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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第五十二話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、薄い灰色だった。


 雨の気配はない。


 けれど、晴れとも言い切れない。


 青の上に淡い雲が重なり、朝日を少しだけ鈍らせている。


 校舎の白い石壁は、昨日より柔らかい光を受けていた。


 尖塔の影もぼやけ、中庭の芝の上に静かに伸びている。


 風は弱い。


 噴水の水面をほんの少し揺らすだけだった。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 その水音を聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋で手帳を開いていた。


 昨夜の最後の言葉。


 短くされた言葉にも、消してはいけない温度がある。


 すべてを残せなくても、意味を変えないために声を上げることは、自分たちの言葉を守ることだった。


 昨日、正式記録草案の要点確認が終わった。


 フィーネの不安は残った。


 アルトの“支える側にもなりたい”は残った。


 ユーリスの軽さと沈黙は残った。


 レオンが第五班によって戻される側でもあることも、修正によって残った。


 エリシアが単なる被害的立場ではなく、不安を持つ本人であり、観察者であり、今後の受け止めを選択する当事者であることも残った。


 すべてではない。


 本人確認の部屋にあった沈黙も、言葉の前の息遣いも、戻ってきた時の顔色も、草案確認の場で感じた胸の痛みも、正式記録にはほとんど残らない。


 それでも、必要なものは残った。


 少なくとも、消えなかった。


 そして今日。


 その記録が、学園の外へ出ていく。


 外部確認元へ提出される。


 ローゼンベルク家。


 おそらく、ヴォルツ家にも共有される。


 学園の内側で積み上げてきた言葉が、家の机の上に置かれる。


 紙として。


 記録として。


 評価として。


 自分たちが震えながら出した言葉が、硬い文章になって学園の外の人間に読まれる。


 そう考えると、胸の奥が冷える。


 学園の中なら、まだ見てくれる者がいた。


 教師がいた。


 フィーネがいた。


 アルトがいた。


 ユーリスがいた。


 エリシアがいた。


 ハルトやカイルも、少し離れた場所から関わっていた。


 だが、外へ出れば違う。


 読む者は、その場の空気を知らない。


 噴水の水音も、手帳の消し線も、沈黙の重さも知らない。


 硬い文章だけを見る。


 その上で判断する。


 それが、怖い。


 レオンは手帳を閉じた。


 外へ出る言葉を、もう止めることはできない。


 昨日、確認した。


 必要な修正も求めた。


 今は、提出されるのを受け入れる段階だ。


 学園の中で守ってきたものが、外の目に晒される。


 今日は、その日。


 レオンは静かに立ち上がった。


 灰色の空の下へ向かうために。


    ◆


 寮の廊下に出ると、空気は昨日より重かった。


 正式記録が今日、外部へ提出される。


 その話は、すでに学園内に広がっている。


 生徒たちの声は小さい。


 だが、内容ははっきりしていた。


「今日、出るんだろ?」

「正式記録」

「外部確認元って、ローゼンベルク家だよな」

「ヴォルツ家にも行くんじゃない?」

「第五班、落ち着かないだろうな」

「でも、もう確認は終わったんだろ」

「外に出たら、あとは待つしかないのか」


 待つしかない。


 その言葉が、レオンの背中に落ちる。


 そうだ。


 提出された後は、待つしかない。


 自分たちの言葉がどう読まれるのか。


 どこが重く見られ、どこが軽く見られるのか。


 家がどう判断するのか。


 それは、もう自分たちの手を離れる。


 だからこそ怖い。


 剣なら、握っていられる。


 標識なら、運んでいられる。


 手帳なら、自分の手元に置いておける。


 だが、提出された記録は、もう自分の手元にはない。


 言葉が自分から離れていく。


 レオンは歩きながら、手を軽く握った。


 今ここ。


 今日は、提出を止める日ではない。


 提出される日を生きる日だ。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水のそば。


 手帳を持っている。


 だが、今日は開いていない。


 両手で胸に抱え、水面を見ている。


 レオンが近づくと、彼女は少し遅れて顔を上げた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 フィーネの声は落ち着いている。


