第四十七話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、淡い光に満ちていた。
雲はある。
けれど、薄い。
青い空の上に、白い布を一枚だけ広げたような雲だった。
朝日は校舎の石壁をやわらかく照らし、尖塔の影を中庭の芝へ細く落としている。
風は静かだった。
湿り気を含んだ草の匂いが、ほんの少しだけ漂っている。
噴水の水音は、今日も変わらない。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
その音を聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋で手帳を開いていた。
昨日の最後の一文。
自分の言葉で語ることは、剣を抜くより怖い。
それでも、自分の言葉で立たなければ、守りたいものの声まで誰かに奪われる。
レオンは、その文字をしばらく見つめていた。
昨日、本人確認の模擬が行われた。
フィーネは、怖いことも共有しながら第五班で状態共有の役割を果たしたいと答えた。
アルトは、守られるだけではなく支える側にもなりたいと答えた。
ユーリスは、軽さを逃げにしないように見ていると答えた。
そしてレオンは、第五班は自分が守るだけの場所ではなく、自分も戻される場所だと答えた。
どれも、整いきった言葉ではなかった。
震えがあった。
迷いがあった。
言った後に、胸が痛むような言葉だった。
けれど、それぞれの言葉だった。
本人確認。
自分が何を見て、何を感じ、何を選んだかを、自分の言葉で説明すること。
教師はそう言った。
そして今度は、エリシアの番が近い。
彼女は言った。
怖がったまま答える、と。
レオンは手帳を閉じる。
胸の奥が重い。
エリシアのために何かしたい。
そう思う。
だが、代わりに答えることはできない。
彼女の不安。
彼女の誠実さ。
彼女の見た事実。
彼女の選ぶ声。
それは、彼女自身が語るものだ。
レオンが守るつもりで言葉を奪えば、それは昨日まで学んできたことと逆になる。
守るとは、相手の選ぶ声を残すこと。
なら、今日は。
代わりに答えないこと。
けれど、孤独にはしないこと。
その距離を、学ばなければならない。
レオンは制服の袖を整えた。
剣を持たない朝。
だが、今日はまた別の形で、難しい日になる。
◆
寮の廊下は、いつもより少し明るかった。
窓から入る朝日が、石床の上に長い線を作っている。
生徒たちの声も、ここ数日よりやわらかい。
それでも、本人確認の話題は廊下の端々に残っていた。
「昨日、模擬あったんだろ」
「第五班、それぞれ答えたらしいな」
「正式なのは今日から?」
「エリシア様も対象なんだよな」
「緊張するだろうな」
「でも、本人の言葉が大事って先生言ってたし」
エリシアの名前が出た瞬間、レオンの足がほんの少しだけ重くなる。
彼女のことを心配する声。
それ自体は悪意ではない。
けれど、心配の声も集まりすぎれば圧になる。
気の毒。
大丈夫なのか。
どう答えるのか。
そうした言葉が、本人の声より先に周囲を埋めてしまうことがある。
レオンは歩きながら、自分にも言い聞かせた。
自分も同じことをしないように。
心配を理由に、彼女の言葉を先取りしないように。
代わりに答えられない。
だからこそ、隣に立つ。
その意味を、今日確かめる。
◆
中庭へ出ると、フィーネ・ルークが噴水の近くに立っていた。
彼女は手帳を持っていたが、開いてはいなかった。
水面を見ている。
その横顔は静かで、少しだけ緊張していた。
「おはようございます」
レオンに気づくと、フィーネは頭を下げた。
「ああ。おはよう」
レオンは隣に立つ。
フィーネは少し沈黙してから言った。
「今日は、エリシア様のことを考えていました」
「俺もだ」
「ですよね」
短い会話。
だが、それだけで十分だった。
フィーネは手帳を胸に抱く。
「昨日、私たちは自分の言葉で答えました」
「ああ」
「怖かったです。でも、自分で言えたから、少しだけ立てた気がしました」
「そうだな」
「だから、エリシア様にも自分の言葉で言ってほしいです」
フィーネはそこで少し目を伏せた。
「でも同時に、代わりに何か言ってあげたいとも思ってしまいます」
「わかる」
レオンは静かに言った。
フィーネが顔を上げる。
「レオンさんもですか」
