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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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23/81

第二十三話 


 朝の学園は、今日も美しかった。


 王立グランセル魔導学園の尖塔には淡い光が差し、灰色の石壁は朝露を含んだ空気の中で静かに輝いている。


 中庭の噴水は、いつもと同じように水を跳ね上げていた。


 芝生を渡る風は柔らかく、遠くの訓練棟からは、早朝練習をする生徒たちの木剣の音がかすかに聞こえる。


 何もおかしくない。


 何も壊れていない。


 昨日までの温かさは、まだ確かに続いている。


 けれど。


 レオン・ヴォルツは寮を出た瞬間から、空気の中に混じるわずかなざらつきを感じていた。


 それは、はっきりした悪意ではない。


 誰かが正面から何かを言ってきたわけでもない。


 ただ、小さな声。


 目が合った瞬間に逸らされる視線。


 廊下の角で消える会話。


 笑い声のあとに落ちる、短い沈黙。


 そういうものが、少しずつ混ざっている。


 合同課題演習が始まってから、レオンは周囲を見る目が以前より鋭くなった。


 剣筋だけではない。


 魔法の発動兆候だけではない。


 人の表情。


 声の温度。


 空気の変化。


 フィーネが見ていたものを、自分も少しだけ見るようになった。


 だから気づいた。


 今日の学園は、昨日と同じではない。


 温かい日常の隙間に、別のものが入り込んでいる。


    ◆


 東棟へ向かう途中、アルト・レイヴンが合流した。


 彼は昨日買ったばかりの手帳を鞄の外側に入れていた。


 すぐ取り出せるようにしているのだろう。


 少し誇らしげでもあり、少し気恥ずかしそうでもある。


「おはようございます」


 声量は、もうかなり安定している。


 レオンは短く頷いた。


「おはよう」


 アルトは少しだけ目を丸くした。


「……今、レオンさんからおはようって」


「挨拶だろ」


「そうですけど」


 アルトは嬉しそうに笑う。


 その笑顔は、相変わらず真っ直ぐだった。


 周囲から小さな声が聞こえた。


「また一緒にいる」

「最近ずっとだな」

「アルト、完全にレオンに懐いてない?」

「レオンも妙に面倒見いいし」

「上位クラスが平民特待生にそこまでやるか?」


 最後の声。


 小さい。


 だが、確かに聞こえた。


 アルトにも聞こえたらしい。


 彼の笑顔が少しだけ止まる。


 手帳を持つ指に力が入った。


 レオンは歩みを止めずに言う。


「課題を見る」


 アルトが顔を上げる。


 その言葉は、もう第五班の合図に近い。


 周囲の視線や声に引っ張られそうな時、自分たちを戻すための言葉。


「……はい」


 アルトは頷いた。


 だが、その声には少しだけ硬さが残っていた。


 そこへユーリス・ベルクが合流する。


「おはよう。朝から空気が微妙だな」


 開口一番、それだった。


 レオンは横目で見る。


「気づいていたのか」


「そりゃね」


 ユーリスは軽く肩をすくめる。


「俺は社交性が武器だから」


「便利な言葉だな」


「実際便利なんだよ」


 ユーリスは周囲をさりげなく見渡す。


「昨日あたりから、少し噂の種類が変わった」


 アルトが不安そうに見る。


「噂、ですか?」


「第五班は強い、から、第五班は近すぎる、に変わり始めてる」


 ユーリスはあっさり言った。


 だが、言葉の中身は軽くない。


 近すぎる。


 それは、昨日のエリシアの言葉にも通じる。


 距離。


 上に立つ者の距離。


 レオンが平民特待生や周囲へ寄りすぎているのではないか。


 そういう空気が、少しずつ生まれている。


「俺のせいですか」


 アルトが小さく言った。


 すぐに、レオンは答えた。


「違う」


 短く。


 迷いなく。


 アルトが顔を上げる。


「俺が選んでいる」


 昨日、フィーネに言った言葉。


 今日も必要だった。


「第五班として動くことも、お前に指示役を任せたことも、支援を使うことも、俺が必要だと判断した」


 アルトは黙った。


 ユーリスも静かに聞いている。


「だから、お前のせいにするな」


 アルトの目が少し揺れた。


