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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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28/81

第二十八話


 翌朝。


 雨は止んでいた。


 夜のあいだ降り続いた細い雨は、明け方には雲の向こうへ消え、王立グランセル魔導学園の中庭には、湿った空気だけが残っている。


 石畳はまだところどころ濡れていた。


 朝日が差すたび、薄い水膜が白く光る。


 芝には雨粒が残り、風が吹くたびに小さな雫が跳ねた。


 噴水の水音は、雨の名残と混ざって、いつもより静かに聞こえた。


 レオン・ヴォルツは、寮の窓からその景色を見下ろしていた。


 昨夜の雨音が、まだ耳の奥に残っている。


 そして手帳に書いた言葉も。


 一人で立つ場所に、もう一人だった頃の自分はいなかった。


 だが、誰かと歩いた時間を抱えたままでも、一人で剣は振れる。


 昨日、レオンはカイル・ローダンとの正式評価模擬戦に勝った。


 勝利そのものは、珍しいものではない。


 上位クラスの中でも、レオンは常に高い評価を受けてきた。


 個人戦で勝つことは、以前の自分にとって当然に近かった。


 だが昨日の勝利は、いつもと違った。


 速さで圧倒したわけではない。


 相手を叩き潰したわけでもない。


 受けた。


 見た。


 待った。


 カイルの焦り、踏み込み、力の向き、証明したいという感情まで含めて見た。


 そして、必要な瞬間に取った。


 教師は言った。


 班で得たものを、個人戦へ持ち込めている。


 その言葉は、勝利の歓声よりも深く残っている。


 レオンは自分の手を見た。


 剣を握る手。


 昨日、確かに一人で剣を振った手。


 だが、その手にはもう、フィーネの声も、ユーリスの軽さも、アルトの支援も、第五班で積んだ時間も残っている。


 不思議な感覚だった。


 一人で立った。


 けれど、孤独ではなかった。


 それは強さなのか。


 それとも甘さなのか。


 まだわからない。


 ただ、以前の自分なら感じなかった問いが、勝利のあとに残っている。


 勝った。


 なのに、すべてが晴れたわけではない。


 むしろ、勝ったからこそ、新しい問いが生まれた。


    ◆


 寮を出ると、廊下の空気は昨日よりもずっとざわついていた。


 まだ朝早い。


 それでも、生徒たちの声はあちこちで小さく跳ねている。


 話題は当然、昨日の模擬戦だった。


「レオン、やっぱ勝ったな」

「でも、前みたいな勝ち方じゃなかった」

「受けてたよな、かなり」

「カイルも強かった」

「最後の一本、速すぎて見えなかった」

「教師が、班で得たものを個人戦に持ち込めてるって言ってたらしい」

「それってどういう意味?」

「さあ。でも、弱くなったわけじゃないってことだろ」


 弱くなったわけではない。


 その言葉が、いくつも聞こえた。


 昨日までの噂。


 第五班に寄りすぎて、レオンの剣が鈍ったのではないか。


 その声は、少し勢いを失っている。


 当然だ。


 レオンは勝った。


 個人戦で。


 上位クラスのカイルに。


 けれど、噂は消えたわけではない。


 形を変えただけだ。


「でもさ、あれって結局レオンがすごいだけじゃない?」

「第五班がどうとか言っても、最後は個人で勝つんだな」

「逆に、レオンだけ強すぎるんじゃない?」

「アルトとかフィーネの評価、やっぱりレオンありきなんじゃ……」


 別の声が混ざる。


 レオンは歩きながら、少しだけ息を吐いた。


 正しく評価されたはずなのに、正しく受け取られるとは限らない。


 昨日の題目が、また戻ってくる。


 レオンが個人で勝てば、今度は第五班の力が疑われる。


 第五班で勝てば、レオン個人の力が疑われる。


 結局、見たいように見る者は、どちらを見ても都合よく言う。


 噂を相手に剣は振れない。