「ああ」
「エリシア様は、レオンさんの婚約者ですもんね」
その言葉に、レオンは少しだけ黙った。
婚約者。
それは事実だ。
だが、その言葉だけで彼女との距離を決めたくはない。
エリシアは婚約者であり、公爵家令嬢であり、見学者であり、証言者であり、自分の不安を抱えた一人の人でもある。
「だからこそ、俺が代わりに答えすぎると危険だ」
レオンは言った。
フィーネは小さく頷く。
「そうですね」
一拍。
「応援したいのに、代わりに答えないって難しいです」
「難しい」
レオンは認めた。
「でも、それをしなければならない」
フィーネは水面を見る。
「なら今日は、エリシア様が答える前に、私たちが不安を増やさないようにしたいです」
「そうだな」
「心配です、大丈夫ですか、って何度も聞くのも、きっと重いですよね」
「ああ」
心配も、形を間違えれば相手を追い詰める。
それを、フィーネはわかり始めている。
「必要なら言葉をかける」
レオンは言う。
「でも、言葉を押しつけない」
「はい」
フィーネは頷いた。
◆
アルト・レイヴンは、今日はゆっくり歩いて来た。
手帳を持っているが、昨日ほど握りしめていない。
ただ、顔には迷いがあった。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
フィーネが返す。
アルトは二人を見て、少しだけ眉を下げた。
「エリシア様のこと、考えてました」
「同じだ」
レオンが言うと、アルトは少しだけ安心したように息を吐いた。
「俺、何か言いたいんです」
「何を」
「ありがとうございます、って」
アルトの声は小さかった。
「エリシア様は、俺たちのことを見た事実として書いてくれました。俺の支援のことも、第五班のことも。だから、ありがとうございますって言いたいです」
「言えばいい」
レオンが答えると、アルトは少し戸惑った。
「でも、今言ったら、エリシア様に負担になりませんか」
その問いに、レオンはすぐには答えなかった。
感謝は必要だ。
だが、タイミングや言い方を間違えれば、相手に“味方でいてほしい”という圧になるかもしれない。
アルトはそれを感じている。
以前なら、彼は自分の不安だけで謝っていたかもしれない。
今は、相手への負担も考えている。
「重くしなければいい」
レオンは言った。
「重くしない……」
「返答を求めない礼だ」
フィーネが静かに補足する。
「エリシア様に何かを約束させるような言い方ではなく、見てくれたことへの感謝だけを伝える、ということですね」
アルトは何度も頷いた。
「それなら……言えるかもしれません」
「無理に今日でなくてもいい」
レオンが言う。
「はい」
アルトは手帳を開き、短く書いた。
返答を求めない礼。
それを見て、レオンは少しだけ胸が温かくなった。
アルトもまた、言葉の重さを学んでいる。
◆
ユーリス・ベルクは、朝の光の中を軽く手を振りながらやって来た。
いつも通りに見える。
だが、近づくと、目元は少し真剣だった。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます」
ユーリスは三人を見て、すぐに言った。
「今日の議題、エリシア様?」
「そうだ」
「やっぱり」
彼は噴水の水面を見た。
「俺も考えてた。エリシア様、たぶん今日か近いうちに本人確認だろ」
「ああ」
「俺たちにできることって、少ないな」
その言葉は、軽くなかった。
「そうだな」
レオンは頷いた。
「代わりに答えられない」
「うん」
ユーリスは少し肩をすくめる。
「正直、もどかしい。俺たちのことを見てくれてありがとうって言いたいし、無理しないでって言いたい。でも、言いすぎると逆に重い」
フィーネが静かに頷く。
「わかります」
「だから、俺はいつも通りを少しだけ軽く置くくらいにしようと思う」
「どういう意味だ」
レオンが聞くと、ユーリスは少し笑った。
「もし会えたら、“重かったら深呼吸してください”くらい言う」
「軽いな」
「でも、命令じゃないだろ」
「そうだな」
たしかに、ユーリスらしい。
重くなりすぎない言葉。
相手へ選択を残す言葉。
「良いと思います」
フィーネが言う。
アルトも頷く。
「エリシア様、少し笑ってくれるかもしれません」
「だといいけどな」
ユーリスは小さく笑った。
◆
東棟へ向かう道は、穏やかだった。
