第三十九話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、昨日よりも少し暗かった。
雨は降っていない。
けれど、雲は低く、校舎の尖塔に薄く影を落としている。
中庭の芝は朝露を含み、光を失った雫が静かに葉先へしがみついていた。
風はほとんどない。
噴水の水音だけが、いつも通り繰り返されている。
跳ねて。
落ちて。
また跳ねる。
レオン・ヴォルツは、寮の部屋で手帳を閉じた。
昨夜の言葉が、まだ胸に残っている。
まだ届かない返事より、先に届く噂があった。
だが、噂が先に届いたからといって、自分たちが先に崩れる必要はない。
昨日、ヴォルツ家からの返答は来なかった。
しかし、噂は来た。
家に逆らった。
平民特待生を庇った。
婚約者はどう思っているのか。
協力関係を維持するとは、事実上の反発ではないのか。
それらの声は、正式な書簡よりも早く学園内を回った。
レオンたちはその声に揺れた。
だが、戻った。
今ここ。
今は標識です。
アルトの声が、演習中に風聞を切った。
フィーネは、外圧ありと共有した。
ユーリスは、怒りながらも班を戻した。
レオンも、感情ではなく事実を短く答えた。
それで終わればよかった。
だが、噂は一日では終わらない。
風聞は、事実を食べて育つ。
昨日の反応もまた、誰かの中で新しい材料になっているだろう。
レオンは制服の袖を整える。
今日はどんな形で来るのか。
返答か。
噂か。
別の圧か。
まだわからない。
ただ一つ、昨日よりはわかっていることがある。
来る前から崩れない。
そして、来たら今ここへ戻る。
レオンは鞄を持ち、部屋を出た。
◆
寮の廊下に出ると、空気は昨日よりさらに濁っていた。
昨日は、驚きと好奇心が混じっていた。
今日は、少し違う。
噂が、ただの話題から“立場”へ変わり始めている。
誰がレオンを支持するのか。
誰が第五班を疑うのか。
誰が面白がるのか。
そういう目だ。
廊下の端で、数人の生徒が話していた。
「昨日、ヴォルツ本人が否定したらしいぞ」
「家に逆らったわけじゃないって?」
「でも、協力関係は維持するって書いたんだろ」
「それ、言い方変えてるだけじゃないの」
「平民特待生を守るために、家へ理屈を立てたんだろ」
「守るっていうか、庇ってるよな」
「フィーネとかユーリスも巻き込まれて大変そう」
「いや、あの二人も望んでるんじゃないの?」
「エリシア様が一番気の毒だろ」
気の毒。
その言葉が、レオンの足元に落ちた。
エリシアが気の毒。
誰の視点だ。
何を知っている。
エリシアが何を見て、何を怖がり、それでも何を誇らしいと言ったのか。
何も知らないまま、気の毒という言葉で片付ける。
レオンは胸の奥に熱が上がるのを感じた。
だが、歩き続ける。
反応するな。
まだ、直接問われていない。
拾いすぎるな。
今ここ。
今は、中庭へ向かう。
◆
中庭には、フィーネ・ルークがいた。
だが、彼女の周囲には数人の女子生徒がいた。
中位クラスの生徒と、上位クラスの生徒が混じっている。
声は大きくない。
けれど、近づくにつれて内容が聞こえた。
「フィーネさん、大丈夫?」
「レオンさんの家のことで巻き込まれてるって聞いたけど」
「無理に第五班に残らなくてもいいんじゃない?」
「あなたは悪くないんだから」
「レオンさんも、守るつもりならちゃんと距離取ればいいのにね」
守るつもりなら。
距離を取ればいい。
フィーネは困ったように立っていた。
反論したい。
だが、相手は明確な悪意ではない。
心配の形をしている。
だから余計に厄介だった。
レオンが近づくと、女子生徒たちは一斉にこちらを見る。
少し気まずそうにする者。
逆に、探るように見る者。
フィーネはほっとした顔をしかけ、すぐに表情を整えた。
