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時は王国暦一五七二年十月下旬。
徐々に深まる秋の寒さをものともせず、彼ら三人はひたすらのんびりまったりと進んでいた。
トゥシルの村を後にして、早六日。リッツ達一行は、サラディオ自治領区とファルディナ自治領区の境目を越え、次の目的地であるファルディナへあと一、二日というところまで辿り着いていた。
自治領区名と同じ名の街は、自治領区の中心の街を意味している。ファルディナの街は、ファルディナ自治領区で最も栄えている街ということになるのだ。
「え~っと、ファルディナ名産物は……花? ねぇリッツ、花食べるらしいよ!」
トゥシルの村でどさくさに紛れて勝手に買い込んでいた、ユリスラ王国観光ガイドブックなるものを片手にアンナが楽しそうな顔で遙か上にあるリッツの顔を見上げた。
「まあそうだな。あんまり腹はふくれねぇけど」
そんな物よりも、思う存分肉料理を食べたい。口には出さすにリッツは考えた。
トゥシルでは食べ物に不自由をしなかったが、旅路ではとにかく食事が乏しい。貰った食材はまだあるが、それは主に野菜である。
アンナは喜んだが、リッツとしては物足りない。しかも初心者二人を連れた旅路はとにかく長い。リッツ一人なら一日で稼ぐ距離を、二日半かけるのだ。
こっそりとため息をついたが、リッツの様子にはお構いなしに、なおもアンナは嬉しそうに話し続けている。
「私ね、花って見るしかないのかなぁって思ってたよ、ね、フランツもそうだよね?」
全く関心を示さないリッツから、何か言ってくれそうなフランツ・ルシナにアンナは標的を変えたようだった。
「……そうだね」
とはいえ、話を振られたフランツに答える余裕はない。慣れてきたとはいえ、フランツには野宿で歩き続ける事が非常に苦行なのである。彼の青い瞳は、すでに焦点を結んでいない。
このままフランツを犠牲にしておくのも可哀想だからリッツはフランツに変わって、アンナに答えを返した。
「ま、金に少しは余裕があるわけだし、街についたら食ってみようぜ」
言ってみてから思い出しつつ首をひねる。
「でも時期はずれだぞ。ないかもなぁ」
花が咲くのは、春と夏のはずだ。でも今はもう秋真っ盛りである。
「あったらいいでしょ?」
食い下がるアンナに、仕方なくリッツは笑った。
「あったらな」
「やったーっ! 嬉しい!」
アンナは赤い三つ編みを揺らし、軽くスキップを踏みながら、道を駆けていく。アンナの辞書には、疲れるという言葉が存在しないのだろうか? それともとてつもなくタフなのだろうか。
「ほんっと、元気だよなぁ。誰かと違って」
リッツの呟きに、鋭くフランツが突っ込んだ。
「……悪かったね」
彼の手には、真っ昼間なのに炎が燃えているランプがある。中の炎はただの炎ではない。炎は、前の村で偶然拾ってしまった火とかげ(サラマンダー)の幼生なのだ。名前はアンナ命名『サラちゃん』という。
ひょんな事からこの三人……と一匹……が出会って、旅に出てから、もう何週間かになる。
リッツは最初、今まで一緒にいたことのない年少者二人のとの旅に大いに戸惑った物だったが、今はそれにかなり慣れてきた。リッツにとって旅と言えば、現実逃避の放浪生活のことだったし、仲間と言えばそこにはいつも、目標や目的があって、前を目指すことだった。
でもこんな風にのんびりと目的もなく、しかも目の前で色々な事を学び成長していく仲間を見るのは楽しいことでもある。こんな風にのんびり旅をしていると、今までの追い詰められた緊張感が嘘のようで、少し生きているのが楽だ。
楽しむと決めたからには、リッツは彼らと一緒にいる間、楽しむつもりである。当然、保護者としての義務を果たしながらだ。
長い寿命なのだから、彼らに付き合うぐらいの時間は十分にある。
軽やかにステップを踏むように歩くアンナと、その後ろをよろめきつつ歩くフランツの更に後ろを、のんびり歩きながら、リッツは空を見上げた。
朝から休憩を数回取ったから、もうそろそろ夕方になってしまう。ここら辺が適当だろう。
「さぁて、今日はこのくらいで休憩にするか」
多少早めだがリッツは、二人に提案した。早く休んで早く出発する。これが旅の鉄則だ。こと初心者を連れての旅ならば、それは必須条件なのだ。