 けれど、表情は硬い。


「今日、提出ですね」


「ああ」


「昨日は、必要なものが残ったと思えました」


「そうだな」


「でも、今朝になったら……外へ出るんだと思って、また怖くなりました」


 彼女は正直に言った。


「私の“怖い”という言葉も、不安という形で残りました。でも、それを知らない人が読むんですよね」


「ああ」


「その人たちが、どう読むのかはわからない」


「わからない」


 レオンはごまかさなかった。


 フィーネは少しだけ息を吐いた。


「そうですよね」


 一拍。


「でも、昨日確認しました。意味が変わらないように、できることはしました」


「ああ」


「なら、今日は待つ日なんですね」


「そうだ」


 フィーネは噴水を見る。


「待つのは、苦手です」


「俺もだ」


 その答えに、フィーネは少しだけ笑った。


「レオンさんも、苦手なんですね」


「ああ」


「少し、安心しました」


 誰かと同じ苦手を持つことが、少しだけ支えになる。


 ここ数日、何度もそう思った。


    ◆


 アルト・レイヴンは、今日は慎重な足取りで来た。


 顔色は悪くない。


 ただ、何かを落とさないように歩いているようだった。


 手帳を大事そうに抱えている。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 アルトは二人を見て、すぐに言った。


「今日、出るんですよね」


「出る」


「俺の言葉も」


「ああ」


 アルトは小さく息を吸った。


「支える側にもなりたいって、残りました」


「残ったな」


「嬉しかったです。でも、今朝になったら怖いです」


 フィーネが静かに頷く。


「私もです」


 アルトは少し安心した顔をする。


「外の人が読んで、平民特待生が貴族の班で支える側になりたいなんて、生意気だって思わないかなって」


 その不安は、アルトらしかった。


 だが、現実的でもある。


 レオンはすぐに否定しなかった。


 貴族社会には、そう読む者もいるかもしれない。


 アルトの願いを、前向きではなく越権と見る者もいるかもしれない。


 だが。


「そう読む者がいないとは言えない」


 レオンは言った。


 アルトの表情が少し強張る。


「だが、学園記録には、支援役としての成果と修正過程も残っている。お前の言葉だけではなく、行動も一緒に出る」


 アルトは顔を上げる。


「行動も」


「ああ。支援で戻した場面、調整した場面、役割を果たした記録もある」


 フィーネも言う。


「だから、“支える側にもなりたい”だけではなく、“支える側になろうとして積み上げている”と読めるはずです」


 アルトは少しだけ目を潤ませた。


「はい」


 そして手帳を開き、短く書いた。


 言葉だけではない。

 行動も一緒に出る。


 書き終えると、少しだけ呼吸が戻ったようだった。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、今日は静かにやって来た。


 足取りは軽いが、口数は少ない。


 昨日よりも、少しだけ遠くを見ている。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます、ユーリスさん」


