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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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第二十二話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、久しぶりに澄んでいた。


 昨日の薄雲は夜のうちに流れ去り、朝日が校舎の尖塔を金色に染めている。


 石造りの壁は冷たい光を反射し、中庭の芝には小さな朝露が残っていた。


 噴水の水音が、柔らかく響く。


 何も起きていない朝。


 いつも通りの学園。


 だが、レオン・ヴォルツには、その穏やかさが少しだけ眩しく感じられた。


 昨夜、手帳に書いた言葉。


 変わったと言われるたび、戻れない場所が増えていく。


 だが、戻れない場所が増えるからこそ、進んできた道も確かに残る。


 その文字を、朝にもう一度読み返した。


 そして思った。


 自分は、もう本当に少し戻れなくなっている。


 以前の自分なら、朝の支度を済ませ、教室へ向かい、上位クラスの席で静かに今日の課題を確認していただろう。


 周囲の評価を受け取り、期待を背負い、家名にふさわしい振る舞いを選んでいた。


 それで十分だった。


 それが自然だった。


 だが今は違う。


 廊下でアルトが声量を間違えないか気になる。


 ユーリスの肩が本当に大丈夫か気になる。


 フィーネがエリシアの言葉をまだ気にしていないか気になる。


 ハルトの班が今日どう動くかも、少しだけ気になる。


 余計なものが増えた。


 そう言えば、確かにそうだ。


 けれど、それを余計だと切り捨てる気にはなれない。


 レオンは制服の袖を整え、鏡の前に立った。


 灰色の制服。


 胸元の銀糸徽章。


 上位クラスの証。


 そこに映る自分は、以前と大きく変わっているようには見えない。


 姿勢も、顔つきも、家名にふさわしいよう整えている。


 だが内側は違う。


 少しずつ、確かに変わっている。


「最後に選ぶのは自分、か」


 小さく呟く。


 その言葉は、今日も必要だった。


    ◆


 寮を出て中庭へ向かうと、朝の空気は少し冷たかった。


 けれど、嫌な冷たさではない。


 肺に入ると、頭が少しだけ冴えるような冷たさだ。


 石畳を歩く生徒たちの声が、あちこちから聞こえる。


 合同課題演習の期間に入ってから、学園の朝は少し賑やかになった。


 班単位で集まる者。


 昨日の反省を口にする者。


 今日の課題を予想する者。


 普段なら話さないクラスの生徒同士が、ぎこちなく言葉を交わす姿もある。


 変化しているのは、自分だけではない。


 学園そのものも、少しだけ変わっている。


「おはようございます」


 声がした。


 大きすぎない。


 ちょうどいい声だった。


 レオンは振り向く。


 アルト・レイヴンが立っていた。


 少し緊張した顔。


 けれど昨日より落ち着いている。


 右手には、小さな手帳のようなものを持っていた。


「良い声量だ」


 レオンが言うと、アルトの顔がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます」


「もう自分で調整できるようになったな」


「まだ気を抜くと大きくなります」


「自覚しているならいい」


 アルトは頷いた。


 そして、少しだけ照れたように手帳を見せる。


「昨日、ちゃんと買いました。紙じゃなくて、手帳」


 革ではなく、簡素な布張りの手帳だった。


 下位クラスの生徒が使うには、少し背伸びした品かもしれない。


 だが、アルトは大事そうに持っている。


「続けるつもりか」


「はい」


 迷いのない返事だった。


「忘れたくないので」


 昨日も言っていた言葉。


 レオンは少しだけ目を細める。


「何を忘れたくない」


「できたことと、できなかったことです」


 アルトは手帳を胸元へ寄せる。


「できなかったことだけ覚えてると、怖くなります。でも、できたことだけ覚えてると調子に乗る気がして」


 一拍。


「だから、両方書こうと思って」


 その言葉は、思ったよりも良かった。


 レオンは静かに頷く。


「良い考えだ」


 アルトは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、レオンは少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