「おはようございます、レオンさん」
「ああ」
レオンは女子生徒たちへ視線を向ける。
「フィーネに何か用か」
静かな声。
強すぎないようにした。
女子生徒の一人が少し身を引く。
「いえ、その……心配していただけです」
「心配」
「はい。フィーネさんが、貴族家の事情に巻き込まれて困っているんじゃないかって」
言葉は丁寧だ。
だが、その中には前提がある。
フィーネは巻き込まれている。
レオンは巻き込んでいる。
その前提。
フィーネが口を開く。
「私は」
声は小さい。
だが、止まらなかった。
「巻き込まれているだけではありません」
女子生徒たちが彼女を見る。
レオンも見る。
フィーネは両手を軽く握っていた。
「第五班でいることは、私も選んでいます」
「でも、相手はヴォルツ家でしょう?」
別の女子生徒が言う。
「あなたが選ぶとか、そういう話じゃないんじゃ……」
その言葉に、フィーネの顔が少し白くなる。
だが、彼女は逃げなかった。
「わからないことは多いです」
フィーネは正直に言った。
「貴族家の事情も、婚約関係も、私にはすべてわかるわけではありません」
一拍。
「でも、だから何も考えずに離れるとは決めません」
沈黙。
女子生徒たちは少し驚いたようだった。
フィーネが、ここまで言うとは思っていなかったのかもしれない。
レオンは何も言わなかった。
今は、フィーネの言葉だ。
奪ってはいけない。
「心配してくださったことは、ありがとうございます」
フィーネは頭を下げた。
「でも、私は第五班として考えます」
それ以上は言わなかった。
女子生徒たちは、少し気まずそうに頷き、離れていく。
去り際に、小さな声が聞こえた。
「強くなったね、フィーネさん」
それは、嫌味ではなかった。
フィーネの肩が少しだけ揺れる。
レオンは彼女の隣に立つ。
「大丈夫か」
「はい」
フィーネは息を吐いた。
「怖かったです」
「ああ」
「でも、言えました」
「聞いていた」
「止めずにいてくれて、ありがとうございます」
その言葉に、レオンは少しだけ目を伏せた。
以前なら、代わりに言っていたかもしれない。
守るつもりで、フィーネの言葉を奪っていたかもしれない。
今朝は、言わせた。
それが正しかったのかは、まだわからない。
だが、フィーネは自分で立った。
それは確かだった。
◆
アルト・レイヴンが来た時、彼の周囲にも視線が集まっていた。
下位クラスの生徒たちが、少し距離を取りながら見ている。
昨日までの称賛とは違う。
心配。
羨望。
不安。
そして、少しの責め。
アルトはそれを全身で受けているようだった。
手帳を抱え、足取りが少し硬い。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます、アルトさん」
フィーネが返す。
アルトは二人を見て、少しだけ安心したように笑った。
だが、その笑顔はすぐに崩れる。
「今朝、言われました」
「何を」
レオンが聞く。
「レオンさんに守られていいよな、って」
レオンの胸に、また熱が上がる。
「誰に」
「同じ下位クラスの人です。悪気は……たぶん、半分くらいです」
アルトは苦笑する。
その言い方が、余計に痛々しかった。
「守られているだけじゃないって言いたかったんですけど、うまく言えなくて」
フィーネが静かに言う。
「守られているだけではないです」
「はい」
アルトは頷く。
「でも、言われると……少し揺れました」
手帳を見下ろす。
「俺、支援担当として書いてもらったのに。周りから見ると、守られてる平民特待生なんだなって」
レオンはアルトを見た。
「お前は守られている」
アルトが顔を上げる。
「え」
「だが、それだけではない」
一拍。
「俺もお前に守られている」
アルトの目が大きく開いた。