 だが、胸の奥がまったく揺れないわけではなかった。


    ◆


 中庭へ出ると、アルト・レイヴンが待っていた。


 彼はいつもの手帳を開いていたが、今日は文字を読んでいるというより、そこに視線を落としているだけのように見えた。


 レオンに気づくと、すぐに顔を上げる。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


 アルトは少しだけほっとした顔をした。


 昨日の模擬戦後から、彼はずっと何かを考えているようだった。


「眠れたか」


 レオンが聞くと、アルトは苦笑する。


「少しだけ」


「何を考えていた」


「昨日の試合です」


 アルトは手帳を閉じた。


「レオンさん、一人で戦ってたのに、一人だけじゃない感じがしました」


 その言葉に、レオンは少しだけ黙る。


 アルトは慌てる。


「あ、変な意味じゃなくて!」


「いや」


 レオンは首を振る。


「俺も少し、そう思った」


 アルトの目が大きく開く。


「本当ですか」


「ああ」


「よかった」


「よかった?」


「俺だけ変な見方をしたのかと思って」


 アルトは少しだけ笑った。


 その笑顔は、昨日までの緊張とは違う。


 安心に近い。


「俺、昨日見てて思ったんです。レオンさんが一人で勝っても、第五班の時間は消えないんだって」


 レオンは、言葉を返さずに聞いた。


「だから、俺たちもちゃんと強くならないとって思いました」


「なぜそうなる」


「だって」


 アルトは手帳を胸元に抱えた。


「レオンさんだけが第五班の時間を剣にできるんじゃなくて、俺たちも自分の中に残さないと、第五班じゃない気がして」


 不器用な言い方だった。


 だが、意味は伝わる。


 レオンだけが変わるのではない。


 レオンだけが何かを得るのではない。


 フィーネも、ユーリスも、アルトも。


 第五班で得たものを、それぞれ自分の力に変える必要がある。


 それは正しい。


「良い考えだ」


 レオンが言う。


 アルトは嬉しそうに頷く。


「手帳に書きました」


「何と」


「第五班の時間を、自分の力にする」


 レオンは少しだけ目を細めた。


 まっすぐな言葉だ。


 少し眩しいくらいに。


「悪くない」


「ありがとうございます」


 アルトは笑った。


 その笑顔を見て、レオンは胸の奥のざらつきが少しだけ薄れるのを感じた。


    ◆


 少し遅れて、フィーネ・ルークとユーリス・ベルクが合流した。


 フィーネは昨日よりも表情が落ち着いている。


 けれど、目元にまだ余韻がある。


 ユーリスはいつもの軽さをまとっているが、視線は周囲をよく拾っていた。


「おはようございます」


「ああ」


「おはよう」


「おはようございます」


 四人が揃う。


 その瞬間、近くにいた生徒たちの視線がまた集まる。


 昨日までとは違う視線。


 興味。


 評価。


 探り。


 それに少しだけ畏れも混じっている。


 レオンがカイルに勝ったことで、第五班へ向けられる視線も変化していた。


「昨日の試合」


 フィーネが小さく言う。


「怖かったですけど、見てよかったです」


「そうか」


「はい」


 一拍。


「レオンさんが、置いていかなかったってわかりました」


 昨日も彼女はそう言った。


 だが今日の声は、少し落ち着いている。


 ちゃんと受け取ったあとの声だった。


 ユーリスが横から言う。


「俺も同じ。昨日のレオン、かなり嫌な剣だった」


「褒め言葉か」


「褒め言葉」


「昨日も聞いた」


「何度でも言うよ。相手からしたら、すごくやりづらいと思う」


 ユーリスは少しだけ真面目になる。


「前のレオンは、多分“強い剣”だった。でも昨日は、“見られてる剣”だった」


「見られている剣?」


「うん。ずっと見られてる感じ。技だけじゃなくて、気持ちの焦りとか、呼吸とか、そういうのまで」


 レオンは黙った。


 ユーリスの言葉は、思ったより鋭い。


 昨日、自分は確かにカイルを見ていた。


 剣筋だけでなく。