 誰かが前へ進もうとしている。


 それを近くで見る。


 少し前までなら、ただ警戒するだけだったかもしれない。


 だが今は、その変化が少し嬉しい。


「おはよう、二人とも」


 後ろからユーリスが来た。


 今日は肩に冷却布はない。


 見たところ、動きも悪くない。


「肩は」


 レオンが聞く前に、ユーリスが苦笑した。


「大丈夫。もう先に言う。肩は平気」


「ならいい」


「本当に保護者みたいになってきたな」


「誰がだ」


「レオンが」


「妙なことを言うな」


 アルトが少し笑う。


 そこへフィーネも合流した。


 今日は少しだけ髪を結び直している。


 風で崩れないようにしたのだろう。


 小さな変化だが、演習を意識していることがわかった。


「おはようございます」


「ああ」


「おはよう、フィーネ嬢」


「おはようございます、ユーリスさん、アルトさん」


 四人が自然に揃う。


 誰かが呼び集めたわけではない。


 けれど、朝の廊下を四人で歩くことが当たり前になりつつある。


 その当たり前が、少し眩しかった。


    ◆


 東棟へ向かう廊下では、今日も第五班の話題が聞こえた。


「第五班、今日も一緒だ」

「最近ほんと馴染んでるな」

「アルト、もう完全に混ざってない?」

「フィーネも前より声出るようになったよな」

「ユーリスも支援上手いし」

「レオンが変わったのが一番大きいだろ」


 変わった。


 やはり、聞こえる。


 だが、今日はその言葉よりも、隣のフィーネの表情の方が気になった。


 フィーネは少しだけ視線を落としている。


 昨日のエリシアの言葉。


 それがまだ残っているのだろう。


 レオンは歩きながら短く言った。


「フィーネ」


「はい」


「課題を見る」


 フィーネは少し驚いたように顔を上げる。


 それから、ゆっくり頷いた。


「はい」


 ただそれだけ。


 だが、それで少し彼女の表情が戻った。


 ユーリスがそれを横目で見て、何も言わずに話題を変える。


「今日の課題、地味なやつだといいな」


「地味な方が難しい場合もある」


 レオンが返す。


「そういう現実的なこと言うなよ」


「現実だ」


「たまには、今日は楽勝だな、とか言ってみない?」


「油断する理由がない」


「だよなぁ」


 アルトが真面目に頷く。


「俺も油断しません」


「アルトは少し肩の力を抜け」


 ユーリスが言う。


「どっちですか?」


「油断はするな。でも硬くなるな」


「難しいです」


「そう。難しいんだよ」


 そのやり取りに、フィーネが少し笑った。


 レオンはそれを見て、ほんの少し安心した。


    ◆


 上位クラスの教室に入ると、ハルト・グレイナーがすでに席についていた。


 彼は手元の紙を見ている。


 おそらく、自分の班の反省だろう。


 以前なら、こうして一人で反省を書く姿など想像しにくかった。


 取り巻きに囲まれ、苛立ちを隠さず、他人の失敗を責めていたはずだ。


 だが今は違う。


 周囲の生徒たちも、それを少し不思議そうに見ている。


 レオンが席へ向かう途中、ハルトが顔を上げた。


「ヴォルツ」


「何だ」


「昨日の交差地点の判断だが」


「ああ」


「俺の班でも話した」


「そうか」


「……防御型の奴が、少し嬉しそうだった」


 ハルトは言いにくそうに言った。


「自分の障壁が他班の役に立ったから、だと」


 レオンは黙って聞いていた。


「俺は、あいつを今まで壁としてしか見ていなかったのかもしれない」


 その言葉は、ハルトにとって重いものだったはずだ。


 壁。


 防御型。


 役割としては正しい。


 だが、人として見ていなかったという気づき。


 レオンにも覚えがある。


 自分も、少し前まで班員を手足のように使う感覚に近かった。


 教師に言われた。


 彼らを自分の手足にすることではない。


 自分で動くための場を作れ、と。


「気づいたなら、次に変えればいい」


 レオンは言った。


 ハルトは少しだけ眉を寄せる。


「簡単に言うな」


「簡単ではない」


「なら言うな」


「だが、やるしかない」


 ハルトはしばらく黙る。


 そして、小さく笑った。


「本当に嫌な奴だな」


「よく言われる」


「だが、悪くない」


 その返しに、レオンは少しだけ目を開いた。


 ハルトがレオンの言葉を真似た。


 それに気づいた周囲の数人も、少し驚いた顔をしている。


 ハルトはすぐに視線を逸らした。


「今のは忘れろ」


「覚えておく」