フィーネも少し驚いた顔をする。
「支援で。声で。昨日の“今は標識です”で」
レオンは続ける。
「守る、守られるは一方向ではない」
アルトは黙った。
手帳を握る手が震えている。
「俺が前に出る時、お前の支援がなければ届かない場面がある」
「でも、それは……」
「事実だ」
レオンは言った。
「周りがどう見るかは、すぐには変わらない。だが、俺たちまで見失う必要はない」
アルトは何度か瞬きをした。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
声は震えていた。
でも、少しだけ戻っていた。
◆
ユーリス・ベルクは、今日は少し遅れて来た。
そして、明らかに機嫌が悪かった。
歩き方はいつも通り軽いが、目が笑っていない。
「おはよう」
「ああ」
「おはようございます」
「おはようございます」
ユーリスは三人を見るなり、言った。
「今日の噂、かなり嫌な方向に行ってる」
「ああ」
レオンは答える。
「フィーネ嬢は巻き込まれてる。アルトは守られてる。俺は面白半分でついてる。レオンは家に逆らってる。エリシア様は気の毒」
全部、朝のうちに聞いたのだろう。
ユーリスは吐き捨てるように笑った。
「すごいな。誰のことも見てないのに、全員の立場を勝手に決めてる」
フィーネが小さく頷く。
「守るために距離を取ればいい、とも言われました」
アルトも。
「俺は、守られていいよなって」
ユーリスの目が少し細くなる。
「それ、きついな」
「はい」
レオンは三人を見る。
昨日の噂は、レオン個人へ向かっていた。
今日は違う。
第五班全員へ向かい始めている。
それぞれの立場を、周囲が勝手に決める。
巻き込まれた者。
守られる者。
面白がる者。
逆らう者。
気の毒な婚約者。
どれも単純で、扱いやすい。
だから広がる。
「今日の対応を決める」
レオンは言った。
三人が見る。
「勝手に決められた立場に、こちらが合わせない」
フィーネが頷く。
「はい」
「ただし、感情的に否定して回らない」
ユーリスが少し不満そうに息を吐いた。
「わかってる」
「聞かれたら、事実を短く」
アルトが小さく言う。
「守られてるだけじゃないって、言っていいですか」
「言っていい」
レオンは答える。
「ただし、証明しようとして無茶をするな」
アルトははっとした顔をする。
そこまで読まれていたのか、という顔だ。
「……はい」
フィーネも言う。
「私は、自分で選んでいると伝えます」
「ああ」
ユーリスは少し考えた。
「俺は、面白半分じゃないって言う」
一拍。
「いや、それだと逆に軽いな」
「お前は普段が軽いからな」
レオンが言うと、ユーリスは少し笑った。
「じゃあ、必要なら真面目に言う」
「そうしろ」
少しだけ空気が戻った。
◆
東棟へ向かう道。
視線は明らかに多かった。
昨日の“家に逆らった”よりも、今日の噂は見物としての色が強い。
人は、単純な構図を好む。
貴族の優等生が家に逆らって、平民特待生を守る。
婚約者は置き去り。
仲間は巻き込まれる。
そういう物語にした方が、わかりやすい。
だが、現実はそんなに簡単ではない。
レオンはそれを知っている。
第五班の三人も、もう知っている。
すれ違いざま、男子生徒がアルトに言った。
「いいよな、守ってもらえて」
アルトの足が止まる。
レオンも止まりかけた。
だが、アルトが先に顔を上げた。
「守ってもらっています」
男子生徒が少し意外そうな顔をする。
アルトは続けた。
「でも、俺も支援しています」
声は大きくない。
けれど、届いた。
「第五班では、守るだけでも、守られるだけでもありません」
沈黙。
男子生徒は少し気まずそうに目を逸らす。
「……そうかよ」
そう言って離れていく。
アルトは少し震えていた。
フィーネが小さく言う。