 証明したいという感情まで。


「それ、第五班で覚えたんじゃないかな」


 ユーリスが言う。


「俺たちの動きとか、癖とか、怖がってるところとか、そういうのを見るようになったから」


 フィーネが頷く。


「私も、そう思います」


 アルトも頷く。


「俺もです」


 三人にそう言われ、レオンは少しだけ目を伏せた。


 自分ではまだ整理しきれていなかったものを、三人が言葉にしてくれる。


 それが少し照れくさい。


 だが、悪くない。


「……そうかもしれない」


 レオンは答えた。


 フィーネが柔らかく笑った。


    ◆


 教室へ向かう途中、昨日とは違う種類の声が聞こえた。


「カイル、今日は来てるのかな」

「さすがに来るだろ」

「負け認めてたしな」

「でもきついよな、あれ」

「レオン相手にあそこまでやれたなら十分だろ」

「いや、本人は納得してないだろ」


 カイルの名前も多く聞こえる。


 敗者として。


 挑戦者として。


 強かったが届かなかった者として。


 レオンはその声を聞きながら、少し複雑な気持ちになった。


 カイルは負けた。


 だが、弱かったわけではない。


 むしろ強かった。


 昨日の剣は、確かに上位クラスにふさわしいものだった。


 焦りはあった。


 証明したいという感情に飲まれた。


 それでも、彼の剣には積み重ねがあった。


 それを周囲がどう受け取るか。


 そこもまた、評価と受容の問題なのだろう。


 上位クラスの教室に入ると、空気は静かだった。


 昨日のような刺々しいざわめきはない。


 むしろ、レオンが入ってきた瞬間に、少しだけ声が止まる。


 見られている。


 勝者として。


 そして、変わった勝者として。


 レオンは席へ向かう。


 途中、カイル・ローダンの席を見る。


 彼は来ていた。


 机に肘をつき、手を組んで前を見ている。


 表情は硬い。


 だが、逃げてはいない。


 レオンと目が合った。


 しばらく、互いに何も言わなかった。


 やがて、カイルが先に口を開く。


「昨日のことだが」


「ああ」


「俺は負けた」


 教室の何人かが息を呑んだ。


 カイルが、改めて言った。


 昨日だけでなく、今日も。


「だが、納得したわけじゃない」


「そうか」


「納得できないから、考える」


 カイルの声は低い。


「君が何をしたのか。俺が何を見誤ったのか」


 レオンは静かに頷く。


「それがいい」


 カイルの眉が動く。


「上から言うな」


「今はな」


 その返しに、ハルトが隣で小さく吹き出した。


 カイルがそちらを睨む。


「何だ」


「いや、そいつのその言い方、腹立つだろ」


「腹立つな」


「慣れろ」


「慣れたくない」


 珍しく、カイルとハルトの意見が一致した。


 教室の空気が少しだけ緩む。


 ハルトはレオンを見る。


「昨日の剣、悪くなかった」


「お前も言うのか」


「事実だ」


「真似か」


「違う」


 ハルトは顔をしかめる。


 だが、どこか楽しそうでもあった。


「ただ、次に俺がやる時は、ああ簡単には見させない」


「やるつもりか」


「当然だ」


 ハルトは言い切る。


「カイルがやったなら、俺もいずれやる」


 その言葉に、カイルが少し反応した。


「君も?」


「当たり前だ。第五班に負けっぱなしでも、レオンに見られっぱなしでも終われるか」


 負けず嫌い。


 だが、陰湿なものではない。


 前へ向かうための対抗心。


 レオンは少しだけ口元を緩めた。


「待っている」


「待つな。腹が立つ」


「では、進んでいる」


「それも腹が立つ」


 今度はユーリスが笑った。


 フィーネも少しだけ笑っている。


 アルトは目を丸くしていた。


 上位クラスの空気は、昨日とは違っていた。


 完全に良くなったわけではない。


 だが、少しだけ、敗北の受け取り方が変わり始めている。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ書いた。


