<6>
「エドワード、起きてください、エドワード……」
遠慮がちな小声で揺すられて、エドワードは目を覚ました。
目の前には、暗闇の中で赤く光る目があった。暗闇で目を光らせる人物など、一人しかいない。
「どうした、レフ」
起きあがりながら尋ねるとレフは、熟睡しているフランツの枕元から、音も立てずにサラのランプをそっと取りだし、エドワードの近くに持ってきた。
ランプの明かりが近づき、目の前が明るくなったところで、レフが相当困った顔をしていることに気が付く。
「何かあったのか?」
疲れ切っているであろうフランツを起こさないよう小声で尋ねると、レフは頷いた。
「何かあったかは分かりませんが……アンナがいません」
「何?」
ベットから起きあがってアンナの寝ていた二段ベットの上の段を覗くと、そこは空で寝具が綺麗に折りたたまれていた。触ってみると、すでに冷たい。
「アンナが出ていくのは見ました。お手洗いにでも行くんだろうと思って声をかけなかったんですが、もうアンナがいなくなってから一時間は経つので……」
「一時間か……」
それだけ帰ってこないのなら、可能性として考えられることは二つだ。まずあって欲しくない可能性の方を初めに確認する。
「レフは耳がいいな?」
「はい」
「誰かが水に落ちる悲鳴は聞かなかったか?」
「聞きません。アンナが落ちたら、間違いなく気が付きます」
「そうか」
それでは、もう一つの可能性しかない。
「おそらくリッツの所だな」
そう告げると、レフが驚いたように目を見張った。
「リッツは船倉にいますよ?」
「ああ。だがアンナが他に行く所などない」
誤算だった。今までの旅を見ていると、アンナはリッツの言うことを、一も二もなく信じてしまうと思っていた。
だが色々な事件を経て彼女も成長している。リッツのはったりだけで、アンナを抑えることは不可能だったようだ。
それにアンナは最近、どうもリッツを心配して気にしているのだ。それはおそらくパトリシアにリッツを頼まれた、ということだけではないだろう。
アンナに直接相談を受けたことがあるエドワードはそれを知っていたのだから、気を付けておかねばならなかった。
「エドワード、もしかしたら寝ぼけて迷子になっているかも知れません。探してきたいのですが……」
心配そうに人のいいレフがそういった。無駄だとは思うが、万が一にもそういう事態が起こりかねない。
「では頼む」
「はい」
リッツよりも遙かに大きく逞しいレフが、物音一つ立てずにドアから外の闇へと滑り出していった。獣人の身の軽さを実際目の当たりにすると驚かされる。
エドワードは立ち上がって、夕食のバスケットを開いた。確認してみると、残っていた約一人前のサンドイッチと水のボトルが一本なくなっている。
これを届けに行ったのだろう。
「やれやれ」
ため息混じりに呟くと、バスケットを静かに閉めた。
アンナまで船倉に閉じこめてしまうことになるのなら、初めからレフに頼んだ方が効率がよかったかも知れない。
ジェラルドと同じくらいの年とはいえ、見た目に幼い少女を船倉に放り込むような非道なことをするつもりは、全くなかったというのに。
一度船倉に閉じこめられてしまったなら、もうエドワード達にできることは何もない。
もし船倉にアンナを助けに行ったりしたら、騒ぎが大きくなってしまい、憲兵隊第三課第一小隊が追っていた麻薬流通ルート解明が、不可能になってしまう。
そうなってしまうことだけは避けねばならない。
もしこの作戦が失敗したら、隣国に自国の麻薬が流れるという、交易上最悪の事態になりかねないのだ。
水のボトルを一本取って水を口に含みながら、考えていると、熟睡していたはずのフランツが起きあがった。
「……どうしたフランツ?」
尋ねるとフランツは、回りを見回してから、大きくため息を付いた。
「まだ、夜中なんですね……」
呟きながらフランツはベットから出てきた。未だ全く睡眠不足が補えてはいないようだ。
「まだ寝ていて構わんが?」
「……駄目です。なんだが頭の中が揺れてて、眠りが浅くて。外の空気が吸いたいんです」
軽く目をこすりながら、フランツは眠そうにそう言った。
「そうか」
船に不慣れな者は、その揺れが体に馴染むまでどうも調子が悪いというのを聞いたことがある。
「陛下はどうしたんですか?」
旅に出てからも、敬称でエドワードを呼ぶ律儀なフランツに肩をすくめつつ答えた。
「アンナがリッツの所に行ってしまってな」
「……は?」
目をこすっていた手が、ピタリと止まった。
「アンナが、リッツの所へ?」
回らない頭で、それがどういう状況なのかを考えているようだ。
「つまりアンナは船倉に行ったんですね?」
