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無銘の剣と灰色の制服  作者: 伊佐波瑞樹


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21/81

第二十一話 


 翌朝。


 王立グランセル魔導学園の空は、薄い雲に覆われていた。


 雨は降っていない。


 だが、陽光は雲の向こうで柔らかく滲み、校舎の石壁も中庭の芝も、どこか色を抑えたように見える。


 噴水の水音だけが、いつもと変わらず静かに響いていた。


 レオン・ヴォルツは、寮の部屋で手帳を閉じた。


 昨日の最後に書いた言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 守りたいものが増えるほど、剣は重くなる。


 だが、その重さがあるからこそ、剣を下ろさずに立っていられる時もある。


 書いた時は、ただそう思った。


 だが、一晩経って読み返すと、その言葉は少し照れくさい。


 そして、少し怖い。


 守りたいもの。


 以前のレオンなら、そんな言い方はしなかった。


 守るべきものならあった。


 家名。

 順位。

 誇り。

 婚約者としての立場。


 それらは、守らなければならないものだった。


 外から与えられたもの。


 背負うべきもの。


 失えば恥になるもの。


 だが、今の手帳に書いた“守りたいもの”は、少し違う。


 フィーネの声。

 ユーリスの肩。

 アルトの不器用な支援。

 ハルトの変わり始めた剣。


 第五班。


 まだ正式な仲間と呼ぶには早いのかもしれない。


 けれど、もうただの演習班ではない。


 少なくとも、レオンの中では。


 そのことを認めるのは、少し怖かった。


 認めてしまえば、失う怖さも生まれる。


 守りたいと思ったものは、失った時に痛い。


 それくらいは、レオンにもわかる。


「……本当に面倒だな」


 呟いてから、少しだけ口元が緩んだ。


 面倒だ。


 それでも、悪くない。


 最近、その言葉ばかりが増えている。


    ◆


 寮を出ると、廊下には朝の冷たい空気が残っていた。


 生徒たちの足音が石床に響く。


 合同課題演習が続くようになってから、学園の朝は少しだけ早くなった。


 誰もが昨日の反省を抱え、今日の課題を予想しながら動いている。


 その中で、第五班の話題は相変わらず多かった。


「昨日の総合演習、第五班すごかったらしいぞ」

「標識より班員優先って言ったんだろ?」

「レオンが?」

「変わったよな」

「前なら絶対、標識落とすなって言いそう」

「でも結果的に落とさなかったんだろ?」

「班として強いんだよ」


 変わった。


 また、その言葉。


 最近、何度も聞く。


 最初は少し不快だった。


 自分が崩れているように聞こえたからだ。


 だが今は、完全には否定できない。


 実際、変わっている。


 自分でもわかる。


 以前なら言わなかった言葉を言う。


 以前なら待たなかった場面で待つ。


 以前なら切り捨てたかもしれない弱さを、課題として見る。


 それは変化だ。


 ただ。


 変わったと言われるたび、昨日までの自分が少しずつ遠くなるような気がした。


 戻れない場所が増えていく。


 その感覚が、胸の奥を静かに押した。


「おはようございます」


 声がした。


 フィーネ・ルークだった。


 今日はいつもより少し早い。


 教本を胸元に抱え、こちらを見ている。


 表情は柔らかいが、どこか慎重でもある。


「ああ」


「昨日は、よく眠れましたか?」


「眠れた」


「考えました?」


「ああ」


「ですよね」


 フィーネは小さく笑った。


「私も少し考えました」


「何を」


「守るもののことです」


 レオンは少しだけ黙る。


 昨日の講義。


 総合演習。


 標識より班員を優先するという判断。


 それはフィーネの中にも残っているらしい。


「守るものが増えるのは、怖いですね」


 フィーネが静かに言う。


 レオンは彼女を見た。


「お前もそう思うのか」


「はい」


 一拍。


「でも、守られるだけじゃなくて、守りたいとも思いました」


 その声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


「昨日、レオンさんが標識より班員って言ってくれた時、嬉しかったです。でも同時に、私もちゃんと返したいと思いました」


「返す?」


