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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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38/81

第三十八話



 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、淡い青だった。


 昨日よりも雲は少なく、朝日が校舎の高い窓に反射している。


 石壁は白く光り、尖塔の影が中庭の芝へ長く伸びていた。


 風は穏やかで、噴水の水面をわずかに揺らすだけだった。


 水音はいつも通り。


 跳ねて、落ちて、また跳ねる。


 その繰り返しを聞きながら、レオン・ヴォルツは寮の窓の前に立っていた。


 昨日、返事は来なかった。


 ヴォルツ伯爵家へ提出した報告書。


 その返答は、まだ学園へ届いていない。


 当然と言えば当然だ。


 昨日出したばかりの書面が、すぐに返ってくるはずがない。


 それでも、昨日一日、何度も事務棟の方角を見た。


 来ないとわかっていても、気になった。


 そして、来なかった。


 今朝もまだ来ていない。


 机の上には手帳がある。


 昨夜書いた言葉。


 返事を待つ時間は、何もしない時間ではなかった。


 まだ来ない刃に怯えながらも、今ここで錆びないように立つ時間だった。


 今ここ。


 昨日、何度も使った言葉。


 待つ時間に崩れないための合図。


 返答が来るまで今を止めないための、短い杭。


 レオンは手帳を閉じた。


 今日も返事は来ないかもしれない。


 あるいは、来るかもしれない。


 わからない。


 だが、わからないからといって一日を止めるわけにはいかない。


 講義はある。


 課題もある。


 第五班もある。


 エリシアとの関係も、ハルトやカイルとの変化も、昨日から続いている。


 返事を待つ時間は、空白ではない。


 そう思いながら、レオンは制服の襟元を整えた。


 そして部屋を出た。


    ◆


 寮の廊下へ出た瞬間。


 昨日とは違う空気を感じた。


 まだ朝早い。


 生徒たちの数も多くない。


 それなのに、廊下の端で話していた二人が、レオンを見るなり口を閉じた。


 一瞬の沈黙。


 その後、少しだけ視線を逸らす。


 悪意と呼ぶには薄い。


 だが、ただの称賛でもない。


 レオンは歩きながら、その空気を拾った。


 何かが流れている。


 返答ではない。


 正式なものではない。


 噂。


 そう直感した。


 階段を下りる途中、下級生らしき二人の声が聞こえた。


「ヴォルツ家に報告書出したって本当?」

「らしいよ」

「なんか、家から注意されたんだろ?」

「第五班のことで?」

「平民特待生と近すぎるって」

「でも、レオンさんは協力関係を維持するって書いたらしい」

「それって、家に逆らったってこと?」


 家に逆らった。


 その言葉が、石段の上で冷たく響いた。


 レオンは足を止めなかった。


 止めれば、聞いていたことになる。


 歩き続ける。


 だが、胸の奥が少し冷えた。


 早い。


 あまりにも早い。


 報告書の正確な中身を知っている者は限られている。


 第五班の三人。


 自分。


 教師。


 もしかすると事務室の職員。


 ハルトやカイルには概要を話したが、全文は見せていない。


 それなのに、“協力関係を維持する”という趣旨まで噂になっている。


 誰かが聞いたのか。


 断片が広がったのか。


 あるいは、推測が事実のように流れているのか。


 どちらにせよ、正式な返答より先に、噂が届いた。


 レオンは中庭へ向かう扉を開いた。


 朝の光が目に入る。


 噴水の水音。


 青い空。


 その穏やかさが、今は少し遠かった。


    ◆


 中庭には、フィーネ・ルークがいた。


 いつもの場所。


 だが、彼女はレオンを見る前から、周囲の視線を気にしているようだった。


 レオンに気づくと、少しだけほっとした顔をする。


「おはようございます」


「ああ」


 返事をしてから、レオンはすぐに聞いた。


「聞いたか」