「そうだ。リッツの分のサンドイッチと水を持ってな。だが無賃乗船者にそんなものを届ける人間いれば、間違いなく共犯者だと思われるだろう?」
「なるほど……それで捕まった」
そう無表情に呟くと、フランツは大きく長いため息を付いた。
「……馬鹿だ」
吐き捨てるような言葉に、思わず苦笑する。フランツは仲間に対しても全く容赦ない。
「そういうな。それがアンナの優しさなんだからな」
「あれは優しさではなく、無謀というんです」
確かにフランツの言うことには一理ある。
「……まあ、否定はせん」
腕を組んだまま黙ってしまったフランツの隣で、エドワードは水に口を付けた。
とりあえず何事もなかったような顔をして、朝を迎えるしかないだろう。しばらく黙ったままいると、アンナを探しに出掛けたレフが帰ってきた。
「どうだ?」
答えは分かっていたが一応そう尋ねると、レフはしょげたような顔で首を横に振る。やはり見つからなかったようだ。
「船倉の様子は見られなかったのか?」
レフのことだから、誰にも気が付かれぬようそこも確認してきているだろう。
「見張りがいて、探れませんでした。船倉は客室の下ですから何か聞こえないかと、通路の床に耳を着けてみたんですが、駄目でした」
「そうか……」
「どうしましょう、エドワード」
叱られた子供のように困った顔で、レフが尋ねた。
「……とりあえず、待つしかなかろう」
「ですが……」
エドワードの言葉に、レフは不服そうに口を尖らせた。リッツからレフは十五歳だと聞いているが、この仕草はどう見ても年相応の子供だ。
「ここで全員が不審者になるわけにもいかん。今も作戦は遂行中だ。それにアンナもリッツと一緒にいるなら、何も問題なかろう」
真っ直ぐにレフを見つめると、レフはその言葉に深く頷いた。
「そうですね。リッツと一緒なら大丈夫でしょうね」
獣人族である彼は、精霊族であるリッツを無条件で尊敬している。レフにとってリッツは精霊族であるというそれだけで尊敬と信頼の対象なのだ。
「外の風に当たってきます」
今までのやりとりを聞いていて、もうやるべき事がないと考えたらしいフランツが、そう言って立ち上がった。
「私も行こう。ずっとここにいたのでは、息が詰まる」
出て行きかけたフランツにそう声をかけて、エドワードも立ち上がった。
防寒具を手に取る。春とはいえ、海上は冷える。ただ乗りしている以上、四人一室の船室に文句はないが、やはり新鮮な空気が吸いたい。
フランツも船の上が寒い可能性に気が付いたのか、自分のベットから防寒具を取りだした。
「俺は、どうしましょう?」
取り残されるような形で、ぽつんと立っていたレフが尋ねた。
「万が一アンナが帰ってこないとも限らん。残っていてくれないか?」
例えあり得ないかも知れない可能性でも、それに対する対応策は残しておくべきだ。
もしアンナが帰ってきたときに、誰もいないという状況ではあまりに可哀相だ。
「分かりました。行ってらっしゃい」
レフに見送られて部屋を後にした。無言で暗い廊下を歩く。後ろからフランツがゆっくりと付いてくるのが気配で感じられた。
階段を上がって甲板に出たとたん、冷たい風が頬を撫でた。夜風はやはり冷たい。だが月と星が出ているためか、船内の廊下よりも甲板は明るかった。
後ろを振り返ると、フランツが防寒具を羽織っている所だった。エドワードは自分の防寒具の前を止めた。
船縁にもたれ掛かり、遮るもの一つない夜空を見上げる。出航の時からずっといい天気が続いているから、夜空は怖いくらい満天の星で溢れていた。
「降るような星空だな」
そう呟くと、何も言わず無言でフランツは空を見上げた。その目には微かに感動の表情がある。
リッツとアンナから見れば『とても分かり易くなった』らしいフランツだが、これではなかなか人に理解されにくいだろう。
かくいうエドワードも、フランツの無表情から感情を読み取るのに、ようやく慣れた所だ。
エドワードの隣にもたれ掛かりながら、フランツが口を開いた。
「大丈夫でしょうか?」
主語はないが、リッツ達のことであるのは分かった。たいして二人を気にしていない顔をしながら、本当は気になってしょうがないのだろう。
「大丈夫だ。あの二人は君より格段に強いからな」
「ええ」
反論するでも、不承不承でもなく、ただ静かにフランツは頷いた。彼自身もあの二人の強さを実感しているようだ。
「たまに、あの二人の強さが羨ましいです」
ポツリとフランツはそう言って黙った。顔を見ると、船縁に両肘をついて、そこに頭を乗せていた。
「そうか」
「はい」
言う言葉が見つからず短く答えると、お互いに空を見たまま押し黙った。