「守ってもらうだけじゃなくて、私も見て、声を出して、支えたいって」


 レオンは何も言えなかった。


 フィーネの言葉は、時々こちらの胸にまっすぐ入ってくる。


 飾りがない。


 だから逃げ場がない。


「……お前はもう支えている」


 ようやく言う。


 フィーネが目を丸くする。


「え」


「昨日もそうだ。装置を解除した。最後の光弾も見ていた」


「でも、まだ遅いところもあります」


「課題はある」


 レオンは頷く。


「だが、支えていないわけじゃない」


 フィーネは少し俯いた。


 頬が薄く赤い。


「……ありがとうございます」


「事実だ」


「それでも嬉しいです」


 沈黙。


 朝の廊下に、生徒たちの足音が流れていく。


 その中で、二人の間だけ少し静かだった。


    ◆


 途中でユーリスとアルトが合流した。


 アルトは手に小さな紙を持っている。


 昨日の反省を書いた紙らしい。


「おはようございます」


 今日は声がかなり抑えられていた。


 レオンは少しだけ頷く。


「良い声量だ」


「ありがとうございます」


 アルトは嬉しそうに笑う。


 ユーリスが横から言う。


「朝から褒められてよかったな」


「はい」


「で、反省は?」


 アルトは紙を見る。


「レオンさんを見すぎない。ユーリスさんの標識移送を優先する。フィーネさんの声を聞く。自分で見えたことも言う。火は薄く。風は半分。水は広げすぎない」


「かなり多いな」


 レオンが言う。


「はい。でも、書いたら少し覚えやすくて」


「悪くない」


 アルトの顔が明るくなる。


 ユーリスが笑う。


「俺も書いたぞ」


 レオンが見る。


「本当か」


「疑いすぎじゃない?」


「心の手帳と言っていたからな」


「今回はちゃんと紙に書いた」


 ユーリスは折りたたんだ紙を出した。


「肩を無理しない。見えてるなら早く言う。抱え込まない。標識を落としていいと言われても、落とさない時は理由を持つ」


 最後の一文に、レオンは少しだけ目を細める。


「理由を持つ、か」


「昨日、落としていいって言われただろ」


「ああ」


「あれで落とさなかったのは、意地だけじゃなくて、たぶん置けると思ったからだ。でも次も同じことをしたら危ないかもしれない」


 ユーリスは軽い声ではなく、真面目に言った。


「だから、落とさない時は理由を持つ。無理だけならやらない」


 レオンは頷いた。


「良い」


「お、褒められた」


「調子に乗るな」


「はいはい」


 フィーネも小さく紙を取り出した。


 彼女の字は細かく丁寧だった。


「私は、見えるものを言う。見えないものも言う。迷ったら曖昧でも早く出す。あと……守られるだけで止まらない」


 最後の言葉。


 レオンは静かに受け取った。


 四人が、それぞれ書いている。


 自分だけではない。


 班が、班として反省を持ち寄っている。


 その事実が、胸の奥に小さな熱を生んだ。


「今日も課題を見る」


 レオンが言う。


 三人が頷く。


 廊下の向こうで、誰かが第五班を見ていた。


 声も聞こえる。


「なんか本当に班って感じだな」

「反省まで共有してるのか」

「強いわけだ」


 その視線は相変わらず重い。


 だが、今朝は少しだけ受け止められる気がした。


    ◆


 上位クラスの教室に入ると、空気が少し変だった。


 普段のざわめきではない。


 誰かを待っているような、薄い緊張。


 レオンは席へ向かう途中で、それに気づいた。


 前方。


 窓際に、エリシア・フォン・ローゼンベルクが立っていた。


 上位クラスの生徒ではない彼女が、朝の教室にいる。


 それだけで、周囲の視線は自然と集まる。


 公爵家令嬢。


 レオンの婚約者。


 美しい金髪を整え、制服の襟元にも乱れはない。


 姿勢はいつも通り美しい。


 だが、その微笑みは少し硬かった。


「レオン様」


 エリシアが声をかける。


 フィーネが一歩下がった。


 ユーリスも軽い表情を消す。


 アルトは少し緊張し、自然と背筋を伸ばした。


 レオンは足を止める。


「エリシア様。朝からどうされましたか」


「少し、お話を」


 柔らかな声。


 だが、周囲には聞こえない程度の圧がある。


 レオンは頷いた。


「わかりました」


 エリシアの視線が、フィーネ、ユーリス、アルトへ一瞬だけ向いた。


 特にフィーネのところで、ほんのわずかに止まる。


「第五班の皆様も、ご活躍のようですわね」


 丁寧な言葉。


 だが、距離がある。


 ユーリスは社交的に会釈した。