「忘れろと言った」


「必要な反省だ」


「お前は本当に……」


 ハルトは呆れたように息を吐いた。


 だが、以前のような棘はなかった。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板に書いた。


 日常化。


 その言葉に、教室の生徒たちが少し首をかしげる。


 演習とは関係が薄そうに見えたからだ。


 だが、レオンには少しだけわかった。


 合同課題演習が始まってから、変化が続いている。


 その変化が日常になり始めている。


 それは良いことでもあり、危ういことでもある。


「人は、特別なことに集中する時より、それが日常になり始めた時に油断する」


 教師が言う。


 教室が静まる。


「班で動く」

「他クラスと話す」

「反省を書く」

「互いに指摘する」

「支援を受ける」


 一拍。


「最初は意識して行う。だが数日続くと、慣れる」


 チョークが黒板を叩く。


「慣れは力になる。だが、雑にもなる」


 レオンは手元に書き留めた。


 慣れは力。だが雑にもなる。


「第五班」


 教師が班名を呼んだ。


 レオンだけではない。


 フィーネも、ユーリスも、アルトも含まれている。


 教室にいるのはレオンとフィーネとユーリスだが、名前の重みは四人分だった。


「お前たちはここ数日で評価を上げている」


 教室の視線が集まる。


「だが、評価が日常になると危うい」


 教師はレオンを見る。


「ヴォルツ。班が評価されることに慣れた時、中心者が警戒すべきことは何だ」


 レオンは立ち上がる。


 少し考える。


 評価に慣れる。


 それは、自分にも覚えがある。


 上位であることに慣れていた。


 称賛されることに慣れていた。


 勝つことを期待されることにも。


 その慣れが、いつか足元を鈍らせる。


「成功した形を固定しすぎることです」


 レオンは答えた。


 教師は目を細める。


「続けろ」


「一度うまくいった動きを、次もそのまま使おうとすると、課題が変わった時に遅れます」


 一拍。


「班員の成長も止まります。前の役割に閉じ込めることになるので」


 教室が静かになる。


「だから、慣れた形ほど確認する必要があります。今もそれが正しいかどうか」


 教師は頷いた。


「良い答えだ」


 短い評価。


 だが、レオンの胸には残った。


 慣れた形ほど確認する。


 第五班は今、形になり始めている。


 だからこそ、固定しすぎてはいけない。


    ◆


 第一訓練棟。


 今日の課題は、予想に反して派手ではなかった。


 教師が発表した内容は、基礎連携反復。


 各班は、これまでの演習で得た連携を、低難度の魔法人形相手に繰り返す。


 ただし、毎回一つだけ条件が変わる。


 標識保持者。

 前衛。

 支援役。

 指示役。

 移動速度。

 視界制限。


 派手な勝負ではない。


 地味な反復。


 だが、教師の狙いは明確だった。


 慣れた形を崩し、固定化を防ぐ。


 第五班は、区画へ入った。


 周囲の視線は、いつもより少し弱い。


 派手な対抗戦ではないからだ。


 だが、こういう日こそ大事だ。


 レオンは三人を見る。


「今日は地味だ」


 ユーリスが笑う。


「言い方」


「だが、こういう日で崩れる」


 フィーネが頷く。


「気をつけます」


 アルトも手帳を軽く叩く。


「条件をちゃんと書きます」


「演習中に書くな」


「あ、はい」


 最初の反復。


 標識保持者はフィーネ。


 レオンが前衛。


 ユーリスが指示役。


 アルトが支援。


 いつもならレオンが中心だ。


 だが今回は、指示役がユーリス。


 レオンは前で動くが、全体指示は出さない。


 これが意外と難しかった。


 魔法人形が動く。


 レオンは前へ出る。


 次の動きが見える。


 指示を出したくなる。


 だが、今日の指示役はユーリス。


 待つ。


「レオン、右に流して」


 ユーリスの声。


「ああ」


 レオンは右へ流す。


「アルト、風は弱く。フィーネ、今のうちに標識を左へ」


「はい」

「はい!」


 動きは悪くない。


 ただ、レオンの反応が少し早すぎた。


 ユーリスの指示より前に動きかけている。


 教師が止めた。


「ヴォルツ」


「はい」


「指示役を奪うな」


 短い指摘。


 胸に刺さる。


「はい」


 ユーリスが少し苦笑した。


「俺が言う前に動きたくなるだろ」


「ああ」


「でも今日は待って」


