<7>
誰かが手に触れている感触で、アンナは目を覚ました。どうやらちょっと居眠りしてしまったみたいだ。
目を開けると先ほどまではすっかり眠り込んでいた船酔いのリッツが、いつの間に起きている。
アンナが目覚めたことに気が付かないのか、リッツはぼんやりとした顔でリッツの額に置いたままになっていたアンナの手を優しく撫でている。
時折柔らかくアンナの手を握り、優しく指を絡ませてきて、包み込むようにその掌でアンナの手を撫でる。その大きくて温かい手の感触が、なんだか不思議で気持ちよくて暖かい。
寝ぼけながらそう思っていると、ようやく今の状況を思い出した。
「ごめんリッツ! 私も寝ちゃった!」
そう声をかけた瞬間に、リッツが弾かれたように飛び起きた。飛び起きたと言うよりも、飛び上がったという方が合っているかも知れない。
そのままのすごい勢いで荷物の木箱に頭を打ち付ける。
ゴンというか、ガツンというか、とにかくもの凄い音がした。
「リッツ?」
驚いて声をあげて、座り込んだままのリッツに近寄ると、どうやら声も出ないほど痛かったらしく呻くばかりだ。
荷物を寄せて何とか隙間を作って寝ていたのに、急に飛び起きるような危険なことをするなんて、リッツらしくない。
立ち上がることもできないリッツは、頭を抱えながら絞り出すように呻いた。
「いってぇ~」
「大丈夫? すんごい音したよ?」
木箱かリッツ、どちらかが壊れたなというくらいの音だった。
「ああ、大丈夫」
明らかに無理している。あれだけの勢いでぶつかって、あれだけの音を立ててるんだから、尋常な痛さじゃないだろう。
「うそだ~、大丈夫じゃないでしょ?」
「……大丈夫だって」
ぶつけたところをさすりながら、リッツが振り返った。明らかに赤くなっている。
しかもぶつけたのが角だったのか、額に一直線の赤い線が入ったみたいになっていて、もの凄くおかしい。
「額に線が入ってるよぉ」
「本当か?」
見えるはずもないのに、リッツがそれを触りながら視線を上に向ける。それがおかしくて、堪えきれずに吹き出した。
不機嫌そうな顔をしていたリッツも、小さくため息を付くと苦笑した。
「起きてたのかよ」
何故か困ったような顔で、そうリッツが言った。
「ううん。今起きたの」
「そうか」
まだ痛そうな顔をしている。額をこすりながら、リッツがポケットから時計を取りだした。
「三時か……結構寝ちまったな」
「ごめんね、起こさなくて」
申し訳なくなって言うと、リッツは苦笑した。
「いいって。お前、普段は寝てる時間だもんな」
「うん。起きてたことない時間だよ」
少しでも寝たからなのか、何だか頭がすっきりしている。これなら明日の昼に港に着くまで起きていられるかも知れない。
「仕事を続けるけど、お前はどうする?」
アンナに尋ねながらも、すでにリッツは釘抜きを手にして荷物に向かっていた。寝てしまったから時間が惜しいのだろう。
「どうしようかなぁ。あ、今からで間に合いそう?」
心配になって尋ねると、リッツは器用に木箱を開けながらぶっきらぼうに答えた。
「余裕」
「よかったぁ~」
「手伝ってくれりゃあ、もっと早く終わるぞ。まあ寝てても構わないけどな」
「手伝う!」
身をかがめながら作業を続けるリッツの隣に、移動すると、リッツの手元を覗き込んだ。釘は曲がることなく真っ直ぐに抜かれている。
「リッツって、本当に器用だね」
「……好きで器用になったわけじゃないけどな」
口では面白くなさそうにそう言うくせに、手はテキパキと流れるように仕事をこなしていく。職人さんみたいだ。
「ねぇねぇ、船酔いはどう?」
とりあえず隣に座ってリッツを見ながら、そう尋ねてみた。よく見るとまだ顔色があまりよくない。
