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「くっそ~、思い切り殴りやがって……」
痛む頬を抑えながら、リッツは、一人小さく呟いた。
薄暗い中で、ランプの明かりに照らされた自分の影だけが船倉の壁に映って揺れている。先ほど殴られたところが、心なしか多少腫れているようだ。
素人の振りをしている以上、完全に避けるわけにもいかなかったが、もろに殴られることだけは回避した。
だがそれでも相当な衝撃を喰らってしまった。船員の拳をそらして衝撃を軽くしようとしたのだが、思いの外船員の力は強かったのだ。
その上結構スピードも速かったからまいった。あの動き、絶対に何らかの武芸をやっているに違いない。
「エドのやろう……覚えていやがれ」
今リッツはブツブツ言いながらも、律儀に仕事をこなしている。木箱を一つずつ改めているのだ。
船倉に放り込まれた直後、リッツはそこに使ってくださいと言わんばかりにきちんと揃えられた、ランプとナイフを見付けた。一緒に釘抜きまで置かれている。
どうやら潜入捜査員が一揃えそこに備え付けておいたらしい。
お気遣いに感謝……だ。
不機嫌にそれを手に取り、腹立ち紛れに釘抜きを使い、端から順に木箱の蓋を開けていく。
大きな木箱の場合、その中身まで調べなくてはならないから厄介だ。しかもそれをまた閉じなければならない。
大きな船ではないから積み荷の数はたかが知れているが、一人でやるには時間がかかるだろう。
せめて二人いれば格段に効率が上がるだろうが、それは無い物ねだりというものだ。
初めて閉じこめられた船倉は、船室に比べてよく揺れるし空気の通りもない。
甲板の空気も吸えないから多少重苦しい気分にもなったが、これも無料で四人分の乗船料を出して貰うためだ、仕方ない。
いくつかを見終えた頃には、段々と箱を開けることに手慣れてきた。そこで幾つもの箱を一気に開けて、まとめて中を見る方法に切り替える。
多少だが作業効率が上がった。
たまにリッツは傭兵よりもこういう泥棒や、強盗などの犯罪者、もしくは大工や職人をやった方が、向いているんじゃないかと思うことがある。
どうも自分は器用貧乏というものらしいのだ。
前にフランツに言われたことがある。『それだけ器用なら、傭兵やめても、家政夫とか専業主夫で食べていけるんじゃないか』と。
その時は冗談じゃないと思ったが、何となくこういう単調な作業を一人黙々と繰り返していると、それもありか? という気分になってくる。
実際は一所に落ち着けない自分に、そんな職業は無理だと初めから分かっている。
だいたい流れの家政夫なんて、聞いた事もない。というより流れの専業主夫ってなんだ? それをヒモって言わないか?
薄暗がりに永遠と繰り返される波の音、その上揺れる自分の影。どうやらリッツは完全に何だか奇妙な雰囲気に飲まれているようだ。
数ヶ月ぶりに一人でこうして過ごしていると、思い出さなくてもいいことも思い出してしまう。
フランツが羨ましがり、アンナが感心するこの器用貧乏は、悲しいことに自分が本来持っていたものではない。素質があったことは間違いないが、全てある一人の人物に後付けされたものなのだ。
家出したての頃のリッツは、家事一つ、日曜大工一つできない男で、唯一の取り柄は勘の良さと、怪力のみだった。
その上会話は『口が減らない』と言われるくらい達者だったくせに、エネノア大陸共通語の読み書きもほとんどできない、困った奴だったのだ。
その頃を思い出すと、あまりに無知だった自分に頭が痛くなる。
そんな思い出すだけで赤面ものの過去のリッツに、家事や工作、共通語の書き取りまで全てを叩き込み、知らず知らずのうちに器用貧乏へと仕立て上げた女性がいた。
彼女はローレン・セロシア。シャスタの母親だ。もうとっくにこの世を去っている。
「……何考えてんだろ、俺」
知らず知らずのうちに過去を思い返していたリッツは、そう呟くと手を止めて大きくため息を付いた。