「わかった」


 再開。


 今度は待つ。


 少し遅れる。


 だが、班としては噛み合う。


 フィーネが標識を置く。


 成功。


 評価は良好。


    ◆


 二回目。


 指示役はフィーネ。


 標識保持者はアルト。


 前衛はレオン。


 支援はユーリス。


 フィーネは少し緊張していた。


「私が指示……」


「見えるものを言えばいい」


 レオンが言う。


「全部を決めなくていい。危険と道を伝えろ」


「はい」


 演習開始。


 アルトが標識を持つと、少し肩が硬くなる。


 フィーネがすぐに声を出す。


「アルトさん、速度落としてください。右前に魔法人形」


「はい」


「レオンさん、正面を流してください。倒さなくて大丈夫です」


「わかった」


 レオンは従う。


 自分の判断では倒した方が早い。


 だが、フィーネの指示は“流す”。


 標識移送を優先している。


 悪くない。


 ユーリスが支援で風を入れる。


 アルトが進む。


 だが途中で、軽量型が横から来る。


 フィーネが一瞬迷った。


 言葉が遅れる。


 アルトが固まる。


 レオンが動きかける。


 その前に、フィーネが声を出した。


「見えています、でも少し遅れました! ユーリスさん、右をお願いします!」


「了解!」


 ユーリスが入る。


 レオンは正面を抑える。


 アルトが標識を守る。


 少し乱れたが、達成。


 教師が頷く。


「ルーク、迷いを言葉にしたのは良い」


 フィーネがほっと息を吐く。


「ありがとうございます」


 レオンも小さく頷いた。


「良かった」


 フィーネは少しだけ笑った。


    ◆


 三回目。


 指示役はアルト。


 訓練棟に小さなどよめきが起きた。


 アルト本人も固まった。


「俺が、指示ですか?」


 教師が淡々と言う。


「そうだ」


「でも」


「やれ」


「はい!」


「声量」


「あ、はい」


 周囲が少し笑う。


 だが、アルトは真剣だった。


 標識保持者はユーリス。


 前衛はレオン。


 支援はフィーネ。


 アルトは攻撃に参加せず、全体を見て指示を出す役。


 これは難しい。


 彼はまだ自分の動きだけでも精一杯な部分がある。


 だが、見えるものを言う訓練としては必要だ。


 レオンはアルトへ言う。


「全部正しく言おうとするな」


「はい」


「危ない、行ける、止まれ。それだけでもいい」


「はい」


「俺を見るな。全員を見る」


「……はい」


 アルトは深く息を吸った。


 演習開始。


 魔法人形が二体起動。


 レオンは前へ出る。


 ユーリスが標識を持つ。


 フィーネが支援位置へ。


 アルトは一瞬、固まる。


 周囲が見ている。


 下位クラスのアルトが上位クラスのレオンへ指示を出す。


 それだけで、彼には相当な圧があるはずだ。


「アルト」


 レオンは短く言った。


「課題を見ろ」


 アルトの目が動く。


 敵を見る。


 標識を見る。


 フィーネを見る。


 ユーリスを見る。


 そして、声を出した。


「レオンさん、正面止めてください! 倒さなくていいです!」


「わかった」


 レオンは止める。


「ユーリスさん、左が空いてます! でも奥にもう一体います!」


「了解」


「フィーネさん、奥を見てください!」


「はい!」


 声は少し大きい。


 だが、通っている。


 レオンは指示に従う。


 倒せる敵を倒さない。


 止めるだけ。


 アルトの指示を待つ。


「レオンさん、今は倒してください!」


「ああ」


 木剣が核を打つ。


 一体制圧。


「ユーリスさん、進んでください! フィーネさん、風を弱く!」


「了解」

「はい!」


 動きが繋がる。


 少しぎこちない。


 だが、繋がっている。


 最後、ユーリスが標識を置く。


 成功。


 訓練棟に小さな拍手が起きた。


 アルトは呆然としていた。


「……できた」


 レオンは頷く。


「できたな」


 アルトの顔が、少しずつ明るくなる。


 だが、すぐに教師が言った。


「レイヴン、評価は可。声は通ったが、指示が遅い場面がある。だが、役割を果たそうとした点は良い」


「はい!」


「声」


「あ、はい」


 また少し笑いが起きる。


 だが、その笑いは温かかった。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、今日の基礎連携反復の話題が広がっていた。