 そして、ゆっくり頷く。


「……はい」


 その時、フィーネが小走りで追いついてきた。


「おはようございます」


「ああ」


「おはよう、フィーネ嬢」


「おはようございます」


 フィーネはすぐに空気の硬さに気づいたようだった。


 彼女の視線が、アルトの表情、ユーリスの目、レオンの口元を順に見る。


「何かありましたか」


 レオンは短く答える。


「噂だ」


 フィーネは少しだけ目を伏せる。


「……やっぱり」


「聞いたのか」


「少し」


 フィーネの声は小さい。


「レオンさんが、第五班に寄りすぎているって」


 アルトがまた肩を硬くする。


 レオンはその反応を見た。


 この噂は、ただレオンだけを刺すものではない。


 アルトも刺す。


 フィーネも刺す。


 ユーリスにも届く。


 班が近づけば近づくほど、外からの声は班全体を揺らす。


 温かい日常ほど、失う前には眩しく見える。


 昨日書いた言葉が、胸に戻る。


 今日は、その温かさへ小さな影が落ち始めていた。


    ◆


 教室へ向かうまでの道で、第五班はいつもより少し静かだった。


 会話がないわけではない。


 ユーリスが軽く話題を振る。


 アルトが答える。


 フィーネが相槌を打つ。


 レオンも短く返す。


 だが、その下に薄い緊張がある。


 誰もはっきり口にしない。


 しかし全員がわかっている。


 自分たちは見られている。


 評価だけではない。


 距離を測られている。


 近すぎるのではないか。


 上位クラスとしてどうなのか。


 平民特待生をそこまで受け入れていいのか。


 そういう視線。


 それは、戦闘中の魔法人形よりずっと面倒だった。


 正面から斬れない。


 受け流すこともできない。


 ただ空気としてまとわりついてくる。


 上位クラスの教室に入ると、さらにそのざらつきは濃くなった。


 何人かがレオンへ声をかける。


「おはよう、レオン」

「今日も第五班で朝集合か?」

「仲いいな」

「アルト、かなり馴染んでるよな」


 言葉だけなら普通だ。


 だが、少しだけ探るような響きがある。


 レオンは短く返す。


「ああ」

「演習期間だからな」

「班として動く必要がある」


 それ以上は言わない。


 言えば言うほど、弁解に見える。


 席へ向かう途中、ハルト・グレイナーと目が合った。


 彼は腕を組み、少しだけ眉を寄せていた。


「……面倒な空気だな」


 ハルトが低く言う。


「お前も感じるか」


「感じる」


 彼は不機嫌そうに答えた。


「第五班ばかり話題になるのは気に食わないが、今の噂は別だ」


「別?」


「ああ」


 ハルトは少しだけ視線を逸らす。


「合同課題で班が近くなるのは当然だ。それを妙な方向へ言い出すのは、気分が悪い」


 意外な言葉だった。


 ハルトが、第五班側の空気を擁護するようなことを言う。


 少し前なら考えられなかった。


「珍しいな」


 レオンが言う。


 ハルトはすぐ睨む。


「何がだ」


「まともなことを言う」


「喧嘩を売っているのか」


「半分は褒めている」


「半分しかないのか」


 ハルトは呆れたように息を吐いた。


 だが、その表情には以前ほどの棘がない。


「お前が平民特待生をどう扱おうが、俺には関係ない」


 一拍。


「だが、課題で使える戦力を使って何が悪い」


 その言葉は、ハルトらしい。


 感情論ではなく、実力と課題の話。


 けれど今のレオンには、それが少しありがたかった。


「そうだな」


 レオンは頷いた。


「その通りだ」


 ハルトは少しだけ驚いた顔をした。


「素直に受け取るな」


「受け取るべき時は受け取る」


「……本当に変わったな」


 その言葉に、レオンは少しだけ黙る。


 また、変わった。


 だが、ハルトの声には嘲笑はなかった。


 むしろ、どこか認めるような響きがあった。


    ◆


 一限目。


 教師は黒板へ大きく書いた。


 外圧。


 その文字を見た瞬間、教室の空気が変わった。


 誰もが、今朝の学園の空気を感じていたのだろう。


 噂。


 視線。


 評価。


 対抗心。


 それらが、演習の外から班へ入り込んでいる。


「合同課題演習は、訓練棟の中だけで行われるものではない」


 教師が言う。


「班として評価されれば、外からの視線が変わる」

「失敗すれば噂になる」