しかし、その穏やかさの下に、静かな緊張がある。
今日、本人確認が正式に始まる。
その予感が、学園全体に流れていた。
すれ違う生徒たちも、大きな声では話さない。
だが、表情には関心が出ている。
「エリシア様、今日呼ばれるのかな」
「第五班、何か声かけるのかな」
「でも詮索禁止だろ」
「心配でも、聞きすぎるのは駄目だよな」
「本人の言葉が大事って先生言ってたし」
以前より、周囲の声も少し学んでいるようだった。
心配でも聞きすぎるのは駄目。
本人の言葉が大事。
それは、ここ数日の講義と演習が学園全体に少しずつ染み込んでいる証拠かもしれない。
もちろん、全員ではない。
それでも、変化はある。
アルトが小さく言う。
「周りも少し変わってますね」
「ああ」
フィーネも頷く。
「学園全体が、この件で学んでいるみたいです」
ユーリスが軽く笑う。
「第五班、教材みたいだな」
「笑えないが、そうかもしれない」
レオンが言うと、ユーリスは肩をすくめた。
「まあ、どうせ教材になるなら、悪い教材じゃない方がいい」
「そうだな」
その言葉に、四人は少しだけ笑った。
◆
教室に入ると、ハルト・グレイナーがいつもより静かだった。
腕を組み、机に寄りかかっている。
カイル・ローダンは、何かの書類を閉じたところだった。
レオンたちが近づくと、カイルが言った。
「今日から正式な本人確認が始まる」
やはり。
フィーネが息を吸う。
ユーリスの表情も少し引き締まる。
「対象順は?」
レオンが聞く。
「教師から説明があるだろう。だが、エリシア様は早いはずだ」
「なぜ」
「ローゼンベルク家からの確認に関わる本人だからだ」
カイルは淡々と言った。
「第五班各員の正式確認は、その後になる可能性が高い」
ハルトが口を開く。
「エリシア様は、一人で答えるのか」
「本人確認だからな」
カイルが答える。
「ただし、教師が同席する。尋問ではない」
「それでも重いだろ」
ハルトの声には、不器用な心配があった。
レオンは少しだけ驚いた。
ハルトも、エリシアのことを気にしている。
それは当然かもしれない。
彼女は上位クラスの生徒であり、同じ学園の仲間だ。
だが、以前のハルトなら、それを口に出しただろうか。
「重いだろうな」
レオンは答えた。
ハルトは少し視線を逸らした。
「なら、せめて周りが騒ぐな」
「同感だ」
カイルが頷く。
「今日は特に、余計な接触は避けるべきだ」
ユーリスが小さく言う。
「応援したいけど、騒がない」
「そういうことだ」
カイルは言った。
今日の線引きが、少しずつ見えてくる。
◆
一限目。
教師は教室へ入ってくると、いつもより静かに教壇に立った。
黒板へ向かい、チョークを取る。
書かれた文字は。
距離。
教室が静まり返る。
「本日より、正式な本人確認を開始する」
教師の声は淡々としていた。
「対象者へは個別に通知する。本人確認は、記録補足のためのものであり、処罰や追及ではない」
一拍。
「また、本人確認の前後において、対象者へ不用意な質問、励ましを装った圧、確認内容の詮索を行うことを禁じる」
励ましを装った圧。
その言葉が、胸に刺さる。
心配。
応援。
感謝。
それらも、形を間違えれば圧になる。
「本人確認において重要なのは、本人が自分の認識を言葉にすることだ」
教師は黒板の文字を軽く叩いた。
「周囲がすべきことは、代わりに答えることではない。答える余地を奪わない距離を保つことだ」
距離。
今日のテーマ。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「近しい者の本人確認が行われる時、お前が気をつけるべきことは何だ」
エリシアのことだ。
教室中がそれを察している。
レオンは少しだけ沈黙した。
答えは朝から考えている。
「代わりに答えようとしないことです」
教師は続きを待つ。
「心配や感謝を理由に、相手へ答えを求めないこと。自分が安心するために、大丈夫かと聞きすぎないこと」
一拍。
「必要なら隣に立つ。でも、相手の言葉が出る場所は空けておくことです」
教室は静かだった。
教師はゆっくり頷いた。
「良い」
短い言葉。
だが、重かった。
「全員、覚えておけ。支えるとは、常に近づくことではない。時には、相手が自分の声で立つための空白を守ることだ」
空白を守る。
それは、今日のレオンに必要な言葉だった。
◆