「じゃあね、私今日はシチューを作りま~す」
この前の村トゥシルを出てから、基本的に三人の食事は当番制だ。サラディオからトゥシルへの旅路では、食料がほとんど無かったため当番制はなかった。作る必要が無かったからだ。
でも今回はその時とは大違いだった。
この間の件で少し儲けて、金銭的にかなり余裕があった三人は食料を大量に持ち運んでいた。それだけではない。村人たちの好意という名の食料もたんまりある。
薬草は、前回の報酬という形で、コンパクトにまとめてはあるがかなりたっぷりあるし、その中にはハーブやら薬草茶なども含まれている。
だから今の彼らは、食後にティータイムをもてるほどリッチな食生活を送っていたのだった。
その分力のあるリッツの荷物は大幅に増え、負担も増した訳だが、空腹よりは大荷物の方が遙かにましだ。
この日は一番手の込んだものを長時間かけて作るアンナの番だった。リッツもそれを見越して少し早めの休憩を提案したのである。
ちなみに昨晩の夕食はフランツで、堂々たる素材勝負の料理だった。早くいえば、あったジャガイモをゆでて皿に載せただけの代物である。
失敗しない代わりに、勿論他には何もない。
「え~っとね、干し肉に干しトマト、ジャガイモと……あ、タマネギも使っちゃえ!」
アンナは嬉々として、リッツが地面に降ろした大きな麻袋から食料と鍋を取り出し、ナイフで器用に下ごしらえを始めた。
手つきは器用だし、下処理も早い。なのに、何故だかアンナは時間がかかる。
よく見ていると、下処理をしている間にお湯を沸かすとか、炒めている間に小麦粉を寝かせるなどの手順の組み立てが上手くないようだ。
もしかしたら孤児院で大勢で料理を作っていたことに慣れすぎて、一人で料理するのが苦手なのかも知れない。大勢人がいれば、みな受け持ち箇所があって、一人で総てを行う事はないだろう。
そうと分かっても、アンナが張り切っている以上手出しをするのもはばかられる。
その間リッツとフランツは竈を作ったり、火を起こしたりする作業の担当である。森に入らねば水場がないから、旅初心者の二人の安全を考えて水までもリッツは背負っている。
フランツとアンナは知らないが、リッツが軽々と背負う荷物は半端な重さではない。最近の夜の冷え込み対策用防寒グッズまで含めると、おそらく二人ならばピクリとも動かすことは出来ないだろう。
だがここで弱音を吐けないのがリッツの性格だ。意地っ張りや、格好付けといえば聞こえはまだいいが、本当のところ違う。軽口や愚痴は、自分のポーズとして自然に出てくる。自分が貫くべき性格付けはしたのだから、それを偽る気持ちはない。
でも心を許した相手以外に本音は言えず、今のところこの庇護者たちは、本音を言い出せる気はまるでしない。それにリッツの本当の姿を見せたら、この二人とは一緒にいられないだろう。
特にアンナ。人を殺す事を決して許さないアンナがだが、リッツが傭兵として、そして王国内の戦いでも数え切れないほど人を斬ってきた。それを知られたらどんな顔をするのか、想像も付かない。
だからリッツは完全にそれを伏せるしかない。
竈を作って、ランプからサラを出し、中に放すと、炎は一気に燃え上がった。生きた種火である。
「うれ、きーっきーっ!」
竈の中ではしゃいで声を上げながら、サラは燃え上がる炎を食べ、お先に楽しい休憩タイムを迎えた。
「嬉しい、だよぉ。うれきーじゃないよ」
食事の支度にも時間がかかるのに、サラちゃんにまでかまい始めたアンナにため息をつきつつ、リッツは、とりあえずアンナに場所を譲った。
彼女が料理を始めた最初の日、あまりの調理時間の長さに辟易した。だが料理に時間がかかるということが分かった今は別に苦にならない。他のことをして時間をつぶせばいいだけだからだ。
アンナの料理は、まず干し肉をたっぷりめの水でコトコト煮込むことから始まった。これで干し肉を元の肉に戻しつつ、だしを取ろうというのだろう。まあリッツの目で見て、これでほぼ一時間はかかりそうだ。
次に干しトマトを鍋に入れて、肉と一緒にまたコトコト煮込む。まあリッツだったら30分で済むところだが、また一時間かかりそうな勢いだ。その間に、小麦粉をこねくり回して鉄の鍋でパンのようなものを焼く。これを寝かせるのにも、更に時間がかかるだろう。