今回の旅では、避けて通れない問題がリッツには一つあり、無意識のうちにその事が過去を思い出させる。
それは今一番頭を悩ましているアンナのことではなく、シーデナの森……つまりリッツの故郷の光の一族の森のことだ。
果たして父、カールに話を聞くだけで済むのだろうか? もしもそれで済まず、一族の長老に会うことにでもなれば、自分だけでなく仲間達にも苦痛を与えるかも知れない。
大きく深呼吸するとリッツはその考えを頭から追い出した。今それを考えても仕方ない。なるようになる、それしかないのだから。
気が付くと荷物全体の三分の一ほどを調べ終えていた。どうやら随分と没頭していたらしい。
何だか船は作業を始めた頃よりも、大きく揺れている。湾を出て外洋にいるのだろう。外海は波が高くて当然だ。
疲れすぎたのか、気分が悪くなってきた。大体においてこんな地味な作業を、暗い過去のことを思い出しながらやっているから、具合が悪くなるのだ。
この行き所のない苛立ちは、ここを出たらエドワードにぶつけてやろうと、心の底で誓った。
少々休憩しようかと、荷物に挟まれてずっと辛い姿勢をしていたリッツは、荷物と荷物の間にできた細い通路で小さく体を伸ばした。
元々船倉で一晩人が過ごすことなど考えられていないから、リッツ一人の寝転がる場所すら簡単には確保できない。
その上天井も低く、真っ直ぐに立てない状況だ。
「お?」
心なしか目が回っているような気がして、リッツは反射的に座り込んだ。一息ついた瞬間に、初めて気が付いたのだが、随分と胸がむかついている。
やはり腹が減ったのかと、ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、ぐらりと目眩がして何かがこみ上げてきた。慌てて再び座り込む。
吐き気を堪えると、眠くもないのに生あくびが出てくる。この状態をリッツは何と呼ぶのか、経験からではなく、知識として知っている。
……船酔いだ。
初めて経験するこの状況に、リッツは焦った。
船に乗るのは初めてじゃない。多少目が回ったことはあったが、酔ったことなど一度もなかったのだ。
なのに一体全体どういうことだ。
一旦体に異変と揺れを感じ始めると、もう駄目だった。グルグルと世界がまわって、大きな揺れが来るたびに吐き気が襲う。
船倉は揺れる、それくらい常識だ。しかも海はいつも凪だとは限らない。もしかしたら今日の海は多少荒れているのかも知れない。
だが自分がまさか船酔いするとは、予想外だ。予想外すぎて、それに対する対応策すら思いつかない。
「……後何時間ここにいりゃいいんだ?」
呻きながらポケットから時計をとりだした。
十一時半。
ここに閉じこめられたのが七時くらいだったから、それから三時間半というところだ。あと明日の昼まで……十二時間?
すでに起きあがる気力もなく、リッツは細い通路に突っ伏した。
まだ三分の二も荷物が残っているというのに、このどうしようもない状況をどうしてくれよう。
焦りと困惑で苛立ちながらも、動けないこの状況では、リッツはため息を付くしかない。ため息を付きながらも吐き気が襲う。
もしかしたら夕食を食べてこなかったのは、正解だったかも知れない。もし食べてきていたら確実に吐いている。
せめて水が欲しいが、無賃乗船者である自分がどう足掻いても無駄だろう。
そんな時、船倉の扉の前で揉めている声が聞こえてきた。口元を抑えつつ、必死で立ち上がってランプを手に取り明かりを消した。
いくら船酔いしているとはいえ、ランプがここにあることはまずいということくらい分かっている。
これで万が一扉を開かれても問題ない。
真っ暗になれば他の工具は見つからないから、そのままリッツは再び通路に倒れた。木の床に耳を付けると、波の音に混じって扉の外の揉めている声が木材を通して聞こえてきた。
何を言っているかまでは聞こえないが、揉めているのはどうやら船員と、女の子だ。
……女の子?