 フィーネは表情を強張らせる。


「はい」


「何を」


「レオンさんが、ヴォルツ家に逆らう報告書を書いたって」


 やはり。


 レオンは静かに息を吐いた。


「逆らったつもりはない」


「わかっています」


 フィーネはすぐに言った。


「私たちで内容を整理しました。反発ではなく、事実を伝えるための報告書でした」


「ああ」


「でも……」


 彼女は目を伏せる。


「噂では、そうじゃなくなっています」


 噂。


 事実から熱だけを奪い、形だけを変えて流れていくもの。


 称賛と歪曲。


 教師が言っていた通りだ。


 評価が出ると、称賛が生まれる。


 同時に、歪曲も生まれる。


 今度は、報告書が歪められている。


「フィーネはどう受け取った」


 レオンが聞くと、フィーネは少し驚いた顔をした。


「私、ですか」


「ああ」


「……怖かったです」


 正直な答えだった。


「私たちのせいで、レオンさんが家に逆らったように見られているなら、やっぱり離れた方がいいのかって、一瞬思いました」


 レオンは何か言おうとした。


 だが、フィーネは先に続けた。


「でも、すぐに違うと思いました」


 声はまだ少し震えている。


 けれど、確かに戻ってきている。


「それも一人で決めることじゃないって」


 アルトの昨日の言葉。


 離れるかどうかを、一人で決めない。


 フィーネはそれを使ったのだ。


「だから、待っていました。レオンさんと話してから考えようと思って」


 レオンは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 噂で揺れた。


 でも、一人で結論を出さなかった。


 それだけで、大きな前進だった。


「正しい」


 レオンは言った。


 フィーネは小さく頷いた。


    ◆


 アルト・レイヴンは、いつもより早足で来た。


 顔色が悪い。


 手帳を両手で握っている。


 レオンとフィーネを見るなり、声を抑えきれずに言った。


「聞きました」


「ああ」


「俺のせいで、レオンさんが家に逆らったって」


「違う」


 レオンは即座に言った。


 アルトは立ち止まる。


 呼吸が少し乱れている。


「でも、そう言われてます」


「そう言われていることと、そうであることは違う」


 レオンは言う。


 アルトは黙った。


 フィーネが静かに言う。


「アルトさん。私も怖くなりました」


「フィーネさんも……?」


「はい。でも、一人で離れるって決めることじゃないと思いました」


 アルトの目が揺れる。


 自分の言葉が、フィーネを戻した。


 その事実に気づいたようだった。


「俺、今朝、一回書きました」


 アルトは手帳を開く。


 そこには、また線で消された跡があった。


「俺が第五班から外れれば、レオンさんが家に逆らったことにならないかもしれないって」


 レオンの胸が痛む。


 アルトは続ける。


「でも、それ、昨日消したばかりなのに、また書いてました」


 彼は苦笑する。


 苦しい笑いだった。


「癖って、すぐ戻りますね」


「戻ってもいい」


 レオンは言った。


 アルトが顔を上げる。


「戻ったことに気づけば、また戻せる」


 アルトは息を呑んだ。


 フィーネも静かに頷く。


「今ここ、ですね」


「はい……」


 アルトは手帳を閉じる。


「今ここ」


 小さく言った。


「俺、まだ第五班にいます」


「ああ」


 レオンは答える。


「いる」


 その言葉で、アルトの肩から少しだけ力が抜けた。


    ◆


 ユーリス・ベルクが来た時、彼はいつもより明らかに不機嫌だった。


 笑っていない。


 軽い挨拶もない。


 歩いてきて、三人の前に立つ。


「聞いたか」


「ああ」


 レオンが答える。


「家に逆らった、だってさ」


 ユーリスは吐き捨てるように言った。


「随分と都合よく縮めた噂だ」


「内容を知っている者は少ない」


「だから余計に厄介だ」


 ユーリスは周囲を見た。


 中庭の端から、こちらをちらちら見ている生徒がいる。


 昨日までの好奇心とは違う。


 少し警戒。


 少し面白がり。


 少し不安。


「第五班が評価された時は“すごい”。報告書を出したら“家に逆らった”。忙しいな、周りは」


