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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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30/81

第三十話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、淡い青だった。


 雲は薄く、朝日を遮るほどではない。


 中庭の芝にはまだ夜の冷たさが残り、風が吹くたびに、細かな朝露が光を弾いていた。


 噴水の水音は静かで、一定で、昨日までの騒がしさなど知らないように流れ続けている。


 レオン・ヴォルツは、その音を聞きながら寮の廊下を歩いていた。


 手には、いつもの手帳はない。


 鞄の中にしまってある。


 昨日までは、朝に一度読み返すことが多かった。


 だが今日は、あえて読まなかった。


 評価を守るな。


 評価を使え。


 昨日の教師の言葉と、自分で書いた言葉は、すでに胸に残っている。


 評価が積み上がるほど、逃げ道は少しずつ消えていく。


 だが、逃げ道が消えた先で立つために、積み上げたものは使える。


 その言葉を、今朝は手帳ではなく自分の中で確かめた。


 読まなくても思い出せる。


 それは、少しだけ前進のように感じた。


 けれど同時に、重さもある。


 書いた言葉が、もう紙の上だけではなくなっている。


 自分の考えとして、行動の中に沈み始めている。


 それはいいことなのだろう。


 だが、逃げにくくなることでもあった。


 レオンは階段を降りる。


 石造りの壁に、朝の光が細く差し込んでいた。


 学園はいつも通りだ。


 だが、自分たちはもういつも通りではない。


 第五班は、ただの合同課題演習班ではなくなり始めている。


 上評価を重ねた班。


 個別評価でも成果を残した班。


 レオン個人の勝利後も崩れなかった班。


 評価された形を守るのではなく使った班。


 そう見られ始めている。


 その視線は、期待であり、圧であり、時に嫉妬でもある。


 評価は積み上がった。


 だからこそ今日、何かがまた変わる気がしていた。


    ◆


 中庭へ出ると、アルト・レイヴンがいた。


 今日も早い。


 けれど、いつもと少し違う。


 手帳を開いていない。


 胸元で握ってもいない。


 鞄の中にしまっているらしい。


 彼は噴水の近くに立ち、両手を軽く握ったり開いたりしながら、深呼吸をしていた。


 レオンに気づくと、顔を上げる。


「おはようございます」


 声は落ち着いていた。


 大きすぎず、小さすぎず。


 きちんと届く声。


「ああ、おはよう」


 レオンは頷く。


「手帳は読まないのか」


 アルトは少しだけ笑った。


「読みませんでした」


「なぜ」


「昨日、手帳は戻る場所って言われたので」


 一拍。


「今日は、戻る前にまず立ってみようと思って」


 その言葉に、レオンは少しだけ目を細めた。


 アルトは確かに変わっている。


 手帳を必要としなくなったわけではない。


 むしろ、大切にしている。


 だが、手帳に寄りかかりすぎないようにしている。


 自分で立とうとしている。


「良い判断だ」


 レオンが言うと、アルトの表情が明るくなる。


「ありがとうございます」


「ただし、揺れたら使え」


「はい」


「戻る場所は、使わないことが偉いわけではない」


「はい」


 アルトは素直に頷いた。


 以前なら、この会話だけでかなり緊張していたかもしれない。


 今は、受け取っている。


 その変化が見える。


 だからこそ、レオンは少し怖くなる。


 人が変わる瞬間を近くで見ると、その人が傷つく未来まで想像してしまう。


 以前の自分にはなかった感覚だった。


「おはようございます」


 柔らかい声がした。


 フィーネ・ルークだった。


 今日は髪をいつもよりしっかり結んでいる。


 訓練を意識しているのだろう。


 表情は落ち着いているが、目の奥に少し緊張がある。


「おはよう」


「おはようございます、フィーネさん」


 アルトが返す。


 フィーネはアルトを見て、少し微笑んだ。


「今日は手帳、持っていないんですか?」


「鞄にはあります。でも、朝は読まないで来ました」


「そうなんですね」


「フィーネさんは?」


 アルトに聞かれ、フィーネは少しだけ頬を緩めた。