リッツは嫌な予感に襲われた。女の子をこの船の中で見た覚えがないのだ。それは勿論アンナを除いてということだが。
アンナだったら頼むから問題を起こさないでくれと柄にもなく祈ったが、それはいつもの通りに無駄に終わった。
船倉の扉が開かれて、真っ暗な船室に光が入る。それと同時に船員の怒鳴り声が、はっきりと聞こえた。
「お前もここに入ってろ! 無賃乗船者の手引きをした罪だ!」
それと同時に、一人の少女が放り込まれた。その少女は当然アンナだ。
荷物にたたきつけられそうになったアンナの背中を咄嗟に両腕で庇う。アンナの体重が一気にかかって、思い切り吐き気がこみ上げたが、必死で堪えた。
そんなリッツに気が付くこともなく、アンナは船員に向かってきっぱりと文句をいった。
「違うよ! 手引きなんてしてないもん!」
「うるせぇ、明日憲兵隊にそういうんだな!」
荒々しく扉が閉じられて、闇の中にたった二人で取り残されてしまった。
最悪だ。まさに最悪の状態だ。
何でこんな無様な状態になっている時に、一番こんな姿を見られたくない愛する女と、どうしてこの状況で二人っきりにならないといけないのだろう。
腕にアンナを抱えて、リッツはため息を付いた。
「お前……何しに来た」
吐き気を堪えながら腕の中にすっぽりと収まっているアンナに低く尋ねると、アンナはリッツに初めて気が付いて驚きの声をあげた。
「リッツ! そっかぁ、通りで柔らかいと思った」
呑気すぎるその声に何も答えられず、リッツはさっき消したランプに再び火を入れた。温かな明かりが暗闇を払う。
「明かりあったんだね。よかった、真っ暗だったら可哀相だねってフランツと話してたの。でもサラちゃんを持ってくるわけにも行かなかったし」
リッツから離れて荷物を背にちょこんと座ったアンナは、明るく楽しそうにそう言った。どうやらアンナはリッツを気遣ってくれているようだ。
だがその気遣いは、ここに来ない方向に使って欲しかったと思わざるを得ない。
「俺の質問に答えろ」
怒鳴るとそのまま吐きそうなので、低く小声でしか尋ねられない。そんなリッツの態度を怒っているととったのか、アンナは申し訳なさそうな声で答えた。
「リッツ二食抜くって話してたでしょ。それって辛いだろうなぁと思って……」
「……で?」
「だからね、ご飯持ってきたの。それで船倉の前にいる船員さんに『ご飯渡してもいいですか?』って聞いたら『この男の仲間か』って聞かれて……」
何となく後の展開は理解できた。アンナはリッツが船員に連行される前に言い聞かせたことを、すっかり忘れたのだ。
「仲間だって答えたんだな?」
「うん」
あまりに想像通りの展開に、リッツはがっくりと肩を落とした。
それは船倉に放り込まれて当然だろう。無賃乗船をしている人物の仲間は、無賃乗船の手引きをした人物ということになるのだから。
「エドとフランツは止めなかったのか?」
「二人とも寝てたよ」
「……そうか」
二人とも疲れている。仕方ないだろう。それにあれだけリッツに言いくるめられていたアンナが、あっさりとこんな場所まで来るとは、予想も付かなかったに違いない。
今までのアンナなら、リッツの言っていることを絶対的に信じておとなしくしていたはずだ。
いやそれは、リッツの思い込みだったのだろうか?
「それにね、リッツのことが心配だったの」
怒られていると思い込んで、恐る恐る上目遣いにリッツを見上げるアンナの、あまりに愁傷な声に鼓動が跳ね上がる。
「……何が心配なんだよ」
動揺を悟られないようにそう言うと、アンナは俯いた。
「俺は大丈夫だっていったろ?」
「そうだけど……でも王妃様に頼まれてるし……」
そこか、だから心配してくれたわけか。アンナの責任感の強さに泣けてくる。リッツ個人のことを考えてどうこう、ということではないのがアンナらしい。
ため息を付くと同時に、船が揺れた。
「うっ……」
堪えきれず、呻く。
「リッツ?」