 勝利後。


 その文字を見た瞬間、教室は静かになった。


 昨日の模擬戦の翌日として、あまりにも直接的な題だった。


「勝利とは、終点ではない」


 教師が言う。


「勝てば終わりではない。勝った後に何を受け取るかで、その勝利の価値は変わる」


 レオンは手元へ書き留める。


 勝った後に何を受け取るか。


「勝者は、慢心することがある」

「勝者は、周囲に利用されることがある」

「勝者は、敗者を見下すことがある」

「勝者は、自分の勝利の意味を見失うことがある」


 一拍。


「敗者だけではない。勝者にも課題は残る」


 教室の視線が、自然とレオンへ集まる。


 教師もそれを隠さない。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がった。


「昨日、お前は勝った」


「はい」


「その勝利から何を受け取った」


 難しい問いだった。


 勝利から何を受け取ったか。


 称賛ではない。


 評価でもない。


 もっと内側の話だ。


 レオンは少し考えた。


 そして答える。


「一人で立つことと、孤独であることは違うということです」


 教室が静まる。


 教師は続きを促すように黙っている。


「昨日、模擬戦で剣を振ったのは俺一人です。ですが、第五班で学んだことが剣の中にありました」


 一拍。


「だから、一人で立つ場でも、これまで得たものを消す必要はないとわかりました」


 フィーネの表情が少し揺れる。


 アルトは手帳を握っている。


 ユーリスは静かに笑っている。


 教師は頷いた。


「良い」


 短いが、重い評価。


 次に教師はカイルを見る。


「ローダン」


「はい」


 カイルが立ち上がる。


「お前は、敗北から何を受け取った」


 教室がまた静まる。


 カイルは少しだけ黙った。


 だが逃げなかった。


「焦りです」


 正直な答えだった。


「第五班に負けたことを、個人で取り返そうとしていました。だから、ヴォルツの剣を見ているようで、自分が勝つ場面ばかり見ていた」


 カイルは言葉を噛みしめるように続ける。


「そこを見誤りました」


 教師は頷く。


「良い」


 カイルは座る。


 その表情は悔しそうだった。


 だが、昨日より少しだけ澄んでいた。


「全員、覚えておけ」


 教師は言う。


「勝利も敗北も、正しく受け取らなければ次へ繋がらない」


 その言葉は、教室全体に深く落ちた。


    ◆


 第一訓練棟。


 今日の課題は、勝敗後連携修正。


 昨日の模擬戦や班演習の結果を受けて、それぞれの班が“勝った後”と“負けた後”の動きを確認する。


 勝った班は、慢心せず基本を維持する。


 負けた班は、焦らず修正する。


 派手な課題ではない。


 だが、昨日の熱を冷まし、次へ進むためには必要な時間だった。


 第五班は、基本連携の確認。


 標識移送。

 魔法人形二体制圧。

 役割は通常通り。


 レオンは前衛。


 フィーネは状況報告。


 ユーリスは標識保持。


 アルトは支援。


 昨日の模擬戦後だからこそ、レオンが前に出すぎないか。


 周囲はそこを見ていた。


 だが、第五班は淡々と動いた。


「右、来ます」


 フィーネの声。


「アルト、足元」


「はい」


 風が細く走る。


 レオンが前衛型を流す。


 ユーリスが標識を動かす。


 いつも通り。


 だが、その“いつも通り”が大事だった。


 昨日の勝利で、レオンが特別に前へ出ることはない。


 第五班は第五班として動く。


 それを示す。


 課題は安定して達成。


 教師が頷く。


「第五班、良い。勝利後も動きが乱れていない」


 その評価に、四人は静かに息を吐いた。


 大きな歓声はない。


 だが、確かな手応えがあった。


    ◆


 次は第三班の修正。


 第五班は見学側に回る。


 カイルの班が区画へ入った。


 昨日の敗北が残っているのか、最初は少し硬い。


 特にカイルは、前に出すぎないよう意識しすぎて動きが鈍っていた。


 教師が止める。


「ローダン。抑えることと鈍ることは違う」


「はい」


 カイルは悔しそうに頷く。


 再開。


 今度は少し良い。


 彼は前へ出る。


 だが、自分だけで取りに行きすぎない。


 支援役へ声をかける。


 標識保持者を待つ。


 ぎこちない。


 だが、変わろうとしている。


 アルトが小さく言う。


「カイルさんも、変わろうとしてますね」


「ああ」


 レオンは頷く。


「敗北を受け取った」


「受け取るって、難しいですね」


「そうだな」


 フィーネが静かに言う。


「勝つことも、負けることも、ちゃんと見るのは怖いです」


 ユーリスが頷く。


「どっちも自分が見えるからな」


 その言葉は、妙に重かった。


 勝っても、自分が見える。


 負けても、自分が見える。


 なら、どちらも逃げずに受け取るしかない。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、昨日ほどの熱狂は少し落ち着いていた。


