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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第四十九話 



 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、やわらかい青だった。


 雲は薄く、朝日を遮るほどではない。


 校舎の石壁には淡い光が広がり、尖塔の影も昨日より少し短く見えた。


 中庭の芝は、夜露を含んで静かに光っている。


 噴水の水音は、今日も変わらない。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 その音を聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の部屋でしばらく動けずにいた。


 昨日、第五班は正式な本人確認を終えた。


 ユーリスが戻り。


 フィーネが戻り。


 アルトが戻り。


 最後に、レオンも戻った。


 それぞれが一人で面談室へ入り、自分の言葉で答えた。


 怖いまま。


 震えたまま。


 飾りすぎず、怯えすぎず。


 言葉を出した。


 そして、戻ってきた。


 おかえりなさい。


 その言葉を何度も聞いた。


 自分も言われた。


 その温かさが、昨夜からずっと胸の奥に残っている。


 だが、今朝。


 不思議なことに、身体は重かった。


 終わった。


 少なくとも、本人確認は終わった。


 そのはずなのに、安堵だけではなかった。


 むしろ、張っていた糸が少し緩み、足元が柔らかくなったような感覚がある。


 昨日までは、目の前にある問いへ答えればよかった。


 本人確認。


 自分の言葉。


 戻る場所。


 その一点に集中できた。


 けれど、今日からは違う。


 出した言葉が、記録になる。


 記録がまとめられる。


 外部へ提出されるかもしれない。


 ヴォルツ家が見る。


 ローゼンベルク家が見る。


 そして、また返答が来るかもしれない。


 終わったのではない。


 一つの段階を越えただけだ。


 レオンは机の上の手帳を開いた。


 昨夜の最後の一行。


 行く時は一人でも、戻る場所があるなら、人は怖いまま言葉を出せる。


 その言葉は、嘘ではない。


 今もそう思う。


 だが、戻ってきた後にも、歩かなければならない。


 戻って終わりではない。


 戻ってきた場所から、また次の一日が始まる。


 レオンは深く息を吸った。


 胸の奥が少し痛む。


 言葉を出し切った疲れ。


 安堵の後に来る不安。


 それらを抱えたまま、今日も行くしかない。


    ◆


 寮の廊下へ出ると、朝の声は穏やかだった。


 昨日の正式本人確認の話は、もちろん広がっている。


 だが、詮索する声は少ない。


 教師の通達が効いていることもある。


 それ以上に、エリシアや第五班が実際に戻ってきたことで、周囲の受け止め方が少し変わったのかもしれない。


「第五班、全員終わったんだろ」

「戻ってきたって聞いた」

「アルト、泣きそうだったらしいけど言えたんだって」

「フィーネさんも震えながら言ったらしい」

「ユーリスは軽さの話したんだろ?」

「レオンは……何言ったんだろうな」

「そこは聞くなよ」


 そこは聞くなよ。


 その言葉に、レオンは少しだけ足を止めかけた。


 以前なら、誰かが聞きたがる空気の方が強かった。


 今は、聞かないことも必要だとわかっている生徒がいる。


 それだけで、学園の空気は確かに変わっている。


 完全ではない。


 だが、変化はある。


 レオンは廊下を歩きながら、軽く息を吐いた。


 聞かれないことに、少し救われる朝もある。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 噴水の近く。


 手帳を持っているが、今日は開いていない。


 昨日と同じように水面を見ている。


 けれど、その横顔は少しぼんやりしていた。


「おはようございます」


 レオンに気づくと、フィーネは少し遅れて頭を下げた。


「ああ。おはよう」


 レオンは隣へ立つ。


「疲れているな」


 フィーネは苦笑した。


「わかりますか」


「ああ」


「昨日、終わった後は少しほっとしたんです。でも、今朝になったら……なんだか、力が抜けてしまって」


「俺もだ」


 フィーネはレオンを見る。