 ユーリスは三人を見ると、軽く手を上げた。


「今日は、待つ日だな」


「ああ」


「俺、待つの嫌いなんだよな」


「知っている」


 レオンが言うと、ユーリスは笑った。


「まあ、見ればわかるか」


 彼は噴水の縁に近づき、水面を見る。


「昨日の要約、俺の“沈黙による支援”が残っただろ」


「ああ」


「あれ、嬉しかったんだよな」


 ユーリスは少し照れたように言う。


「俺の軽さが評価されるより、黙ることも覚えてる途中って残ったのが、なんか」


 言葉を探す。


「ちゃんと見られた感じがした」


 フィーネが頷く。


「わかります」


「でも、外で読まれた時に、どう思われるかはわからない。軽いやつが黙る練習中って何だよ、って思われるかもしれない」


 アルトが少し笑いかけ、すぐに止める。


 ユーリスも笑った。


「いや、自分で言っても変だと思う」


 その笑いで少し空気が緩む。


 だが、ユーリスは続けた。


「でも、まあ。変でも残ったならいいか」


「いいのか」


「うん。だって今の俺だし」


 その言葉は、軽く聞こえて、深かった。


 今の俺。


 完成形ではない。


 途中。


 それを記録に出す怖さも含めて、ユーリスは受け取っている。


「良い」


 レオンが言うと、ユーリスは少し照れたように笑った。


「レオンに言われると、ちょっと重いな」


「そうか」


「うん。でも、悪くない」


    ◆


 四人はしばらく噴水のそばに立っていた。


 空は薄い灰色。


 水音は変わらない。


 今日、記録が外へ出る。


 その事実は重い。


 だが、不思議と昨日ほど激しくは揺れていない。


 昨日、自分たちは確認した。


 必要なものは残っている。


 足りなかったものは修正した。


 それでも怖い。


 でも、怖いからといって何もしないわけではない。


 待つ。


 今日は、待つことが必要だ。


 レオンは三人を見る。


「今日は、提出を待ちながら普通の課題をやる」


 フィーネが頷く。


「はい」


 アルトも。


「待つのも、共有します」


 ユーリスも。


「待つのが嫌いなことも共有する」


「それでいい」


 少しだけ笑いが生まれる。


 そして四人は東棟へ向かった。


    ◆


 東棟へ向かう道では、いつもより多くの視線を感じた。


 けれど、その多くは静かだった。


 今日が何の日か、皆わかっている。


 正式記録が外へ出る日。


 それは第五班だけの問題ではなく、学園の記録が外部へ渡る日でもある。


 生徒たちは、自分たちの学園がどう見られるのかも気にしているのだろう。


「今日、提出か」

「学園側の記録って、外に出ると重いな」

「先生たちも大変だろうな」

「第五班、普通に授業出るんだな」

「そりゃ出るだろ」

「でも落ち着かないよな」


 落ち着かない。


 その通りだ。


 だが、落ち着かないからといって、授業を休むわけではない。


 課題を止めるわけでもない。


 今日も学園は動く。


 講義があり、演習があり、昼休みがあり、放課後が来る。


 その中で、記録は外へ出る。


 日常と大きな出来事は、いつも同時に進む。


 それも、ここ数日で学んだことだった。


    ◆


 教室に入ると、ハルト・グレイナーが窓際に立っていた。


 腕を組み、外を見ている。


 カイル・ローダンは席で本を読んでいたが、レオンたちが来ると本を閉じた。


「今日、提出だな」


 カイルが言う。


「ああ」


「提出後、すぐに返答が来ることはない」


「わかっている」


「ならいい」


 カイルは淡々と続けた。


「ただ、提出された直後は、何か反応が来るのではないかと過敏になる。事務職員が歩くだけで緊張するかもしれない」


 アルトが少し苦笑する。


「なりそうです」


「なるだろうな」


 カイルは容赦なく言う。


「対処は、事実確認だ。職員が来たから返答とは限らない。封書を持っているから自分たち宛とは限らない。事実が来るまで想像で崩れるな」


 レオンは頷く。


「今ここ、だな」


「そうだ」


 ハルトが振り返る。


「外に出た言葉は、もう追えない」


 珍しく、彼が先に言った。


「だから、今できることをやれ」


 ユーリスが少し笑う。


「ハルト、今日はかなり真っ当だな」


「いつも真っ当だ」


「そこは議論の余地がある」


「ベルク」


「はい、黙ります」


 少しだけ空気が緩む。


 だが、ハルトの言葉は残った。


 外に出た言葉は、もう追えない。


 だから、今できることをやる。


    ◆


 一限目。


 教師は教室へ入ると、黒板へ向かった。


 書かれた文字は。


 提出。


 教室全体が静まり返った。


「本日、正式記録を外部確認元へ提出する」


 教師の声は静かだった。


「関係生徒の本人確認、要点確認、必要修正は完了している」


 一拍。


「提出後の判断は、学園内だけで完結しない。外部確認元が記録を読み、必要に応じて返答する」


 レオンは手を軽く握った。


「提出後、すぐに返答が来るとは限らない。数日を要する可能性もある」


 数日。


 待つ時間が生まれる。


「その間、関係生徒は通常通り授業と課題へ参加する。特別扱いはしない」


 教師は教室を見渡す。


「ただし、心理的負荷はある。各自、状態共有を怠るな」


 一拍。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「提出される日に、第五班が最も避けるべきことは何だ」


