第四十八話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、青く澄んでいた。
昨日よりも雲は少ない。
高いところに細く白い筋が残っているだけで、朝日はまっすぐ校舎の石壁を照らしている。
尖塔の銀飾りが光を返し、中庭の芝には細かな影が落ちていた。
風は穏やかだった。
草の匂いを少しだけ運び、噴水の水面をやわらかく揺らしている。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
水音は、今日も同じだった。
だが、レオン・ヴォルツの胸の中では、昨日の言葉がまだ静かに響いていた。
戻りました。
エリシア・フォン・ローゼンベルクが、本人確認を終えて戻ってきた時に言った言葉。
顔色は少し白かった。
声も少し掠れていた。
それでも、彼女は自分の足で戻ってきた。
不安はある。
でも、見た事実を否定できない。
第五班は完成された安定型ではない。
けれど、戻ろうとする班。
私は気の毒な婚約者ではない。
不安を持つ本人であり、見た事実を持つ証言者であり、これからどう受け止めるかを選ぶ一人。
それは、誰かが代わりに言える言葉ではなかった。
エリシア自身の言葉だった。
レオンは、昨夜の手帳を開いた。
最後に書いた一行。
代わりに答えられないから、隣に立つ。
相手の声を守るとは、時に自分の言葉を飲み込み、戻ってくる場所だけを空けておくことだ。
昨日は、エリシアの戻る場所を空けた日だった。
大丈夫かと聞きすぎず、確認内容を詮索せず、代わりに答えず。
ただ、戻ってきた彼女に“おかえりなさい”と言った。
それでよかったのかは、今でも完全にはわからない。
けれど、エリシアは少しだけ表情を緩めた。
戻りました、と答えた。
それなら、あの距離は間違いではなかったのだと思いたい。
だが、今日は違う。
次は、第五班の番だ。
正式な本人確認は、エリシアだけで終わるはずがない。
フィーネ。
アルト。
ユーリス。
そしてレオン。
一人ずつ、自分の言葉で答える時が来る。
昨日までは、誰かが戻ってくる場所を空ける側だった。
今日は、自分たちが戻ってくる側になるかもしれない。
レオンは手帳を閉じた。
胸が重い。
だが、昨日より少しだけ分かっていることがある。
自分の言葉で答えることは怖い。
でも、戻る場所があるなら、人は少しだけ立てる。
なら、今日の第五班に必要なのは。
誰かが本人確認へ向かう時、送り出すこと。
戻ってきた時、迎えること。
そして、自分が呼ばれた時は、怖いまま行くこと。
レオンは制服の襟を整えた。
晴れた朝。
だが、胸の中には静かな緊張があった。
◆
寮の廊下に出ると、空気は落ち着いていた。
昨日、エリシアの本人確認が行われたことは、すでに広がっている。
だが、教師の通達が効いているのだろう。
具体的な内容を詮索する声は、かなり少ない。
代わりに、静かな受け止めがあった。
「エリシア様、戻ってきた時、少し疲れてたらしい」
「でも自分で話したんだろ」
「すごいな」
「第五班も変に聞かなかったって」
「おかえりなさい、って言ったらしいぞ」
「それ、いいな」
おかえりなさい。
その言葉まで広がっているのは、少し恥ずかしかった。
だが、悪い広がりではない。
誰かが戻ってくる場所。
その意味を、学園の空気も少しずつ理解し始めているのかもしれない。
しかし、別の声もある。
「次は第五班だよな」
「誰から呼ばれるんだろ」
「アルト、緊張するだろうな」
「フィーネさんも」
「レオンは最後かな」
「ユーリスは意外とちゃんと答えそう」
次は第五班。
その言葉に、レオンの歩幅が少しだけ固くなる。
避けられない。
わかっている。
だが、実際にそう言われると、胸に重さが落ちる。
レオンはゆっくり息を吐いた。
今ここ。
まだ呼ばれていない。
まず、中庭へ行く。
◆
フィーネ・ルークは、噴水のそばに立っていた。
手帳を胸に抱いている。
今日は開いていない。
水面を見ているが、昨日より少し緊張しているように見えた。