「成功すれば期待される」

「距離が近づけば、それを面白がる者もいる」


 教室が静まり返る。


「外圧とは、そういうものだ」


 チョークが黒板を軽く叩く。


「戦場では、敵の攻撃だけが圧ではない。味方の不安、周囲の期待、上官の命令、民の視線。それらも判断を鈍らせる」


 一拍。


「今日の課題は、外圧下での基本行動だ」


 レオンは手元の紙に書き留めた。


 外圧下での基本行動。


 今朝からの流れそのものだった。


「ヴォルツ」


「はい」


 レオンは立ち上がる。


「班に対する噂が流れた時、中心者が最初にすべきことは何か」


 教室の視線が集まる。


 難しい問いだった。


 噂を否定することか。


 無視することか。


 班員を集めて確認することか。


 レオンは少し考えた。


「班員がそれをどう受け取っているか確認することです」


 教師は目を細める。


「噂そのものではなく?」


「はい」


 一拍。


「噂を完全に止めることは難しいです。ですが、それで班員の動きが変わるなら、先にそちらを見るべきです」


 教室が静かになる。


「特に、噂の対象が一人に寄っている場合、その者が自分のせいだと思う可能性があります」


 アルトの顔が頭に浮かぶ。


「そこを放置すると、演習中の判断が小さくなります」


 教師はしばらく黙っていた。


 そして頷く。


「良い答えだ」


 短い評価。


「噂を相手に剣は振れない。だが、噂で乱れた味方は見える」


 教師は全体へ向けて言う。


「外圧を消すことより、外圧で何が変わるかを見ろ」


 その言葉は、レオンの胸に深く残った。


    ◆


 講義後。


 第一訓練棟へ向かう前に、レオンは第五班の三人を呼び止めた。


 廊下の端。


 人通りはあるが、少し声を落とせば話せる場所。


 フィーネはすぐに意図を察したようだった。


 ユーリスも真面目な顔になる。


 アルトは少し緊張している。


「今朝の噂について話す」


 レオンは言った。


 アルトの肩がわずかに動く。


「最初に言う。第五班の距離が近いことを、俺は悪いとは思っていない」


 三人がこちらを見る。


「演習で必要だから近づいた。反省を共有し、役割を変え、互いに指摘する必要があるからだ」


 一拍。


「それを外がどう見るかは、外の問題だ」


 ユーリスが小さく頷く。


 フィーネは少しだけ目を伏せている。


 アルトは唇を結んでいた。


「アルト」


「はい」


「お前のせいではない」


 朝にも言った。


 だが、もう一度言う必要があった。


「俺が平民特待生に寄っていると言われようが、俺が選んだことだ。お前が責任を背負うことではない」


 アルトの目が揺れる。


「でも、俺が第五班にいるから」


「それは教師が決めた班だ」


「でも」


「アルト」


 レオンは少しだけ声を強めた。


「お前は戦力だ」


 その言葉に、アルトが息を止める。


「戦力として必要だから使っている。そこを間違えるな」


 沈黙。


 アルトは、ゆっくり頷いた。


「……はい」


 今度の返事は、弱くなかった。


 フィーネが静かに言う。


「私も、噂を気にして少し動きが硬くなるかもしれません」


「言え」


 レオンは答える。


「硬いと思ったら、そう言え」


「はい」


 ユーリスが続ける。


「俺は、たぶん軽く流すけど、空気は見る。まずそうなら言う」


「ああ」


 四人の間に、短い沈黙が落ちる。


 重いが、悪くない。


 見ないふりではない。


 ちゃんと見た沈黙だ。


「今日も課題を見る」


 レオンが言う。


 三人が頷く。


    ◆


 第一訓練棟。


 今日の課題は、まさに外圧下での基本行動だった。


 演習内容は単純。


 魔法人形二体を制圧し、標識を確保する。


 ただし、班の周囲には見学役として他班の生徒が配置される。


 その生徒たちは、演習中に声を出すことを許可されている。


 妨害ではない。


 直接攻撃でもない。


 だが、声による圧をかける。


 教師は淡々と説明した。


「実戦では、周囲の声を完全に遮断できるとは限らない。混乱した民、焦る味方、挑発する敵、命令を飛ばす上官。声は判断へ入り込む」


 一拍。


「今日は、その中で課題を達成しろ」


 生徒たちがざわつく。


 見学役が声を出せる。


 それはかなり嫌な課題だった。


 特に今日の第五班には。


 レオンは三人を見る。