 軽く言っている。


 だが、声には怒りがある。


 フィーネが小さく言う。


「ユーリスさん、怒っていますか」


「怒ってる」


 即答だった。


「レオンが一人で反発したみたいに言われるのも嫌だし、アルトやフィーネ嬢が原因みたいに見られるのも嫌だ」


 一拍。


「俺たちで考えたんだろ。昨日」


 その言葉に、三人が黙る。


 そうだ。


 報告書は、レオン一人の反発ではない。


 第五班で考えた。


 家へ反抗するためではなく、見た事実を捨てないために。


「どうする」


 ユーリスが聞く。


 レオンは少し考えた。


 噂へ真正面から反論して回るのは悪手だ。


 燃料になる。


 だが、放置すれば広がる。


 教師に相談すべきか。


 いや、まずは今朝の講義を待つべきか。


 学園内の噂なら、教師も把握している可能性が高い。


「噂にその場で反論して回らない」


 レオンは言った。


 ユーリスが頷く。


「だろうな」


「ただし、聞かれたら事実を答える」


 フィーネが顔を上げる。


「事実」


「ああ。家に逆らうための報告ではない。課題上必要な協力関係を事実として整理した。それだけだ」


 アルトが小さく頷く。


「俺たちも、聞かれたらそう答えます」


「無理に答えなくていい」


 レオンは言う。


「答えられる時だけでいい」


 ユーリスが少し笑った。


「それがいい。全部に返事してたら疲れる」


 昨日カイルが言った言葉。


 全て受け取るな。


 必要なものだけ持て。


 その言葉が、また戻ってきた。


    ◆


 東棟へ向かう道は、昨日までと違うざわめきに満ちていた。


「第五班だ」

「レオンさん、家に逆らったって本当?」

「平民特待生を庇ったんだろ?」

「いや、課題上の協力関係って書いただけらしいぞ」

「でも家に対して維持するって書いたんでしょ?」

「それ、かなり強くない?」

「エリシア様はどう思ってるんだろう」


 エリシアの名前まで出ている。


 レオンは歩みを止めない。


 フィーネは少し顔を伏せるが、足は止めない。


 アルトは手帳を握りながらも、ちゃんと前を向いている。


 ユーリスは周囲を見て、必要なら間に入るつもりでいるようだった。


 一人の男子生徒が、通りすがりに声をかけてきた。


「ヴォルツ、本当に家に逆らったのか?」


 直球だった。


 周囲の視線が集まる。


 レオンは立ち止まった。


 フィーネが息を呑む。


 アルトも固まる。


 ユーリスが一歩、横に出ようとする。


 だが、レオンは手で制した。


「逆らっていない」


 静かに答える。


「では何だ」


「合同課題演習における事実を報告した」


 男子生徒は少し眉を寄せる。


「平民特待生との関係を維持すると書いたと聞いた」


「課題上必要な協力関係を維持すると書いた」


 レオンは言う。


「家への反発ではなく、学園で確認された有効な役割分担の報告だ」


 沈黙。


 男子生徒は、少し拍子抜けしたような顔をした。


 もっと感情的な返答を期待していたのかもしれない。


「そうか」


「ああ」


 それだけで会話は終わった。


 レオンは再び歩き出す。


 背後で小さなざわめきが起きる。


「逆らったわけじゃないって」

「課題上必要な協力関係」

「言い方、貴族っぽいな」

「でも強いな」


 噂は完全には消えない。


 だが、少し形が変わる。


 それで十分だった。


    ◆


 教室に入ると、空気はすでに張っていた。


 ハルト・グレイナーが不機嫌そうな顔で座っている。


 カイル・ローダンは静かに前を見ていた。


 レオンが席へ向かうと、ハルトがすぐに口を開いた。


「くだらない噂が出ているな」


「ああ」


「家に逆らった、だと」


 ハルトは鼻で笑う。


「報告書を書いただけで逆らったことになるなら、貴族の子弟は全員何も書けない」


 乱暴だが、ある意味で正しい。


 カイルが静かに言う。


「だが、噂としては広がりやすい。上位貴族の子弟が家の懸念に対し、協力関係の維持を明記した。聞き方によっては反発に見える」


「なら聞き方が悪い」


 ハルトが返す。


「そうだ。だから修正が必要になる」


 カイルはレオンを見る。