レオンが近づくと、彼女は顔を上げる。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
少しだけ沈黙が落ちる。
互いに何を考えているか、言わなくてもわかる。
「今日、来ますよね」
フィーネが言った。
「おそらく」
「正式通知」
「ああ」
彼女は小さく頷いた。
「昨日、エリシア様が戻ってきた時のこと、ずっと考えていました」
「俺もだ」
「おかえりなさい、って言葉」
フィーネは少しだけ微笑む。
「とても良かったです」
「そうか」
「はい。大丈夫ですか、より、ずっとエリシア様が答えやすかった気がします」
レオンは少しだけ目を伏せた。
昨日、自分は必死に言葉を選んだ。
選んだというより、削った。
大丈夫か。
何を聞かれた。
何と答えた。
辛くなかったか。
言いたい言葉は多かった。
だが、それを飲み込んで、残ったのが“おかえりなさい”だった。
それが正しかったと、フィーネが言ってくれるのはありがたかった。
「今日は」
フィーネが続ける。
「私たちが戻ってくる番になるかもしれません」
「ああ」
「その時、私……自分で戻りましたって言えるか、少し怖いです」
「怖いままでいい」
レオンは言った。
何度も使ってきた言葉。
だが、今日も必要だった。
「怖いまま行く。戻ってきたら、戻ったと言えばいい」
フィーネは静かに頷いた。
「はい」
◆
アルト・レイヴンは、今日はかなり早く来た。
手帳を持っている。
だが、いつものように握りしめてはいない。
両手で大切に持っている。
レオンとフィーネを見ると、少しだけぎこちなく笑った。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
アルトは深く息を吸い、吐いた。
「今日、呼ばれるかもしれないですよね」
「ああ」
「俺、昨日の夜、何度も読み返しました。自分の言葉」
彼は手帳を開く。
そこには、昨日書いた言葉があった。
俺は第五班にいたい。
怖い。
迷惑をかけるかもしれない。
でも支援で役に立てる場面がある。
失敗もする。
戻る練習をしている。
守られるだけでなく、支える側にもなりたい。
アルトはそのページを見つめる。
「これ、正式な場で言えるかはわかりません」
「全部同じでなくてもいい」
レオンは言った。
アルトが顔を上げる。
「同じ言葉でなくても、お前の中にあれば出る」
フィーネも頷く。
「丸暗記しなくていいと思います。自分の言葉ですから」
「自分の言葉……」
アルトは小さく繰り返す。
「そうですよね。暗記したら、また綺麗にしようとしそうです」
一拍。
「怖い、って言ってもいいんですよね」
「言っていい」
レオンが答える。
「俺、怖いです」
アルトは今、この場で言った。
「でも、行きます」
その声は震えていた。
だが、昨日より少し強かった。
◆
ユーリス・ベルクは、今日は珍しく静かに来た。
口笛もない。
軽い挨拶も、少しだけ控えめだった。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます、ユーリスさん」
ユーリスは三人を見る。
「今日、来るな」
「ああ」
「俺さ、昨日はエリシア様を迎える側だったから、ちょっと余裕あったんだよ」
「余裕があったのか」
レオンが聞くと、ユーリスは苦笑する。
「少しだけな。でも今日は自分も呼ばれるかもしれないって思うと、けっこう来る」
彼は胸元を軽く叩いた。
「ここに」
「お前でも緊張するんだな」
アルトが言う。
ユーリスは笑った。
「するよ。俺を何だと思ってるんだ」
「す、すみません」
「謝らなくていい。調整で」
アルトが少し笑った。
ユーリスはその笑いを見て、少しだけ表情を緩める。
「俺は、戻ってきたら軽口言うかもしれない」
「言えばいい」
レオンが答える。
「でも、戻ってきた直後に無理して軽くするな」
「わかってる」
ユーリスは頷いた。
「軽くできなかったら、軽くできないって言う」
「それでいい」
フィーネも微笑む。
「その時は、私たちが待ちます」
ユーリスは少しだけ目を細めた。
「助かる」
◆
東棟へ向かう道。
今日は空気が少し違った。