「ありがとうございます」


 フィーネも丁寧に頭を下げる。


「ありがとうございます」


 アルトは少し慌てて頭を下げる。


「あ、ありがとうございます」


 エリシアは微笑んだ。


 その微笑みは完璧だった。


 だが、レオンにはわかった。


 彼女は見ている。


 第五班を。


 そして、その中で変わっていくレオンを。


    ◆


 教室脇の廊下。


 人目はあるが、声は少し落とせる場所。


 エリシアはそこで足を止めた。


「合同課題演習、評判になっていますわ」


「そうですね」


「昨日も、素晴らしい判断をされたとか」


「標識移送の件ですか」


「ええ」


 エリシアは微笑む。


「班員を優先すると宣言されたそうですわね」


 宣言。


 その言葉が、少し硬く聞こえた。


「状況判断です」


「そうでしょう」


 エリシアは頷く。


「班を守ることは大切です。人の上に立つ者として、下の者を気にかけることも必要ですわ」


 下の者。


 その言葉に、レオンはわずかに反応した。


 エリシアは悪意なく言ったのかもしれない。


 貴族的な考え方としては自然な言葉だ。


 上に立つ者。


 下の者。


 かつてのレオンなら、違和感なく受け取っていたかもしれない。


 だが今は、その言葉が少し引っかかった。


 フィーネは下ではない。


 ユーリスも、アルトも。


 班員だ。


 そう思った自分に、レオン自身が少し驚いた。


「ただ」


 エリシアは続ける。


「最近のレオン様は、少し周囲へ寄りすぎているようにも見えます」


「寄りすぎ、ですか」


「ええ」


 エリシアの微笑みは崩れない。


「あなたはヴォルツ伯爵家の方です。上位クラスの三位です。そして、わたくしの婚約者でもあります」


 また、その言葉。


 家名。

 順位。

 婚約。


 かつての自分を形作っていたもの。


 今も大切なもの。


 だが、それだけではない。


 そう思い始めた自分がいる。


「皆と協調することは大切ですわ。けれど、上に立つ者は、上に立つ者としての距離も必要です」


 距離。


 その言葉が、胸に落ちる。


 エリシアは正しいのかもしれない。


 貴族社会においては。


 上位クラスとしては。


 婚約者としての立場を考えれば。


 けれど。


「距離を置きすぎれば、班は機能しません」


 レオンは答えた。


 エリシアの目が少しだけ動く。


「合同課題の話です」


 レオンは続ける。


「今は、同じ班として動く必要があります」


「ええ。それは理解しています」


 エリシアは静かに言う。


「ですが、必要以上に心を寄せる必要はありますか?」


 その問いは、思ったより深く刺さった。


 必要以上に心を寄せる。


 自分は、そうしているのだろうか。


 フィーネの声を気にする。


 ユーリスの肩を気にする。


 アルトの不安を気にする。


 ハルトの変化も気にする。


 それは必要なことか。


 演習のためか。


 それとも、それ以上か。


 すぐには答えられなかった。


「……今は、必要だと思っています」


 レオンは言った。


 エリシアの表情が少し硬くなる。


「そうですか」


「はい」


「レオン様」


 彼女は一歩近づいた。


 声は柔らかい。


 だが、目は真剣だった。


「あなたが変わることを否定するつもりはありません」


 一拍。


「けれど、変わりすぎないでくださいませ」


 その言葉は、朝の廊下に静かに落ちた。


 変わりすぎないで。


 戻れない場所が、また一つ増えた気がした。


    ◆


 教室へ戻ると、フィーネが少し心配そうにこちらを見ていた。


 ユーリスは何も聞かない顔をしている。


 アルトは聞いていいのかわからない表情だった。


 レオンは席へ着く。


 少しの沈黙。


 最初に口を開いたのはユーリスだった。


「大丈夫か?」


 軽くない声。


「ああ」


 レオンは答えた。


「婚約者としての話か?」


「少しな」


「そっか」


 ユーリスはそれ以上踏み込まなかった。


 フィーネは視線を落としている。


 彼女にも、エリシアの視線は届いていたのだろう。


 レオンは少し迷った。


 何か言うべきか。


 だが、教室で言う言葉ではない。


 そう思った時、フィーネが小さく言った。


「……今日も、課題を見ます」


 その声は少しだけ震えていた。


 けれど、前を向いていた。


 レオンは頷く。


「ああ」


 それで十分だった。


    ◆


 一限目の講義。