 レオンは少し考えた。


「想像で崩れることです」


 教師は黙って続きを待つ。


「記録がどう読まれるか、返答がいつ来るか、どう判断されるか。考え始めれば止まりません」


 一拍。


「でも、提出後は待つしかない。だから、事実が来るまでは、今日の課題を今日の課題として扱う必要があります」


 教師は頷いた。


「良い」


 そして全体へ言う。


「待つことは、何もしないことではない。待つ間に、今できることを続けることだ」


 その言葉が、今日の柱になった。


    ◆


 午前の課題は、待機下連携演習だった。


 名前の通り、待つことを含んだ演習だった。


 標識移送そのものは難しくない。


 だが、演習中に一定時間“待機指示”が入る。


 その間、班員は勝手に動いてはいけない。


 ただし、周囲の状況確認、状態共有、支援準備は可能。


 つまり、待っている間に想像で崩れず、今できる準備を続けられるかを見る課題だった。


 第五班は区画へ入る。


 標識は中央。


 魔法人形二体。


 護送対象なし。


 障害壁一つ。


 開始前、レオンは三人を見る。


「今日の成果は、待機中に崩れないこと」


 フィーネが頷く。


「待っている間も、見えるものを共有します」


 アルトも。


「支援準備を確認します。先に出しすぎないようにします」


 ユーリスは軽く息を吐く。


「待つの嫌いだけど、待つ」


「言えたな」


「言えた」


 教師の合図。


 演習開始。


    ◆


 最初は順調だった。


 フィーネが状況を出す。


「正面前衛一、右軽量一。障害壁は中央手前。標識は奥」


 レオンが指示する。


「前衛は俺が流す。ユーリス、標識へ。アルト、右軽量足止め。フィーネ、障害壁の起動条件を見る」


「はい」

「了解」

「はい」


 動く。


 前衛型を流す。


 アルトが足止め。


 ユーリスが標識へ向かう。


 その時、教師の声が響いた。


「待機」


 全員が止まる。


 標識まであと少し。


 前衛型はまだ動いている。


 軽量型は足止めされている。


 ここで止まるのは、非常に気持ち悪い。


 ユーリスが小さく言う。


「うわ、嫌な位置」


「待機」


 レオンが短く返す。


 フィーネが状況共有を始める。


「前衛型、レオンさんの正面。距離二歩。右軽量、足止め継続中。障害壁は未起動。標識までユーリスさん三歩」


 アルトが続ける。


「足止め、残り短いです。待機解除後すぐ補助できます」


 ユーリスも。


「標識まで三歩。解除後、直進可能」


 レオンは前衛型を見ながら言う。


「解除後、俺は前衛を右へ流す。ユーリスは標識確保。アルトは足止め更新。フィーネは障害壁を見る」


 待機中。


 動けない。


 だが、準備はできる。


 それでも、胸の中には別の不安が入り込んでくる。


 今頃、記録は提出されているのか。


 もう学園を出たのか。


 封書は事務棟にあるのか。


 誰が持っていくのか。


 ローゼンベルク家の誰が読むのか。


 父は、どの一文で眉を動かすのか。


 考えが広がりかける。


 その時、フィーネの声がした。


「レオンさん、前衛型の剣が上がっています」


 レオンは戻る。


 今ここ。


「見えている」


 待機解除。


 教師の声。


「再開」


 四人が動く。


 レオンは前衛型を右へ流す。


 ユーリスが標識を確保。


 アルトが足止めを更新。


 フィーネが叫ぶ。


「障害壁、起動気配! 戻りは左推奨!」


「左へ」


 レオンが指示。


 ユーリスが標識を持って左へ走る。


 軽量型が足止めから抜ける。


 アルトが風を入れる。


「風、弱支援」


 ユーリスが返す。


「受ける」


 台座へ。


 標識設置。


 鐘が鳴った。


    ◆


 教師が近づいてくる。


「第五班、評価、上」


 四人が姿勢を整える。


「待機中、想像ではなく状況共有へ戻れた点、良」


「はい」


「ヴォルツ、一時的に意識が外へ向いた」


 レオンは少しだけ目を伏せる。


「はい」


「ルークの状況共有で戻った。良い相互補正だ」


 フィーネが小さく頷く。


「はい」


「レイヴン、待機中に支援準備を明確にした点、良。ベルク、嫌な位置と共有した上で、標識までの距離を報告した点、良」


「はい」

「はい」


 教師は続けた。


「待つ間、何をするか。今日の課題はそこだ。第五班は、待機中も今できる確認を続けた。評価する」


 待つ間、何をするか。


 それは、演習だけではない。


 正式記録が外へ出た今日、そのまま自分たちに必要な言葉だった。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、正式記録提出の話題が静かに広がっていた。