昨日までの“周囲が見る第五班”ではなく、“これから本人確認へ向かうかもしれない第五班”として見られている。
それは同情でも、期待でも、好奇心でもある。
だが、少しだけ敬意も混じっているように感じた。
エリシアの本人確認を経て、学園全体が少し変わったのかもしれない。
「頑張れよ」
すれ違いざま、誰かが小さく言った。
誰に向けた言葉かはわからない。
第五班全員かもしれない。
アルトが少し驚いて振り返りかける。
だが、相手はもう歩き去っていた。
ユーリスが小さく言う。
「返答を求めない応援だな」
「そうだな」
レオンは頷いた。
アルトは少しだけ笑う。
「ちょっと、楽になりました」
フィーネも頷いた。
「はい」
言葉は、圧にもなる。
だが、距離を保てば支えにもなる。
それを、今日の学園は少しずつ実践し始めている。
◆
教室に入ると、ハルト・グレイナーがこちらを見た。
今日は腕を組んでいる。
表情はいつも通り不機嫌そうだが、目は少し真剣だった。
カイル・ローダンも席から顔を上げる。
「今日、通知が来る」
カイルが言った。
「確定か」
レオンが聞く。
「ほぼ確定だ。教師陣が面談室の準備をしている」
フィーネの肩が少し動く。
アルトが手帳を握る。
ユーリスも少し息を吐いた。
ハルトが言う。
「順番はわかるのか」
「まだだ」
カイルは答える。
「だが、第五班はおそらく全員対象。場合によっては第七班も一部確認される」
「俺たちもか」
ハルトは少し眉を寄せる。
「妨害記録に関わるからな」
「面倒だ」
いつもの言葉。
だが、その声には逃げの色は薄い。
「でも、答えるんだろう」
ユーリスが言う。
ハルトは少し不機嫌そうに目を逸らす。
「必要ならな」
カイルが淡々と言う。
「必要だ」
「……なら答える」
そのやり取りを聞いて、レオンは少しだけ安心した。
第五班だけではない。
第七班も、自分の言葉で関わることになる。
この一連の流れは、もう一つの班だけの問題ではなくなっている。
学園全体の学びになりつつある。
◆
一限目。
教師は教室へ入ると、すぐに教壇へ立った。
黒板には何も書かない。
それだけで、教室の空気が張り詰める。
「本日、正式な本人確認の対象者へ個別通知を行う」
教師の声は静かだった。
「対象者は、第五班各員、第七班から二名、関連証言者としてエリシア・フォン・ローゼンベルク。なお、エリシア・フォン・ローゼンベルクについては昨日確認済みである」
教室に小さな空気の動きが起きる。
教師は続ける。
「第五班の本人確認は、本日午後より順次行う」
来た。
レオンは、胸の奥が静かに沈むのを感じた。
午後。
順次。
今日だ。
「順番は個別に通知する。確認は一人ずつ行う。内容は一次所見への認識、本人の役割認識、今後の学業上の協力関係についての考えを中心とする」
フィーネの手が少し震える。
アルトは下位クラスにいるはずだが、同じ通知を受けるだろう。
ユーリスは黙って前を見ている。
「繰り返す。これは尋問ではない。答えを誘導するものでもない」
一拍。
「正しく見せるための場ではなく、自分の認識を確認する場だ」
教師の目が、レオンを見る。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がった。
「今朝の時点で、お前が第五班へ伝えるべきことは何だ」
教師は、あえてそう問うた。
中心者として、何を言うのか。
レオンは少しだけ沈黙した。
言葉を選ぶ。
簡単な励ましではいけない。
でも、重すぎてもいけない。
「綺麗に答えようとしなくていい」
レオンは言った。
教室が静かになる。
「怖いなら怖いと言っていい。迷ったなら迷ったと言っていい。失敗したことも、戻ろうとしたことも、自分の言葉で言えばいい」
一拍。
「俺が代わりに答えることはできない。でも、戻ってきた時に迎えることはできる」
フィーネが静かに息を吸う気配がした。
ユーリスも少しだけ目を伏せた。
「だから、行く時は一人でも、戻る場所はある。そう伝えたいです」
教師はしばらくレオンを見ていた。
そして、頷いた。
「良い」
その一言で、少しだけ胸の重さが変わった。