「言えましたね」
「はい」
アルトは息を吐いた。
「心臓、すごいです」
ユーリスが笑う。
「でも、良かった」
レオンも頷いた。
「良い」
アルトは少しだけ笑った。
◆
教室に入ると、ハルト・グレイナーが腕を組んで待っていた。
今日は明らかに不機嫌だった。
「お前ら、好き勝手言われてるな」
「ああ」
レオンが答える。
カイル・ローダンも近くで静かに言う。
「噂が構図化している」
「構図化?」
ユーリスが聞く。
カイルは頷いた。
「複雑な事実が、単純な物語に変えられているということだ」
一拍。
「家に逆らうレオン。守られるアルト。巻き込まれるフィーネ。軽いユーリス。気の毒なエリシア様」
その説明は、的確すぎて胸が冷える。
「最悪だな」
ユーリスが言う。
「だが、広がりやすい」
カイルは続ける。
「なぜなら、考えなくて済むからだ」
ハルトが鼻を鳴らす。
「考えろ」
「皆がそうなら苦労しない」
カイルが返す。
レオンはカイルを見る。
「対処は」
「単純な物語に、単純な反論で返さないことだ」
カイルは言う。
「守っていない、ではなく、守るだけではない。巻き込んでいない、ではなく、本人も選んでいる。逆らっていない、ではなく、事実を報告した」
フィーネが小さく頷く。
「少し言い方を変えるんですね」
「そうだ」
カイルは彼女を見る。
「否定だけでは、相手の作った構図から出られない。別の事実を置く必要がある」
ハルトが少し面倒そうに言う。
「ややこしい」
「ややこしいから、噂は単純になる」
カイルは淡々と返した。
レオンはその言葉を胸に刻む。
単純な物語に、単純な反論で返さない。
別の事実を置く。
今日の鍵は、それかもしれない。
◆
一限目。
教師は黒板へ向かった。
教室はすでに重い空気に包まれている。
今日の噂を、教師が扱うことはほとんど全員が予想していた。
チョークが走る。
黒板に書かれた文字は――
単純化。
カイルの言葉と重なった。
教師は教室を見渡す。
「人は複雑なものを、単純な形にしたがる」
静かな声。
「敵か味方か」
「守る側か守られる側か」
「加害者か被害者か」
「正しいか間違っているか」
「強いか弱いか」
一拍。
「だが、実際の課題はその二択で片付くほど単純ではない」
レオンは手元を見た。
まさに、今の第五班だ。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「現在、お前たちの班について、いくつかの単純化された風聞が流れている」
教室が静まり返る。
教師は隠さない。
「お前はそれをどう扱う」
レオンは少しだけ沈黙した。
今朝のフィーネ。
アルト。
ユーリス。
カイルの助言。
それらを思い出す。
「否定だけでは返しません」
レオンは答えた。
「守っていない、巻き込んでいない、逆らっていない、と言うだけでは、相手の構図の中に残ります」
教師の目が少し細くなる。
「続けろ」
「守るだけではなく、互いに支えている。巻き込まれたのではなく、それぞれが選んでいる。家に逆らったのではなく、課題で見た事実を報告した」
一拍。
「別の事実を置きます」
教室の空気が動く。
教師は静かに頷いた。
「良い」
短い評価。
「全員、覚えておけ。単純化された風聞に飲まれた時、人は自分まで単純に扱い始める」
フィーネが息を吸う気配がした。
アルトも、きっと下位クラスの教室で聞いているだろうか。
いや、合同講義ではない。
ここにはいない。
だが、この言葉を伝えたいと思った。
「自分は守られるだけだ」
「自分は巻き込まれただけだ」
「自分は加害者だ」
「自分は被害者だ」
「自分は強い」
「自分は弱い」
教師は続ける。
「それらは、時に自分を楽にする。だが、同時に選ぶ力を奪う」
一拍。
「単純な名札を貼られるな。貼るな」