「レオンさんも?」


「ああ」


「そうですか」


 彼女は少しだけ安心したように息を吐いた。


「私、変なのかと思いました。終わったのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろうって」


「終わったからだろう」


 レオンが言うと、フィーネは少し考えた。


「終わったから、落ち着かない」


「ああ。張っていたものが緩んだ」


「……なるほど」


 フィーネは手帳を胸に抱えた。


「昨日、自分の言葉で言えたことは後悔していません。でも、言った後から、あれでよかったのかなって何度も考えてしまって」


「俺も考えた」


「レオンさんも」


「ああ」


「それも、少し安心します」


 フィーネは小さく笑った。


 安心。


 それは、誰かが同じように揺れていると知ることで生まれるものだった。


「今日は、無理に強くならなくていい」


 レオンは言った。


「はい」


「ただ、崩れたままにもならない」


「はい」


 一拍。


「今日は、戻った後の一日ですね」


「そうだな」


 フィーネは噴水を見た。


「戻った後も、歩くんですね」


「ああ」


 その言葉は、今日の始まりにふさわしい気がした。


    ◆


 アルト・レイヴンは、少し遅れて来た。


 昨日より目元は落ち着いている。


 しかし、足取りは少し重かった。


 手帳を持っている。


 だが、開いてはいない。


 レオンとフィーネを見ると、少しだけ笑った。


「おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、アルトさん」


 フィーネが返す。


 アルトは二人の前で立ち止まり、深く息を吐いた。


「昨日、戻ってきた後は、すごく安心しました」


「ああ」


「でも、夜になってから、何回も思い出してしまって」


「本人確認をか」


「はい」


 アルトは手帳を見る。


「俺、第五班にいたいって言いました。守られるだけじゃなくて、支える側にもなりたいって」


「言えたな」


「はい」


「後悔しているのか」


 アルトはすぐに首を振った。


「してません」


 一拍。


「でも、言っちゃったんだなって思って」


 その言葉は、少し幼いようで、とても正直だった。


 言った。


 だから残る。


 残るから、怖い。


「言った言葉には、責任がつく」


 レオンは静かに言った。


 アルトは少し緊張する。


「はい」


「だが、責任は一人で背負うものではない」


 アルトは顔を上げた。


「第五班にいたいと言ったなら、第五班で積み上げればいい。支える側になりたいと言ったなら、少しずつ支えればいい」


 フィーネも頷く。


「昨日言ったから、今日完璧に支えなきゃいけないわけではありません」


 アルトは少しだけ目を潤ませた。


「……はい」


 彼は手帳を開き、短く書いた。


 言ったから、完璧にできるわけではない。


 言ったから、少しずつやる。


 それを書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。


    ◆


 ユーリス・ベルクは、いつもより少し遅れてやって来た。


 歩き方は軽い。


 けれど、昨日の疲れが少し残っているのがわかる。


「おはよう」


「ああ」


「おはようございます」


「おはようございます」


 ユーリスは三人を見るなり、片手を上げた。


「今日は、ちょっと軽さ控えめで」


「昨日言ったばかりだな」


 レオンが返すと、ユーリスは苦笑した。


「そう。軽さを逃げにしないって言った翌日に、疲れて軽くなれない」


 フィーネが小さく笑う。


「それも共有ですね」


「そういうことにしておいてくれ」


 ユーリスは噴水の縁に近づき、水面を見た。


「昨日、俺、黙ることも覚えてる途中って言っただろ」


「ああ」


「今朝、まさに黙りたい」


 その言い方が少しおかしくて、アルトが小さく笑った。


 ユーリスはそれを見て、少しだけ表情を緩める。


「笑ったな」


「す、すみません」


「いや、それでいい」


 ユーリスは肩をすくめた。


「今日は、無理に軽くしない。でも、沈みすぎたら戻す」


「それでいい」


 レオンは頷いた。


 自然体。


 昨日までの言葉が、今日も別の形で続いている。


 疲れている自分を認める。


 無理に演じない。


 でも、崩れたままにはしない。