どうしようもない吐き気と戦いながら、リッツは黙ったまま横に積まれていた荷物に寄りかかった。
もう限界だ。
先ほどアンナを受け止めたことが、どうも致命傷になってしまったようだ。もう口を開くと危険な状況までこの船酔いは来ている。
「リッツ? どうしたの?」
顔を覗き込んできたアンナに、リッツは力無く手で大丈夫だとリアクションして見せた。それ以外にできることがない。
アンナの前で吐くという醜態までさらして堪るものか。
この薄暗い船倉にアンナと二人きりという状況に、通常なら動揺しまくっていただろうが、ここまで来ると動揺すらできない。
悟られないようにと虚勢を張れるのも、今のうちだけかも知れない。
再び船が揺れた。急激に襲ってきた吐き気に、思わず床に両手をついて堪えた。せり上がってくる酸味に、じっと耐えていると、じっとりと額に滲んだ汗がぽたりと床に落ちた。
「リッツ、真っ青だよ!」
もう取り繕うのも限界だ。何とか床から体をはがすと、荷物へと寄りかかって喘ぐ。苦しいわ気持ち悪いわ、どうしたらいいのかさっぱり分からない。
船酔いを軽くする知識なんて、今まで必要なかったから持ち合わせているわけがない。
「もう限界……」
「え?」
困惑してアンナがリッツの顔を覗き込んできた。顔色の悪さだけではなく、大量の汗と浅い呼吸にも気が付いたようだ。
「怪我? 怪我が酷かったの?」
声が出せないから、小さく首を横に振った。だがそれだけでも目が回る。
「どうしたの、リッツ」
オロオロするアンナに、リッツは意を決して口を開いた。
「船酔い」
「え?」
怪訝な顔で聞き返された。あまりに意外で理解できなかったらしい。仕方なくせり上げてくる吐き気を抑えてもう一度言う。
「船酔い」
しばしきょとんとした顔で考えた後、アンナは大声を上げた。
「うそっ! リッツが?」
「……ああ。吐いたらごめん」
「そんなのは気にしないよぉ」
俺が気にする、という言葉は吐き気と一緒に飲み込んだ。
「平気だからね? 孤児院の子たちも風邪引いたときよく吐いたし」
俺は孤児院の子たちと同列か? という言葉も口から出ては来ない。
再び黙り込んで吐き気と目眩に耐えていると、アンナが大きく一つついている、ワンピースの胸ポケットからボトルをとりだした。
「お水飲む?」
「飲む」
この状況で水を飲むとどうなるのか分からないが、喉は渇いていた。
よろめきながら手を出すと、アンナがそっと手に瓶を持たせてくれた。散々最悪だと思っていたが、もしかするとこれは幸運なのかも知れない。
一人で十二時間過ごすより、こうしてアンナがいてくれた方が、数倍ましな気がしてきた。
何とか水を一口飲むと、予想通りに、吐き気がこみ上げてきた。やはり水は飲まない方がよかったのだろうか。
「気持ち悪いときは吐いちゃった方が楽になるよ?」
背中をさすってくれながらアンナがそう言った。だがそれだけはどうしてもプライドが許さない。小さく首を横に振って拒否する。
「じゃあ横になった方がいいよ」
優しいアンナの提案だが、それは今や不可能だ。さっきようやくリッツ一人寝られる状況になっていた通路に今は二人いるのだ。
「……どこに?」
「あ……私来たから寝られなくなったの?」
ようやく気が付いてアンナがそう尋ねる。
「そうだ」
「……ごめんなさい」
「いい」
今更謝られてもどうにもならない。謝って寝る場所ができるならいくらでもそうして貰うが、どのみち明日の昼まではここにいるしかないのだ。
少しでも楽な姿勢を探そうと、もぞもぞ動いていると、何やら考え込んでいたアンナが思いついたようにポンと自分の足を叩いた。
「ここ!」
「……は?」
見ると横座りのアンナが、リッツに向かって自分の太もものあたりを指し示している。
「私の膝を枕にすれば、寝られるよ」
「はい?」
アンナの言いたいことを理解した瞬間、頭が真っ白になった。
それはもしかして、こんな状況じゃなければ、とんでもなく嬉しいシチュエーションなのでは……?