「今朝、誰かに聞かれたか」


「ああ」


「何と答えた」


「家に逆らったのではなく、合同課題演習における事実を報告した。課題上必要な協力関係を維持すると書いた、と」


 カイルは頷いた。


「良い。感情的ではない」


 ハルトが少し不満そうに言う。


「もっとはっきり否定してもいいと思うがな」


「はっきり否定すると、余計に燃える場合がある」


 カイルが返す。


「面倒だな」


「貴族社会とは面倒なものだ」


 ハルトは顔をしかめた。


「知っている」


 そのやり取りを聞きながら、レオンは少し息を吐いた。


 ここにも、自分以外に噂を見ている者がいる。


 それだけで、少し楽だった。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ向かった。


 教室は静まり返る。


 今朝の噂を、教師が扱うのか。


 誰もがそれを待っているようだった。


 チョークが走る。


 黒板に書かれた文字は――


 風聞。


 教室全体が、わずかに息を呑んだ。


 やはり。


 教師は知っている。


「風聞とは、事実そのものではない」


 教師が言う。


「だが、無視すれば勝手に育つ。追いかけすぎれば、さらに広がる」


 まさに今の状況だった。


「評価が流れる時、事実は必ず削られる」

「報告が流れる時、意図は必ず変形する」

「誰かが発した言葉は、聞く者の都合で別の意味を持つ」


 一拍。


「では、どうするか」


 教師はレオンを見た。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立つ。


「自分に関する風聞が流れた時、どう対応する」


 教室中の視線が集まる。


 今日の問い。


 逃げられない。


 レオンは静かに答えた。


「全てに反応しません」


 教師は黙って続きを待つ。


「ですが、問われた場合は、事実を短く答えます」


「感情は」


「乗せすぎません」


 一拍。


「感情的に否定すれば、風聞は“否定した”という新しい材料を得ます」


 教室が静かになる。


「だから、報告書の目的、内容、事実を整理して伝えます。家への反発ではなく、合同課題演習における役割と成果の報告であると」


 教師は頷いた。


「良い」


 次に教師は、全体へ向く。


「風聞に対する最も危険な反応は、自分が風聞の形に合わせて変わることだ」


 その言葉が、レオンの胸に刺さる。


「軽率だと言われたから過剰に距離を取る」

「反発だと言われたから意地になって距離を詰める」

「不適切だと言われたから、自分が見た価値まで否定する」


 一拍。


「それらは全て、風聞に動かされている」


 フィーネが静かに息を吸う気配がした。


 アルトにも聞かせたい言葉だった。


「必要なのは、風聞に合わせて動くことではない。事実と目的へ戻ることだ」


 教師は黒板を軽く叩く。


「今ここ、だ」


 教室の空気が少し動いた。


 第五班の言葉を、教師が使った。


 ユーリスが少しだけ目を丸くする。


 レオンも、予想していなかった。


「戻る言葉がある班は強い」


 教師は言う。


「ただし、その言葉に甘えるな。戻った後、何を見るかが重要だ」


 今ここ。


 そして、何を見るか。


 今日の講義は、静かに深く刺さった。


    ◆


 午前の課題は、風聞対応演習だった。


 内容は少し特殊だった。


 班は通常の標識移送を行う。


 だが、演習中、見学役の生徒が外圧役として声を出す。


 ただし、魔法装置の音声ではない。


 実際の生徒の声。


 噂、疑い、過剰な称賛、誤解。


 それらを受けながら、班は課題を進める。


 第五班にとっては、かなり直接的な課題だった。


 区画に入る前、アルトの顔は硬かった。


「人の声だと、魔法装置よりきついですね」


「そうだな」


 レオンは頷く。


 フィーネも小さく言う。


「でも、実際の噂も人の声ですから」


「その通り」


 ユーリスが軽く息を吐く。


「嫌な現実感だな」


 レオンは三人を見る。


「目的は標識移送。外圧は拾いすぎない。聞かれたわけではない声には、反応しない」


「はい」


「了解」


「はい」


 演習開始。


 標識は中央。


 魔法人形三体。


 難度は中程度。