◆
午前の講義は、ほとんど頭に入らなかった。
教師は通常の魔力理論を進めた。
負担分散。
魔力消費の基礎。
支援魔法の持続時間。
大事な内容だ。
だが、午後の本人確認が意識の隅にあり、何度も文字が霞む。
レオンだけではない。
フィーネも、いつもよりペンが遅い。
ユーリスも頬杖をつきそうになっては戻している。
ハルトも何度か腕を組み直し、カイルでさえいつもより少しだけ硬い。
午前の終わり。
教師が小さな紙を配り始めた。
個別通知。
レオンの机にも、一枚置かれる。
折りたたまれた紙。
指先で開く。
そこには、簡潔に書かれていた。
本人確認時刻。
本日第六時限終了後。
対象者。
レオン・ヴォルツ。
場所。
東棟第二面談室。
レオンは静かに息を吐いた。
自分は、最後に近い時間らしい。
フィーネは紙を見て、少し顔色を変えている。
彼女は早いのかもしれない。
ユーリスは紙を見て、苦笑した。
「俺、昼後すぐだ」
小声で言う。
フィーネも小さく。
「私は、その次です」
アルトは下位クラスにいる。
あとで合流しなければならない。
レオンは紙を折り直した。
始まる。
◆
昼休み。
第五班は食堂ではなく、中庭の端に集まった。
人の多い場所では、落ち着いて話せない。
アルトも通知を持って来た。
彼の時刻は、フィーネの後。
つまり順番は、ユーリス、フィーネ、アルト、レオン。
まるで、軽さ、状態共有、支援、中心者の順に確認するかのようだった。
四人は、噴水から少し離れた木陰に立っていた。
しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのはユーリスだった。
「俺が最初か」
「ああ」
レオンは頷く。
「戻ってこい」
ユーリスは少し笑った。
「それだけ?」
「それだけだ」
「いいな」
ユーリスは息を吐いた。
「じゃあ、戻ってくる」
フィーネが言う。
「待っています」
アルトも。
「待ってます」
ユーリスは三人を見て、いつものように軽く手を振った。
「じゃ、ちょっと言葉で戦ってくる」
「戦うな」
レオンが言う。
「じゃあ、言葉で歩いてくる」
「それでいい」
ユーリスは笑って、東棟へ向かった。
背中は軽そうに見える。
だが、少しだけ肩に力が入っていた。
それを、三人は黙って見送った。
◆
待つ時間は長かった。
実際には、それほど長くなかったのかもしれない。
だが、レオンには時間がゆっくり進んでいるように感じられた。
フィーネは手帳を開いたり閉じたりしている。
アルトは何度も深呼吸する。
レオンは、東棟の入口を見ていた。
代わりに答えられない。
今、ユーリスは一人で答えている。
軽さを逃げにしないこと。
次の一歩を出すための軽さ。
軽すぎる時もあること。
それを自分で見ようとしていること。
彼は言えているだろうか。
言葉が詰まっていないだろうか。
いつものように軽くしすぎていないだろうか。
逆に、真面目にしすぎていないだろうか。
心配は浮かぶ。
だが、何もできない。
ただ待つ。
やがて、東棟の扉が開いた。
ユーリスが出てくる。
少し疲れた顔。
だが、口元には小さな笑みがあった。
戻ってきた。
フィーネが立ち上がりかける。
アルトも。
レオンは一歩だけ前に出た。
ユーリスは三人の前まで来て、軽く息を吐いた。
「戻った」
「おかえり」
レオンが言う。
フィーネも。
「おかえりなさい」
アルトも。
「おかえりなさい」
ユーリスは少しだけ目を細めた。
「……これ、けっこう効くな」
彼は笑おうとして、少しだけ声が掠れた。
「言えたか」
レオンが聞く。
ユーリスは頷いた。
「うん。軽さは逃げにもなる。でも、次の一歩を出すためにも使えるって言った」
「そうか」
「あと、俺は黙ることも覚えている途中だって言った」
フィーネが静かに微笑む。
「ユーリスさんらしいです」
「だろ?」
少しだけ、いつもの軽さが戻る。
だが、すぐにフィーネの番だった。
ユーリスは彼女を見た。
「行ってこい」
フィーネは小さく息を吸う。
「はい」
アルトが言う。
「待ってます」
レオンも。
「戻ってこい」
フィーネは頷き、東棟へ向かった。