「私も、今日は読みませんでした」


「え」


「昨日の“声を止めない”は、もう覚えていますから」


 小さな言葉。


 だが、確かな自信がある。


 レオンは静かに頷いた。


 そこへ、ユーリス・ベルクが少し遅れてやって来る。


「おはよう。何だ、今日はみんな手帳離れの日?」


「そういうわけではない」


 レオンが返す。


 ユーリスは笑う。


「俺も今日は紙見てない」


「理由は」


「調子に乗らないって書いた紙を見すぎると、逆に調子に乗るから」


「意味がわからない」


「いや、わかるだろ?」


 ユーリスは肩をすくめる。


「俺の場合、“俺は調子に乗らないよう気をつけてるぞ”って調子に乗りそうなんだよ」


 アルトが真剣に考え込む。


「難しいですね」


「真面目に受け取らなくていい」


 フィーネが少し笑う。


 レオンも、ほんの少し口元を緩めた。


 四人が揃う。


 朝の空気の中で、少しだけ自然に。


 その自然さが、レオンには眩しかった。


    ◆


 東棟へ向かう道で、周囲の声が聞こえる。


「第五班、今日も揃ってる」

「最近、見慣れたな」

「昨日の評価維持演習も上だったらしいぞ」

「もう完全に優良班じゃん」

「教師側も注目してるんじゃない?」

「次、何か特別課題出されそう」


 特別課題。


 その言葉が、レオンの耳に残った。


 嫌な予感と、どこか納得が同時にある。


 第五班は評価されている。


 なら、学園側は次の段階を見るはずだ。


 普通の班と同じ課題ではなく、評価が積み上がった班にふさわしい課題。


 それは当然だ。


 だが、そうなればもう逃げられない。


 第五班は特別に見られる。


 特別に試される。


 その瞬間、日常はまた少し逃げ場を失う。


 フィーネもその声を聞いたのだろう。


 歩幅がわずかに乱れた。


 ユーリスが気づく。


「フィーネ嬢」


「はい」


「足、半歩速い」


「あ……」


 フィーネは少し慌てて歩幅を戻す。


「すみません」


「謝ることじゃない」


 レオンが言う。


「気づけば戻せる」


「はい」


 アルトも小さく言う。


「俺も、特別課題って聞いて少し怖くなりました」


「お前は顔に出るな」


 ユーリスが言う。


「え、出てました?」


「かなり」


 アルトが両手で頬を押さえる。


 フィーネが小さく笑った。


 その笑いで、少し空気が軽くなる。


 レオンは短く言った。


「特別だろうが、課題は課題だ」


 三人がこちらを見る。


「今日も見るものは変わらない」


「はい」


「了解」


「はい」


 それで、足取りが少し落ち着いた。


    ◆


 上位クラスの教室に入ると、すでに空気は違っていた。


 ざわめきが低い。


 期待と緊張が混ざった音。


 教室の前方には、いつもより早く教師が来ていた。


 その時点で、何かあるのは明らかだった。


 レオンは席へ向かう途中、ハルト・グレイナーと目が合う。


 ハルトは眉を寄せている。


「やはり来たな」


 ハルトが小声で言った。


「何がだ」


「教師が朝から資料を持っている」


 たしかに、教壇の上にはいつもより厚い資料束があった。


 カイル・ローダンも前方の席でそれを見ている。


 彼の表情は昨日より落ち着いているが、警戒はある。


 レオンは席に座る。


 フィーネは少し後ろの席。


 ユーリスは隣列。


 アルトは下位クラスのためこの場にはいない。


 だが、第五班として呼ばれることがあるなら、後で合流するだろう。


 教師が教室を見渡した。


 いつもより早く、講義が始まる。


「本日より、合同課題演習は後半に入る」


 教室が静まり返った。


 後半。


 その言葉だけで、空気が変わる。


「これまでの演習は、各班の基礎連携、分断対応、評価受容、外圧対応を確認するものだった」


 教師は淡々と言う。


「ここからは、評価上位班に対し、追加課題を与える」


 やはり。


 教室中の視線が、いくつかの班へ向く。


 第五班。


 第七班。


 第三班。


 他にも評価を積み上げている班がある。


 だが、その中心に第五班がいるのは明らかだった。


「追加課題は、通常課題より難度が高い。班員全員の同意と、教師の判断によって実施する」


 誰かが息を呑む。


 教師は黒板へ文字を書いた。


 特別評価課題。


 レオンの胸の奥が、静かに重くなる。


「これは栄誉ではない」


 教師は強く言った。


「特別扱いでもない。評価を積んだ班が、その評価を次の実践へどう繋げるかを見る課題だ」