 レオンが前へ出る。


 フィーネが状況を読む。


 ユーリスが標識役。


 アルトが支援。


 外圧役の声が始まった。


「ヴォルツ家に逆らったんだろ?」

「第五班のために家を軽んじたのか?」

「平民特待生を庇うなんて珍しいな」

「婚約者はどう思ってるんだ?」

「上位貴族としてどうなんだ?」


 人の声。


 魔法装置より生々しい。


 アルトの肩が揺れる。


 フィーネの顔も強張る。


 レオンの胸も熱くなる。


 反論したい。


 違うと言いたい。


 だが、これは課題中の外圧。


 反応すれば、動きが止まる。


「今ここ」


 レオンが言う。


 ユーリスも続ける。


「標識、中央。俺が行く」


 フィーネが声を戻す。


「前衛型、右から。軽量型、標識奥。アルトさん、土で足元を短く」


「はい!」


 アルトの土が出る。


 少し硬い。


 だが機能する。


 声は続く。


「アルトがいなければ問題にならなかったんじゃないか?」

「フィーネも距離近いよな」

「ユーリスは何を考えてるんだ?」

「第五班って、本当に課題だけの関係か?」


 フィーネの声が一瞬詰まる。


 アルトの土が少し広がる。


 ユーリスの足が止まりかける。


 レオンは前衛型を受けながら言った。


「拾うな」


 だが、それだけでは足りない。


 フィーネが自分で息を吸う。


「外圧あり。ですが、現在の状況は変わりません」


 声が通る。


「標識まで距離十歩。軽量型の足止め済み。ユーリスさん、進めます!」


「了解!」


 ユーリスが動く。


 アルトが風を重ねる。


 レオンが前衛型を外す。


 標識確保。


 戻り。


 外圧役の声が変わる。


「でも、家から止められたら終わりだろ?」

「班変更されたら意味ない」

「今の連携も無駄になるんじゃないか?」

「返事が来たらどうするんだ?」


 返事。


 班変更。


 その言葉に、全員が揺れた。


 だが、アルトが叫んだ。


「まだ来てません!」


 思わず出た声だった。


 外圧に反論しているようにも聞こえる。


 しかし、その後に続いた言葉が違った。


「今は、標識です!」


 アルト自身が戻した。


 その声に、フィーネが続く。


「はい! 今は標識移送です!」


 ユーリスが笑う。


「いいぞ、アルト!」


 レオンも短く言う。


「進め」


 標識が台座へ置かれる。


 鐘が鳴った。


 課題達成。


    ◆


 教師が近づいてくる。


「第五班、評価、上」


 四人が息を吐く。


「外圧役の声に揺れはあった。特に班変更、返事、婚約に関する声への反応が強い」


「はい」


 レオンは頷く。


「だが、課題目的へ戻れている。特にレイヴン」


 アルトが顔を上げる。


「はい!」


「外圧へ反論しかけたが、直後に“今は標識”と目的へ戻した。良い」


「あ……はい」


 アルトは驚きながら返事をした。


「ルーク。外圧を状態として共有した点、良い。ベルク。標識役として外圧下でも移動継続。良い。ヴォルツ。感情的な反応を抑え、班を戻した点、良い」


 教師は全体へ向く。


「風聞対応で重要なのは、全ての声を消すことではない。声がある中で、目的へ戻ることだ」


 その言葉は、今朝の講義と重なった。


    ◆


 訓練後。


 第五班は端に集まった。


 アルトが真っ先に頭を下げる。


「すみません。反論しかけました」


「戻った」


 レオンは言う。


「でも、声が出ました」


「出てもいい。戻ればいい」


 アルトは少しだけ目を開いた。


 フィーネが頷く。


「私も詰まりました。でも、外圧ありって言えました」


「良かった」


 ユーリスが言う。


「俺は班変更って言葉、結構刺さったな」


「俺もだ」


 レオンは正直に言った。


 三人が見る。


「だが、まだ来ていない」


 アルトが小さく言う。


「まだ来ていない」


 フィーネも。


「今は、ここ」


 ユーリスが笑う。


「今日も戻れたな」


「ああ」


 戻れた。


 それだけで、今日の午前は意味があった。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、風聞対応演習の話でまた少しざわついていた。