「声は聞こえる」


 短く言った。


「だが、拾う声を選ぶ」


 ユーリスが頷く。


「班の声だけ拾う」


 フィーネも頷く。


「見えたものを言います」


 アルトは手帳を握りしめてから、鞄へしまった。


「課題を見ます」


「それでいい」


    ◆


 第五班の番。


 区画へ入ると、周囲に他班の生徒たちが立っていた。


 その中には、第七班のハルトもいる。


 ただし、彼は腕を組んで静かにしている。


 見学役として声を出してもいいが、無闇に何かを言うつもりはないようだった。


 それ以外の生徒たちは、どこか興味津々だ。


 レオンとアルト。


 フィーネ。


 ユーリス。


 第五班が外圧の中でどう動くか。


 見たがっている。


 開始前から、小さな声が飛ぶ。


「今日はアルトが乱れるかな」

「レオンが庇いすぎるかも」

「フィーネ、声出るかな」

「ユーリスは平気そうだけどな」

「第五班、近いから逆に崩れるんじゃない?」


 アルトの肩が硬くなる。


 フィーネも少し息を吸う。


 ユーリスの表情から軽さが消える。


 レオンは全員を見る。


「開始前に崩れるな」


 短い言葉。


 三人が頷く。


 教師の手が上がる。


「開始」


    ◆


 魔法人形二体が起動する。


 前衛型と魔法型。


 標識は中央奥。


 基本的には難しくない配置だ。


 だが、周囲の声が入る。


「アルト、強く出しすぎるなよ」

「また声大きくなるんじゃない?」

「レオン、今日は全部自分でやるなよ」

「フィーネ、見落とすなよ」


 悪意というより、面白がり。


 だが、十分に邪魔だった。


 レオンは前へ出る。


 前衛型を受ける。


 倒せる。


 だが、今日は標識確保が目的。


 アルトの支援を見る。


「アルト、前衛型の足元へ風。細く」


「はい」


 アルトの声は少し硬い。


 風が出る。


 細い。


 だが、少し弱すぎる。


 前衛型の足元はほとんど揺れない。


 周囲から声。


「弱い弱い」

「怖がってるぞ」


 アルトの顔が歪む。


 次の風が強くなりかける。


 レオンはすぐに言った。


「俺の声だけ聞け」


 アルトがはっとする。


「細く。だが、さっきより少し強く」


「はい」


 風が調整される。


 今度は良い。


 前衛型の踏み込みがずれる。


「良い」


 短く評価する。


 アルトの目が少しだけ落ち着いた。


 フィーネが声を出す。


「右奥、魔法型、詠唱です!」


 周囲からまた声。


「フィーネの声、ちょっと遅い?」

「昨日より硬いな」


 フィーネの肩がわずかに揺れる。


 だが、彼女は続けた。


「詠唱、短いです。次、すぐ来ます!」


 声が強くなる。


 レオンはそれを拾う。


「ユーリス、標識へ。フィーネは魔法型。アルト、水を薄く」


「了解」

「はい」

「はい」


 動きが繋がる。


 魔法型の光弾が飛ぶ。


 フィーネの風が軌道をずらす。


 アルトの水が足元を乱す。


 ユーリスが標識へ走る。


 だが、見学役の一人が大きめに言った。


「ユーリス、そのままだと狙われるぞ!」


 味方の声に似た余計な声。


 ユーリスが一瞬、反応しかける。


 レオンが叫ぶ。


「ユーリス、無視」


「了解」


 ユーリスは迷わず進む。


 標識を確保。


 残るは制圧と帰還。


 前衛型がレオンへ来る。


 魔法型が二射目を構える。


 アルトが自分から言う。


「魔法型、俺が水で遅らせます!」


「やれ」


 水が飛ぶ。


 少し広い。


 だが、許容。


 魔法型の詠唱が乱れる。


 フィーネが叫ぶ。


「今なら行けます!」


「ユーリス、戻れ。俺が前衛型を落とす」


「了解!」


 レオンが前衛型の核を打つ。


 一体制圧。


 フィーネが魔法型の次の詠唱を読む。


「次、遅れます!」


「アルト、火を薄く」


「はい!」


 火が薄く揺れる。


 魔法型の感知が乱れる。


 レオンが入る。


 二体制圧。


 ユーリスが標識を到達地点へ置く。


 鐘が鳴る。


 課題達成。


    ◆


 訓練棟に拍手が起きた。


 大きくはない。


 だが、確かに。


 第五班は外圧の中でも崩れなかった。


 完璧ではない。


 アルトは一度弱くなりすぎた。


 フィーネも一瞬揺れた。


 ユーリスも余計な声に反応しかけた。


