第二十二話
翌朝。
王立グランセル魔導学園の空は、久しぶりに澄んでいた。
昨日の薄雲は夜のうちに流れ去り、朝日が校舎の尖塔を金色に染めている。
石造りの壁は冷たい光を反射し、中庭の芝には小さな朝露が残っていた。
噴水の水音が、柔らかく響く。
何も起きていない朝。
いつも通りの学園。
だが、レオン・ヴォルツには、その穏やかさが少しだけ眩しく感じられた。
昨夜、手帳に書いた言葉。
変わったと言われるたび、戻れない場所が増えていく。
だが、戻れない場所が増えるからこそ、進んできた道も確かに残る。
その文字を、朝にもう一度読み返した。
そして思った。
自分は、もう本当に少し戻れなくなっている。
以前の自分なら、朝の支度を済ませ、教室へ向かい、上位クラスの席で静かに今日の課題を確認していただろう。
周囲の評価を受け取り、期待を背負い、家名にふさわしい振る舞いを選んでいた。
それで十分だった。
それが自然だった。
だが今は違う。
廊下でアルトが声量を間違えないか気になる。
ユーリスの肩が本当に大丈夫か気になる。
フィーネがエリシアの言葉をまだ気にしていないか気になる。
ハルトの班が今日どう動くかも、少しだけ気になる。
余計なものが増えた。
そう言えば、確かにそうだ。
けれど、それを余計だと切り捨てる気にはなれない。
レオンは制服の袖を整え、鏡の前に立った。
灰色の制服。
胸元の銀糸徽章。
上位クラスの証。
そこに映る自分は、以前と大きく変わっているようには見えない。
姿勢も、顔つきも、家名にふさわしいよう整えている。
だが内側は違う。
少しずつ、確かに変わっている。
「最後に選ぶのは自分、か」
小さく呟く。
その言葉は、今日も必要だった。
◆
寮を出て中庭へ向かうと、朝の空気は少し冷たかった。
けれど、嫌な冷たさではない。
肺に入ると、頭が少しだけ冴えるような冷たさだ。
石畳を歩く生徒たちの声が、あちこちから聞こえる。
合同課題演習の期間に入ってから、学園の朝は少し賑やかになった。
班単位で集まる者。
昨日の反省を口にする者。
今日の課題を予想する者。
普段なら話さないクラスの生徒同士が、ぎこちなく言葉を交わす姿もある。
変化しているのは、自分だけではない。
学園そのものも、少しだけ変わっている。
「おはようございます」
声がした。
大きすぎない。
ちょうどいい声だった。
レオンは振り向く。
アルト・レイヴンが立っていた。
少し緊張した顔。
けれど昨日より落ち着いている。
右手には、小さな手帳のようなものを持っていた。
「良い声量だ」
レオンが言うと、アルトの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
「もう自分で調整できるようになったな」
「まだ気を抜くと大きくなります」
「自覚しているならいい」
アルトは頷いた。
そして、少しだけ照れたように手帳を見せる。
「昨日、ちゃんと買いました。紙じゃなくて、手帳」
革ではなく、簡素な布張りの手帳だった。
下位クラスの生徒が使うには、少し背伸びした品かもしれない。
だが、アルトは大事そうに持っている。
「続けるつもりか」
「はい」
迷いのない返事だった。
「忘れたくないので」
昨日も言っていた言葉。
レオンは少しだけ目を細める。
「何を忘れたくない」
「できたことと、できなかったことです」
アルトは手帳を胸元へ寄せる。
「できなかったことだけ覚えてると、怖くなります。でも、できたことだけ覚えてると調子に乗る気がして」
一拍。
「だから、両方書こうと思って」
その言葉は、思ったよりも良かった。
レオンは静かに頷く。
「良い考えだ」
アルトは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、レオンは少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かが前へ進もうとしている。
それを近くで見る。
少し前までなら、ただ警戒するだけだったかもしれない。
だが今は、その変化が少し嬉しい。
「おはよう、二人とも」
後ろからユーリスが来た。
今日は肩に冷却布はない。
見たところ、動きも悪くない。
「肩は」
レオンが聞く前に、ユーリスが苦笑した。
「大丈夫。もう先に言う。肩は平気」