 一拍。


「だが、周囲はそうは見ないだろう」


 その言葉が重い。


 教師はわかっている。


 特別評価課題に選ばれることが、どう見られるか。


 羨望。


 嫉妬。


 期待。


 失敗を待つ視線。


 全部が集まる。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


 今日も呼ばれる予感はあった。


「第五班は、追加課題候補に入っている」


 教室がざわつく。


 わかっていた。


 だが、実際に言われると響きが違う。


「お前は中心者として、この扱いをどう受け取る」


 難しい問いだった。


 特別扱いされること。


 評価上位班として扱われること。


 それをどう受け取るか。


 レオンは少しだけ間を置いた。


「逃げないように受け取ります」


 教室が静かになる。


 教師が続きを待つ。


「特別扱いだと思えば慢心します。罰だと思えば萎縮します」


 一拍。


「だから、これまで積み上げた評価を使う場として受け取ります」


 教師は目を細める。


「班員の負担は」


「増えます」


 レオンは即答した。


「だから、俺だけで決めるべきではありません。第五班全員で受け取る必要があります」


 その答えに、教師は静かに頷いた。


「良い」


 短い評価。


「本日午後、第五班には特別評価課題の説明を行う。実施は明日以降だ」


 教室がまたざわつく。


 明日以降。


 つまり、今日は説明。


 逃げる時間ではない。


 受け取る時間だ。


 教師は続けた。


「他の候補班も順次呼ぶ。浮き足立つな。午前の通常課題を崩す班に、追加課題を受ける資格はない」


 その言葉で、教室の空気が引き締まった。


    ◆


 講義後。


 訓練棟へ向かう途中、フィーネとユーリスが自然とレオンの近くに来た。


 アルトも下位クラス側から合流する。


 彼はすでに話を聞いていたのか、少し顔が強張っている。


「追加課題候補って、本当ですか」


「ああ」


 レオンが答える。


 アルトは息を吸う。


「第五班が……」


「まだ実施決定ではない」


 ユーリスが言う。


「説明を聞いて、同意して、それからだろ」


「でも、候補に入ったんですよね」


 アルトの声には、不安と少しの誇らしさが混じっていた。


 フィーネも似た表情をしている。


 怖い。


 でも、認められたことは嬉しい。


 その両方。


 レオンは三人を見る。


「俺だけでは決めない」


 三人がこちらを見る。


「説明を聞いた後、全員で決める」


 フィーネが小さく頷く。


「はい」


 ユーリスも。


「それがいい」


 アルトは少し驚いた顔をした。


「俺も、ですか」


「当然だ」


 レオンは即答する。


「第五班の課題だ」


 アルトの目が揺れる。


 そして、ゆっくり頷いた。


「はい」


 その返事に、少し力が入っていた。


    ◆


 第一訓練棟。


 午前の通常課題は、比較的シンプルなものだった。


 魔法人形三体の制圧と標識移送。


 だが、今日の本当の課題はそこではない。


 午後に特別評価課題の説明がある。


 その前に、通常課題で崩れないか。


 浮き足立たないか。


 そこを見られている。


 第五班は区画へ入った。


 周囲の視線が、普段より明らかに多い。


「第五班、候補らしいぞ」

「ここで崩れたら笑えないな」

「いや、さすがに安定するだろ」

「アルト、緊張してない?」

「フィーネも顔硬いな」


 声が飛ぶ。


 見学役ではない。


 ただの周囲の雑音。


 だが、外圧に近い。


 アルトの肩が少し硬い。


 フィーネの呼吸も浅い。


 ユーリスは平静を装っているが、いつもより口数が少ない。


 レオンは三人を見た。


「午後の説明は、今の課題ではない」


 三人がこちらを見る。


「今は標識と魔法人形を見る」


「はい」


「了解」


「はい」


 教師の手が上がる。


「開始」


    ◆


 魔法人形が起動する。


 前衛型一体。


 軽量型一体。


 魔法型一体。


 標識は中央奥。


 いつもより難度は低い。


 だが、緊張があれば崩れる。


 レオンは前へ出る。


 前衛型を受ける。


 倒せる。


 だが、今は道を作る。


「フィーネ」


「右、軽量型が回ります。アルトさん、土で足元を」


「はい!」


 アルトの土が走る。


 少しだけ広い。