◆
フィーネを待つ時間は、ユーリスの時より静かだった。
ユーリスが戻ってきたことで、少しだけ空気は柔らかくなった。
だが、フィーネが今一人で答えていると思うと、また胸が重くなる。
彼女は言えるだろう。
怖いことも共有しながら、状態共有の役割を果たしたいと。
巻き込まれているだけではないと。
でも、怖くないわけではないと。
それが彼女の言葉だ。
レオンは、手を握りかけて、やめた。
待つ。
待つことも、支えることだ。
やがて、フィーネが戻ってきた。
顔は少し赤い。
目元は潤んでいる。
だが、歩いている。
三人の前に来ると、彼女は小さく言った。
「戻りました」
「おかえり」
レオンが言う。
ユーリスも。
「おかえり」
アルトも。
「おかえりなさい」
フィーネは、ほっとしたように笑った。
「言えました。震えましたけど」
「震えても言えたな」
レオンが言う。
「はい」
フィーネは手帳を胸に抱く。
「怖いことも共有しながら、第五班で役割を果たしたいって。あと、巻き込まれているだけではないって」
「良い」
短い言葉。
だが、フィーネには届いたようだった。
そして次は、アルトだった。
アルトは顔を白くしていた。
だが、逃げなかった。
フィーネが彼を見る。
「待っています」
ユーリスも。
「戻ってこい。深呼吸忘れるなよ」
アルトは小さく笑った。
「はい」
レオンは言う。
「怖いなら怖いと言え」
「はい」
アルトは東棟へ向かった。
その背中は小さく見えた。
だが、足は止まらなかった。
◆
アルトを待つ時間は、一番長く感じられた。
実際、少し長かったのかもしれない。
レオンは東棟の扉を見つめたまま、何度も息を整えた。
アルトは自分を責めやすい。
質問の仕方によっては、一人で背負おうとしてしまうかもしれない。
守られるだけではない。
支える側にもなりたい。
そう言えるか。
失敗もする。
でも戻る練習をしている。
その言葉を、彼は出せるか。
フィーネが小さく言う。
「長いですね」
「ああ」
ユーリスが空を見上げる。
「でも、あいつなら戻る」
「そうだな」
レオンは答えた。
信じる。
それも距離だ。
やがて、扉が開いた。
アルトが出てきた。
目元が赤い。
泣いたのかもしれない。
だが、歩いている。
手帳を胸に抱き、まっすぐこちらへ向かってくる。
四人の距離が近づく。
アルトは、声を震わせながら言った。
「戻りました」
レオンはすぐに言う。
「おかえり」
フィーネも。
「おかえりなさい」
ユーリスも。
「おかえり」
アルトは、少しだけ笑った。
そして、涙をこぼさないように上を向いた。
「言えました」
「何を」
レオンが聞く。
「第五班にいたいって」
一拍。
「守られるだけじゃなくて、支える側にもなりたいって」
フィーネが目元を押さえた。
ユーリスも小さく息を吐く。
レオンは頷いた。
「よく言った」
アルトはその言葉で、少しだけ泣きそうになった。
だが、泣かなかった。
泣いてもよかった。
でも、彼は笑おうとした。
そして最後に、レオンの番が来た。
通知の時刻。
第六時限終了後。
もうすぐだった。
アルトが顔を上げる。
「レオンさん」
「ああ」
「待ってます」
その一言は、重かった。
フィーネも言う。
「待っています」
ユーリスも。
「戻ってこい」
レオンは三人を見る。
自分が今まで言ってきた言葉を、今度は自分が受け取る番だった。
「ああ」
レオンは頷いた。
「行ってくる」
◆
東棟第二面談室。
扉の前に立つと、胸の奥が静かに重くなった。
剣はない。
相手は魔法人形でも、妨害役でもない。
ただ、教師がいる。
記録がある。
自分の言葉を残す場がある。
レオンは軽く息を吸い、扉を叩いた。
「入れ」
教師の声。
レオンは扉を開け、中へ入った。
部屋は静かだった。
机が一つ。
椅子が二つ。
教師と、記録担当の職員が一人。
レオンは椅子に座る。
教師は書類を確認し、顔を上げた。
「レオン・ヴォルツ。本人確認を開始する」
「はい」
「これは尋問ではない。記録補足のための確認だ。答えにくい問いがあれば、その旨を言ってよい」
「はい」
教師は少し間を置いた。