思わず固まると、アンナは困ったような顔でリッツを見上げた。
「あれ、やっぱり嫌? う~ん、一生懸命考えたんだけどなぁ。そうだよね~、リッツ子供じゃないもんね」
アンナのその行動に他意はない。おそらくアンナにとってこの行動は、孤児院の子供達の面倒を見ているのと大差ないのだ。
どちらかというと、その状況に邪な感情を抱いてしまうのは自分の方だ。
「リッツ、どうする?」
今にも吐きそうな状況と、あまりに甘すぎる誘惑の狭間でリッツは苦悩した。
確かに横になりたい。それがアンナの膝枕だなんて、おいしい状況すぎる。
だがそれにのうのうと甘えていいものか。仲間といえども、一応未だに自分はアンナの保護者だ。
それに絶対にアンナに悟られないようにこっそり思いを寄せているのに、こんな風に堂々と幸せな状況を享受してしまってよいものだろうか。
そんな苦悩のリッツに関係なく、大きく船が揺れた。ひときわ激しい吐き気が襲う。今までの限界を上回る限界の大波に、リッツは折れた。
ここまで来たらもう、床だろうと土の上だろう岩の上だろうと何でもいい。もう横になりたい。それが好きな女の膝枕なら最高じゃないか。
「悪い、寝かせてくれ」
「うん」
半ばアンナの太ももに倒れ込むように寝転がった。船倉の低い天井がグルグルと回る。せっかくのこのシチュエーションなのに、楽しむ余裕なんてありはしない。
多少楽にはなったが、それでも吐き気が治まるわけでもない。必死に堪えるために幾度も浅い呼吸を繰り返した。
「……辛い?」
心配そうにアンナが上からリッツを覗き込んだ。
「だいぶ」
「気持ち悪いだけ? 他にはどんな感じ?」
「目が回ってる」
投げやりにそう答えると、アンナがそっと手を伸ばしてきて、リッツの額に触れた。ひんやりとしたその手が心地いい。
「目が回ってる時ってね、頭の真ん中に熱があるんだって。それを冷やすと楽になるって、お養父さんに聞いたんだ」
そう言いながらアンナはリッツの額に手を当てたまま、小さく祈りの言葉を唱えた。
そういえばアンナを育てた男もアンナと同じく、水の精霊使いだった。だからその養女であるアンナが、病気や怪我に詳しくて当然だった。
「癒しを司る水の精霊よ、力をお貸しください」
冷たく心地よい感覚に、目を閉じる。
先ほどまで苦しめられていた吐き気と目眩が、徐々に和らいできた。完全にはほど遠いが、もう吐く、今すぐ吐く……という状況は何とか回避された。
心地よさに目を閉じたまま少しウトウトと微睡んでいると、いつの間にかアンナの手が額から離れ、優しく髪を撫でてくれているのに気が付いた。
子供にするようにゆっくりと優しい手つきだ。
普段なら『俺は子供じゃないぞ』と文句をいうところだが、あまりに幸せすぎて抗う気が全く起こらない。
こんな風に触れられたら、この旅が終わった時にアンナを手放せなくなってしまいそうだ。
旅が終わり、この子が真実を知った上で自ら望むところに送り届けたら、アンナの前から永遠に姿を消してしまうつもりでいるのに。
今までとは違って、年老いていく仲間のために王都にはこまめに顔を出すつもりではいる。
だが一度別れてしまったら、こっそり遠くから見守る事はあっても、もうアンナとは二度と会うつもりはない。
そうしてアンナと出会う前の、アンナには憤慨されるであろう生活に戻っていくのだ。
アンナと共にいるには、自分は随分と汚れている。戦場で過ごし、傭兵として金で命のやりとりをしてきた自分は。
それに比べてアンナは純粋すぎて、リッツには高嶺の花だ。どんなに彼女を欲しても、血塗られた自分の手など届くわけもない。
その上年の差もありすぎるし。
彼女の長い寿命を理解して、それでも幸せにしてくれそうな、そんな穏やかな農家の男か養父と同じ神官が、アンナには似合いそうだ。
アンナは畑仕事がしたいと常日頃から言っているし。
でも万が一、アンナが自分を『たった一人の人』として必要としてくれたなら……。
「リッツ、どうしたの?」
声をかけられて、どうしようもない自分の思考から我に返る。
気が付くと大きな緑の瞳に不安の色を浮かべて、アンナが覗き込んでいた。気分が悪くて黙ってしまったと思ったのだろう。
心配させないよう、目を開けて微笑んでみせる。
「ん? 何でもない」
あまりに幸せすぎるのも考えものだ。もっとこうして一緒に時間を過ごしたいなんて、考えることすら贅沢すぎる。
いや、もしかしたらこの旅の間だけでも、こうしてアンナに気が付かれないレベルで、小さな幸せを味わってもいいのだろうか?
どうせアンナから離れてしまえば、もう二度と得られない幸福なのだから。
そんなリッツに気がつくでもなく、アンナは子供を諭すように優しく言った。
「ちょっとだけ寝た方がいいよ。大丈夫、ちゃんと起こすから」
「ああ、ありがとな」
リッツはどうしようもないくらい穏やかな幸せを噛みしめながら、眠りに落ちた。