 緊張している。


 だが、機能している。


 軽量型の足が遅れる。


 ユーリスが標識へ向かう。


 魔法型が詠唱。


 フィーネが少し遅れかける。


 しかし自分で息を吸う。


「魔法型、詠唱短いです! レオンさん、正面より右を優先してください!」


「わかった」


 レオンは前衛型を流し、魔法型へ圧をかける。


 倒さない。


 詠唱だけを乱す。


 アルトが水を薄く足元へ伸ばす。


 良い。


 ユーリスが標識を確保。


 戻る。


 軽量型が追う。


 ユーリスが叫ぶ。


「アルト、風ちょうだい。押すんじゃなくて、足場!」


「はい!」


 風が細く入る。


 ユーリスの足取りが安定する。


 フィーネが到達地点を確認。


 レオンが前衛型を押し返す。


 標識設置。


 鐘が鳴る。


 課題達成。


 派手ではない。


 だが、崩れなかった。


 教師が頷く。


「第五班、評価、良。午後の件を意識しすぎず動けている」


 その言葉に、四人は静かに息を吐いた。


 これで、少なくとも午前は守れた。


 いや、守ったのではない。


 使った。


 これまで積んだものを。


    ◆


 課題後、訓練棟の端で短く反省する。


 アルトが先に言った。


「土、少し広かったです」


「緊張か」


 レオンが聞く。


「はい。でも、止まらなかったです」


「ならいい。次は狭く」


「はい」


 フィーネも言う。


「私は魔法型の詠唱報告が少し遅れました。でも、途中で戻れました」


「戻れていた」


 ユーリスが頷く。


「俺は午後のこと考えた瞬間があった。標識取る前に」


「俺もだ」


 レオンが言うと、三人が少し驚いた。


「レオンさんも?」


 アルトが聞く。


「ああ。前衛型を受けた時に、午後の説明を考えた」


「でも、すぐ戻りましたよね」


 フィーネが言う。


「課題を見た」


 レオンは短く答える。


 ユーリスが笑う。


「やっぱり合言葉強いな」


 課題を見る。


 何度も使ってきた言葉。


 最初はレオンが言っていた。


 今は第五班全員が戻るための言葉になっている。


    ◆


 昼休み。


 食堂は、午前から特別評価課題の話題でいっぱいだった。


「第五班、候補だって」

「第七班も候補らしいぞ」

「第三班は?」

「カイルのところも候補には入ってるって」

「でも最初は第五班じゃない?」

「平民特待生入りで特別評価課題って、すごいな」

「失敗したら一気に叩かれそう」


 失敗したら。


 その声は自然に出ている。


 期待と同時に、失敗への興味もある。


 レオンは食事を取りながら、それを聞いていた。


 フィーネは少し硬い。


 アルトも食べる速度が遅い。


 ユーリスはあえていつも通りに振る舞っている。


「午後の説明、何だと思う?」


 ユーリスが聞く。


「総合課題の上位版だろう」


 レオンが答える。


「護衛、制圧、分断、外圧、評価維持。全部混ぜてくる可能性が高い」


 アルトの顔が少し青くなる。


「全部……」


「可能性だ」


 フィーネが静かに言う。


「でも、あり得ますね」


「怖い?」


 ユーリスが聞く。


 フィーネは少し考えてから頷いた。


「怖いです。でも、少し……受けてみたい気持ちもあります」


 その言葉に、アルトが顔を上げる。


「フィーネさんもですか?」


「はい」


「俺も、怖いです。でも……候補に入ったなら、逃げたくない気持ちもあります」


 ユーリスが笑う。


「俺も同じ」


 三人がレオンを見る。


 レオンは少しだけ沈黙した。


「俺もだ」


 短く答える。


 それだけで、三人の表情が少し変わった。


 怖い。


 だが、逃げたくない。


 その気持ちは、四人とも同じだった。


    ◆


 午後。


 第一訓練棟の奥にある小会議室へ、第五班は呼ばれた。


 普段、生徒が入ることは少ない部屋だ。


 石造りの壁に、演習用の配置図がいくつも貼られている。


 中央には大きな机。


 その上に、訓練区画の立体模型が置かれていた。


 教師が一人、すでに待っている。


 いつもの戦術教師だ。


 彼は四人を見て、静かに言った。


「座れ」


 四人は席に着く。


 部屋の空気は、訓練棟とは違って静かだった。


 外のざわめきが遠い。


 その静けさが、逆に重い。


 教師は資料を広げた。


「第五班へ提示する特別評価課題は、救援護送型総合演習だ」


 救援護送。