 レオンも、声を強める場面があった。


 それでも、戻した。


 教師が近づいてくる。


「第五班」


 四人が整列する。


「評価は上寄りの中」


 上ではない。


 少し空気が揺れる。


 だが、教師は続ける。


「外圧への初動に乱れあり。特にレイヴン、声に反応して支援が弱くなった」


「はい」


 アルトが頷く。


「ルークも一瞬硬い。ベルクは外部の声に反応しかけた」


「はい」

「はい」


「ヴォルツ」


「はい」


「班員を戻す声は良かった。ただし、声で押しすぎれば逆に依存を生む。次は、班員自身が戻れるようにしろ」


「はい」


 難しい課題だ。


 戻すだけでは足りない。


 自分の声で引き戻すだけでは、結局レオン頼りになる。


 班員自身が戻れるようにする。


 それが次の段階。


 教師は全体へ言う。


「外圧下で重要なのは、揺れないことではない。揺れた後、戻れることだ」


 一拍。


「今日の第五班は戻れた。次は、自分で戻れ」


 その言葉は、四人全員に残った。


    ◆


 演習後、第五班は訓練棟の端に集まった。


 アルトが最初に頭を下げた。


「すみません。声に反応しました」


「反応はした」


 レオンは言う。


「だが戻った」


 アルトは顔を上げる。


「次は、自分で戻ります」


「そのためにどうする」


 アルトは少し考えた。


「周りの声が聞こえたら、手帳に書いた言葉を思い出します」


「何を書いた」


「敵と課題を見る」


「それでいい」


 フィーネも言う。


「私は、遅いって言われた時に少し怖くなりました」


「でも、次の声は出した」


 ユーリスが言う。


「はい」


「なら次は、自分で『見えてる』って言えばいい」


 フィーネが少し頷く。


「見えているものを、自分で確認するんですね」


「そうそう」


 ユーリスは軽く言ったが、内容は的確だった。


 レオンはユーリスを見る。


「お前は」


「俺は余計な声を拾った。あれは反省」


「どう直す」


「班の声に合図を決める。外部の声じゃなくて、レオンかフィーネかアルトの声だけ拾う場面を作る」


「良い」


 レオンは頷く。


「俺は、戻す声を強く出しすぎた」


 三人がこちらを見る。


「次は、お前たちが自分で戻れるようにする」


 アルトが少し不安そうに笑う。


「難しいですね」


「ああ」


 レオンは答える。


「だが、やる」


 その言葉に、三人が頷いた。


    ◆


 昼休み。


 食堂では、午前の外圧課題の話が広まっていた。


「第五班、上寄りの中だって」

「上じゃないのか」

「でも外圧ありで達成したんだろ?」

「アルトが少し乱れたらしい」

「フィーネも硬かったって」

「でも戻したらしいぞ」

「やっぱ第五班、崩れきらないな」


 崩れきらない。


 その言葉が、レオンの耳に残った。


 今の第五班をよく表している気がした。


 完璧ではない。


 毎回どこか揺れる。


 だが、崩れきらない。


 戻る。


 直す。


 また進む。


 それが、第五班の形になりつつある。


 食堂の席で、アルトは手帳を開こうとして、レオンを見る。


「食後だ」


「はい」


 すぐに閉じる。


 フィーネが少し笑う。


「定着しましたね」


「食事中に書くのは良くない」


 レオンが言う。


 ユーリスがパンをかじりながら言う。


「じゃあ食後に全員で一言ずつ書く?」


「ここでか」


「軽く」


 アルトの目が輝く。


「いいですね」


 フィーネも頷く。


「私も、忘れないうちに書きたいです」


 レオンは少しだけ考える。


 周囲の視線はある。


 だが、別に隠すことでもない。


「食後ならいい」


 そう言うと、アルトが嬉しそうに頷いた。


 食事を終えた後、四人はそれぞれ短く手帳や紙に書いた。


 アルトは、外の声より課題を見る、と書いた。


 フィーネは、見えていると自分に言う、と書いた。


 ユーリスは、拾う声を選ぶ、と書いた。


 レオンは、戻すのではなく、自分で戻れる場を作る、と書いた。


 周囲の生徒たちが、それを見ていた。


 また噂になるかもしれない。


 第五班は食堂で反省を書いている、と。


 だが、今日はそれでいいと思った。


 必要なことだから。


 自分で選んでいることだから。


    ◆


 午後。


 外圧課題の再演。