教室は深く静まった。
◆
午前の課題は、役割反転演習だった。
教師は言った。
「単純化を崩すために、今日は役割を反転させる」
第五班に与えられた条件は、かなり特殊だった。
レオンは前衛禁止。
フィーネが標識保持。
ユーリスが後方確認。
アルトが一時的に進路選択を指示。
レオンは護衛補助と最後の判断のみ。
つまり、普段“守る側”と見られがちなレオンを下げ、“守られる側”と見られがちなアルトに進路判断を任せる。
噂に対する、あまりにも直接的な課題だった。
訓練棟の空気がざわつく。
「アルトが進路指示?」
「大丈夫か?」
「レオン前衛禁止って」
「フィーネが標識持つの?」
「ユーリス後方?」
アルトの顔が青くなる。
フィーネも緊張している。
ユーリスは少しだけ笑った。
「教師、容赦ないな」
「必要な課題だ」
レオンは言った。
だが、胸は重かった。
アルトにとっては、かなりの負荷だ。
進路選択。
支援だけではない。
班を動かす指示。
「アルト」
「はい」
「無理に完璧な指示を出すな」
アルトが顔を上げる。
「見えたものを言え。迷ったら迷っていると言え。必要ならフィーネとユーリスに聞け」
「はい」
「俺は最後の判断をする。だが、最初から俺を見るな」
アルトは息を呑む。
その意味を理解した。
レオンに正解を求めるな。
自分で見ろ。
「……はい」
フィーネが静かに言う。
「私、標識を持ちながら状態を言います」
ユーリスも。
「後ろは俺が見る。アルト、俺を使えよ」
「使う……」
「そう。遠慮するな」
アルトは三人を見る。
震えている。
だが、逃げていない。
「やります」
◆
演習開始。
区画は中程度の広さ。
標識は中央奥。
魔法人形三体。
前衛型、軽量型、魔法型。
レオンは前に出ない。
いつもの位置に出ようとする身体を抑える。
代わりに、フィーネが標識へ向かう役。
ユーリスは後方確認。
アルトが中央で周囲を見る。
「えっと……」
最初の声が詰まる。
外圧役の声が飛ぶ。
「アルトが指示?」
「守られてる側なのに?」
「レオンが前に出た方が早いだろ」
「大丈夫か?」
アルトの顔が歪む。
レオンは声を出しかけた。
だが、止める。
今、レオンがすぐ指示を出せば、課題の意味がなくなる。
アルトが息を吸う。
「今ここ」
自分で言った。
そして、周囲を見る。
「フィーネさん、標識へは左から行ってください。右は前衛型が近いです」
「はい!」
「ユーリスさん、後ろの軽量型見てください」
「了解!」
「レオンさんは……フィーネさんの右側を、前に出すぎないで守ってください」
最後の言葉に、レオンは少しだけ目を開いた。
前に出すぎないで。
アルトが、レオンへ制限を出した。
良い。
「わかった」
レオンは右側へ動く。
前衛として倒しに行くのではなく、フィーネの進路を守る。
フィーネが標識へ向かう。
ユーリスが後方の軽量型を見る。
「アルト、軽量型が早い。どうする?」
ユーリスが聞く。
アルトは一瞬迷う。
「土で足元を止めます。ユーリスさん、倒さず流してください」
「了解!」
土が走る。
軽量型が遅れる。
ユーリスが流す。
魔法型が詠唱を始める。
フィーネが標識へ手を伸ばす直前。
「魔法型、詠唱!」
フィーネが叫ぶ。
アルトが見る。
距離がある。
風で詠唱を乱すか。
水で足元か。
迷う。
外圧が飛ぶ。
「遅い」
「レオンがやれば早い」
「守られる側に指示は無理だ」
アルトの手が震える。
だが、彼は言った。
「迷っています!」
声が出た。
フィーネが即座に返す。
「魔法型は私から距離あり! 詠唱完了まで余裕少し!」
ユーリスも。
「軽量型はこっちで持つ!」
レオンは言う。
「最後の判断は俺が見る。選べ」
アルトの目が戻る。
「風で詠唱を乱します!」
風が走る。
魔法型の詠唱がわずかに乱れる。