 その言葉だけで、難度が伝わる。


「想定状況はこうだ」


 教師は模型を指す。


「市街地型区画内で、魔法人形による襲撃が発生。第五班は区画内に取り残された負傷者役二名を発見し、安全地点まで護送する」


 護衛だけではない。


 救援。


 負傷者役の探索。


 市街地型区画。


「加えて、区画内には妨害役として上位班一組が入る」


 アルトが息を呑む。


 フィーネも表情を引き締める。


 ユーリスが小さく呟く。


「やっぱり複合か」


 教師は続ける。


「魔法人形は通常より多い。分断壁あり。視界制限あり。外圧音声あり。負傷者役は自力移動不可として扱う」


 重い。


 明らかにこれまでより難しい。


「成功条件は、負傷者役二名の護送完了。標識確保ではない」


 一拍。


「制圧数は評価対象ではあるが、目的ではない」


 レオンは模型を見つめる。


 負傷者を救う。


 運ぶ。


 守る。


 妨害を受ける。


 分断される。


 これまでの全部が入っている。


 しかも標識ではない。


 人だ。


 もちろん演習では負傷者役の生徒か人形だろう。


 だが、心理的負荷は標識とは違う。


 フィーネが小さく手を握る。


 アルトも真剣な顔だ。


「この課題を受けるかどうかは、班全員で決めろ」


 教師が言う。


「拒否しても評価減点はない。ただし、受ければ周囲からさらに注目される。失敗すれば、それも見られる」


 正直な説明だった。


「今日中に答えを出す必要はない。明日の朝までに決めろ」


 教師は四人を見た。


「質問は」


 沈黙。


 誰もすぐには言えなかった。


 内容が重すぎる。


 やがて、レオンが口を開く。


「妨害役の班は、どこですか」


「未定だ。受諾後に決める」


「負傷者役は生徒ですか」


「一名は生徒、一名は重量人形を予定している」


 つまり、心情と物理負荷の両方を見る。


 フィーネが手を上げる。


「負傷者役の状態変化はありますか」


「ある。時間経過で状態悪化の判定を行う」


 ユーリスが息を吐く。


「時間制限ありか」


「明示はしない。だが遅れれば評価は下がる」


 アルトが小さく手を上げる。


「支援魔法で負傷者役を動かすのは可能ですか」


「可能。ただし乱暴な移動は減点対象。負傷者を物として扱うな」


 その言葉は重かった。


 負傷者を物として扱うな。


 標識とは違う。


 運べばいいわけではない。


 守り、扱い、声をかけ、状態を見る必要がある。


 教師は最後に言った。


「これは、第五班が次へ進めるかを見る課題だ」


 一拍。


「よく考えろ」


    ◆


 小会議室を出た後、四人はしばらく無言だった。


 訓練棟の廊下を歩く。


 外では他の班が訓練している声が聞こえる。


 木剣の音。


 魔法の発動音。


 教師の指示。


 それらが、どこか遠く感じた。


 救援護送型総合演習。


 負傷者二名。


 妨害班。


 分断壁。


 視界制限。


 外圧音声。


 状態悪化。


 重い。


 今までの課題とは、明らかに一段違う。


 標識ではない。


 人を扱う。


 その差が、四人の間に沈黙を落としていた。


 中庭まで出たところで、ユーリスがようやく口を開く。


「……重いな」


「ああ」


 レオンは頷く。


 フィーネは顔を伏せていた。


「怖いです」


 小さく言う。


「標識なら、落としても拾えます。でも、人だと思うと……」


 アルトも頷く。


「俺、支援を強く出しすぎたらって考えました」


「俺も」


 ユーリスが言う。


「標識持つのとは違う。負傷者役を抱えたら、たぶん動きが変わる」


 三人がそれぞれ怖さを言葉にする。


 レオンは、それを黙って聞いた。


 そして言う。


「受けるかどうかは、今決めない」


 三人がこちらを見る。


「今日は考える。明日の朝、もう一度話す」


 ユーリスが頷く。


「その方がいい」


 フィーネも。


「はい」


 アルトも。


「わかりました」


 その場で勢いで受けることはしない。


 逃げるわけでもない。


 考える。


 それもまた、今の第五班らしい判断だった。


    ◆


 放課後。


 今日は自主練をしなかった。


 誰からともなく、そうなった。


 訓練するよりも、考える時間が必要だった。


 四人は中庭をゆっくり歩いた。


 夕方の光が、芝を淡く染めている。


 噴水の水音は、朝より少し柔らかく聞こえた。


「もし受けたら」


 アルトが言う。