 教師は黒板へ書いた。


 変化と軸。


 今日の題目を見て、レオンは思わず目を細めた。


 まるで、朝のエリシアとの会話を見られていたかのようだった。


「合同課題演習を通じて、各自に変化が出ている」


 教師が言う。


「良いことだ。変化できない者は伸びない」


 一拍。


「だが、変化とは流されることではない」


 教室が静まる。


「他者の言葉を聞く」

「班員を見る」

「自分の弱点を認める」

「新しい役割を受け入れる」


 教師は黒板を軽く叩く。


「それらは成長になり得る。だが、自分の軸を失えば、ただ形を崩しただけになる」


 レオンは手元に書き留めた。


 変化とは流されることではない。


 自分の軸。


 今の自分に必要な言葉だった。


「ヴォルツ」


「はい」


 やはり呼ばれた。


 レオンは立ち上がる。


「お前は最近、変化が大きい」


 教室の視線が集まる。


「自覚はあるか」


「あります」


 否定しなかった。


 教師は頷く。


「では、その変化の中で、変えてはいけないものは何だ」


 重い問い。


 変わるもの。


 変えてはいけないもの。


 レオンは少し考えた。


 家名か。

 誇りか。

 勝利への意志か。

 剣か。


 どれも大切だ。


 だが、今一番近い答えは別にあった。


「自分で選ぶことです」


 教室が静かになる。


 教師が目を細める。


「続けろ」


「人の言葉を聞くことは必要です。班員の意見を受け取ることも必要です」


 一拍。


「ですが、最後にどう動くかを選ぶのは自分です。それを失えば、変化ではなく流されているだけになります」


 教師はしばらく黙っていた。


 そして、短く言う。


「良い答えだ」


 胸の奥が少しだけ軽くなった。


 朝のエリシアの言葉。


 変わりすぎないで。


 その答えが、少しだけ見えた気がした。


 変わる。


 だが、流されない。


 最後に選ぶのは自分。


 以前、教師に言われた言葉が、今また別の形で戻ってきた。


    ◆


 第一訓練棟。


 今日の課題は、総合演習後の個別班調整だった。


 大きな課題ではない。


 各班ごとに、前日の総合演習で見えた弱点を修正する。


 第五班は、標識移送時の判断と分断時の合流後対応。


 特に、ユーリス被弾時の動き。


 レオンが標識より班員を優先した場面。


 その再現と修正を行う。


 教師は第五班の区画へ来ると、短く言った。


「今日は派手さはいらない。判断を磨け」


「はい」


 四人が頷く。


 最初の再現。


 ユーリスが標識を持つ。


 魔法型の光弾。


 フィーネの風。


 アルトの補助。


 レオンの防御型処理。


 昨日の場面と同じ。


 光弾がユーリスの肩へ向かう。


 今度はどうするか。


「フィーネ、少し早く風」


「はい!」


 フィーネが風を出す。


 早い。


 だが少し弱い。


 光弾の軌道は少しだけずれる。


「アルト、足元補助じゃなく魔法型の詠唱を乱せ」


「はい!」


 アルトが水を飛ばす。


 少し広いが、魔法型に届く。


 光弾の出力が弱まる。


「ユーリス、肩を庇って下がれ。標識は抱え込むな」


「了解」


 ユーリスが一歩下がる。


 標識が揺れる。


 レオンは防御型をずらしながら、ユーリスへ声を飛ばす。


「落としていい場面と、落とすな場面を分ける」


「今は?」


「落とすな。だが肩を潰すな」


「難しいな!」


「そういう課題だ」


 ユーリスが笑いながら標識を抱え直す。


 今度は光弾を受けない。


 標識も落とさない。


 成功。


 教師が頷く。


「今の方が良い」


 短い評価。


 だが、四人の表情は少し明るくなる。


 派手ではない。


 だが、確実に良くなっている。


    ◆


 次は、アルトが標識保持者になった場合の同場面。


 アルトは昨日より落ち着いていた。


 標識を持ち、足を止めない。


 ただ、魔法が使えない状況になると不安が出る。


 自分の強みを封じられるからだ。


「アルト」


 レオンが言う。


「はい」


「標識を持っている時、お前の役割は魔法じゃない」


「はい」


「声だ」


 アルトは頷く。


「見えたものを言う。怖い時も言う。進めるかどうかも言う」


「はい」


「声量は調整しろ」


「あ、はい」


 訓練開始。


 軽量型が迫る。


 アルトは標識を抱えている。


 魔法は使えない。


 以前なら固まった。


 だが今日は違う。


