状態を分ければ、今日の一歩は止めずに済む。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 雲は薄く、星が少しだけ見える。


 明日、返答が来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 そのどちらも、今はわからない。


 わからないことを、今夜すべて想像で埋める必要はない。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、エリシアが手帳に文字を書いていた姿を思い出す。


 返答は未着。


 気になる。


 でも、それは状態。


 その短い言葉が、今夜の胸にも残っていた。


 返事が来ない夜にも、眠ることはできる。


 明日、また起きるために。


 レオンは静かに目を閉じた。


 噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 返答が来なくても、その音は続く。


 なら、自分たちも。


 明日また、続ける。

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