第二十九話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、澄んでいた。
昨日の雨も、勝利の熱も、夜のうちに少しだけ冷えたように見える。
濡れていた石畳は乾き、朝日を受けて薄く白く光っていた。
中庭の芝にはまだ雫が残っている。
噴水の水音は、いつも通り静かだった。
何も変わらない朝。
けれど、レオン・ヴォルツは知っていた。
何も変わらないように見える朝ほど、前日までの変化が静かに沈んでいる。
昨日、レオンは勝利のあとを受け取った。
カイルとの模擬戦に勝った翌日、第五班としていつも通り動き、勝利を特別な場所に置きっぱなしにしなかった。
教師は評価した。
第五班は乱れていない、と。
フィーネは安心した。
ユーリスは、勝った後に調子に乗らないと書いた。
アルトは、第五班の時間を自分の力にすると書いた。
エリシアは、レオンが遠くへ行ったのではなく、得たものを持ち帰ったのだと受け取ろうとしていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
勝利の意味は、形を変えながら周囲へ広がっている。
それは良いことのはずだった。
評価される。
理解される。
認められる。
自分だけでなく、第五班も。
けれど、レオンの胸には朝から小さな重さがあった。
評価が積み上がるほど、逃げ道は消えていく。
もう、ただの偶然とは言えない。
たまたま噛み合っただけとも言えない。
第五班は何度も結果を出した。
レオンは個人戦でも勝った。
フィーネは指示役として評価された。
ユーリスは標識保持と状況判断で安定している。
アルトは支援役として、記録に残る成果を出した。
それらが積み上がる。
積み上がれば積み上がるほど、周囲は次を求める。
もっと強い第五班を。
もっと変わったレオンを。
あるいは、どこかで崩れる瞬間を。
評価は、時に盾になる。
だが同時に、逃げ道を塞ぐ壁にもなる。
レオンは手帳を閉じた。
今日も、進むしかない。
◆
寮を出ると、廊下はいつもより少し静かだった。
昨日ほどの熱気はない。
カイルとの模擬戦の話題も、少し落ち着き始めている。
だが、完全には消えていない。
「昨日の第五班、普通に動いてたらしい」
「レオン、勝った翌日も前に出すぎなかったって」
「本当に変わったんだな」
「カイルも今日は大人しかったし」
「上位クラス、ちょっと空気変わったよな」
空気が変わった。
その言葉が、朝から何度も耳に入る。
レオンは歩きながら、少しだけ眉を寄せた。
空気が変わること自体は悪くない。
だが、変化した空気には必ず反動がある。
ハルトも変わった。
カイルも変わろうとしている。
上位クラスの一部は、それを前向きに受け取り始めている。
だが、全員がそうではない。
上位クラスとは、誇りの場でもある。
順位。
家柄。
実績。
周囲からの評価。
それらに支えられている者たちにとって、急な変化は脅威にもなる。
まして、その中心に平民特待生のアルトがいると見られれば、なおさらだ。
中庭へ出ると、アルトがいた。
今日も早い。
最近、彼は本当に早く来るようになった。
手帳を片手に持ち、噴水の近くで立っている。
ただ、今日は開いていなかった。
閉じたまま、胸元で持っている。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
アルトは少しだけ笑った。
だが、すぐに視線を落とす。
「今日は読まないのか」
レオンが聞くと、アルトは手帳を見た。
「読みました。部屋で」
「そうか」
「でも、今日は……読むより、持っていたくて」
その言い方が少し気になった。
レオンは足を止める。
「何か言われたか」
アルトは一瞬、迷った顔をした。
だが、すぐに首を振る。
「今日は、直接は何も」
「なら、なぜ」
「評価が残るのが、少し怖くなりました」
小さな声だった。