 だが、レオンとカイルの模擬戦についての会話はまだ残っている。


「カイル、今日普通に来てたな」

「負け認めてたらしい」

「すごいな」

「レオンも、あんまり偉そうにしてない」

「なんか上位クラスの空気、少し変わった?」


 少し変わった。


 その言葉に、レオンは反応した。


 自分だけではない。


 ハルトも変わった。


 カイルも少し変わろうとしている。


 フィーネも、ユーリスも、アルトも。


 そして上位クラス全体の空気も、少しずつ揺れ始めている。


 良い変化なのか。


 それとも、大きな崩れの前兆なのか。


 まだわからない。


 第五班の席で、アルトは今日も食後に手帳を開いた。


「今日は何を書くんだ」


 レオンが聞く。


「勝った後も、いつも通り動く」


「良い」


 フィーネも書いていた。


「私は、勝利後も声を丁寧に、です」


 ユーリスは少し笑う。


「俺は、勝った後に調子に乗らない」


「お前は必要だな」


 レオンが言うと、ユーリスは肩をすくめた。


「否定できない」


 レオンも手帳に書いた。


 勝利後。


 勝ちを特別にしすぎない。


 次の課題を見る。


 その文字を見て、少しだけ落ち着く。


 勝利は大事だ。


 だが、勝利に居座ってはいけない。


 次へ進むために受け取る。


 それでいい。


    ◆


 放課後。


 訓練棟を出ると、空は晴れていた。


 朝の灰色は薄れ、夕暮れの光が校舎を淡い金色に染めている。


 昨日の雨で濡れていた石畳は乾き始め、ところどころに残った水たまりだけが夕日を映していた。


 第五班の四人は、自然と中庭を歩いていた。


 大きな会話はない。


 だが、沈黙は重くない。


 少し疲れて、少し落ち着いた沈黙だった。


「昨日の勝利」


 フィーネがぽつりと言った。


「今日になって、少し受け取れた気がします」


「どういうことだ」


 レオンが聞く。


「昨日は、安心したり、怖かったりで、よくわかりませんでした。でも今日、レオンさんがいつも通り第五班で動いているのを見て」


 一拍。


「本当に大丈夫だったんだって思えました」


 ユーリスが頷く。


「俺も。昨日だけだと、まだ不安だったけどな」


 アルトも言う。


「俺もです」


 三人が同じように感じていた。


 レオンは少しだけ黙る。


 自分では、勝ったことで証明したつもりだった。


 だが、周囲が本当に安心するには、翌日の“いつも通り”が必要だったのかもしれない。


 勝利そのものより、その後にどう動くか。


 今日の講義の意味が、少し深くわかった。


「なら、今日は意味があったな」


 レオンが言う。


 フィーネが微笑む。


「はい」


 その時、少し離れた場所にエリシアの姿が見えた。


 彼女は中庭の回廊を歩いていた。


 侍女はいない。


 レオンに気づくと、足を止める。


 第五班の三人も気づいた。


 空気が少しだけ整う。


 エリシアは静かに近づいてきた。


「レオン様」


「エリシア様」


 短い挨拶。


 エリシアは第五班の三人にも会釈した。


 昨日より、その所作に硬さは少ない。


「今日の課題も拝見しました」


「そうでしたか」


「はい」


 エリシアは少しだけ視線を落とし、それからレオンを見る。


「昨日の勝利で、あなたが遠くへ行ってしまうような気がしていました」


 かなり率直な言葉だった。


 フィーネが少し息を呑む。


 ユーリスも黙る。


 アルトは緊張している。


「ですが、今日の第五班を見て、少しだけわかりました」


 エリシアは続ける。


「あなたは、遠くへ行ったのではなく……持ち帰ったのですね」


 レオンは黙った。


 持ち帰った。


 それは、不思議な表現だった。