午前の課題は、距離調整演習だった。
内容は、二人一組の判断課題。
一人が質問役、もう一人が回答役。
周囲の班員は補助できるが、答えを代弁してはいけない。
補助できるのは、回答者が求めた時だけ。
その後、すぐに短い連携課題へ移る。
“支える距離”を体で覚える訓練だった。
第五班は四人で区画に入った。
最初はフィーネが回答役。
質問は、教師から。
「ルーク。状態共有が遅れた場合、どうする」
レオンは答えを知っている。
フィーネなら、きっとこう答えるだろうと思う言葉も浮かぶ。
だが、言わない。
フィーネが自分で答えるのを待つ。
沈黙がある。
少し長い。
レオンは口を開きそうになり、止めた。
フィーネは自分で息を吸う。
「遅れたことを隠さず言います。その上で、次に見えている情報を優先して伝えます」
教師が頷く。
「良い」
次の連携課題。
レオンは少し遅れて動く。
“待つ”ことの緊張が残っていた。
フィーネが声を出す。
「レオンさん、今は前方です」
「ああ」
戻る。
次はアルト。
「レイヴン。支援が乱れた場合、誰が責任を取る」
アルトは一瞬固まる。
レオンは答えそうになる。
第五班全体だ。
一人で背負うな。
その言葉が喉まで出る。
だが、止める。
アルトが手帳を握る。
「俺がまず、乱れたことを言います」
一拍。
「でも、責任を一人で決めません。班で戻します」
教師が頷く。
「良い」
レオンは胸の奥で息を吐いた。
言えた。
自分で。
次はユーリス。
「ベルク。軽さが逃げになった時、どう気づく」
ユーリスは少し笑いかけ、すぐに真面目になる。
「相手が軽くならず、余計に黙った時です」
一拍。
「その時は、軽くするんじゃなくて、黙って横にいる方がいいと判断します」
教師は頷く。
「良い」
レオンは、その答えに少し驚いた。
ユーリスは、軽くすることだけではなく、黙ることも考えている。
次はレオン。
「ヴォルツ。お前が答えを知っている時、なぜ黙る必要がある」
レオンは一瞬、息を止めた。
今日の核心だった。
「相手が答える機会を奪わないためです」
教師は見ている。
「続けろ」
「俺が正しい答えを言っても、それが相手の言葉でなければ、本人確認にはならない」
一拍。
「支えるなら、答えを出すのではなく、答えられる場所を守る必要があります」
教師は頷いた。
「良い」
◆
距離調整演習の後半は、短い護送課題だった。
ただし、護送対象役の人形には“回答中”という札がついている。
その人形は、移動中に状態札を出す。
班員は状態を確認しながら動くが、状態札が出る前に勝手に判断してはいけない。
本人の状態を見ずに先回りするな、という課題だ。
フィーネが状態を読む。
だが、札が出るまで待つ。
アルトが支援を準備する。
だが、過剰にかけない。
ユーリスが支えに入る。
だが、持ち上げすぎない。
レオンが前方を見る。
だが、全てを決めすぎない。
待つ。
見る。
出た状態に応じる。
それは、想像以上に難しかった。
状態札が黄色になった瞬間、フィーネが声を出す。
「黄色。揺れ注意。速度を落とします」
ユーリスが合わせる。
「了解。持ち上げすぎない」
アルトが風を弱く入れる。
「支援、弱め」
レオンが進路を選ぶ。
「右の段差を避ける。左へ」
護送は成功。
鐘が鳴る。
評価は上。
教師は言った。
「距離の取り方が良い。先回りしすぎず、状態が出てから応じた。今日の課題としては上」
四人は、深く息を吐いた。
◆
昼休み。
食堂は、本人確認開始の話題で静かにざわついていた。
だが、教師の通達が効いているのか、エリシアへ直接詮索するような声は聞こえない。
第五班の席では、四人が少し疲れた顔で食事を取っていた。
「黙って待つの、難しいですね」
フィーネが言う。
「答えがわかってる時ほど難しい」
ユーリスが頷く。
「俺、アルトの質問の時、横から言いそうになった」
「俺もだ」
レオンが言う。
アルトは驚いた顔をした。
「レオンさんもですか」
「ああ」
「言わないでくれて、ありがとうございます」
その言葉は、静かだった。
だが、深かった。
言わないことに対する礼。
それは、これまでの第五班になかった種類の感謝かもしれない。
「自分で言えたな」
レオンが言う。
アルトは少し照れたように笑う。
「はい。怖かったですけど」
フィーネも頷く。
「私も、待ってもらえたから言えました」