レオンは黙る。
アルトは手帳を見つめながら続けた。
「最初は、できたことを書けるのが嬉しかったんです。自分が戦力だって、ちゃんと残せるから」
「ああ」
「でも、書けば書くほど……次もできなきゃって思うようになって」
その言葉は、レオンの胸に静かに落ちた。
評価が積み上がる重さ。
アルトにも来た。
当然だ。
彼は支援役として評価された。
教師に認められた。
レオンたちにも認められた。
手帳にも書いた。
俺は戦力。
その言葉は支えになる。
だが同時に、次も戦力でなければならないという圧にもなる。
「昨日の夜、風がうまく出なかったらどうしようって考えてました」
アルトは苦笑する。
「まだ演習でもないのに」
「当然だ」
レオンが言う。
アルトが顔を上げる。
「え?」
「評価された者は、次を考える」
一拍。
「怖くなるのは、普通だ」
アルトは少しだけ目を見開いた。
「レオンさんでも、怖くなりますか」
「ああ」
即答だった。
以前なら、言わなかったかもしれない。
だが、今は言える。
「評価されれば、次を求められる。できたことが増えれば、できなかった時の痛みも増える」
アルトは黙って聞いている。
「だが、それを怖がることと、逃げることは違う」
「逃げること……」
「怖いなら、怖いまま確認すればいい。今日も風を細く出す。水を広げすぎない。土を必要な分だけ使う」
一拍。
「特別なことをしようとするな」
アルトは、手帳を握る手の力を少し抜いた。
「……はい」
「手帳は、お前を追い詰めるためのものじゃない」
レオンは言った。
「戻るためのものだ」
アルトの表情が揺れる。
そして、ゆっくり頷いた。
「はい」
その返事は、少しだけ軽くなっていた。
◆
フィーネとユーリスが合流したのは、そのすぐ後だった。
フィーネは少しだけ息を弾ませている。
ユーリスは、いつものように軽く手を振った。
「おはよう」
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます」
四人が揃う。
その瞬間、近くを通った生徒たちがまたこちらを見る。
だが、今日の視線は昨日とは少し違っていた。
疑いよりも、観察に近い。
第五班が今日どう動くのか。
昨日の勝利後も安定したという評価が、本当に続くのか。
そう見られている。
フィーネがそれに気づき、少しだけ肩を硬くした。
レオンは見る。
「フィーネ」
「はい」
「お前もか」
フィーネは苦笑した。
「わかりますか」
「ああ」
「昨日、勝利後も声を丁寧にって書いたんです。でも、今日になったら……丁寧にしなきゃって思いすぎて」
「言葉が遅れるかもしれない?」
「はい」
ユーリスが頭を掻く。
「俺も似た感じ。調子に乗らないって書いたら、逆にどこまで軽くしていいかわからなくなった」
「お前もか」
レオンが言うと、ユーリスは苦笑した。
「評価とか反省って、便利だけど重いな」
「そうだな」
レオンは頷く。
本当にそうだ。
書くことで残る。
残ることで戻れる。
だが、残ることで背負う。
手帳も、評価も、言葉も。
全部、使い方を間違えると足を重くする。
「今日は、反省を守る日じゃない」
レオンは言った。
三人がこちらを見る。
「反省を使う日だ」
フィーネが少し目を開く。
「使う」
「ああ。丁寧にしなきゃ、ではなく、必要な時に丁寧にする。調子に乗らない、ではなく、場に合わせて軽くする。風を失敗しない、ではなく、風を確認する」
アルトが小さく呟く。
「守るんじゃなく、使う」
「そうだ」
ユーリスが笑った。
「それ、いいな。手帳に書きたい」
「食後だ」
「まだ朝だぞ」
「なら後で書け」
フィーネが小さく笑った。
アルトも少しだけ表情を緩める。
空気が戻る。
完全ではない。
でも、戻った。
それでいい。
◆
教室へ向かう途中、上位クラスの廊下にはいつもと違う張りがあった。
昨日の勝敗が、まだ残っている。
カイルは敗北を認めた。