十分。
フィーネが標識を確保。
「取りました!」
次は戻り。
ここで前衛型がフィーネの進路を塞ぐ。
レオンは倒せる。
だが前衛禁止。
護衛補助。
倒すのではなく、進路をずらす。
アルトが指示する。
「レオンさん、倒さないで右へ流してください! フィーネさんは左へ抜けて!」
「わかった」
レオンは前衛型を受け、右へ流す。
フィーネが左へ抜ける。
ユーリスが後方を抑える。
アルトが支援を重ねる。
標識が台座へ向かう。
外圧の声がさらに飛ぶ。
「アルトがレオンに指示してるぞ」
「すごいな」
「いや、レオンが合わせてるだけだろ」
「でも動いてる」
称賛とも疑いともつかない声。
アルトは一瞬揺れる。
だが、すぐに言う。
「今は台座!」
フィーネが標識を置く。
鐘が鳴った。
課題達成。
◆
訓練棟が、少し遅れてざわついた。
アルトが指示した。
レオンが従った。
フィーネが標識を持った。
ユーリスが後方を見た。
噂の構図と違う形で、第五班が動いた。
教師が近づいてくる。
「第五班、評価、上」
アルトが大きく息を吐いた。
膝が抜けそうになるのを、なんとかこらえている。
「レイヴン」
「はい!」
「進路選択、良。迷いを共有した点も良い。特にヴォルツへ“前に出すぎるな”と制限を出した判断は評価する」
アルトの目が大きく開く。
「あ、ありがとうございます!」
「ルーク。標識保持中の報告、良。ベルク。後方確認と軽量型処理、良。ヴォルツ。前衛禁止条件を守り、補助に徹した点、良」
「はい」
教師は全体へ向く。
「これが役割だ」
一拍。
「誰かが常に守る側で、誰かが常に守られる側ではない。状況によって役割は変わる」
訓練棟が静まり返る。
「単純な名札を貼るな。貼られるな」
朝の講義の言葉が、演習で形になった。
◆
演習後、第五班は訓練棟の端に集まった。
アルトはしばらく何も言えなかった。
手が震えている。
フィーネが静かに声をかける。
「アルトさん、すごかったです」
「……怖かったです」
アルトは正直に言った。
「レオンさんに指示するの、怖かったです」
「良い指示だった」
レオンが言う。
アルトの顔が少し歪む。
「前に出すぎないでって言った時、怒られたらどうしようって思いました」
「怒る理由がない」
「でも……」
「必要な指示だった」
アルトは俯いた。
泣きそうだった。
だが、泣かなかった。
ユーリスが肩を軽く叩く。
「守られてるだけじゃないって、今日だいぶ示せたな」
アルトは小さく頷く。
「はい」
フィーネも言う。
「私も、巻き込まれているだけじゃないって思えました」
「標識保持、良かった」
レオンが言うと、フィーネは少し照れたように笑った。
ユーリスが自分を指さす。
「俺は?」
「後方確認、良かった」
「真面目に褒められると落ち着かないな」
「なら聞くな」
少し笑いが生まれる。
重い噂の朝から始まった日。
だが、午前の課題で少し形を変えられた。
◆
昼休み。
食堂では、今日の役割反転演習の話題が一気に広がっていた。
「アルトが指示出したって本当?」
「レオンに前に出すぎるなって言ったらしいぞ」
「まじか」
「それでレオン従ったの?」
「従った」
「フィーネが標識持って、ユーリスが後方」
「第五班、普通に全員役割変えられるんだな」
「守られてるだけじゃないじゃん」
最後の言葉。
守られてるだけじゃない。
それが、今朝の噂への一つの返答になっている。
アルトは食堂の席で、耳まで赤くしていた。
「すごい言われてます」
「受け取れ」
レオンが言う。
「はい。でも、怖いです」
「それも受け取れ」
ユーリスが笑う。
「今日のアルト、かなり良かったぞ」
「ありがとうございます」
フィーネも微笑む。
「私も、アルトさんの指示で動きやすかったです」
「本当ですか」
「はい」