「俺、今までで一番怖いです」


「俺もだ」


 レオンは答えた。


 アルトが驚いた顔をする。


「レオンさんも?」


「ああ」


「……少し安心しました」


「安心?」


「怖いのが俺だけじゃないって思えたので」


 フィーネも静かに頷く。


「私も怖いです。でも、もし受けるなら……ちゃんと声を出したいです」


 ユーリスは空を見上げる。


「俺は、負傷者役を持ったら軽口叩けるかわからないな」


「無理に叩く必要はない」


 レオンが言う。


「必要なら叩く」


「そうだな」


 ユーリスは笑った。


「真面目に軽くする、だ」


 その言葉に、フィーネが少し笑った。


 重い話の中で、小さな笑いがある。


 それが第五班だった。


 分かれ道で、アルトが手帳を取り出した。


 だが、開かない。


「帰ってから書きます」


「何を」


 レオンが聞く。


「怖い。でも考える、って」


 レオンは頷いた。


「良い」


 アルトは小さく笑い、下位クラス寮の方へ歩いていった。


 ユーリスも別れ際に言う。


「今日はちゃんと寝ろよ、レオン」


「お前もな」


「俺は寝るの得意だから」


「そうか」


 ユーリスは軽く手を振って去っていく。


 残ったフィーネは、少しだけレオンの隣にいた。


「レオンさん」


「何だ」


「受けたいですか」


 問いは静かだった。


 レオンはすぐには答えなかった。


 噴水の水音が響く。


 夕暮れの風が、二人の間を通り抜ける。


「怖い」


 まず、そう言った。


 フィーネは頷く。


「はい」


「だが、逃げたくはない」


 フィーネの目が少し揺れる。


「私もです」


 その言葉だけで、今は十分だった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは机に向かい、手帳を開いた。


 今日は、いつもより長く沈黙した。


 書くべきことは多い。


 だが、簡単に言葉にできなかった。


 特別評価課題。


 救援護送型総合演習。


 負傷者役二名。

 一名は生徒。

 一名は重量人形。

 自力移動不可。

 時間経過で状態悪化。

 妨害役上位班。

 分断壁。

 視界制限。

 外圧音声。

 目的は制圧ではなく護送。


 拒否しても評価減点なし。

 ただし、受ければ注目される。

 失敗も見られる。


 レオンはペンを止める。


 標識とは違う。


 人を運ぶ。


 人を守る。


 それは、第五班にとって大きな意味を持つ課題だ。


 今までレオンは、守るものが増えるほど剣が重くなると書いた。


 今回は、その言葉が演習そのものになる。


 守る対象が明確に存在する。


 しかも、状態が悪化する。


 迷っている時間も評価に響く。


 誰を先に救うか。


 誰が運ぶか。


 誰が守るか。


 妨害にどう対応するか。


 もし分断されたら。


 もし負傷者役を抱えた状態で攻撃されたら。


 もしアルトの支援が強すぎたら。


 もしフィーネが声を出せなくなったら。


 もしユーリスが軽さを失ったら。


 もし自分が、倒すことを優先してしまったら。


 考えるほど、重い。


 だが、逃げたくない。


 それも本当だった。


 レオンは最後に一行を書く。


 特別扱いされた瞬間、日常は少しだけ逃げ場を失う。


 その下に、もう一行。


 だが、逃げ場が減った場所で何を選ぶかが、今の自分たちを映す。


 ペンを置く。


 窓の外は夜。


 学園の灯りが静かに揺れている。


 明日の朝、第五班で話す。


 受けるか。


 受けないか。


 どちらを選んでも、きっと重い。


 だが、一人では決めない。


 そのことだけは決めている。


 レオンは手帳を閉じた。


 第五班は、ここまで来た。


 評価され、試され、見られている。


 温かい日常は、少しずつ逃げ場を失っている。


 それでも。


 あの三人となら、逃げ場がない場所でも立てるかもしれない。


 そう思っている自分がいた。


 それは甘さかもしれない。


 だが、今のレオンにとっては、確かな力でもあった。


 灯りを落とす。


 暗闇の中、明日の問いが胸に残る。


 受けるのか。


 受けないのか。


 答えはまだ出ていない。


 ただ、レオンは目を閉じながら思った。


 明日、自分一人ではなく、第五班としてその問いの前に立つのだと。

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