「吐くほどでもないって感じだな。サンキュ、助かった」
答えながら、顔を上げてリッツが笑みを浮かべた。顔色のわりには結構元気そうだ。
「えへへ、どういたしまして」
ほんの数時間前に見たときは、死人のようだったのだから、それに比べたらすごくいい。顔色が悪いのは、船から下りるまではこの際仕方ないと思うことにしよう。
「また吐きそうになったら言ってね」
「おう、頼むわ」
そう言いながらリッツは中身を見た箱を、釘抜きの背を使って器用に閉じた。
それにしてもリッツが船酔いとは、予想外だった。アンナから見ると完璧なリッツに、こんな普通の人みたいな弱点があるなんて、不思議すぎる。
弱みを見せることを嫌がるのに、あっさりとアンナの膝に倒れ込んできたのも実は意外だった。
しかも子供みたいに抵抗もせずに、じっと撫でられているなんて、普段のリッツからすると考えられない。
だけどそんな意外なところを見るのが、アンナは最近堪らなく嬉しいのだ。
あまりにもリッツが完璧で、何でも自分一人で解決してしまうと、自分が仲間としてしてあげられる事が何もなくなってしまいそうで怖いのだ。
せめてアンナが必要だと思ってくれる程度には、役に立ちたい。とにかくリッツに、一人前の仲間だと認めて貰いたい。目下のアンナの目標はそれだ。
もしかしたらリッツから仲間として信頼されたいというのは、フランツも同じかも知れない。未だに自分たちは、二人合わせても半人前なのだから。
「アンナ」
作業をしているリッツが、顔を上げずにアンナを呼んだ。反射的に元気に返事をする。
「はーい」
「頼みが二つある」
深刻なリッツに、アンナは首を傾げた。
「何?」
「まず一つは……俺が箱を開けてくから、中を改めてくれってことだ」
「いいの?」
「おう。一人じゃ時間がかかってしょうがない」
「うん!」
アンナは嬉々として、リッツがこちらへと押した木箱を力一杯引き寄せた。思ったより重い。リッツが確認を終えた背の低い木箱に座って、アンナは中身を確認し始めようとした。
でもリッツの次の言葉にピタリと手を止めた。
「もう一つは……」
「うん?」
隣のリッツを見上げると、リッツは何やら難しい顔をしていた。急かすのもどうかと、しばらく手を止めて待ってみる。
やがて意を決したように、リッツが口を開いた。
「……俺が船酔いしたって、エドやフランツに黙っててくれないか?」
あまりに意外な申し出に、アンナは言葉を失った。
「なんで?」
聞き返すとリッツが、がっくりとうなだれながら横目でアンナを見下ろして、小さく呟いた。
「知られたら絶対に嫌がらせされる……」
「エドさんとフランツが?」
「ああ」
リッツはそう思い込んでいるみたいだが、アンナにはそれが信じられない。マジマジとリッツを見ながら首を傾げる。
「二人ともそんなことしないよぉ?」
でもリッツは嫌に確信に満ちた口調で断言した。
「いいや、間違いない。フランツはともかく、エドは絶対だ。あいつはそういう奴だ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
益々首を傾げると、リッツはアンナに向かって力説した。
「絶対にする。間違いない」
それが何かさっぱり分からないから、木箱にかけていた手を膝に戻して、改めてリッツを見上げた。
「どんな嫌がらせをするの?」
エドワードがリッツの船酔いを知ったからと言って、嫌がらせの材料になんてなる方法すらアンナには見当も付かない。
孤児院の子供達が鼻水を垂らしている子に『や~い鼻水たれ~』とはやし立てるのと同じくらいの事ではないのだろうか。
だけどリッツの顔を見ていると、そうではないらしい。