 だが、以前のような騒がしさはない。


「提出、午前中らしいぞ」

「もう出たの?」

「事務棟から職員が出ていったって」

「ローゼンベルク家へ?」

「たぶん」

「第五班は普通に演習してたらしい」

「待機下連携で上評価だって」

「待ってる間も課題やるって、なんか今の状況そのままだな」


 もう出たのか。


 その言葉に、アルトの手が止まる。


 フィーネも顔を上げる。


 ユーリスの表情も少し硬くなる。


 レオンも、胸の奥が冷えた。


 午前中。


 もう、出た。


 記録は学園を離れた。


 自分たちの言葉は、外へ向かった。


 レオンは手元の水を一口飲んだ。


 冷たい。


 喉を通る感覚で、少しだけ今に戻る。


「事実確認」


 カイルの言葉を思い出して、レオンは言った。


 三人が見る。


「今聞こえたのは噂だ。正式に提出完了と聞いたわけではない」


 ユーリスが頷く。


「そうだな。職員が出たからって、俺たちの記録とは限らない」


 フィーネも。


「はい。事実が来るまで、想像で崩れない」


 アルトは少し深呼吸した。


「はい」


 その直後。


 食堂の入口に、事務職員が現れた。


 四人の空気が止まる。


 職員は食堂内を見渡し、レオンたちの席へ向かってきた。


 今度は、噂ではない。


 職員は丁寧に頭を下げた。


「第五班の皆様へ、担当教師より伝言です」


 レオンは姿勢を正す。


「はい」


「正式記録は、本日正午前に外部確認元へ提出されました。以後、返答があり次第、学園を通じて連絡いたします。通常授業および課題は予定通り継続してください、とのことです」