「右から来ます! 俺、進めます!」


 声が出た。


 大きいが、通る。


 フィーネが反応する。


「右、見えました!」


 ユーリスが回り込む。


 レオンが軽量型を流す。


 アルトが標識を持ったまま進む。


 成功。


 アルトは到達点で大きく息を吐いた。


「……できました」


「ああ」


 レオンは頷く。


「今の声は良い」


 アルトの顔が一気に明るくなる。


「ありがとうございます!」


「声」


「あ、はい」


 それでも嬉しそうだった。


    ◆


 昼休み。


 第五班は自然と同じ席に座った。


 もう、誰かが誘う必要はあまりない。


 気づけば集まっている。


 そのことに気づいた時、レオンは少しだけ胸の奥が温かくなった。


 だが同時に、朝のエリシアの言葉も戻ってくる。


 変わりすぎないでくださいませ。


 自分は変わりすぎているのだろうか。


 フィーネが隣でパンを小さくちぎっている。


 少し考え込んでいるようだった。


「フィーネ」


「はい」


「朝のことか」


 彼女は少し驚く。


「……少しだけ」


 エリシアのことだと、言わなくてもわかる。


 ユーリスは何も言わない。


 アルトも黙っている。


 フィーネは少し迷った後、小さく言った。


「エリシア様は、きっと正しいのだと思います」


「何が」


「立場とか、距離とか」


 彼女の声は静かだった。


「私は平民に近い家の出で、上位の方々の距離感は全部わかるわけじゃありません。でも、レオンさんにはレオンさんの立場があるのは、わかります」


 レオンは黙って聞いていた。


「だから、私たちのせいでレオンさんが困るなら、それは嫌です」


 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。


「違う」


 レオンはすぐに言った。


 フィーネが顔を上げる。


「お前たちのせいじゃない」


 一拍。


「俺が選んでいる」


 朝の講義の答え。


 最後に選ぶのは自分。


「班を見るのも、任せるのも、守ると決めるのも、俺が選んでいる」


 フィーネの目が揺れる。


「だから、お前たちのせいにはするな」


 沈黙。


 ユーリスが少しだけ笑う。


「今のは、かなり良いな」


「茶化すな」


「茶化してない」


 アルトも真剣に頷く。


「俺も、そう思います。俺たちも、自分で選んでます」


 フィーネはしばらく黙っていた。


 そして、小さく頷く。


「……はい」


 その返事は、少しだけ震えていた。


 けれど、前を向いていた。


    ◆


 午後の調整訓練では、各班の自由課題になった。


 第五班は、午前の判断訓練に加え、短い対抗想定を入れた。


 相手役は、ハルトの第七班。


 教師の許可を得て、二班合同で軽い演習を行うことになった。


 直接勝敗をつけるものではない。


 互いの弱点確認。


 それでも、周囲の生徒たちは集まる。


 第五班と第七班。


 この組み合わせは、すっかり注目されるようになっていた。


 ハルトがレオンへ言う。


「今日は勝負ではない」


「ああ」


「だが、手は抜くな」


「抜く理由がない」


「ならいい」


 短い会話。


 以前よりずっと自然だ。


 演習は、標識一つを中央に置き、双方が進路確保と妨害を確認する形だった。


 レオンはハルトと数合打ち合う。


 激しすぎない。


 だが真剣。


 ハルトの剣は、また少し良くなっていた。


 焦りが減り、班員の位置を気にする余裕がある。


「良くなっている」


 レオンが言う。


「戦闘中に言うな!」


「事実だ」


「腹が立つ!」


 ハルトはそう言いながらも、口元が少しだけ笑っていた。


 一方、フィーネは第七班の魔法支援型女子生徒と情報交換のような動きをしていた。


 ユーリスは槍使いと位置取りを確認している。


 アルトは防御型の生徒に、土の足止めの範囲を見てもらっていた。


 敵同士ではない。


 完全な仲間でもない。


 だが、互いに伸ばし合う相手になり始めている。


 その光景を見て、レオンは少しだけ不思議な感覚を覚えた。


 学園。


 上位。

 中位。

 下位。

 貴族。

 平民。

 特待生。


 それらの境界が、少しだけ揺らいでいる。


 合同課題演習が作った一時的な揺らぎ。


 けれど、その揺らぎの中に、確かに何かが生まれている。


    ◆


 放課後。


 訓練棟を出ると、空は灰色から淡い橙へ変わり始めていた。


 雲の隙間から夕日が差し込み、中庭の芝を斜めに照らしている。