ハルトは次はいずれ自分もやると言った。
レオンは勝った。
だが、それだけではない。
教師が、勝利後と敗北後の受け取り方を講義で扱ったことで、上位クラス全体が少し自分の立ち位置を考え始めている。
誰かに負けた時、自分はどうするのか。
誰かが評価された時、自分はどう見るのか。
誰かが変わった時、それを認められるのか。
それは簡単な問いではない。
上位クラスの教室に入ると、ハルトがすでにいた。
今日はカイルもいる。
二人は話してはいない。
だが、昨日までより距離が少し近い。
同じ敗北を知った者同士。
そんな空気がある。
レオンが席へ向かう途中、ハルトが声をかけた。
「ヴォルツ」
「何だ」
「今日、教師が面倒な課題を出すらしい」
「いつもだろ」
「それはそうだが」
ハルトは少し顔をしかめる。
「昨日の勝利後と敗北後の話を受けて、今日は“評価維持”をやるらしい」
「評価維持」
レオンはその言葉を繰り返す。
嫌な予感がした。
評価を得た後、それをどう維持するか。
昨日の勝利後より、さらに一段重い。
カイルが横から言う。
「積み上がった評価を崩さずに動けるか、ということだろう」
彼の声は落ち着いていた。
昨日より少しだけ。
「お前は大丈夫か」
ハルトがカイルに言う。
カイルは眉を寄せる。
「君に心配される理由はない」
「昨日負けたからな」
「君も第五班に負けているだろう」
「だから言っている」
ハルトは平然と返す。
カイルは少し黙り、それから小さく息を吐いた。
「……確かに、今はそういう話か」
そのやり取りを、レオンは少し不思議な気持ちで見ていた。
ハルトとカイル。
少し前なら、互いに意地だけを張っていたかもしれない二人が、今は不器用に同じ課題を見ている。
変化は、本当に周囲へ広がっている。
それが良いのか悪いのか。
まだわからない。
だが、確かに変わっている。
◆
一限目。
教師は黒板へ向かい、ゆっくりと文字を書いた。
評価維持。
予想通りだった。
教室が静まる。
「評価は、得るより維持する方が難しい場合がある」
教師が言う。
「一度できたことは、次もできると思われる」
「一度勝った相手には、次も勝つと思われる」
「一度褒められた役割は、次も果たせると思われる」
一拍。
「それが圧になる」
アルトが少しだけ手元を見る。
フィーネも真剣に聞いている。
ユーリスは口元から笑みを消していた。
「評価とは、積み上げるものだ。だが、積み上がったものの上に立つには、足場を確認し続ける必要がある」
教師はチョークを置いた。
「ヴォルツ」
「はい」
レオンは立ち上がる。
「お前の班は、ここ数日で評価を積み上げている」
「はい」
「その状態で最も危険なことは何だ」
レオンは考える。
慢心。
硬直。
期待への萎縮。
いくつか答えが浮かぶ。
だが、今朝の会話を思い出す。
手帳を守ろうとするアルト。
丁寧にしなければと硬くなるフィーネ。
調子に乗らないことを意識しすぎるユーリス。
反省を守ろうとして、動きが鈍る。
「評価された形を守ろうとしすぎることです」
レオンは答えた。
教師は目を細める。
「続けろ」
「良かった動きを再現しようとすること自体は必要です。ですが、形を守ることが目的になると、課題を見なくなる」
一拍。
「反省や評価は守るものではなく、使うものです」
教室が少し静かになる。
今朝、第五班に言った言葉。
それをそのまま講義の答えとして出した。
教師はしばらくレオンを見ていた。
そして頷く。
「良い答えだ」
短いが、確かな評価。
「全員、覚えておけ。評価を守るな。評価を使え」
教師の声が教室に響く。
「過去の成功を守るために動く者は、次の課題を見失う」
その言葉は、レオンだけでなく教室全体に深く落ちた。
◆
第一訓練棟。
今日の課題は、評価維持演習だった。
各班は、これまで評価された役割を中心に配置される。
そして、その役割に追加条件が与えられる。
単純に同じことをすればいいわけではない。