「まず、一次所見について。第五班は完成度の高い安定型ではないが、戻る力が伸びていると記した。この所見をどう受け止める」
レオンは少しだけ考えた。
「痛いですが、事実だと受け止めています」
「続けろ」
「第五班は安定しているわけではありません。外圧で揺れます。成果を求められると硬くなります。記録を意識すると演じそうになります」
一拍。
「ですが、そのたびに戻ろうとしてきました。今ここ、状態共有、謝罪より調整、目的確認。そうした言葉と行動で戻る力が伸びているという所見は、今の第五班に近いと思います」
教師は頷く。
「次に、ヴォルツ家の返答について。成果がある限り協力関係を直ちに禁じない、という条件をどう受け止める」
胸が少し重くなる。
「最初は、成果を出さなければ第五班が認められないように感じました」
正直に言う。
「そのため、成果だけを見失いかけました」
「今は」
「成果は必要です。しかし、成果を出すために第五班を壊すなら本末転倒です。第五班で積み上げたものが成果になる。その順番を忘れないようにしたいと考えています」
教師のペンが動く。
「ローゼンベルク家令嬢について」
レオンは静かに息を吸った。
「エリシア・フォン・ローゼンベルクを、今回の件でどう位置づける」
難しい問いだった。
婚約者。
証言者。
不安を持つ本人。
家同士の関係者。
そのすべて。
「婚約者です」
まず言う。
「ですが、それだけではありません」
教師は黙っている。
「彼女は第五班を見てきた証言者でもあります。同時に、不安を持つ本人です。気の毒な婚約者という名札で片付けられる人ではありません」
一拍。
「俺は、彼女を守る対象としてだけ見ないようにします。彼女自身が見て、考え、選ぶ声を尊重する必要があります」
「ヴォルツ家の子弟として、家同士の関係は」
「軽視しません」
レオンは答えた。
「家同士の関係を個人の感情だけで扱えないことは理解しています。ですが、家同士の関係を理由に、本人の認識や学園で見た事実を消すことも違うと考えています」
教師の目が少しだけ細くなる。
「最後に、第五班について。お前は今後、中心者としてどう関わる」
レオンは少し沈黙した。
その沈黙の中で、三人の顔が浮かんだ。
フィーネ。
アルト。
ユーリス。
そしてエリシア。
ハルトとカイルの言葉も。
「一人で代表しすぎないようにします」
レオンは言った。
「判断はします。前に出る必要がある時は出ます。ですが、全員の声を代わりに語ることはしません」
一拍。
「第五班は、俺が守るだけの場所ではありません。俺も戻される場所です」
昨日と同じ言葉。
だが、今日は正式な場で言った。
「だから、中心者として、全員が自分の役割と声を持てる場所を守ります」
長い沈黙。
教師は、しばらくレオンを見ていた。
記録担当のペンの音だけが響く。
やがて、教師は静かに言った。
「確認した」
それだけだった。
だが、その言葉で終わりだとわかった。
レオンは立ち上がり、礼をする。
扉へ向かう。
手が少し震えていた。
部屋を出た瞬間、廊下の空気が胸に入ってくる。
終わった。
答えた。
あとは、戻るだけだ。
◆
中庭へ戻る道が、いつもより長く感じた。
廊下を歩く。
階段を下りる。
扉を開ける。
夕方の光が中庭へ落ちている。
噴水の近くに、三人がいた。
フィーネ。
アルト。
ユーリス。
三人とも、こちらを見る。
レオンは歩いていく。
足が少し重い。
だが、止まらない。
三人の前に立つ。
少しだけ沈黙。
それから、レオンは言った。
「戻った」
フィーネが微笑む。
「おかえりなさい」
アルトも。
「おかえりなさい」
ユーリスも。
「おかえり」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった重さが少しだけ崩れた。
戻ってきた。
ここに。
レオンは小さく息を吐いた。
「言えた」
フィーネが頷く。
「はい」
アルトが聞く。
「怖かったですか」
「ああ」
レオンは正直に答えた。
「怖かった」
ユーリスが少し笑う。
「じゃあ、今日は全員怖かったな」
「そうだな」