「ならいい」
「本当に保護者みたいになってきたな」
「誰がだ」
「レオンが」
「妙なことを言うな」
アルトが少し笑う。
そこへフィーネも合流した。
今日は少しだけ髪を結び直している。
風で崩れないようにしたのだろう。
小さな変化だが、演習を意識していることがわかった。
「おはようございます」
「ああ」
「おはよう、フィーネ嬢」
「おはようございます、ユーリスさん、アルトさん」
四人が自然に揃う。
誰かが呼び集めたわけではない。
けれど、朝の廊下を四人で歩くことが当たり前になりつつある。
その当たり前が、少し眩しかった。
◆
東棟へ向かう廊下では、今日も第五班の話題が聞こえた。
「第五班、今日も一緒だ」
「最近ほんと馴染んでるな」
「アルト、もう完全に混ざってない?」
「フィーネも前より声出るようになったよな」
「ユーリスも支援上手いし」
「レオンが変わったのが一番大きいだろ」
変わった。
やはり、聞こえる。
だが、今日はその言葉よりも、隣のフィーネの表情の方が気になった。
フィーネは少しだけ視線を落としている。
昨日のエリシアの言葉。
それがまだ残っているのだろう。
レオンは歩きながら短く言った。
「フィーネ」
「はい」
「課題を見る」
フィーネは少し驚いたように顔を上げる。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
ただそれだけ。
だが、それで少し彼女の表情が戻った。
ユーリスがそれを横目で見て、何も言わずに話題を変える。
「今日の課題、地味なやつだといいな」
「地味な方が難しい場合もある」
レオンが返す。
「そういう現実的なこと言うなよ」
「現実だ」
「たまには、今日は楽勝だな、とか言ってみない?」
「油断する理由がない」
「だよなぁ」
アルトが真面目に頷く。
「俺も油断しません」
「アルトは少し肩の力を抜け」
ユーリスが言う。
「どっちですか?」
「油断はするな。でも硬くなるな」
「難しいです」
「そう。難しいんだよ」
そのやり取りに、フィーネが少し笑った。
レオンはそれを見て、ほんの少し安心した。
◆
上位クラスの教室に入ると、ハルト・グレイナーがすでに席についていた。
彼は手元の紙を見ている。
おそらく、自分の班の反省だろう。
以前なら、こうして一人で反省を書く姿など想像しにくかった。
取り巻きに囲まれ、苛立ちを隠さず、他人の失敗を責めていたはずだ。
だが今は違う。
周囲の生徒たちも、それを少し不思議そうに見ている。
レオンが席へ向かう途中、ハルトが顔を上げた。
「ヴォルツ」
「何だ」
「昨日の交差地点の判断だが」
「ああ」
「俺の班でも話した」
「そうか」
「……防御型の奴が、少し嬉しそうだった」
ハルトは言いにくそうに言った。
「自分の障壁が他班の役に立ったから、だと」
レオンは黙って聞いていた。
「俺は、あいつを今まで壁としてしか見ていなかったのかもしれない」
その言葉は、ハルトにとって重いものだったはずだ。
壁。
防御型。
役割としては正しい。
だが、人として見ていなかったという気づき。
レオンにも覚えがある。
自分も、少し前まで班員を手足のように使う感覚に近かった。
教師に言われた。
彼らを自分の手足にすることではない。
自分で動くための場を作れ、と。
「気づいたなら、次に変えればいい」
レオンは言った。
ハルトは少しだけ眉を寄せる。
「簡単に言うな」
「簡単ではない」
「なら言うな」
「だが、やるしかない」
ハルトはしばらく黙る。
そして、小さく笑った。
「本当に嫌な奴だな」
「よく言われる」
「だが、悪くない」
その返しに、レオンは少しだけ目を開いた。
ハルトがレオンの言葉を真似た。
それに気づいた周囲の数人も、少し驚いた顔をしている。
ハルトはすぐに視線を逸らした。
「今のは忘れろ」
「覚えておく」
「忘れろと言った」
「必要な反省だ」
「お前は本当に……」
ハルトは呆れたように息を吐いた。
だが、以前のような棘はなかった。
◆
一限目。
教師は黒板に書いた。
日常化。
その言葉に、教室の生徒たちが少し首をかしげる。
演習とは関係が薄そうに見えたからだ。
だが、レオンには少しだけわかった。
合同課題演習が始まってから、変化が続いている。
その変化が日常になり始めている。