「第五班、外圧役かなりきつかったらしい」

「家に逆らったとか言われたんだろ」

「それ課題でもきついな」

「アルトが“今は標識です”って言ったらしいぞ」

「いいじゃん」

「噂より課題、って感じか」


 噂より課題。


 その言葉は、少しだけ正しく広がっているようだった。


 噂は消えない。


 だが、別の見方も生まれる。


 第五班の席で、アルトは少し照れたように手帳を書いていた。


 反論しかけた。

 でも、今は標識と言えた。

 まだ来ていない返事で、今を止めない。


 フィーネも書く。


 外圧あり、と言えた。

 声が詰まっても、状態共有にできる。


 ユーリスは。


 班変更は刺さる。

 でも刺さったと言える。


 レオンはそれを見ながら、自分の手帳を開いた。


 今朝の噂。


 家に逆らった。


 その言葉はまだ胸に残っている。


 だが、朝ほどではない。


 事実を短く答えた。


 課題で戻った。


 それだけで、少し形が変わった。


    ◆


 放課後。


 レオンは事務棟へ行くか迷った。


 昨日は行かなかった。


 今日もまだ早い。


 だが、噂が広がっている以上、何か届いていないか確認したい気持ちは強くなっていた。


 中庭で立ち止まる。


 事務棟へ向かう道。


 東棟へ戻る道。


 寮へ向かう道。


 三つの道が見える。


 フィーネが隣で言った。


「行きたいですか」


「ああ」


「行ったら、何か変わると思いますか」


「おそらく変わらない」


「なら」


 フィーネは少しだけ微笑む。


「今日は、行かない選択もあります」


 昨日と同じ。


 待つことを選ぶ。


 レオンは事務棟の方を見た。


 行けば、何もないことを確認できるかもしれない。


 だが、それは安心ではなく、また明日へ不安を持ち越すだけかもしれない。


 ユーリスが言う。


「行くなら付き合うぞ」


 アルトも頷く。


「俺も」


 レオンは三人を見る。


 行くこともできる。


 行かないこともできる。


 一人で決めなくてもいい。


 だが、選ぶのは自分だ。


「今日は行かない」


 レオンは言った。


 フィーネが頷く。


 ユーリスが笑う。


「了解」


 アルトも少し安心した顔をする。


「じゃあ、中庭一周しますか」


「なぜだ」


 レオンが聞く。


「なんとなく……今ここ、っぽいので」


 アルトの言葉に、ユーリスが笑った。


「いいな。今ここ散歩」


「名前が軽い」


 フィーネが小さく笑う。


 四人は中庭を歩き始めた。


 夕方の光が芝を照らしている。


 噴水の水音。


 遠くの生徒たちの声。


 噂はまだある。


 返事もまだ来ない。


 だが、今ここには歩く時間があった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 第三十八話。


 まだ届かない返事より、先に届く噂があった。


 朝。

 ヴォルツ家からの返答はまだ。

 しかし噂が先に広がる。

 家に逆らった。

 平民特待生を庇った。

 協力関係を維持すると書いたらしい。


 フィーネ。

 怖くなった。

 一瞬、離れた方がいいかと思った。

 でも一人で決めることではないと戻った。


 アルト。

 また自分が離れればいいと書きかけた。

 癖は戻る。

 でも、気づけば戻せる。

 今ここ。

 俺はまだ第五班にいます。


 ユーリス。

 噂に怒る。

 レオン一人の反発ではなく、第五班で考えた報告書。


 廊下。

 家に逆らったのかと問われる。

 逆らっていない。

 合同課題演習における事実を報告した。

 課題上必要な協力関係を維持すると書いた。


 ハルト。

 報告書を書いただけで逆らったことになるなら、貴族の子弟は全員何も書けない。


 カイル。

 聞き方によっては反発に見える。

 だから修正が必要。

 感情的ではなく事実を。


 講義。

 風聞。

 事実は削られ、意図は変形する。

 風聞に合わせて動くな。

 事実と目的へ戻る。

 今ここ。


 午前課題。

 風聞対応演習。

 人の声による外圧。

 家に逆らった。

 婚約者はどう思う。

 班変更されたら無駄。

 アルト、反論しかける。

 でも、今は標識です、と戻る。

 評価、上。


 放課後。

 事務棟へ行きたくなった。

 今日は行かない選択。

 中庭を歩く。

 今ここ散歩。


 レオンはペンを止めた。


 今日は返事が来なかった。


 だが、噂が来た。


 正式な返答より先に、歪んだ形で周囲へ届いた。


 それは、思ったより厄介だった。


 家から何も言われていないのに、周囲の声によって、もう何か言われたような気持ちになる。


 逆らった。


 庇った。


 婚約者はどう思う。


 班変更されたら無駄。


 どれも事実ではない。


 少なくとも、まだ確定した事実ではない。


 それでも、声になると心が揺れる。


 だが今日は、戻れた。


 フィーネは一人で離れると決めなかった。


 アルトも、自分を消す癖に気づいた。


 ユーリスは怒りながらも、報告書を第五班のものとして見ていた。


 ハルトとカイルは、噂への向き合い方を示した。


 教師は、風聞に合わせて動くなと言った。


 そして第五班は、課題の中で戻った。


 今は標識です。


 アルトの声が、胸に残っている。


 レオンは最後に一行を書く。


 まだ届かない返事より、先に届く噂があった。


 その下に、もう一行。


 だが、噂が先に届いたからといって、自分たちが先に崩れる必要はない。


 ペンを置く。


 窓の外は夜。


 学園の灯りが静かに揺れている。


 事務棟の方角を見た。


 今日も返事は来ていない。


 明日は来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 そして、噂は明日も形を変えるだろう。


 それでも。


 今日、レオンは事務棟へ行かなかった。


 確認しないことを選んだ。


 待つことを選んだ。


 中庭を歩くことを選んだ。


 小さな選択。


 だが、小さくはなかった。


 レオンは手帳を閉じる。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、アルトの言葉を思い出す。


 今は標識です。


 レオンは静かに息を吐いた。


 明日もきっと、何かが来る。


 返事か。


 噂か。


 別の圧か。


 それでも、来る前から崩れない。


 今ここ。


 まずは、そこへ戻る。

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