評価された力を、別の状況で使えるか。
それが問われる。
第五班の条件はこうだった。
レオン――前衛。ただし制圧数制限あり。二体以上倒してはならない。
フィーネ――状況報告。ただし指示も一部担当。
ユーリス――標識保持。ただし途中で一度標識を別者へ渡す。
アルト――支援。ただし同じ属性を連続使用禁止。
魔法人形は四体。
標識は一つ。
目的は、標識を指定地点へ移送すること。
難しい。
特にアルトの条件が厳しい。
同じ属性を連続で使えない。
風で支援した後、また風で調整することができない。
水や土、火を状況に応じて使う必要がある。
フィーネも、報告だけでなく指示を混ぜる。
ユーリスは途中で標識を渡す判断が必要。
レオンは倒しすぎてはいけない。
第五班の評価された力を、そのままでは使わせない課題だった。
開始前。
四人は短く円を作る。
「条件が嫌らしいな」
ユーリスが言う。
「教師らしい」
レオンが返す。
アルトは手帳を握っていたが、すぐに鞄へしまった。
「今日は、手帳を守るんじゃなく使います」
「そうだ」
フィーネも頷く。
「私も、丁寧に言おうとしすぎず、必要な言葉を出します」
「俺は調子に乗らないじゃなく、場を軽くする必要がある時は軽くする」
ユーリスが続ける。
レオンは三人を見る。
「俺は倒しすぎない。制圧ではなく道を作る」
一拍。
「行くぞ」
三人が頷いた。
◆
演習開始。
魔法人形四体が起動する。
前衛型二体。
軽量型一体。
魔法型一体。
標識は中央奥。
レオンは前へ出る。
倒せる前衛型が来る。
だが、制圧数制限がある。
むやみに倒せない。
腕を打ち、軌道をずらす。
倒さず道を作る。
「右、軽量型が回ります!」
フィーネの声。
少し早い。
良い。
「アルトさん、風で止めずに土で足元を」
「はい!」
アルトが土を出す。
軽量型の足が一瞬遅れる。
次に魔法型が詠唱。
アルトは水を出そうとして止まりかける。
直前が土だったから、水は使える。
だが、距離がある。
「アルト、水。薄く遠く」
レオンが言う前に、フィーネが叫んだ。
「水、届く範囲だけで大丈夫です!」
「はい!」
アルトが水を飛ばす。
少し足りない。
だが、魔法型の詠唱がわずかに乱れる。
ユーリスが標識へ向かう。
前衛型が追う。
レオンは倒したい衝動を抑え、体勢だけ崩す。
一体目はまだ倒さない。
標識確保。
ユーリスが抱える。
「ここから渡すタイミングが必要だな」
ユーリスが言う。
「誰へ渡す」
レオンが聞く。
「フィーネ嬢」
ユーリスは即答した。
フィーネが驚く。
「私ですか?」
「今、視界が一番広い。アルトは支援が必要。レオンは前衛。俺が持ったままだと中央で詰まる」
良い判断だった。
レオンは頷く。
「任せる」
フィーネが息を吸う。
「受けます」
ユーリスが標識を渡す。
その瞬間、軽量型が狙う。
フィーネが標識を持つため、魔法は使えない。
彼女の目が揺れる。
だが、声は出た。
「アルトさん、火を薄く! 視線を切ってください!」
アルトは直前に水を使った。
火は使える。
「はい!」
薄い火が揺れる。
軽量型の感知が乱れる。
ユーリスが横から流す。
レオンが前衛型を抑えたまま、魔法型への道を見る。
ここで一体倒す必要がある。
魔法型を放置すると危険。
レオンは踏み込む。
木剣が魔法型の核を打つ。
一体制圧。
残り倒せるのは一体まで。
ここからが難しい。
◆
フィーネが標識を持って進む。
彼女の足取りは慎重だ。
だが遅すぎない。
ユーリスが横を見る。
アルトは次の属性を考えている。
直前は火。
次は風、水、土が使える。
軽量型が再起動して回り込む。
フィーネへ向かう。
アルトの目が動く。
風でずらすのが最適。
使える。
「風、いきます!」
「出せ」
レオンが返す。
アルトの風が細く走る。
軽量型の軌道がずれる。
ユーリスが足を払う。
倒せる。
だが、制圧数はレオンだけではなく班全体か?