ユーリスが軽く笑う。
「今日の成果、答えを言うことじゃなくて、答えを待つことだな」
「そうだな」
レオンは頷いた。
◆
放課後。
中庭の空気は、朝より少しだけ緊張していた。
エリシア・フォン・ローゼンベルクが、教師に呼ばれたという話が静かに広がっていたからだ。
正式な本人確認。
彼女の番が来た。
レオンたちは、中庭の回廊近くにいた。
待ち伏せではない。
だが、彼女が戻る道を塞がない位置で、自然に立っていた。
フィーネは手帳を抱えている。
アルトは何度も深呼吸している。
ユーリスはいつもより静かだ。
レオンは、回廊の奥を見ていた。
代わりに答えられない。
だから、隣に立つ。
しかし、今はまだ隣にも立てない。
本人確認の部屋にいるのは、エリシア本人だ。
彼女が自分で答えている。
それを信じて待つしかない。
しばらくして。
回廊の奥から、エリシアが歩いてきた。
背筋は伸びている。
所作も乱れていない。
だが、顔色は少し白かった。
レオンは一歩踏み出しかけ、止めた。
駆け寄らない。
問い詰めない。
大丈夫かとすぐに聞かない。
彼女がこちらに気づく。
その目が、少しだけ揺れた。
エリシアはゆっくり近づいてきた。
「皆様」
声は静かだった。
少し掠れている。
フィーネが一歩前に出そうになり、止まる。
アルトも手帳を握る。
ユーリスは軽く息を吸った。
最初に口を開いたのは、レオンではなかった。
アルトだった。
「エリシア様」
声が震えている。
「見てくれて、ありがとうございます」
それだけ。
返答を求めない礼。
エリシアの目が少し開く。
アルトは頭を下げた。
「それだけ、言いたかったです」
エリシアは一瞬、言葉を失ったようだった。
それから、柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、言ってくれてありがとうございます」
アルトの肩が少し下がる。
フィーネが静かに言う。
「お疲れ様でした」
それ以上は聞かない。
内容を聞かない。
エリシアが話したければ話す。
その余白を残す言葉だった。
ユーリスが少しだけ軽く言う。
「重かったら、深呼吸してください」
エリシアは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「はい。そうします」
その笑いで、空気が少しだけ緩む。
最後に、レオンが言った。
「おかえりなさい」
大丈夫か、ではなく。
何を聞かれた、でもなく。
おかえりなさい。
エリシアの表情が、少しだけ崩れた。
ほんのわずかに、目元が揺れる。
「……はい」
彼女は静かに答えた。
「戻りました」
その言葉を聞いて、レオンは胸の奥で息を吐いた。
戻った。
彼女も、自分の言葉で立って、戻ってきた。
◆
少しの沈黙の後、エリシアは自分から話し始めた。
「聞かれたことは、多くありませんでした」
四人は黙って聞く。
「私が何を見たか。第五班の関係をどう受け止めているか。婚約者として不安はあるか。学園側の記録と自分の感情に違いはあるか」
フィーネが小さく息を吸う。
アルトは表情を硬くする。
ユーリスも真剣な顔になる。
エリシアは続けた。
「不安はあると答えました」
レオンは静かに頷く。
「でも、見た事実を否定できないとも答えました」
一拍。
「第五班は、完成された安定型ではない。けれど、戻ろうとする班だと」
その言葉に、四人の胸が動いた。
エリシアの言葉で、第五班が語られている。
「そして、私は気の毒な婚約者ではない、とも答えました」
声は少し震えていた。
だが、強かった。
「不安を持つ本人です。見た事実を持つ証言者です。そして、これからどう受け止めるかを選ぶ一人です、と」
長い沈黙。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
エリシアは、自分の言葉で立った。
婚約者という名札だけでもなく。
証言者という役割だけでもなく。
不安を持つ本人として。
選ぶ一人として。
レオンは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
必要だから。
いつもの言葉を続けようとして、今日は少し止めた。
そして、別の言葉を選んだ。
「聞かせてくれて、ありがとうございます」
エリシアは少しだけ微笑んだ。
「はい」