四人は、少しだけ笑った。
その笑いは、疲れていた。
でも、確かに戻ってきた笑いだった。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
第四十八話。
今度は、自分たちが戻ってくる番だった。
朝。
エリシアの“戻りました”が残る。
昨日は戻る場所を空けた。
今日は自分たちが戻ってくる側。
フィーネ。
自分で戻りましたと言えるか怖い。
怖いまま行く。
戻ってきたら、戻ったと言えばいい。
アルト。
自分の言葉を丸暗記しない。
怖いと言っていい。
俺、怖いです。でも行きます。
ユーリス。
自分も呼ばれると思うと、けっこう来る。
戻ってきて軽くできなかったら、軽くできないと言う。
カイル。
正式通知が来る。
第五班全員対象。
第七班も一部対象。
ハルト。
必要なら答える。
講義。
正式本人確認の個別通知。
第五班は本日午後より順次。
一次所見への認識、本人の役割認識、今後の学業上の協力関係について。
綺麗に答えようとしなくていい。
怖いなら怖いと言っていい。
迷ったなら迷ったと言っていい。
失敗したことも、戻ろうとしたことも、自分の言葉で言えばいい。
行く時は一人でも、戻る場所はある。
通知。
ユーリス、昼後すぐ。
フィーネ、その次。
アルト、その後。
レオン、第六時限終了後。
ユーリス。
戻った。
軽さは逃げにもなる。
でも次の一歩を出すためにも使える。
黙ることも覚えている途中。
フィーネ。
戻りました。
怖いことも共有しながら、第五班で役割を果たしたい。
巻き込まれているだけではない。
アルト。
戻りました。
第五班にいたい。
守られるだけではなく、支える側にもなりたい。
レオン。
本人確認。
一次所見について。
痛いが事実。
戻る力が伸びているという所見は今の第五班に近い。
ヴォルツ家の返答について。
成果だけを見失いかけた。
成果は必要。
だが、成果を出すために第五班を壊すなら本末転倒。
第五班で積み上げたものが成果になる。
ローゼンベルク家令嬢について。
婚約者。
だが、それだけではない。
第五班を見てきた証言者であり、不安を持つ本人。
気の毒な婚約者という名札で片付けられる人ではない。
家同士の関係は軽視しない。
だが、それを理由に本人の認識や学園で見た事実を消すことも違う。
第五班について。
一人で代表しすぎない。
判断はする。
だが、全員の声を代わりに語らない。
第五班は、俺が守るだけの場所ではない。
俺も戻される場所。
中心者として、全員が自分の役割と声を持てる場所を守る。
戻った。
おかえりなさい。
怖かった。
全員怖かった。
でも戻った。
レオンはペンを止めた。
今日は長かった。
ただ面談室へ行き、椅子に座り、質問に答えただけ。
それだけのはずなのに、身体が重い。
剣を振った後より、疲れている。
だが、不思議と嫌な疲れだけではなかった。
フィーネも戻った。
アルトも戻った。
ユーリスも戻った。
レオンも戻った。
それぞれが、一人で部屋へ入り、自分の言葉で答え、また戻ってきた。
代わりには答えられなかった。
だが、戻る場所はあった。
そのことが、今日は何より大きかった。
レオンは最後に一行を書く。
今度は、自分たちが戻ってくる番だった。
その下に、もう一行。
行く時は一人でも、戻る場所があるなら、人は怖いまま言葉を出せる。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星が見える。
静かな夜。
正式な本人確認は終わった。
すべてが終わったわけではない。
これから、記録がまとめられる。
外部へ提出されるかもしれない。
ヴォルツ家も、ローゼンベルク家も、それを見るかもしれない。
また新しい返答が来るかもしれない。
けれど今日は。
ただ、戻ってきたことを覚えていたい。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、三人の声が残っていた。
おかえりなさい。
その言葉が、こんなに重く、こんなに温かいものだとは。
少し前の自分は、知らなかった。