教師の条件はレオンの制圧数制限だった。
ユーリスが倒してもいい。
だが、ここで倒すより標識を進める方が早い。
「倒さない!」
ユーリスが自分で判断し、流すだけにした。
フィーネが進む。
魔法人形が追う。
前衛型二体が中央に集まり始める。
レオンは片方を抑え、もう片方を流す。
倒せる。
だが、倒せない。
制限があるからではない。
今は道を作る役だからだ。
剣を振る。
強くではなく、広く。
相手を倒すためではなく、通すために。
「レオンさん、左が詰まります!」
フィーネの声。
「見えている」
「アルトさん、土は使えますか?」
「使えます!」
「左前衛の足元へ。止めなくていいです、遅らせてください!」
「はい!」
土が走る。
前衛型の足元がわずかに重くなる。
フィーネが標識を抱えたまま抜ける。
到達地点まであと少し。
だが、魔法型を失った分、前衛型二体と軽量型が一気に寄る。
最後の圧。
レオンは一体を倒せる。
残り制圧可能数は一。
どれを倒すか。
前衛型か。
軽量型か。
フィーネを狙う軽量型の方が危険。
だが前衛型を放置すれば道が塞がる。
一瞬の判断。
レオンは前衛型を倒さない。
体で止める。
そして叫ぶ。
「アルト、軽量型を止めろ。属性は?」
「水、使えます!」
「足元だけ」
「はい!」
水が薄く走る。
軽量型の足が滑る。
ユーリスがそれを流す。
レオンは前衛型の一体を、最後に核へ打ち込む。
二体目制圧。
制限内。
道が開く。
フィーネが走る。
標識を台座へ置く。
鐘が鳴った。
課題達成。
◆
訓練棟に、少し遅れて拍手が起きた。
派手な勝利ではない。
だが、難しい条件を越えた。
評価された力を、そのまま守るのではなく、状況に合わせて使った。
教師が近づいてくる。
「第五班」
四人が整列する。
「評価、上」
アルトが小さく息を吐く。
フィーネも安心したように肩を下ろす。
ユーリスは笑っている。
レオンは教師を見る。
「評価された形を守ろうとしなかった点が良い」
教師は言う。
「ヴォルツ。制圧数制限の中で、倒す場面と倒さない場面を選べている」
「はい」
「ルーク。標識を受け取った後も、指示が止まらなかった。良い」
「はい」
「ベルク。標識を渡す判断が早い。保持者を固定しなかった点は評価する」
「はい」
「レイヴン。属性連続使用禁止の中で、土、水、火、風を状況に応じて使えている。ただし水の距離感はまだ課題」
「はい!」
「声は良い」
「あ、はい」
少しだけ笑いが起きた。
教師は全体へ向いた。
「これが評価を使うということだ。前の成功を真似るのではない。前の成功から得たものを、今の課題へ変換する」
その言葉は、訓練棟に深く響いた。
◆
課題後。
第五班は訓練棟の端に集まった。
アルトは手帳を出そうとして、少しだけ止まる。
「今は書かない」
レオンが言う前に、アルトが言った。
レオンは少しだけ目を開く。
「なぜ」
「今は、みんなで話した方がいいと思って」
成長だ。
手帳に逃げていない。
戻る場所として大切にしながらも、今ここにある会話を選んでいる。
ユーリスが嬉しそうに笑う。
「いいね」
フィーネも頷く。
「私も、話したいです」
「なら反省だ」
レオンが言う。
ユーリスがまず口を開く。
「標識をフィーネ嬢に渡したところは良かったと思う。ただ、渡す前に一言、アルトへ次の支援準備を言ってもよかった」
アルトが頷く。
「はい。少し遅れました」
フィーネが言う。
「でも、アルトさんの火が早かったので助かりました」
「火、強くなかったですか?」
「大丈夫でした。薄かったです」
アルトはほっとする。
レオンは言う。
「最後の水も良かった。ただ、距離はまだ少し甘い」
「はい」
「でも、足元だけを狙ったのは良い」
「はい」
アルトの表情が明るくなる。
フィーネが少し迷ってから言う。