 戻った後の一日は、それが必要なのかもしれない。


    ◆


 東棟へ向かう道は、いつもより静かだった。


 周囲の視線はある。


 だが、昨日までより柔らかい。


 本人確認を終えた者たちへの、少しだけ違う距離。


 誰も気軽に内容を聞かない。


 その代わり、すれ違いざまに小さく頷く者がいた。


 言葉にはしない応援。


 返答を求めない礼。


 そういうものが、学園の中に少しずつ生まれている。


 アルトが小さく言った。


「昨日より、歩きやすいです」


「そうだな」


 フィーネも頷く。


「聞かれないことが、こんなに楽だとは思いませんでした」


 ユーリスが言う。


「聞かない優しさってやつだな」


「お前が言うと軽い」


 レオンが返す。


「でも本当だろ」


「ああ」


 聞かないこと。


 待つこと。


 戻る場所を空けること。


 それらは、派手な支えではない。


 だが、確かに支えだった。


    ◆


 教室に入ると、ハルト・グレイナーがこちらを見た。


 いつも通り腕を組んでいる。


 だが、今日は何も言わなかった。


 代わりに、軽く顎を引く。


 おそらく、昨日の本人確認を終えたことへの反応だ。


 不器用な“お疲れ”のようなもの。


 ユーリスが小さく笑う。


「ハルト式おかえりだ」


「黙れ」


 ハルトが即座に返す。


 そのやり取りで、少しだけ空気が緩む。


 カイル・ローダンは静かに言った。


「全員、終えたようだな」


「ああ」


 レオンが答える。


「言葉にした後の疲れが出る頃だ」


「経験があるのか」


「ある」


 カイルは短く言った。


「自分の認識を正式な場で話した翌日は、思ったより足元が揺れる」


 今日のレオンたちそのものだった。


「対処は」


 レオンが聞くと、カイルは少し考えた。


「通常課題を軽く見ないことだ」


「通常課題」


「ああ。大きな確認を終えた後、人は日常を雑に扱う。気が抜けて、簡単な課題で崩れる」


 ハルトが頷く。


「それはある」


 珍しく素直な反応だった。


「今日は、普通のことを普通にやるのが一番難しいかもしれない」


 カイルの言葉に、フィーネが小さく頷く。


「今の私たちに必要そうです」


「そうだな」


 レオンは答えた。


 戻った後の一日。


 その課題は、特別なことをすることではなく、普通のことを丁寧にやることなのかもしれない。


    ◆


 一限目。


 教師は教室へ入ると、黒板に短く書いた。


 反動。


 教室が静まる。


 教師はチョークを置き、振り返る。


「昨日、本人確認を終えた者がいる」


 レオンたちへ視線が集まりかける。


 だが、教師の一瞥で収まる。


「正式な場で自分の認識を言葉にした後、反動が来ることがある」


 レオンは静かに息を吸った。


 まさに、今朝から感じているものだ。


「安堵」

「疲労」

「後悔」

「不安」

「高揚」

「空白」


 教師は一つずつ言った。


「言えたことで強くなった気がする者もいる。逆に、言ってしまった重さに潰れそうになる者もいる。何も考えたくなくなる者もいる」


 アルトの肩が少し動く。


 フィーネの手も少し止まる。


 ユーリスは目を伏せている。


「重要なのは、その反動を失敗と見なさないことだ」


 教師は続ける。


「反動は、言葉を出した証拠でもある」


 一拍。


「だが、反動を理由に今日の課題を雑にしていいわけではない」


 黒板にもう一つ書く。


 日常復帰。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「本人確認後の第五班に必要なことは何だ」


 レオンは少し考えた。


 カイルの言葉。


 今朝のフィーネ、アルト、ユーリスの顔。


 すべてを思い返す。


「特別なことをしようとしないことです」


 教師は続きを待つ。


「昨日言った言葉を、今日すぐ完璧に証明しようとしない。逆に、疲れたからといって雑にしない」


 一拍。


「普通の課題を、今の状態を共有しながら行うことが必要だと思います」


 教師は頷いた。


「良い」


 短い一言。


「全員、覚えておけ。大きな出来事の翌日に、普通のことを丁寧にやる力は重要だ」


    ◆


 午前の課題は、日常復帰演習だった。


 名前は地味だった。


 内容も、派手ではない。


 標識一つ。


 魔法人形二体。


 障害壁なし。


 外圧音声なし。


 成果条件なし。