それは良いことでもあり、危ういことでもある。
「人は、特別なことに集中する時より、それが日常になり始めた時に油断する」
教師が言う。
教室が静まる。
「班で動く」
「他クラスと話す」
「反省を書く」
「互いに指摘する」
「支援を受ける」
一拍。
「最初は意識して行う。だが数日続くと、慣れる」
チョークが黒板を叩く。
「慣れは力になる。だが、雑にもなる」
レオンは手元に書き留めた。
慣れは力。だが雑にもなる。
「第五班」
教師が班名を呼んだ。
レオンだけではない。
フィーネも、ユーリスも、アルトも含まれている。
教室にいるのはレオンとフィーネとユーリスだが、名前の重みは四人分だった。
「お前たちはここ数日で評価を上げている」
教室の視線が集まる。
「だが、評価が日常になると危うい」
教師はレオンを見る。
「ヴォルツ。班が評価されることに慣れた時、中心者が警戒すべきことは何だ」
レオンは立ち上がる。
少し考える。
評価に慣れる。
それは、自分にも覚えがある。
上位であることに慣れていた。
称賛されることに慣れていた。
勝つことを期待されることにも。
その慣れが、いつか足元を鈍らせる。
「成功した形を固定しすぎることです」
レオンは答えた。
教師は目を細める。
「続けろ」
「一度うまくいった動きを、次もそのまま使おうとすると、課題が変わった時に遅れます」
一拍。
「班員の成長も止まります。前の役割に閉じ込めることになるので」
教室が静かになる。
「だから、慣れた形ほど確認する必要があります。今もそれが正しいかどうか」
教師は頷いた。
「良い答えだ」
短い評価。
だが、レオンの胸には残った。
慣れた形ほど確認する。
第五班は今、形になり始めている。
だからこそ、固定しすぎてはいけない。
◆
第一訓練棟。
今日の課題は、予想に反して派手ではなかった。
教師が発表した内容は、基礎連携反復。
各班は、これまでの演習で得た連携を、低難度の魔法人形相手に繰り返す。
ただし、毎回一つだけ条件が変わる。
標識保持者。
前衛。
支援役。
指示役。
移動速度。
視界制限。
派手な勝負ではない。
地味な反復。
だが、教師の狙いは明確だった。
慣れた形を崩し、固定化を防ぐ。
第五班は、区画へ入った。
周囲の視線は、いつもより少し弱い。
派手な対抗戦ではないからだ。
だが、こういう日こそ大事だ。
レオンは三人を見る。
「今日は地味だ」
ユーリスが笑う。
「言い方」
「だが、こういう日で崩れる」
フィーネが頷く。
「気をつけます」
アルトも手帳を軽く叩く。
「条件をちゃんと書きます」
「演習中に書くな」
「あ、はい」
最初の反復。
標識保持者はフィーネ。
レオンが前衛。
ユーリスが指示役。
アルトが支援。
いつもならレオンが中心だ。
だが今回は、指示役がユーリス。
レオンは前で動くが、全体指示は出さない。
これが意外と難しかった。
魔法人形が動く。
レオンは前へ出る。
次の動きが見える。
指示を出したくなる。
だが、今日の指示役はユーリス。
待つ。
「レオン、右に流して」
ユーリスの声。
「ああ」
レオンは右へ流す。
「アルト、風は弱く。フィーネ、今のうちに標識を左へ」
「はい」
「はい!」
動きは悪くない。
ただ、レオンの反応が少し早すぎた。
ユーリスの指示より前に動きかけている。
教師が止めた。
「ヴォルツ」
「はい」
「指示役を奪うな」
短い指摘。
胸に刺さる。
「はい」
ユーリスが少し苦笑した。
「俺が言う前に動きたくなるだろ」
「ああ」
「でも今日は待って」
「わかった」
再開。
今度は待つ。
少し遅れる。
だが、班としては噛み合う。
フィーネが標識を置く。
成功。
評価は良好。
◆
二回目。
指示役はフィーネ。
標識保持者はアルト。
前衛はレオン。
支援はユーリス。
フィーネは少し緊張していた。
「私が指示……」
「見えるものを言えばいい」
レオンが言う。
「全部を決めなくていい。危険と道を伝えろ」
「はい」
演習開始。
アルトが標識を持つと、少し肩が硬くなる。
フィーネがすぐに声を出す。
「アルトさん、速度落としてください。右前に魔法人形」
「はい」
「レオンさん、正面を流してください。倒さなくて大丈夫です」
「わかった」
レオンは従う。
自分の判断では倒した方が早い。