 正午前。


 提出された。


 事実が来た。


 レオンは静かに息を吸った。


「承知しました」


 職員が去っていく。


 席に、長い沈黙が落ちた。


 外へ出た。


 本当に。


 フィーネが手帳を握る。


 アルトは少し震えている。


 ユーリスは天井を見上げた。


 レオンは三人を見た。


「出た」


 短く言う。


 フィーネが頷く。


「はい」


 アルトも。


「出ました」


 ユーリスが息を吐く。


「じゃあ、待つしかないな」


「ああ」


 レオンは頷いた。


「待つ間、今できることを続ける」


 教師の言葉。


 今日の課題。


 それを、今ここで受け取る。


    ◆


 放課後。


 中庭には、少し冷たい風が吹いていた。


 夕方の光は淡い。


 噴水の水面に、雲の影が揺れている。


 エリシア・フォン・ローゼンベルクは、回廊の柱のそばに立っていた。


 レオンたちが近づくと、彼女は静かに会釈した。


「提出されたそうですね」


「はい」


 レオンが答える。


「正午前に」


 エリシアは少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


 彼女の言葉も、外へ出た。


 ローゼンベルク家へ向かった。


 彼女の家へ。


 彼女自身の不安や証言が、家族あるいは家の者に読まれる。


 その重さは、レオンたちとはまた違うはずだ。


 フィーネが静かに言う。


「怖いですね」


 エリシアは顔を上げる。


 フィーネは少しだけ慌てる。


「あ、すみません。決めつけるつもりでは」


「いいえ」


 エリシアは首を振った。


「怖いです」


 素直な言葉。


「でも、昨日確認しました。必要なものは残っていました。だから、今は待ちます」


 アルトが頷く。


「俺たちも、待ちます」


 ユーリスが軽く言う。


「待つの嫌いですけど」


 エリシアが少し笑う。


「私も得意ではありません」


「じゃあ、全員苦手ですね」


 ユーリスが言う。


 その言葉に、少しだけ笑いが生まれる。


 レオンも、わずかに口元を緩めた。


 待つのが得意な者はいない。


 だが、苦手な者同士で待つことはできる。


「待つ間」


 エリシアが言う。


「皆様は、課題を続けるのですよね」


「はい」


 フィーネが答える。


「私も、通常の講義と課題を続けます」


 エリシアは静かに言った。


「記録が外へ出ても、学園での日々は止まらないのですね」


「止まらない」


 レオンは答える。


「だからこそ、続ける必要があるのだと思います」


 エリシアは少しだけ頷いた。


「はい」


 夕方の沈黙。


 それは重かった。


 だが、昨日までと違い、完全に苦しい沈黙ではなかった。


 外へ出た言葉を、もう追えない。


 けれど、ここに残っている自分たちは、まだ言葉を交わせる。


 まだ課題へ向かえる。


 まだ戻れる。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 第五十二話。


 言葉が学園の外へ出ていく日。


 朝。

 正式記録が外部へ提出される日。

 外の人間は、噴水の水音も手帳の消し線も沈黙の重さも知らない。

 硬い文章だけを見る。

 だから怖い。

 提出されるのを止める段階ではない。

 受け入れる段階。


 フィーネ。

 不安という形で残った言葉。

 それを外の人がどう読むかはわからない。

 今日は待つ日。

 待つのは苦手。


 アルト。

 支える側にもなりたい、が外へ出る。

 生意気と思われないか不安。

 言葉だけではない。

 支援で戻した場面、調整した場面、役割を果たした記録も一緒に出る。


 ユーリス。

 沈黙による支援が残って嬉しかった。

 ちゃんと見られた感じがした。

 外でどう読まれるかはわからない。

 でも、変でも残ったならいい。

 今の俺だから。


 カイル。

 提出後、すぐに返答が来るとは限らない。

 職員が来たから返答とは限らない。

 封書を持っているから自分たち宛とは限らない。

 事実が来るまで想像で崩れるな。


 ハルト。

 外に出た言葉は、もう追えない。

 だから、今できることをやれ。


 講義。

 提出。

 正式記録を外部確認元へ提出。

 提出後の判断は学園内だけで完結しない。

 返答に数日を要する可能性。

 その間、通常通り授業と課題へ参加。

 待つことは、何もしないことではない。

 待つ間に、今できることを続けること。


 午前課題。

 待機下連携演習。

 待機指示中、勝手に動けない。

 周囲の状況確認、状態共有、支援準備は可能。

 待機中、想像が外へ向きかける。

 フィーネの状況共有で戻る。

 評価、上。

 待つ間、何をするか。


 昼。

 事務職員より正式伝言。

 正式記録は本日正午前に外部確認元へ提出。

 返答があり次第、学園を通じて連絡。

 通常授業および課題は予定通り継続。

 出た。

 待つしかない。


 放課後。

 エリシア。

 提出されたことを確認。

 怖い。

 でも必要なものは残っていた。

 だから待つ。

 全員、待つのは苦手。

 記録が外へ出ても、学園での日々は止まらない。

 だからこそ、続ける必要がある。


 レオンはペンを止めた。


 今日、言葉が学園の外へ出た。


 それは、不思議な感覚だった。


 何かが手から離れた。


 けれど、目に見える変化はない。


 校舎は同じ。


 噴水も同じ。


 講義もあり、演習もあり、食堂のざわめきもあった。


 世界は止まらなかった。


 自分たちの言葉が外へ出ても、学園の日常は続いた。


 そのことに、少し救われた。


 同時に、少し怖くもなった。


 外で何が読まれ、どう受け取られているかはわからない。


 今夜、ローゼンベルク家の誰かが記録を読むかもしれない。


 ヴォルツ家の父が、修正された一文を見るかもしれない。


 自身も班内の指摘や支援によって修正される相互的な協力関係。


 その硬い一文を、父はどう読むだろう。


 弱さと見るか。


 成長と見るか。


 それとも、まだ判断を保留するのか。


 考え始めると、止まらない。


 だから、レオンは手帳へ最後に一行を書く。


 言葉が学園の外へ出ていく日、俺たちは待つことを学び始めた。


 その下に、もう一行。


 待つとは、返答を想像して崩れることではなく、返答が来るまで今できる一歩を止めないことだ。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 星は少ない。


 雲が薄く広がっている。


 明日、返答は来ないかもしれない。


 明後日も来ないかもしれない。


 それでも授業はある。


 課題もある。


 第五班は集合する。


 フィーネは状態を共有する。


 アルトは支援を調整する。


 ユーリスは軽さと沈黙を選ぶ。


 レオンは判断し、時には戻される。


 そして、エリシアも学園で自分の日々を続ける。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、昼に聞いた職員の声が蘇る。


 正式記録は、本日正午前に外部確認元へ提出されました。


 もう出た。


 なら、今夜できることはない。


 眠ること。


 明日、起きること。


 また中庭へ行くこと。


 待つ日々は、そこから始まる。


 レオンは静かに目を閉じた。


 噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 言葉が外へ出ても、その音は変わらない。


 だから、自分たちも。


 明日また、戻る。

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