「私は、標識を持った時に少し怖かったです。でも、声は止めたくないと思って」
「止まらなかった」
レオンが言う。
「はい」
フィーネは嬉しそうに頷いた。
ユーリスがレオンを見る。
「レオンは?」
「倒したくなった」
正直に言う。
三人が少し笑う。
「だろうな」
ユーリスが言う。
「だが、倒さない方が良い場面が増えている」
「それ、前なら絶対言わなかったよな」
「そうだな」
レオンは認める。
「以前なら、倒せるなら倒した」
フィーネが静かに言う。
「でも、今日のレオンさんは道を作っていました」
「ああ」
道を作る。
倒すだけではなく。
通すために剣を使う。
その感覚は、最近少しずつ増えている。
レオンは自分の手を見た。
剣の意味が、少しずつ変わっている。
◆
昼休み。
食堂では、今日の評価維持演習の話が広がっていた。
「第五班、また上評価」
「でも今日は条件厳しかったらしいぞ」
「アルト、属性連続禁止だったんだろ?」
「それでいけたのか」
「フィーネが標識持っても指示してたらしい」
「ユーリスが標識渡した判断も良かったって」
「レオン、二体までしか倒せない条件でちゃんと抑えたらしい」
「やっぱ第五班、安定してきたな」
安定。
その言葉もまた、重い。
安定していると言われれば、次も安定を求められる。
だが、今日の第五班は少し違った。
その重さを、ただ背負うのではなく、使おうとしている。
食堂の席で、アルトは食後に手帳を開いた。
「書きます」
「書け」
レオンが言う。
アルトは少し考えながら書いた。
評価を守らない。
評価を使う。
手帳は逃げる場所じゃなく、戻る場所。
フィーネも書く。
標識を持っても声を止めない。
ユーリスは。
標識は持ち続けるものじゃなく、渡すものでもある。
レオンは手帳に書く。
剣は倒すためだけではない。
道を作るためにも使える。
その一文を書いた時、少しだけ胸の奥が静かになった。
◆
放課後。
今日は第五班で少しだけ自主練をすることになった。
内容は派手なものではない。
標識の受け渡し。
支援属性の切り替え。
レオンの制圧制限。
つまり、今日の課題で見えたものを、軽く確認する。
訓練棟の片隅。
夕暮れの光が高い窓から差し込む。
他にも数班が残っている。
カイルの第三班も、少し離れた場所で修正練習をしていた。
ハルトの第七班もいる。
最近、放課後の訓練棟には残る生徒が増えた。
合同課題演習が、確実に何かを変えている。
レオンはその光景を見ながら、少しだけ思う。
このまま変われるのなら。
学園は、もっと良くなるのかもしれない。
だが、その考えはすぐに消えた。
変化には反動がある。
今見えているのは、前向きな変化だけではない。
貴族側の違和感。
エリシアの不安。
評価に潰されかけるアルト。
嫉妬や反発。
それらも同時に育っている。
「レオンさん」
フィーネの声で、思考が戻る。
「次、受け渡しお願いします」
「ああ」
ユーリスが標識を持つ。
フィーネへ渡す。
アルトが支援位置を変える。
レオンが魔法人形役として進路を塞ぐ。
地味な練習。
だが、大切だ。
何度も繰り返す。
少しずつ滑らかになる。
ユーリスが途中で言う。
「これ、かなり班っぽい練習だよな」
「班だからな」
レオンが返す。
「そうなんだけどさ」
ユーリスは笑う。
「最初は、ここまでやると思ってなかった」
アルトが頷く。
「俺もです」
フィーネも静かに言う。
「私も」
レオンは少しだけ黙った。
「俺もだ」
その一言に、三人が少し驚いた顔をした。
レオンは視線を逸らす。
「何だ」
「いや」
ユーリスが笑う。
「素直になったなって」
「何度も言うな」
「何度でも言いたくなる」
フィーネが小さく笑う。
アルトも。
その笑いが、訓練棟の夕暮れに溶けた。
◆
帰り道。