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
第四十七話。
代わりに答えられないから、隣に立つ。
朝。
エリシアの本人確認が近い。
代わりに答えたい。
でも答えられない。
代わりに答えないこと。
孤独にはしないこと。
その距離を学ぶ日。
フィーネ。
応援したいのに、代わりに答えないのは難しい。
心配です、大丈夫ですか、と何度も聞くのも重い。
必要なら言葉をかける。
でも、言葉を押しつけない。
アルト。
エリシア様へ、ありがとうございますと言いたい。
返答を求めない礼。
見てくれたことへの感謝だけを伝える。
ユーリス。
重かったら深呼吸してください。
命令ではなく、選択を残す軽さ。
カイル。
今日から正式本人確認。
エリシア様は早いはず。
自分の言葉で答えなければ、他人の言葉で決められる。
ハルト。
エリシア様は一人で答えるのか。
それでも重いだろ。
なら、せめて周りが騒ぐな。
講義。
距離。
本人確認の前後に、対象者へ不用意な質問、励ましを装った圧、確認内容の詮索を禁じる。
周囲がすべきことは、代わりに答えることではない。
答える余地を奪わない距離を保つこと。
支えるとは、常に近づくことではない。
相手が自分の声で立つための空白を守ること。
午前課題。
距離調整演習。
答えがわかっていても、代弁しない。
フィーネ、状態共有が遅れた時は、遅れたことを隠さず言い、次に見えている情報を優先する。
アルト、支援が乱れた時は、自分で言う。責任を一人で決めず、班で戻す。
ユーリス、軽さが逃げになった時は、相手が余計に黙った時。黙って横にいる方がいい時もある。
レオン、答えを知っていても黙る理由。相手が答える機会を奪わないため。
護送課題。
状態札が出るまで先回りしない。
状態が出てから応じる。
評価、上。
昼。
言わないでくれて、ありがとうございます。
答えを待つことも成果。
放課後。
エリシア本人確認。
戻ってくる。
アルト、見てくれてありがとうございます。
フィーネ、お疲れ様でした。
ユーリス、重かったら深呼吸してください。
レオン、おかえりなさい。
エリシア、戻りました。
エリシアの答え。
不安はある。
でも見た事実を否定できない。
第五班は完成された安定型ではない。
けれど、戻ろうとする班。
私は気の毒な婚約者ではない。
不安を持つ本人。
見た事実を持つ証言者。
これからどう受け止めるかを選ぶ一人。
レオンはペンを止めた。
今日は、何かをする日ではなかった。
いや、した。
でもそれは、剣を振ることでも、標識を運ぶことでも、誰かの代わりに言葉を出すことでもなかった。
待つこと。
聞きすぎないこと。
近づきすぎないこと。
でも、離れすぎないこと。
答える空白を守ること。
それは、思ったより難しかった。
エリシアが戻ってきた時、レオンは駆け寄りかけた。
大丈夫かと聞きかけた。
何を聞かれたのか、何と答えたのか、確認したくなった。
けれど止めた。
彼女の言葉が出る場所を残すために。
そして彼女は、自分で語った。
不安はある。
でも、見た事実を否定できない。
気の毒な婚約者ではない。
不安を持つ本人で、見た事実を持つ証言者で、これからどう受け止めるかを選ぶ一人。
それは、レオンが代わりに言える言葉ではなかった。
エリシア自身の言葉だった。
レオンは最後に一行を書く。
代わりに答えられないから、隣に立つ。
その下に、もう一行。
相手の声を守るとは、時に自分の言葉を飲み込み、戻ってくる場所だけを空けておくことだ。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
星がいくつか見える。
静かな夜。
今日、エリシアは戻ってきた。
第五班は、彼女の代わりに答えなかった。
だが、戻ってくる場所にはいた。
それでいいのだと思う。
いや。
それが、今日できた精一杯だった。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、エリシアの声が残る。
戻りました。
その一言が、今日一番深く胸に沈んでいた。
明日もまた、誰かが自分の言葉で答えるかもしれない。
その時、自分は代わりに答えない。
けれど、戻ってくる場所を空けておく。
それが今のレオンにできる、守り方だった。