 一次所見読み上げもなし。


 本人確認質問もなし。


 ただの基本連携。


 だが、だからこそ難しかった。


 特別な圧がない。


 だから、気が抜ける。


 第五班は区画に入る。


 レオンは三人を見る。


「今日の成果は、普通にやること」


 ユーリスが苦笑する。


「普通って難しいな」


「そうだ」


 フィーネが頷く。


「状態共有します。疲れていることも含めて」


 アルトも。


「支援、力を入れすぎないようにします」


 ユーリスは軽く手を上げる。


「軽さ控えめ。でも黙りすぎない」


 レオンは頷いた。


「俺は、昨日の言葉を証明しようとしすぎない」


 鐘が鳴る。


 演習開始。


 標識は中央。


 魔法人形二体。


 前衛型と軽量型。


 いつもなら問題なく進む内容だ。


 だが、初動でフィーネの声が少し遅れた。


「あ……前衛型、正面。軽量型、右」


 遅れたことに、彼女自身が反応する。


「すみません」


「謝罪より」


 アルトが言う。


 フィーネがすぐに返す。


「調整。次、右軽量型が標識へ向かいます」


 戻る。


 アルトが土を出す。


 しかし、少し弱い。


 昨日の疲れで、支援を抑えすぎた。


「足止め弱いです。強めます」


 自分で言う。


 土が安定する。


 ユーリスが標識へ向かう。


 しかし、今日は軽口が少ないせいか、動きが少し硬い。


「俺、硬いな」


 自分で言った。


「少し走る」


 ユーリスが速度を上げる。


 レオンは前衛型を受ける。


 ここで、昨日の自分の言葉が浮かぶ。


 第五班は、俺が守るだけの場所ではない。


 俺も戻される場所。


 その言葉を証明しようとして、少しだけ指示を控えすぎた。


 結果、ユーリスの進路確認が遅れる。


 フィーネが声を出す。


「レオンさん、そこは指示してください」


 レオンははっとする。


 控えすぎていた。


「右へ抜けろ、ユーリス」


「了解!」


 標識を確保。


 戻り。


 軽量型が追う。


 アルトが風を入れる。


 フィーネが距離を読む。


 レオンが前衛型を流す。


 標識が台座へ置かれる。


 鐘が鳴った。


 課題達成。


    ◆


 教師が近づいてくる。


「第五班、評価、良」


 上ではない。


 だが、悪くもない。


「日常復帰演習としては、反動が見られた」


 四人は姿勢を正す。


「ルーク、初期共有の遅れ。だが、謝罪から調整へ戻った」


「はい」


「レイヴン、支援が弱く入りすぎた。だが、自分で補正した」


「はい」


「ベルク、軽さを抑えすぎ、動きが硬くなった。だが、自分で認識した」


「はい」


「ヴォルツ、昨日の本人確認で語った内容に引かれ、指示を控えすぎた」


「はい」


 レオンは胸に刺さるものを感じた。


 まさに、その通りだった。


「だが、全員が反動を共有し、課題は達成した」


 一拍。


「今日の評価は、上ではない。だが、良い“良”だ」


 良い良。


 その言い方に、ユーリスが少しだけ目を丸くした。


 教師は続ける。


「反動のある日には、上評価よりも、崩れず戻る良評価の方が価値を持つことがある。覚えておけ」


 その言葉は、今日の第五班にとって大きかった。


    ◆


 訓練後。


 第五班は端に集まった。


 しばらく誰も話さなかった。


 上ではなかった。


 少し悔しい。


 だが、不思議と落ち込むほどではない。


 最初にユーリスが口を開いた。


「良い良、か」


「変な言葉ですね」


 フィーネが少し笑う。


「でも、わかります」


 アルトが頷く。


「今日、上評価だったら、逆に無理してたかもしれません」


「ああ」


 レオンは頷いた。


「俺は指示を控えすぎた」


 フィーネが静かに言う。


「でも、言ったら戻ってくれました」


「助かった」


「はい」


 アルトも言う。


「俺も支援を弱くしすぎました。失敗しないようにしようとして、逆に弱かったです」


 ユーリスが肩をすくめる。


「俺は軽くなれない自分を意識しすぎて硬くなった」


 四人で、それぞれの反動を言葉にする。


 それだけで、少し楽になる。


 今日の成果は上評価ではない。


 反動を隠さず、普通の課題へ戻ったこと。


 それが、良い良だった。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、今日の演習の話が少しだけ広がっていた。