だが、フィーネの指示は“流す”。
標識移送を優先している。
悪くない。
ユーリスが支援で風を入れる。
アルトが進む。
だが途中で、軽量型が横から来る。
フィーネが一瞬迷った。
言葉が遅れる。
アルトが固まる。
レオンが動きかける。
その前に、フィーネが声を出した。
「見えています、でも少し遅れました! ユーリスさん、右をお願いします!」
「了解!」
ユーリスが入る。
レオンは正面を抑える。
アルトが標識を守る。
少し乱れたが、達成。
教師が頷く。
「ルーク、迷いを言葉にしたのは良い」
フィーネがほっと息を吐く。
「ありがとうございます」
レオンも小さく頷いた。
「良かった」
フィーネは少しだけ笑った。
◆
三回目。
指示役はアルト。
訓練棟に小さなどよめきが起きた。
アルト本人も固まった。
「俺が、指示ですか?」
教師が淡々と言う。
「そうだ」
「でも」
「やれ」
「はい!」
「声量」
「あ、はい」
周囲が少し笑う。
だが、アルトは真剣だった。
標識保持者はユーリス。
前衛はレオン。
支援はフィーネ。
アルトは攻撃に参加せず、全体を見て指示を出す役。
これは難しい。
彼はまだ自分の動きだけでも精一杯な部分がある。
だが、見えるものを言う訓練としては必要だ。
レオンはアルトへ言う。
「全部正しく言おうとするな」
「はい」
「危ない、行ける、止まれ。それだけでもいい」
「はい」
「俺を見るな。全員を見る」
「……はい」
アルトは深く息を吸った。
演習開始。
魔法人形が二体起動。
レオンは前へ出る。
ユーリスが標識を持つ。
フィーネが支援位置へ。
アルトは一瞬、固まる。
周囲が見ている。
下位クラスのアルトが上位クラスのレオンへ指示を出す。
それだけで、彼には相当な圧があるはずだ。
「アルト」
レオンは短く言った。
「課題を見ろ」
アルトの目が動く。
敵を見る。
標識を見る。
フィーネを見る。
ユーリスを見る。
そして、声を出した。
「レオンさん、正面止めてください! 倒さなくていいです!」
「わかった」
レオンは止める。
「ユーリスさん、左が空いてます! でも奥にもう一体います!」
「了解」
「フィーネさん、奥を見てください!」
「はい!」
声は少し大きい。
だが、通っている。
レオンは指示に従う。
倒せる敵を倒さない。
止めるだけ。
アルトの指示を待つ。
「レオンさん、今は倒してください!」
「ああ」
木剣が核を打つ。
一体制圧。
「ユーリスさん、進んでください! フィーネさん、風を弱く!」
「了解」
「はい!」
動きが繋がる。
少しぎこちない。
だが、繋がっている。
最後、ユーリスが標識を置く。
成功。
訓練棟に小さな拍手が起きた。
アルトは呆然としていた。
「……できた」
レオンは頷く。
「できたな」
アルトの顔が、少しずつ明るくなる。
だが、すぐに教師が言った。
「レイヴン、評価は可。声は通ったが、指示が遅い場面がある。だが、役割を果たそうとした点は良い」
「はい!」
「声」
「あ、はい」
また少し笑いが起きる。
だが、その笑いは温かかった。
◆
昼休み。
食堂では、今日の基礎連携反復の話題が広がっていた。
派手な課題ではなかったはずなのに、第五班のアルトが指示役をしたことはすぐに噂になった。
「アルトがレオンに指示出したらしいぞ」
「マジ?」
「レオン、従ったの?」
「従ったらしい」
「すごいな」
「下位が上位に指示って、普通なら空気やばいのに」
「第五班、やっぱ雰囲気違うな」
アルトは食堂で小さくなっていた。
注目されていることに、まだ慣れないらしい。
だが、今日の小さくなり方は昨日までと少し違う。
失敗への怯えより、照れが混じっている。
「レオンさんに指示を出すなんて、心臓止まるかと思いました」
アルトが言う。
「止まっていない」
レオンが返す。
「そうですけど」
ユーリスが笑う。
「でも良かったぞ。レオンを動かしたんだから」
「俺、変なこと言ってませんでしたか?」
アルトが不安そうに聞く。
フィーネが優しく答える。
「大丈夫です。少し遅いところはありましたけど、ちゃんと見えていました」
「はい」
アルトは手帳を取り出しかける。
レオンが言う。
「食べてから書け」
「あ、はい」
ユーリスが笑う。
「完全に読まれてるな」
「癖になり始めている」