 派手な課題ではなかったはずなのに、第五班のアルトが指示役をしたことはすぐに噂になった。


「アルトがレオンに指示出したらしいぞ」

「マジ?」

「レオン、従ったの?」

「従ったらしい」

「すごいな」

「下位が上位に指示って、普通なら空気やばいのに」

「第五班、やっぱ雰囲気違うな」


 アルトは食堂で小さくなっていた。


 注目されていることに、まだ慣れないらしい。


 だが、今日の小さくなり方は昨日までと少し違う。


 失敗への怯えより、照れが混じっている。


「レオンさんに指示を出すなんて、心臓止まるかと思いました」


 アルトが言う。


「止まっていない」


 レオンが返す。


「そうですけど」


 ユーリスが笑う。


「でも良かったぞ。レオンを動かしたんだから」


「俺、変なこと言ってませんでしたか?」


 アルトが不安そうに聞く。


 フィーネが優しく答える。


「大丈夫です。少し遅いところはありましたけど、ちゃんと見えていました」


「はい」


 アルトは手帳を取り出しかける。


 レオンが言う。


「食べてから書け」


「あ、はい」


 ユーリスが笑う。


「完全に読まれてるな」


「癖になり始めている」


 フィーネも少し笑った。


 その空気は、穏やかだった。


 穏やかすぎるほどに。


 レオンはふと、胸の奥に小さな不安を感じる。


 温かい日常。


 それは本来、安心するものだ。


 だが、温かければ温かいほど、失う想像が不意に怖くなる。


 なぜそんなことを考えるのか、自分でもわからない。


 ただ、今日の食堂の笑い声が少し眩しかった。


    ◆


 午後。


 自由調整の時間。


 第五班は今日の反復をもとに、それぞれの苦手役割をもう一度試すことにした。


 レオンは指示を出さない前衛。


 フィーネは指示役。


 ユーリスは標識保持者。


 アルトは支援と簡易指示の両方。


 何度も繰り返す。


 失敗もする。


 アルトが指示を遅らせる。


 フィーネが言葉を丁寧にしすぎる。


 ユーリスが先読みしすぎて指示から外れかける。


 レオンがまた自分で判断しそうになる。


 そのたびに止める。


 直す。


 笑う時もある。


 少し気まずくなる時もある。


 だが、崩れない。


 積んでいる。


 そう感じられた。


 途中、エリシアが見学席にいるのが見えた。


 レオンは気づいた。


 フィーネも気づいた。


 ユーリスもおそらく気づいた。


 アルトだけは気づいていない。


 エリシアは静かに見ていた。


 その表情は読めない。


 微笑んでいるようにも、何かを考えているようにも見える。


 レオンがアルトの指示で動く場面。


 フィーネの声を受けて止まる場面。


 ユーリスに標識を任せる場面。


 それらを、彼女は全部見ていた。


 胸の奥が少し重くなる。


 変わりすぎないでくださいませ。


 その言葉が戻ってくる。


 けれど、レオンは視線を戻した。


 今は課題を見る。


 自分で選ぶ。


 そう決めたからだ。


    ◆


 放課後。


 訓練棟の片付けが終わる頃、エリシアが近づいてきた。


 周囲が自然と距離を取る。


 第五班の四人も足を止めた。


 エリシアはいつものように美しく微笑んでいる。


「皆様、お疲れ様でした」


「ありがとうございます」


 フィーネが丁寧に頭を下げる。


 ユーリスも礼をする。


 アルトは少し慌てながら深く頭を下げた。


「あ、ありがとうございました」


 エリシアは微笑む。