アルトは手帳を開く。
震える手で書く。
レオンさんに指示した。
怖かった。
でも必要な指示だった。
守られるだけじゃない。
支援も、判断も、できる時がある。
フィーネも書く。
巻き込まれているだけではない。
標識保持。
自分で選んで動いた。
ユーリスは短く書く。
後ろを見るのも、前に出るのと同じくらい大事。
レオンは三人を見ながら、自分の手帳を開く。
単純な噂に対して、演習で別の事実を置いた。
それは、言葉だけの反論より強かった。
◆
放課後。
レオンは中庭を歩いていた。
今日は事務棟へ行くかどうか、朝から考えていた。
返答はまだ来ていない。
たぶん、まだだ。
だが、噂がこれだけ広がっている以上、確認したくなる。
事務棟の方角を見る。
足がそちらへ向きかけた。
その時。
「レオン様」
声がした。
エリシア・フォン・ローゼンベルクだった。
回廊の柱のそばに立っている。
いつもより表情が硬い。
レオンは足を止める。
「エリシア様」
フィーネたちは少し離れた場所にいた。
気づいてはいるが、近づかない。
エリシアはゆっくりこちらへ歩いてきた。
「少し、お話できますか」
「はい」
中庭の端。
噴水の音が届く距離。
人目はある。
だが、会話の声がはっきり聞こえるほどではない。
エリシアは少しだけ沈黙してから言った。
「今朝から、私の名前も噂に出ています」
「聞きました」
「気の毒だ、と」
その言葉に、レオンの胸が重くなる。
「すみません」
「謝らないでください」
昨日と同じ。
しかし、今日の声はさらに強かった。
「私は、気の毒な婚約者ではありません」
レオンは息を止めた。
エリシアの目は、はっきりと怒っていた。
静かな怒り。
自分の立場を、勝手に決められたことへの怒り。
「不安はあります。怖さもあります。レオン様が変わっていくことを、すべて簡単に受け取れているわけではありません」
一拍。
「ですが、それは私の感情です。誰かに“気の毒”と名札を貼られるものではありません」
単純な名札。
教師の言葉が重なる。
エリシアもまた、貼られている。
気の毒な婚約者という名札を。
「今日、家から使いが来ました」
エリシアが言った。
レオンの胸が冷える。
「ローゼンベルク家からですか」
「はい」
「内容は」
「正式な書簡ではありません。確認です。学園内でレオン様と第五班のことが話題になっているが、私がどう受け止めているかを簡潔に知らせるようにと」
来た。
エリシア側にも。
まだ正式な圧ではない。
だが、確実に影が伸びてきている。
「何と返すつもりですか」
レオンが聞く。
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「まだ、書いていません」
一拍。
「ですが、見たことを書きます」
昨日と同じ。
見たものを見なかったことにはできない。
「レオン様が軽率な交友で動いているとは見えなかった。第五班は課題上必要な信頼関係を築いていた。私は不安もあるが、同時にその成果を認めている」
エリシアはそこまで言って、少しだけ息を吐いた。
「そう書くつもりです」
レオンは黙った。
その返答は、彼女にとって軽いものではない。
ローゼンベルク家はどう受け取るか。
婚約者として、もっと距離を置くべきだと言われるかもしれない。
それでも、彼女は書くと言っている。
「ありがとうございます」
レオンが言うと、エリシアは少しだけ笑った。
「また、それですね」
「必要なので」
「はい」
エリシアは頷く。
「でも、私からもお願いがあります」
「何でしょう」
「私のことを、守る対象としてだけ見ないでください」
その言葉は、今日のテーマそのものだった。
守ると言われるほど、守られる側は息が詰まる。
エリシアは続ける。