今までフランツは、リッツとアンナの三人で旅をしてきた。もしかしたら長寿命の二人と共にいることは、フランツに色々なことを考えさせるのかも知れない。
昔リッツがエドーワードの仲間として共に過ごしていた頃、多くの人間の中で彼だけが長い寿命を持っていたため、リッツは一人で思い悩んでいることが多かった。
自分を置いて過ぎていく仲間の時間が、リッツには重すぎた。
だがいまフランツが置かれた状況は、リッツとはまるで逆だ。年を取らない仲間の中で一人だけ、どんどん先へ進んでいってしまう。
その上その二人が、二人とも特異な性格をしている。普通の人間であるフランツは、追いついていくのに一生懸命だろう。
そんな複雑な胸の内を、フランツは二人に話したことがあるのだろうか。
もしかしたら、こうして種族としては同じ人間であるエドワードの前だから、弱音を吐いたのか……。
「あなたもです、陛下。あなたも強い人だ」
「私がかね?」
「はい。陛下は僕には決して背負えないものを、ずっと背負ってこられた」
今までフランツがそんなことをいったことなど、一度もなかった。
「何故そう思うんだね?」
尋ねると振り向くこともせずに、フランツはポツリと呟いた。
「戴冠式を見て、あまりに重いな……と」
「なるほどな」
戴冠式は、国王が最も国王である時だ。見る人が見ればそう見えるか。
「リッツや陛下、宰相閣下を見ると、自分の弱さを実感します」
どうやらフランツは、少々弱気になっているようだ。その原因はどこにあるのか分からない。
ここ数日の疲れがフランツの口を軽くしているのかも知れないし、これから先、何があるのかを考えて不安になっているのかも知れない。
黙って船が立てる波しぶきを見ているフランツに、静かに語りかける。
「フランツ。私は実をいうと、それほど重い荷物を背負ってきたわけではない」
意外そうな顔で、フランツがこちらを振り向いた。
「確かに私は、人々から見れば王国を背負う責任を一身に背負った国王という役職に見えただろう。だが私は自分を国王だと思ったことがないんだ」
「え?」
「国王のふりをしていただけだ。なかなか巧い演技だったろう? リッツの犯罪者の演技には、負けん」
「何をふざけたことを……」
「ふざけてはおらん。本当のことだ」
今まで人に話はしなかった。だがフランツには話しておいてもいいだろう。
リッツの仲間であり、将来自分が死んだ後、グレイグの片腕となって王国を支えていくのであろう、この男には。
「どういうことですか?」
「この国には、三十数年来、大臣が存在しなかったと国民には思われている。だが存在していたとしたら?」
「え?」
「誰も……シャスタさえ知らないことだ。勿論お飾りの大臣であったリッツも知らない」
フランツは眉をしかめた。理解できないといった顔だ。だがエドワードからすれば、これは真実の話だ。
「私は自分が大臣職を拝命した気持ちで国政に関わっていたんだよ。国王という立場が必要なとき、私は国王のまねごとをしていた。当然、国王としての責任は負っている。それを投げ出すつもりは毛頭無い」
「では……」
「それでも私は国王であるよりも、大臣である方がしっくりくると思っていた。国王というのは、きっと私や、パティ、リッツ、シャスタ、その他の皆が協力して作り出してきた虚像なんだ。乱世において国王は、言ってしまえば平穏を望む皆で作り出した、理想的な理論であればいい」
内戦では、王太子として戦った。当然、それを前面に押し立て、自分の存在を誇示し、自らの立場を利用した。
だが国が平安を取り戻せるのならば、国王で無くとも良かったのだ。だが国王が存在する世界しか知らないから、よりよい国王を選ぶことで平穏を取り戻そうとした。
「戴冠式で、国王という職を、王族として育てられた新たな王族に返した。これで全てが解決だ」
「そんな……」
絶句するフランツに苦笑する。誰もこんな話を信じないだろう。だが真実だ。
「私はあくまでもエドワード・バルディアという一個人で、軍人で、大臣のつもりだった。現に大臣の書類の大半は、私が片付けていたしな。エドワード四世は、虚像だ。虚像だが絶対に必要な虚像だった」
「ですが……ジェラルド王は、陛下の……」
「確かに私の息子だ。だが一世代を隔てた王家の血を引くものだ。乱れた国を立て直し、正式に王家の者として育った者に王位を返す……それが私の希望だった」
本当はそれにもう一つの希望が付く。そうして国王の位を譲り渡して個人に返り、本当の夢を取り戻したかった。
最も信頼する友と、旅がしたかった。
「つまり最初から国王であるという気負いはなかったんだよ。私に必要だったのはあくまでも国王という肩書きだけだ」