「とても良い連携でしたわ」


 言葉は柔らかい。


 だが、レオンはその奥にあるものを探してしまう。


「レオン様」


「はい」


「あなたが誰かの指示で動く姿は、少し新鮮でした」


 周囲の空気が少しだけ固まる。


 ユーリスの表情がわずかに変わる。


 フィーネは目を伏せる。


 アルトは自分のことかと思い、少し青ざめた。


 レオンは静かに答える。


「今日の課題です」


「ええ。わかっています」


 エリシアは頷く。


「課題としては、とても良かったと思いますわ」


 一拍。


「ただ、少し不思議でもありました」


「不思議?」


「はい」


 彼女はレオンを見る。


「あなたは、いつも誰よりも前を見て、自分で道を開く方でしたから」


 責めているわけではない。


 そう聞こえる。


 だが、懐かしむようでもある。


 以前のレオンを。


 自分が知っていたレオンを。


 レオンは少し黙った。


「今も、道を開くつもりはあります」


「そうですか」


「ただ」


 一拍。


「誰かが見つけた道を進むことも、必要だと思うようになりました」


 エリシアの微笑みが、ほんの少しだけ揺れた。


「……本当に、変わられましたね」


「そうかもしれません」


「それは、良いことなのでしょうか」


 その問いに、レオンはすぐ答えられなかった。


 良いこと。


 そう信じたい。


 だが、エリシアにとっては違うのかもしれない。


 彼女が見てきたレオン。


 婚約者として隣に立つべきレオン。


 その姿から外れていくように見えているのかもしれない。


「まだ、わかりません」


 レオンは正直に答えた。


「ですが、必要だと思っています」


 エリシアは目を伏せた。


「そうですか」


 短い返事。


 その距離が、少し遠く感じた。


 彼女は会釈し、去っていく。


 残された第五班の空気は、少しだけ重かった。


 アルトが小さく言う。


「俺の指示、まずかったですか?」


「違う」


 レオンはすぐに言った。


「今日の課題として必要だった」


「でも」


「アルト」


 レオンは彼を見る。


「お前は役割を果たした。そこは変えるな」


 アルトは少しだけ目を揺らした。


 そして、頷く。


「……はい」


 フィーネは何も言わなかった。


 だが、彼女の表情にも少し影が落ちていた。


    ◆


 夕暮れの中庭。


 今日は四人ではなく、少しばらけて帰ることになった。


 ユーリスはアルトと一緒に下位クラス側の通路まで行くと言った。


 おそらく、アルトが気にしすぎないようにするためだ。


 残ったのは、レオンとフィーネ。


 二人は噴水の近くを歩いていた。


 夕日が水面に揺れている。


「エリシア様」


 フィーネが小さく言った。


「はい」


「きっと、レオンさんのことを大切に思っているんですよね」


「ああ」


 それは間違いない。


 エリシアは、レオンを軽んじているわけではない。


 むしろ、彼の立場を大切にしている。


 だからこそ、不安なのだろう。


「だから、少し怖いんだと思います」


 フィーネが続ける。


「レオンさんが変わっていくのが」


「……そうかもしれない」


「私も」


 フィーネは少しだけ足を止めた。


「少し怖いです」


 レオンは彼女を見る。


「何が」


「今が、温かいので」


 声が小さかった。


「第五班で歩くのも、反省を話すのも、訓練で声を出すのも、食堂で笑うのも」


 一拍。