中庭には淡い夕日が落ちていた。
雨上がりの名残はほとんど消え、石畳は乾いている。
空は橙色から紫へ変わり始めていた。
四人で歩く。
最近、本当に自然になった。
誰かが無理に合わせているわけではない。
歩幅が少しずつ揃ってきただけだ。
分かれ道の手前で、アルトが言った。
「今日、少しわかりました」
「何がだ」
「評価って、持ち上げられるものだと思ってました」
アルトは手帳を軽く叩く。
「でも、使うものなんですね」
「ああ」
「重いけど、使えたら力になる」
その言葉は、今日のアルト自身の答えだった。
フィーネが頷く。
「私も、怖いままでも声を出せば、次に繋がるんだと思いました」
ユーリスも言う。
「俺は、軽さも使い方次第だな。真面目に軽くする」
「意味がわかりにくい」
レオンが言うと、ユーリスは笑った。
「でも合ってるだろ?」
「まあな」
四人の間に、穏やかな空気が流れる。
その時、回廊の向こうにエリシアの姿が見えた。
彼女はこちらに気づいた。
少しだけ足を止める。
だが今日は近づいてこなかった。
遠くから、静かに会釈するだけ。
レオンも会釈を返す。
距離はある。
だが、拒絶ではない。
見守るような距離。
その距離が、今は少しだけありがたかった。
フィーネはそれを見て、何も言わなかった。
ユーリスも。
アルトも。
ただ四人は、また歩き出した。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
評価維持。
評価を守るな。
評価を使え。
アルト。
評価が残るのが怖い。
手帳は追い詰めるものではなく、戻る場所。
属性連続使用禁止。
土、水、火、風を切り替え。
水の距離感は課題。
評価を使う。
フィーネ。
丁寧にしなければと硬くなる。
標識保持中も指示を出せた。
声を止めない。
ユーリス。
調子に乗らないを意識しすぎる。
標識を渡す判断。
持ち続けるだけが保持ではない。
レオン。
制圧数制限。
倒しすぎない。
道を作る剣。
教師の言葉。
前の成功を真似るのではない。
前の成功から得たものを、今の課題へ変換する。
エリシア。
遠くから会釈。
近づかない距離。
拒絶ではない。
レオンはペンを止めた。
今日も、多くのものが積み上がった。
勝利の余韻はまだ残っている。
だが、そこに評価維持の重さが重なった。
アルトは、自分の評価に怖さを覚えた。
フィーネも、良かった声を守ろうとして硬くなった。
ユーリスも、自分の軽さの扱いに迷った。
レオン自身も、勝利後の評価をどう使うか考え続けている。
評価は、ただ嬉しいものではない。
積み上がるほど、重くなる。
しかし、重いから捨てるのではない。
使う。
それが今日の答えだった。
レオンは最後に一行を書く。
評価が積み上がるほど、逃げ道は少しずつ消えていく。
その下に、もう一行。
だが、逃げ道が消えた先で立つために、積み上げたものは使える。
ペンを置く。
窓の外は夜だった。
学園の灯りが静かに揺れている。
今日も何かが積まれた。
それは強さでもあり、重さでもある。
このまま積み上がれば、いつか支えきれなくなる日が来るのかもしれない。
そんな不安もある。
けれど今は、まだ崩れていない。
第五班は進んでいる。
レオンも、進んでいる。
エリシアも、自分なりの距離で見ようとしている。
カイルも、敗北を抱えて考えている。
ハルトも、次を見ている。
すべてが少しずつ動いている。
その動きの先に何があるのか。
まだわからない。
ただ、レオン・ヴォルツは確かに感じていた。
もう、何も知らなかった頃の場所には戻れない。
評価も、勝利も、信頼も、怖さも。
全部が積み上がっていく。
そしてその積み上がったものの上で、明日もまた剣を握るのだと。
重い。
けれど。
その重さを、今はまだ手放したくなかった。