横のフランツを見ると、眉を寄せたままこちらを見据えている。フランツの目には、自分はさぞや立派な国王に映っていたのだろう。
だがそれを当の本人から虚像だと打ち壊されるのは、辛いかもしれない。
「所詮私は農民の子なんだよ、フランツ。大臣職に就いただけでも大出世さ」
フランツが大きくため息をついた。
「宰相閣下が聞いたら、嘆きますよ」
「そうだな」
「リッツだって、怒りますよ」
「そうかな? だがフランツ、よく考えて御覧。もし国を顧みない国王がいて、毎日放蕩三昧していても、大臣と宰相が国を支えれば国は回る」
「……」
「覚えておくといい。もしフランツが国を動かす立場になり、仕える国王が無能だった場合には、そこを空位と考えて、君や、もう一人の人物と国を立て直せばいいのだと。国王は理想の理論だ。象徴として存在していればいい」
グレイグが常日頃からフランツを大臣にしてやるといっているのは知っている。だがフランツはどちらかというと軍人向きの男ではない。
文官向き……つまり国の中枢を任せるならば、宰相の方が適任だろう。
「……グレイグが僕を大臣にといっているのを知っていたんですね?」
疲れたような上目遣いでエドワードを見上げながら、フランツが恨みがましくそう言った。
「ああ。知っていた」
「あれは子供特有の冗談です」
吐き捨てるようにそう言ったフランツの目を、エドワードは真っ直ぐに見つめた。
「冗談で済むと思っているかね?」
フランツが怯む。
「どうなのだ、フランツ」
「思っていません。ですが……分不相応です」
言葉だけ聞けば謙虚だが、顔を見れば本当のところが分かる。フランツは面倒なのだろう、沢山の人間に関わる事が。
「それではフランツは、旅の目的を達しても、王都には戻らないつもりなのかな? リッツと同じように……」
多少探るようにそう尋ねると、フランツは黙ったまま考え込み、しばらくして顔を上げた。
「……戻るつもりです」
「ほう……理由があるのかな?」
「はい。おそらく戻らなければ……グレイグにどんな手を使ってでも探し出されて、連行されそうなので。グレイグは陛下と違って、友人を自由にしてくれそうにありません」
これには苦笑するしかない。
「すまんな。我が儘に育ててしまって」
これには答えずに、フランツは大きなため息で返した。フランツの言うとおり、実の孫であるグレイグはそれくらいのことをやりかねない。
我が儘で唯我独尊なくせに、自分自身を理解されることを誰よりも強く望んでいるグレイグが、初めてできた友達を逃すはずがないのだ。
グレイグはおそらく、フランツが思うよりもずっと本気で、将来の王国をフランツに共に支えていきたいと希望している。
「馬鹿な孫の世話、感謝しているよ」
「はい」
「今後ともな」
「……断れませんか?」
「王都に戻ったら、直接本人に断ればいいだろう?」
「……駄目って事ですね」
大きくフランツはため息を付き、頬杖を付いた。リッツと一緒にいたというそれだけで、フランツは苦労しそうだ。エドワードはそれを思うと笑いがこみ上げてくる。
もともとリッツだって、エドワードと一緒にいたから大変な目にあったのだ。もしそうでなければ、傭兵何ぞにならずに済んだだろう。小器用な所もあるから何らかの職人にでもなればよかったのだ。
もし職人になっても、あの性格と寿命の問題で、一所に住んでいたとは考えられないが、あの器用さだ。
伝説の家具職人、もしくは料理人ぐらいにはなったのではないかと勝手に想像して、おかしくなった。
それにしても運命というのは、複雑な形で絡み合い、同じような被害者を連れてくるものだとしみじみ思う。
行き倒れていてエドワードに拾われたリッツ。
実家を燃やして行き場を失ったフランツ。
二人とも何故か自分を通して、王家に関わってしまっている。しかも片や元大臣、片や将来の宰相と来ているのだから、不思議なものだ。
「陛下」
「何だね?」
「さっきの話ですが、どこまで本当ですが?」
フランツがじっとりとした表情でこちらを伺っている。
「何がだね?」
「大臣のつもりで国王のつもりは無かったって。全部僕がグレイグに引きずり回される事になりそうだから考えた作り事ですか?」
疑り深いフランツに、エドワードは笑顔で答えた。
「さあ。どうかな」
「……答える気は無いんですね……」
恨みがましいフランツに答えず、軽く防寒具をさする。
「冷えてきたが、どうする?」
海を見たままのフランツにそう尋ねると、フランツは小さく首を振った。
「もう少しいます」
「そうか。それでは先にな」
物憂げなフランツを残してエドワードは船室へと続く階段をのんびりと下りた。