 第五班の四人は、今日は少しゆっくり歩いた。


 大きな失敗はなかった。


 派手な成功もなかった。


 だが、確実に積んだ一日だった。


「今日は、少し落ち着いてましたね」


 フィーネが言う。


「そうだな」


 ユーリスが頷く。


「大きな課題の翌日って感じだな」


 アルトが紙を見ながら言う。


「書くことは多いです」


「お前、本当に真面目だな」


 ユーリスが笑う。


「忘れたくないので」


 アルトは素直に言った。


「最近、できることが少し増えて……でも、すぐ忘れそうで怖いんです」


 レオンはその言葉を聞き、少しだけ頷く。


「書け」


「はい」


「忘れたら読み返せ」


「はい」


「それでも駄目なら、またやればいい」


 アルトが顔を上げる。


「また、ですか」


「ああ」


「……はい」


 アルトは嬉しそうに笑った。


 分かれ道で、アルトとユーリスが先に別れた。


 残ったレオンとフィーネは、中庭をゆっくり歩く。


 噴水の水音。


 夕暮れの光。


 薄い風。


 しばらく無言だった。


 その沈黙は、気まずくない。


 むしろ、少し落ち着く。


「レオンさん」


 フィーネが言った。


「何だ」


「変わりすぎないでって言われたら、どうしますか」


 レオンは足を止めた。


 フィーネも少し遅れて止まる。


 その問いは、朝からずっと彼女の中にも残っていたのだろう。


 レオンは少しだけ空を見る。


 雲の向こうに、夕日が沈みかけている。


「変わる」


 短く答えた。


 フィーネが目を開く。


「ただし、流されない」


 一拍。


「俺が必要だと思ったなら変わる。違うと思ったなら変えない」


 フィーネは黙って聞いている。


「最後に選ぶのは俺だ」


 朝の講義と同じ。


 だが、今度は自分自身へ言う言葉でもあった。


 フィーネは静かに頷いた。


「それなら、安心しました」


「安心?」


「はい」


 彼女は少し笑う。


「レオンさんが選んでいるなら、大丈夫だと思います」


 根拠のない信頼。


 だが、その根拠のなさが不思議と心強かった。


「……お前は、すぐそういうことを言う」


「変でしたか?」


「いや」


 レオンは少しだけ口元を緩めた。


「助かる」


 フィーネの頬が、夕暮れの色とは別に少し赤くなる。


「また、ずるいです」


「何度目だ」


「何度でも言います」


 いつものやり取り。


 それが、今は妙に大切に思えた。


    ◆


 夜。


 学生寮の部屋。


 レオンは手帳を開いた。


 今日の記録を書く。


 エリシア。


 変わりすぎないで。


 距離。


 立場。


 班員。


 教師の講義。


 変化と軸。


 最後に選ぶのは自分。


 第五班の反省共有。


 アルトの手帳。

 ユーリスの肩。

 フィーネの声。

 第七班との合同調整。

 ハルトの剣。


 そして、フィーネの問い。


 変わりすぎないでと言われたら、どうしますか。


 レオンはペンを止める。


 その問いの答えを、もう一度書く。


 変わる。


 ただし、流されない。


 最後に選ぶのは自分。


 それは、今のレオンに必要な軸だった。


 誰かの言葉を聞く。


 フィーネの声を受け取る。

 ユーリスの助言を受け取る。

 アルトの指摘を受け取る。

 ハルトの対抗心を見る。

 教師の言葉を刻む。

 エリシアの不安も無視しない。


 けれど、最後に選ぶのは自分。


 そうでなければ、変化ではなく流されているだけになる。


 レオンは最後に一行を書く。


 変わったと言われるたび、戻れない場所が増えていく。


 その下に、もう一行。


 だが、戻れない場所が増えるからこそ、進んできた道も確かに残る。


 ペンを置く。


 窓の外は夜。


 学園の灯りが静かに揺れている。


 今日、エリシアは変わりすぎないでと言った。


 その言葉は重い。


 今も胸に残っている。


 だが、第五班と歩いた時間もまた、確かに残っている。


 どちらも無視できない。


 どちらも、今のレオンを作っている。


 まだ、何も壊れていない。


 まだ、全ては日常の中にある。


 けれど、日常の形は少しずつ変わっている。


 戻れない場所が増えていく。


 その先に、何があるのか。


 レオンはまだ知らない。


 ただ今夜は。


 自分で選ぶという言葉を胸に、静かに目を閉じた。

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