「第五班で得たものを、個人戦へ持っていった。そして、個人戦で得たものを、また第五班へ戻した」


 エリシアの声は静かだった。


「そう見えました」


 レオンは少しだけ目を細める。


 エリシアが、見ようとしている。


 不安を抱えたまま。


 それでも、理解しようとしている。


「……そうかもしれません」


 レオンは答えた。


 エリシアは小さく頷く。


「まだ、少し怖いです」


「はい」


「けれど、昨日よりは……少しだけ、受け取れた気がします」


 その言葉に、レオンの胸が静かに揺れた。


 完全にわかり合えたわけではない。


 距離はまだある。


 だが、昨日より少し近い。


 それだけで十分だった。


「ありがとうございます」


 レオンが言うと、エリシアは少しだけ微笑んだ。


「こちらこそ」


 彼女は会釈し、去っていった。


 その背中は、昨日より遠く見えなかった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 勝利後。


 勝利は終点ではない。

 勝った後に何を受け取るかで、価値が変わる。


 レオン。

 一人で立つことと、孤独であることは違う。


 カイル。

 焦り。

 自分が勝つ場面ばかり見ていた。

 敗北を受け取ろうとしている。


 第五班。

 勝利後も基本連携。

 評価、良。

 いつも通り動けたことで、三人が安心した。


 アルト。

 第五班の時間を、自分の力にする。


 フィーネ。

 昨日の勝利を、今日になって受け取れた。


 ユーリス。

 勝った後に調子に乗らない。


 エリシア。

 遠くへ行ったのではなく、持ち帰った。

 昨日より少し受け取れた。


 レオンはペンを止める。


 今日は、勝利そのものよりも、勝利のあとに残ったものを見た日だった。


 拍手は昨日あった。


 驚きも、噂も、評価もあった。


 だが今日残ったのは、それより静かな問いだった。


 勝ったあと、自分はどうするのか。


 敗北した相手をどう見るのか。


 勝利を第五班へどう戻すのか。


 エリシアの不安へどう向き合うのか。


 そして、自分はどこへ向かっているのか。


 答えはまだ完全ではない。


 だが、少しずつ形になっている。


 レオンは最後に一行を書く。


 勝利のあとに残ったのは、拍手よりも静かな問いだった。


 その下に、もう一行。


 その問いから目を逸らさないことが、次の強さになる。


 ペンを置く。


 窓の外は静かだった。


 雨はもう降っていない。


 学園の灯りが、乾き始めた石畳を淡く照らしている。


 昨日の雨は過ぎた。


 だが、空気にはまだ湿り気が残っている。


 勝利も同じだ。


 終わったように見えて、余韻は残る。


 その余韻をどう受け取るか。


 それが、次の自分を作る。


 レオンは手帳を閉じた。


 今日、自分は勝利を少し受け取った。


 フィーネも、ユーリスも、アルトも、エリシアも、カイルも。


 それぞれが、それぞれの形で昨日を受け取ろうとしていた。


 そのことが、少しだけ救いだった。


 まだ何も終わっていない。


 むしろ、これからさらに複雑になるのだろう。


 けれど今夜だけは。


 勝ったことよりも、勝ったあとに戻る場所があったことを、静かに大切にしたいと思った。


 レオンは灯りを落とす。


 暗闇の中で、今日の中庭の光が浮かぶ。


 第五班の笑い声。


 カイルの硬い声。


 エリシアの静かな言葉。


 それらを胸にしまいながら、レオンはゆっくり目を閉じた。


 勝利は、終点ではない。


 その意味を、少しだけ知った朝と夜だった。

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