 今度は、レオンの指示なしで戻ることを意識する。


 教師もそれを見ている。


 見学役の声は、午前より少し強くなった。


「アルト、また弱くなるなよ」

「フィーネ、遅れるな」

「ユーリス、そっち違うんじゃない?」

「レオン、言ってやらないのか?」


 嫌な声。


 だが、訓練だ。


 アルトが一瞬揺れる。


 しかし、自分で小さく言った。


「敵と課題」


 そして風を出す。


 細い。


 良い。


 フィーネも外の声に揺れかけた時、自分で言った。


「見えています」


 その声で、自分を戻した。


 ユーリスは外部の声を聞いても、班員の声だけを拾った。


 レオンは、何度か声を出したくなった。


 だが、待った。


 三人が自分で戻るのを待った。


 怖い。


 戻れなかったら崩れる。


 けれど、戻った。


 課題達成。


 教師の評価は、上。


「午後は良い」


 教師が言う。


「班員が自分で戻った。ヴォルツも声を抑えた」


 四人は息を吐いた。


 午前より、明らかに良かった。


 外圧に揺れなかったのではない。


 揺れて、戻った。


 それができた。


    ◆


 放課後。


 訓練棟を出る頃には、朝のざらつきが少しだけ薄れていた。


 噂が消えたわけではない。


 周囲の視線もまだある。


 だが、第五班の中では少し整理できた。


 外の声は消せない。


 でも、拾う声を選べる。


 その感覚が残った。


 アルトは分かれ道で言った。


「今日、少し戻れました」


「ああ」


 レオンは頷く。


「自分で戻った」


「はい」


「覚えておけ」


「手帳に書きます」


「食後ではないから今書いてもいい」


 アルトが笑った。


「帰ってから書きます」


 少し余裕が出てきた。


 それがわかる。


 ユーリスも軽く手を振る。


「今日は外圧に勝ったということで」


「勝ったわけではない」


 レオンが言う。


「戻れた、だな」


「そうそう。それ」


 ユーリスは笑って去っていった。


 フィーネと二人、中庭を歩く。


 夕暮れの光が、今日は少し淡かった。


「噂」


 フィーネが小さく言う。


「消えませんよね」


「すぐにはな」


「でも、今日少しわかりました」


「何が」


「消えなくても、戻れるって」


 レオンは頷く。


「ああ」


「それは、少し心強いです」


 フィーネはそう言って笑った。


 その笑顔は、朝より柔らかかった。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 噂。


 第五班は近すぎる。

 レオンが平民特待生に寄りすぎている。

 アルトが自分のせいだと思いかけた。


 外圧。


 噂を相手に剣は振れない。

 だが、噂で乱れた味方は見える。


 午前。


 外の声に揺れる。

 レオンが戻した。

 評価、上寄りの中。


 午後。


 アルト、自分で「敵と課題」。

 フィーネ、自分で「見えています」。

 ユーリス、拾う声を選ぶ。

 レオン、待つ。

 評価、上。


 ハルト。


 噂に対して不快感。

 課題で使える戦力を使って何が悪い。


 レオンはペンを止めた。


 今日、噂は消えなかった。


 たぶん明日も残る。


 エリシアの不安も消えていない。


 貴族側の違和感も、これから増えるかもしれない。


 だが、第五班は戻った。


 外の声に揺れながらも、自分たちの声へ戻った。


 それは、大きい。


 レオンは最後に一行を書く。


 噂はいつも、笑い声の隙間から入り込む。


 その下に、もう一行。


 だが、どの声を拾うかは、自分たちで選べる。


 ペンを置く。


 窓の外は夜。


 学園の灯りが静かに揺れている。


 温かい日常に、今日は小さな影が落ちた。


 けれど、影が落ちたからこそ、灯りの場所もわかった。


 フィーネの声。


 ユーリスの軽さ。


 アルトの手帳。


 ハルトの不器用な言葉。


 それらは、外の噂よりも確かに近くにあった。


 レオンは手帳を閉じる。


 まだ、何も壊れていない。


 だが、壊れる前の音は少しずつ聞こえ始めている。


 そのことに気づきながらも、彼は目を逸らさなかった。


 今はまだ、選べる。


 拾う声を。


 進む道を。


 そして、守りたいものを。

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