「例えば、移動手段に馬と船があったとするだろ?今までなら安い方、早いほうを確実に選んでたよな?」
しばし考えた後、リッツはそう切り出した。
「うん」
「ところが俺の弱点を知られると、エドは確実にこう言うぞ『お前は船、好きだろう?』ってな。しかもこう……蔑むような皮肉な笑顔でだ。毎回それを言われたら、いくら心の広い俺だって流石にきれる」
「……それってどういうこと?」
何でエドワードがそう聞くときそんな顔をするのか、なんできれるのかさっぱり理解不能だ。
「あ~、つまり俺は毎回『お前船酔いするんだったな、どうだ船だぞ? 乗ってみろ』って言われてるのと同じって事だ」
「ふうん……」
何だか分からないけど、そう言うことらしい。
「そう言われたら素直に『船は嫌いだから馬で行こう』っていえばいいのに」
「それは嫌だ。最初から負けを認めて堪るか!」
「言ったら負けなの?」
「そうだ」
リッツとエドワードの言い合いは、今まで見ていると、その事と同じような状況で起きている気がする。
親友同士だっていうのに、いつもその状況なのがとても不思議だ。
そのくせ、いざとなるとリッツもエドワードもお互いを一番の頼みにするんだから、男の友情ってよく分からない。
ジョーとアンナなら話はとっても簡単なのに。
「だから頼む。黙っててくれ。なっ?」
リッツがそう言ってアンナに手を合わせた。
何だかそんな、リッツの意地みたいなものが感覚的に分からないけど、そこまでお願いされたら頷くしかない。
「うん。努力する」
とりあえず黙っているようには頑張ってみよう。だけどエドワードに色々聞かれたら黙っていられる自信はない。
「でもでも、もしも私がエドさんにしゃべっちゃて、また船に乗せられて船酔いしたら、私が治してあげるから大丈夫だよ。ね?」
そういってリッツを見上げると、一瞬リッツは黙ってから、不意に目をそらした。
「嫌じゃなかったよね?」
心配になって聞くと、リッツは口ごもった。
「うん、まあそうだな。そうして貰うよ」
ボソボソとそう呟くと、リッツはアンナを再び見る事なく、作業を再開した。アンナも隣に座ってリッツが開けた箱を改めていく。
最初の箱には皿が入っていた。次々に開けられた箱の中身を一個一個確認していく。これは思ったより大変な作業かも知れない。
いくつかをまとめて開けたリッツが、アンナがいるのとは反対の端から箱の中身を見ていく。
こういう場合はいつも軽口を叩いているリッツが、やけに静かだと、何だか気になる。
もしかしたらまだ気分が悪いのだろうか。さっきもふらついてたし。それに額を打ち付けたところは痛くないのだろうか。
ちらちらとアンナが見ているのに気が付いたのか、リッツが顔を上げた。
「どうした?」
「何かリッツ、静かだなぁって」
正直に答えると、リッツは苦笑した。
「あのな、俺まだ船酔い中なんだぞ? 吐くほどじゃないけど回ってるしな。しゃべり続けてまたダウンじゃ、効率悪すぎだろ?」
やっぱりそうなのか。心配になって提案してみた。
「もう一回、治癒魔法かける?」
「それほどじゃないさ」
「そう?」
「ああ。ありがとな」
そう言うと、リッツはまた作業に戻ってしまった。なんだか邪魔してるだろうか。手元にある幾つ目かの箱の中身をアンナは黙って調べ始めた。
これはリンゴの箱だ。いい匂いがする。一番下まで見ても、リンゴ以外何も入っていない。アンナは見た箱をリッツの方に押しやった。
そうするとリッツがまた閉めて、元の場所に戻してくれるのだ。
リンゴの箱を封印して積み直したリッツが、不意に尋ねた。
「アンナ、お礼は何がいい?」
「お礼?」
「……船酔いを治して貰ったお礼。あとエドに黙ってて貰う口止め料」