「第五班、今日は良評価だったらしい」

「上じゃないんだ」

「本人確認の翌日だしな」

「先生が“良い良”って言ったって」

「何それ」

「崩れず戻る良評価は価値があるって」

「なるほどな」


 第五班の席では、四人が少し静かに食事を取っていた。


 だが、重い沈黙ではない。


 疲れた者同士の沈黙だった。


 フィーネが手帳を開く。


「良い良、書いておきます」


 アルトも頷く。


「俺も」


 ユーリスが笑う。


「今日のタイトル、それでいいんじゃないか」


「何のタイトルだ」


 レオンが聞く。


「俺たちの反省会」


「悪くない」


 少しだけ笑いが起きた。


 レオンも手帳に書いた。


 良い良。


 上ではない。


 でも、今日必要だった評価。


 その言葉は、思ったより深く胸に残った。


    ◆


 放課後。


 中庭に出ると、エリシア・フォン・ローゼンベルクがいた。


 昨日より少し顔色が良い。


 しかし、彼女もまた、反動が来ているのか、どこか柔らかく疲れて見えた。


 レオンたちに気づくと、静かに会釈する。


「皆様」


「エリシア様」


 フィーネが先に声をかける。


「今日は、大丈夫……ではなく」


 言いかけて、止まる。


 エリシアが少しだけ目を丸くする。


 フィーネは小さく笑った。


「お疲れ様です」


 エリシアも微笑む。


「ありがとうございます。皆様も、お疲れ様です」


 ユーリスが言う。


「今日は良い良でした」


「良い良?」


 エリシアが首を傾げる。


 アルトが説明する。


「評価は良だったんです。でも先生が、反動のある日には、崩れず戻る良評価に価値があるって」


 エリシアは静かに聞いて、ゆっくり頷いた。


「良い言葉ですね」


「はい」


 レオンは言う。


「上ではありませんでした。でも、今日の俺たちには必要な良でした」


 エリシアは少しだけ微笑む。


「私も今日は、少し似ています」


「似ている?」


「昨日、自分の言葉で答えました。今日は、少し力が抜けています」


 彼女は正直に言った。


「でも、崩れているわけではありません。少しずつ、いつもの自分へ戻している途中です」


 フィーネが静かに頷く。


「戻している途中」


「はい」


 エリシアは中庭の噴水を見た。


「戻るというのは、一瞬で元通りになることではないのですね」


 その言葉は、今日の全てに重なった。


 戻る。


 それは、面談室から出てくることだけではない。


 その翌日、足元が揺れながらも日常へ戻っていくこと。


 疲れたまま課題をこなし、良い良を受け取り、少しずつ呼吸を戻すこと。


「そうだと思います」


 レオンは言った。


「戻る途中も、戻ることの一部です」


 エリシアはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


「では、今日は皆様も私も、戻る途中ですね」


「ああ」


 レオンは頷いた。


「そうですね」


 フィーネが言う。


「戻る途中です」


 アルトも。


「はい」


 ユーリスも、軽く笑って。


「途中なら、まあ焦らなくていいな」


 少しだけ、空気が柔らかくなった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 第四十九話。


 言葉を出し切った翌日は、少しだけ足元が揺れる。


 朝。

 本人確認を終えた翌日。

 安堵だけではない。

 張っていたものが緩み、足元が柔らかくなる。

 戻って終わりではない。

 戻ってきた場所から、また次の一日が始まる。


 フィーネ。