「そういうのが、温かいほど、いつか終わったら怖いなって思います」


 その言葉は、レオンの胸の奥に深く落ちた。


 同じことを感じていた。


 温かい日常ほど、失う前には眩しく見える。


 まだ失っていない。


 そんな未来があるとも決まっていない。


 それでも、温かさを知るほど、失う怖さが生まれる。


「……俺もだ」


 レオンは言った。


 フィーネが顔を上げる。


「俺も、少し怖い」


 その言葉を口にするのは、簡単ではなかった。


 だが、不思議と恥ではなかった。


 フィーネは静かに笑った。


「一緒ですね」


「ああ」


 短い返事。


 噴水の水音が響く。


 夕暮れの風が、二人の間を通り抜けた。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは机に向かい、手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 日常化。


 慣れは力になる。

 だが、雑にもなる。


 アルトが手帳を買った。

 できたことと、できなかったことを書く。

 ユーリスも書き始めた。

 フィーネは見えたこと、見えなかったことを書く。


 ハルト。

 防御型の班員を壁としてしか見ていなかったかもしれない。

 変化あり。


 基礎連携反復。

 指示役交代。

 ユーリス指示役。

 フィーネ指示役。

 アルト指示役。

 レオンは指示を奪わない。


 エリシア。

 誰かの指示で動く姿は新鮮。

 以前の自分。

 変化への不安。


 フィーネ。

 今が温かいほど、いつか終わったら怖い。


 レオンはペンを止めた。


 最後の言葉を、何度も読み返す。


 今が温かい。


 そうだ。


 温かい。


 第五班の日常は、思ったよりも温かい。


 だから怖い。


 これがずっと続く保証はない。


 合同課題演習はいつか終わる。


 班は解散するかもしれない。


 学園の日常は元に戻るかもしれない。


 あるいは、それよりも大きな何かが、この日常を壊すかもしれない。


 まだ何も起きていない。


 それなのに、胸の奥には小さな不安がある。


 レオンは最後に一行を書く。


 温かい日常ほど、失う前には眩しく見える。


 その下に、もう一行。


 だが、眩しさから目を逸らせば、今ここにある温かさまで見失う。


 ペンを置く。


 窓の外には夜が広がっていた。


 学園の灯りが、遠くで静かに揺れている。


 今日も、何かが少し変わった。


 アルトが手帳を持った。


 フィーネが怖いと言った。


 ユーリスが書くと決めた。


 ハルトが自分の班員を見直した。


 エリシアとの距離は、少しだけ遠くなった気がした。


 全部、小さな変化だ。


 けれど、その小さな変化が積み重なって、戻れない場所を増やしていく。


 レオンは手帳を閉じた。


 灯りを落とす。


 暗闇の中で、今日の食堂の笑い声が蘇る。


 訓練棟でアルトが指示を出した声。


 フィーネの「一緒ですね」という言葉。


 エリシアの揺れた微笑み。


 どれも消えない。


 消したくない。


 だからこそ、怖い。


 レオン・ヴォルツは、まだ知らない。


 この温かい日常が、やがて自分が落ちた時に、最も鮮やかな痛みとして蘇ることを。


 まだ知らない。


 だから今夜はただ。


 眩しすぎるほど温かい今を、胸の奥にしまい込むようにして、静かに目を閉じた。

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