反射的にいつも通り『いらないよぉ』と答えようとして、言葉に詰まった。顔を上げると、見つめるリッツの視線にぶつかる。
みんながいる前では絶対に見られない、優しい顔をしている。そう、リッツが大怪我から生還した時に見た、あの微笑みだ。
その顔を見るのは、何だかとっても嬉しい。
「何がいい?」
穏やかにもう一度尋ねられて、アンナは慌てた。全然違うことを考えてた。どうしよう、何も思いつかない。
「あの、あのね……」
人を助けるのに見返りなんか求めちゃいけないけど、何故だかそれがリッツならいいかなと思う。
それにしたって咄嗟にそんなことを聞かれても、思いつく食べ物なんて……。
「あ……」
不意に思い出した。
「ダンスを教えて!」
「は? ダンス?」
リッツの目が、奇妙なことを聞いたというように細められた。でもその視線に怯まず、念を押すようにもう一度尋ねた。
「基本はワルツって言うんだって、王妃様が言ってたよ。リッツは踊れる?」
困惑と苦笑が入り交じったような不思議な笑みを浮かべて、リッツは頭を掻いた。
「……そりゃあまあ、踊れるけどな……」
「じゃあね、お礼はそれにする!」
「なんだそりゃ」
「ワルツを教えて欲しいの」
パーティの時の華やかな光景を思い出しながら、アンナはそう言った。お姫様みたいに踊れたら、素敵だろうなぁと考えたことを思い出したのだ。
一生に一度くらいはあの中で踊ってみたい。たった一度でいいのだ。だけどアンナにはそれを教えてくれる人なんて考えつかない。
リッツ以外は。
「戴冠式の後のパーティ綺麗だったんだもん。でも私なぁ~んにも踊れないんだよ? もうパーティなんて出る機会ないかもしれないけど、一度ドレスでお姫様みたいに踊ってみたいもん」
一息にそう力説すると、リッツは呆れたような顔でアンナを見返した。
「お姫様ねぇ……そんないいもんじゃねぇけどなぁ」
「でも憧れるもん! お姫様!」
思い切り力を込めてそう言いきると、リッツは吹き出した。
「分かった分かった。そんくらい教えてやるよ」
「本当?」
「ああ。だけどあれだな、練習するにも俺とお前じゃ、身長差ありすぎて、ほとんど俺は人形遣いだな」
「あ……」
「かといってハイヒールなんて履かせたら、お前絶対にこけるもんな」
笑いを堪えながら、リッツがそうアンナをからかった。確かに二人の身長差は、四十センチ以上ある。
「リッツ酷いよぉ~」
「じゃあ早くおっきく育ってくれよ、お姫様」
お姫様みたいと力説したせいで、思い切りからかわれている。
「ひっど~い、からかってる!」
アンナがむくれると、リッツは笑いながら作業を再開した。
「さ、お礼は決まったから、さっさと作業しちまおうぜ。麻薬がみつかんねぇと話になんないからな」
確かにその通りだ。リッツがここに閉じこめられたのも元々はそれが目的なんだから。
それにここでちゃんと麻薬を見付けないと、ケニーやアルトマンにまで、迷惑をかけることになりかねない。
「よし、頑張ろう!」
腕まくりしてそういうと、それを聞いていたらしいリッツは、顔を上げずにくすりと笑った。
「ああ、そうだな。アンナ姫」
「もう!」
このやり口は、リッツをやりこめるときのエドワードと一緒だ。何だかんだいって、二人ともやることは一緒じゃないか。
口を尖らせながら軽くリッツを睨む。何となくリッツがエドワードに船酔いを内緒にしておきたいわけが分かった気がする。
きっとエドワードにからかわれているときのリッツって、こんな気持ちなのだろう。
本気で怒ってるわけではなくて、そのやりとりを怒りつつ楽しんでるっている、そんな感じだ。
「さ、全部片付いたらお前の持ってきた飯を喰って、一眠りしようぜ。昼までの辛抱だからな」
「うん」
アンナは再び開いた木箱を覗き込んだ。