フィーネも少し笑った。
その空気は、穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
レオンはふと、胸の奥に小さな不安を感じる。
温かい日常。
それは本来、安心するものだ。
だが、温かければ温かいほど、失う想像が不意に怖くなる。
なぜそんなことを考えるのか、自分でもわからない。
ただ、今日の食堂の笑い声が少し眩しかった。
◆
午後。
自由調整の時間。
第五班は今日の反復をもとに、それぞれの苦手役割をもう一度試すことにした。
レオンは指示を出さない前衛。
フィーネは指示役。
ユーリスは標識保持者。
アルトは支援と簡易指示の両方。
何度も繰り返す。
失敗もする。
アルトが指示を遅らせる。
フィーネが言葉を丁寧にしすぎる。
ユーリスが先読みしすぎて指示から外れかける。
レオンがまた自分で判断しそうになる。
そのたびに止める。
直す。
笑う時もある。
少し気まずくなる時もある。
だが、崩れない。
積んでいる。
そう感じられた。
途中、エリシアが見学席にいるのが見えた。
レオンは気づいた。
フィーネも気づいた。
ユーリスもおそらく気づいた。
アルトだけは気づいていない。
エリシアは静かに見ていた。
その表情は読めない。
微笑んでいるようにも、何かを考えているようにも見える。
レオンがアルトの指示で動く場面。
フィーネの声を受けて止まる場面。
ユーリスに標識を任せる場面。
それらを、彼女は全部見ていた。
胸の奥が少し重くなる。
変わりすぎないでくださいませ。
その言葉が戻ってくる。
けれど、レオンは視線を戻した。
今は課題を見る。
自分で選ぶ。
そう決めたからだ。
◆
放課後。
訓練棟の片付けが終わる頃、エリシアが近づいてきた。
周囲が自然と距離を取る。
第五班の四人も足を止めた。
エリシアはいつものように美しく微笑んでいる。
「皆様、お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
フィーネが丁寧に頭を下げる。
ユーリスも礼をする。
アルトは少し慌てながら深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございました」
エリシアは微笑む。
「とても良い連携でしたわ」
言葉は柔らかい。
だが、レオンはその奥にあるものを探してしまう。
「レオン様」
「はい」
「あなたが誰かの指示で動く姿は、少し新鮮でした」
周囲の空気が少しだけ固まる。
ユーリスの表情がわずかに変わる。
フィーネは目を伏せる。
アルトは自分のことかと思い、少し青ざめた。
レオンは静かに答える。
「今日の課題です」
「ええ。わかっています」
エリシアは頷く。
「課題としては、とても良かったと思いますわ」
一拍。
「ただ、少し不思議でもありました」
「不思議?」
「はい」
彼女はレオンを見る。
「あなたは、いつも誰よりも前を見て、自分で道を開く方でしたから」
責めているわけではない。
そう聞こえる。
だが、懐かしむようでもある。
以前のレオンを。
自分が知っていたレオンを。
レオンは少し黙った。
「今も、道を開くつもりはあります」
「そうですか」
「ただ」
一拍。
「誰かが見つけた道を進むことも、必要だと思うようになりました」
エリシアの微笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
「……本当に、変わられましたね」
「そうかもしれません」
「それは、良いことなのでしょうか」
その問いに、レオンはすぐ答えられなかった。
良いこと。
そう信じたい。
だが、エリシアにとっては違うのかもしれない。
彼女が見てきたレオン。
婚約者として隣に立つべきレオン。
その姿から外れていくように見えているのかもしれない。
「まだ、わかりません」
レオンは正直に答えた。
「ですが、必要だと思っています」
エリシアは目を伏せた。
「そうですか」
短い返事。
その距離が、少し遠く感じた。
彼女は会釈し、去っていく。
残された第五班の空気は、少しだけ重かった。
アルトが小さく言う。
「俺の指示、まずかったですか?」
「違う」
レオンはすぐに言った。
「今日の課題として必要だった」
「でも」
「アルト」
レオンは彼を見る。