 終わったのに落ち着かない。

 言った後から、あれでよかったのかと考える。

 戻った後も歩く。


 アルト。

 第五班にいたい、支える側にもなりたいと言った。

 後悔はしていない。

 でも、言っちゃったんだなと思う。

 言ったから完璧にできるわけではない。

 言ったから、少しずつやる。


 ユーリス。

 軽さを逃げにしないと言った翌日に、疲れて軽くなれない。

 軽くできないなら、軽くできないと言う。

 無理に軽くしない。

 でも沈みすぎたら戻す。


 カイル。

 自分の認識を正式な場で話した翌日は、思ったより足元が揺れる。

 通常課題を軽く見ないこと。

 普通のことを普通にやるのが一番難しい。


 ハルト。

 無言の頷き。

 ハルト式おかえり。


 講義。

 反動。

 安堵、疲労、後悔、不安、高揚、空白。

 反動は失敗ではない。

 言葉を出した証拠でもある。

 だが、反動を理由に今日の課題を雑にしていいわけではない。

 日常復帰。

 大きな出来事の翌日に、普通のことを丁寧にやる力は重要。


 午前課題。

 日常復帰演習。

 標識一つ。

 魔法人形二体。

 外圧なし。

 成果条件なし。

 普通の基本連携。

 フィーネ、初期共有が遅れる。

 謝罪より調整。

 アルト、支援を弱く入れすぎる。

 自分で補正。

 ユーリス、軽さを抑えすぎ動きが硬くなる。

 自分で認識。

 レオン、昨日の言葉に引かれ、指示を控えすぎる。

 フィーネに言われて戻る。

 評価、良。

 良い良。

 反動のある日には、上評価よりも崩れず戻る良評価に価値がある。


 昼。

 良い良。

 今日必要だった評価。


 放課後。

 エリシア。

 昨日自分の言葉で答えた。

 今日は少し力が抜けている。

 崩れているわけではない。

 少しずつ、いつもの自分へ戻している途中。

 戻るというのは、一瞬で元通りになることではない。

 戻る途中も、戻ることの一部。


 レオンはペンを止めた。


 今日は、派手な日ではなかった。


 正式な本人確認もなかった。


 大きな外圧もなかった。


 成果条件も、風聞対応も、一次所見の読み上げもなかった。


 ただ、普通の課題があった。


 そして、その普通が難しかった。


 言葉を出した翌日。


 胸の奥が少し空っぽで、足元が柔らかくて、いつもならできることが少し遅れた。


 それでも、第五班は崩れなかった。


 上評価ではない。


 良評価。


 でも、良い良。


 その言葉が、今日はとてもありがたかった。


 毎日、上でなくていい。


 毎日、完璧に戻らなくてもいい。


 戻る途中の日には、戻る途中の評価がある。


 レオンは最後に一行を書く。


 言葉を出し切った翌日は、少しだけ足元が揺れる。


 その下に、もう一行。


 それでも、揺れた足で普通の一歩を踏むことも、戻る力の一部だ。


 ペンを置く。


 窓の外は夜だった。


 星がいくつか見える。


 静かな夜。


 正式記録は、これからまとめられる。


 外部へ提出される日も近いだろう。


 また何かが返ってくるかもしれない。


 だが、今日は。


 良い良を受け取った日として、覚えておきたい。


 戻る途中も、戻ることの一部。


 その言葉を胸に、レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、噴水の水音を思い出す。


 跳ねて。


 落ちて。


 また跳ねる。


 一つずつ。


 急がず。


 戻る途中の音が、静かに胸の奥で続いていた。

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