「私は確かに、レオン様の婚約者です。家同士の関係もあります。守られる立場でもあるでしょう」
一拍。
「でも、私も見て、考えて、選びます」
レオンは静かに頷いた。
「わかりました」
「本当に?」
エリシアが少しだけ問い返す。
レオンは一瞬詰まった。
完全には、まだできていない。
守ろうとして遠ざける癖が、自分の中にある。
フィーネにも、アルトにも、エリシアにも。
それを今日、何度も見せられている。
「努力します」
レオンは正直に言った。
エリシアは少し驚き、それから柔らかく笑った。
「はい。それなら、信じます」
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
第三十九話。
守ると言われるほど、守られる側は息が詰まる。
朝。
噂が変質。
レオンは家に逆らう者。
フィーネは巻き込まれる者。
アルトは守られる者。
ユーリスは面白半分でついている者。
エリシアは気の毒な婚約者。
フィーネ。
心配という形で距離を取るよう言われる。
巻き込まれているだけではない。
第五班でいることは自分も選んでいる。
自分で言えた。
アルト。
守られていいよな、と言われる。
守ってもらっています。
でも、俺も支援しています。
守るだけでも、守られるだけでもない。
ユーリス。
噂に怒る。
誰のことも見ていないのに、全員の立場を勝手に決めている。
カイル。
噂が構図化している。
単純な物語に、単純な反論で返さない。
別の事実を置く。
講義。
単純化。
単純な名札を貼られるな。貼るな。
守る側、守られる側は固定ではない。
午前課題。
役割反転演習。
レオン前衛禁止。
フィーネ標識保持。
ユーリス後方確認。
アルト進路選択。
アルトがレオンへ“前に出すぎないで”と指示。
評価、上。
昼。
守られているだけじゃない、という見方が広がる。
放課後。
エリシア。
気の毒な婚約者ではない。
ローゼンベルク家から確認あり。
見たことを書く。
不安はあるが、成果を認めている。
守る対象としてだけ見ないでほしい。
私も見て、考えて、選ぶ。
レオンはペンを止めた。
今日は、何度も同じことを突きつけられた。
守ること。
守られること。
その関係が固定された瞬間、相手の選ぶ力を奪う。
フィーネは、巻き込まれただけではなかった。
アルトは、守られるだけではなかった。
ユーリスは、面白半分でついているわけではなかった。
エリシアは、気の毒な婚約者ではなかった。
そしてレオンは、ただ守る側でいればいいわけではない。
守ると決めた瞬間に、相手を見なくなることがある。
守るという言葉は温かい。
だが、使い方を間違えれば、相手を閉じ込める。
レオンは最後に一行を書く。
守ると言われるほど、守られる側は息が詰まる。
その下に、もう一行。
だから、守りたい相手ほど、選ぶ声を奪ってはいけない。
ペンを置く。
窓の外は夜。
学園の灯りが静かに揺れている。
ヴォルツ家からの返答は、今日も来なかった。
だが、ローゼンベルク家からはエリシアへ確認が来た。
圧は、確実に広がっている。
返事はまだ届かない。
それでも、周囲は動いている。
噂も、家も、婚約も、第五班も。
明日、何が来るかわからない。
だが今日、少なくとも一つわかった。
誰かを守るために、誰かの言葉を奪わないこと。
それは、剣より難しい。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、アルトの声が蘇る。
でも、俺も支援しています。
フィーネの声も。
第五班でいることは、私も選んでいます。
エリシアの声も。
私も見て、考えて、選びます。
レオンは静かに息を吐いた。
守るとは何か。
その問いは、また少し重くなった。
けれど、その重さから目を逸らしたくはなかった。