「お前は役割を果たした。そこは変えるな」
アルトは少しだけ目を揺らした。
そして、頷く。
「……はい」
フィーネは何も言わなかった。
だが、彼女の表情にも少し影が落ちていた。
◆
夕暮れの中庭。
今日は四人ではなく、少しばらけて帰ることになった。
ユーリスはアルトと一緒に下位クラス側の通路まで行くと言った。
おそらく、アルトが気にしすぎないようにするためだ。
残ったのは、レオンとフィーネ。
二人は噴水の近くを歩いていた。
夕日が水面に揺れている。
「エリシア様」
フィーネが小さく言った。
「はい」
「きっと、レオンさんのことを大切に思っているんですよね」
「ああ」
それは間違いない。
エリシアは、レオンを軽んじているわけではない。
むしろ、彼の立場を大切にしている。
だからこそ、不安なのだろう。
「だから、少し怖いんだと思います」
フィーネが続ける。
「レオンさんが変わっていくのが」
「……そうかもしれない」
「私も」
フィーネは少しだけ足を止めた。
「少し怖いです」
レオンは彼女を見る。
「何が」
「今が、温かいので」
声が小さかった。
「第五班で歩くのも、反省を話すのも、訓練で声を出すのも、食堂で笑うのも」
一拍。
「そういうのが、温かいほど、いつか終わったら怖いなって思います」
その言葉は、レオンの胸の奥に深く落ちた。
同じことを感じていた。
温かい日常ほど、失う前には眩しく見える。
まだ失っていない。
そんな未来があるとも決まっていない。
それでも、温かさを知るほど、失う怖さが生まれる。
「……俺もだ」
レオンは言った。
フィーネが顔を上げる。
「俺も、少し怖い」
その言葉を口にするのは、簡単ではなかった。
だが、不思議と恥ではなかった。
フィーネは静かに笑った。
「一緒ですね」
「ああ」
短い返事。
噴水の水音が響く。
夕暮れの風が、二人の間を通り抜けた。
◆
夜。
学生寮の部屋。
レオンは机に向かい、手帳を開いた。
今日の記録を書く。
日常化。
慣れは力になる。
だが、雑にもなる。
アルトが手帳を買った。
できたことと、できなかったことを書く。
ユーリスも書き始めた。
フィーネは見えたこと、見えなかったことを書く。
ハルト。
防御型の班員を壁としてしか見ていなかったかもしれない。
変化あり。
基礎連携反復。
指示役交代。
ユーリス指示役。
フィーネ指示役。
アルト指示役。
レオンは指示を奪わない。
エリシア。
誰かの指示で動く姿は新鮮。
以前の自分。
変化への不安。
フィーネ。
今が温かいほど、いつか終わったら怖い。
レオンはペンを止めた。
最後の言葉を、何度も読み返す。
今が温かい。
そうだ。
温かい。
第五班の日常は、思ったよりも温かい。
だから怖い。
これがずっと続く保証はない。
合同課題演習はいつか終わる。
班は解散するかもしれない。
学園の日常は元に戻るかもしれない。
あるいは、それよりも大きな何かが、この日常を壊すかもしれない。
まだ何も起きていない。
それなのに、胸の奥には小さな不安がある。
レオンは最後に一行を書く。
温かい日常ほど、失う前には眩しく見える。
その下に、もう一行。
だが、眩しさから目を逸らせば、今ここにある温かさまで見失う。
ペンを置く。
窓の外には夜が広がっていた。
学園の灯りが、遠くで静かに揺れている。
今日も、何かが少し変わった。
アルトが手帳を持った。
フィーネが怖いと言った。
ユーリスが書くと決めた。
ハルトが自分の班員を見直した。
エリシアとの距離は、少しだけ遠くなった気がした。
全部、小さな変化だ。
けれど、その小さな変化が積み重なって、戻れない場所を増やしていく。
レオンは手帳を閉じた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、今日の食堂の笑い声が蘇る。
訓練棟でアルトが指示を出した声。
フィーネの「一緒ですね」という言葉。
エリシアの揺れた微笑み。
どれも消えない。
消したくない。
だからこそ、怖い。
レオン・ヴォルツは、まだ知らない。
この温かい日常が、やがて自分が落ちた時に、最も鮮やかな痛みとして蘇ることを。
まだ知らない。
だから今夜はただ。
眩しすぎるほど温かい今を、胸の奥にしまい込むようにして、静かに目を閉じた。