最初に具材を全部切り、肉を煮ながらパンを作って他の支度をすれば、半分以下の時間で澄むだろうにと思うが、彼女には彼女のやり方がある。放っておくのが得策だ。
結局リッツとフランツは、森の入口に本日寝る場所を作っただけでは飽きたらず、暇に任せて人数分の石の椅子を作ってしまった。
それでもまだ鍋には、ジャガイモだのタマネギだのは入ってもいない。
そこで暇に任せて始めることといったら、リッツの剣術教室くらいしかない。
二人は三日に一度、アンナの料理の日のみ剣の稽古をすることに決めた。それぐらいしていないと退屈きわまりなく、ぼんやり黙って火を見ているよりはよっぽどましだ。
本日はその二回目である。
炎の精霊を操るフランツが剣の稽古を始めたのは、別に何か心境の変化があったからではない。
ただ単に、アンナの料理が出来るまでのかなり長い時間に、何か二人で出来る役立ちそうな暇つぶしはないか考えあぐねいた末にこうなったのだ。
旅をするのに護身術はどうしても必要だ。ユリスラは現在エネノア大陸一平和な国であり、強盗や暴漢はかなり少ないと言われる。だが少ないだけでいないわけではない。
だからリッツはふらりと街に出るだけでも必ず護身用に剣を持つ。それが大げさなときには、ナイフを必ず身につけている。戦闘職種でいる限りは、常に危険は隣り合わせだ。
それに野生動物の事もある。この街道はかなり整備されていて、滅多なことでは野生動物が現れないが、あの毒蛇の件だってある。
それならばフランツの炎を鍛えればと思うが、フランツは運動神経が鈍い上、精霊使いでありながら炎の精霊の熟練度がかなり低い。一生懸命練習しているのは知っているが、上達速度は遅かった。
でもリッツはその手の専門家ではないからアドバイスなどできない。
それなら一応の護身術ぐらいは身につけさせておこう、というのが狙いだ。
とはいえ、フランツは武器を持っていない。貸してもいいのだが、リッツの大剣は重くて持ち上げるのがやっとで、どう考えても振り回せないから意味がない。
だから手軽に森の中に落ちている枝を使うことにしている。
二人の稽古のルールは簡単、フランツの持っている木の枝を、どこでもいいからリッツの体に当てること、それだけだ。
リッツは、慣れてきたら何か武器を買おうと言ったのだが、フランツは首を縦に振らない。
木の枝さえも振り回すことに慣れない自分の不甲斐なさから、フランツは剣を持つのが勿体ないと思っている節がある。
フランツは財布係で、しかも節約家だ。フランツが納得しない限り、財布の口は開かない。
「よ~し、どっからでもかかってこい!」
リッツは遊び半分にフランツへ向けて木の枝を構えた。
フランツが木の枝だから、大剣を使うわけにはいかない。とたんにフランツの目が真剣みを帯びる。最近分かったが、フランツはかなりの負けず嫌いだ。元々結構プライドの高い部類でもあるのだろう。
だから一度も枝の先をリッツに当てたことがない彼は、食事までの時間つぶしであってもかなり真剣である。
だがリッツもあえてフランツに剣を教えたりしない。こういう物はまず自分で会得しなければ館各区が掴めないことを、嫌と言うほど知っているからだ。もう少し慣れて、フランツが自分の弱点が分かってきたら、そこを聞いてくればいいぐらいに思っている。
だが当然ながらフランツはそうは思っていないらしい。どうやら遊ばれていると、思っているようなのだ。実のところリッツは半分ぐらいは遊びだから、それを訂正する気もない。
「お、やる気だな?」
構えたリッツが余裕の笑みを浮かべてみせると、青い瞳が一気に細められた。負けず嫌いの闘志が燃え上がる。
「……今日こそ当てる!」
フランツが思い切って踏み込み、小枝でリッツの胴を狙った。
「あま~い」
リッツはいともたやすくフランツの小枝をはじき返した。小枝は軽くしなって地面に落ちる。タイミングを計っていたから、小枝を折るほどの力も込めていない。
「動きが見えすぎなんだよなぁ、フランツ。殺気だけは感じるけどさ」
練習の途中でも、リッツは笑いながらフランツに忠告する。いつもこんな感じの繰り返しだ。そのくせフランツには、隙を与えない。
それがまたフランツには癪なようだった。
「……くっ、何で当たらないんだ」
段々焦りが生じるのか、フランツが徐々に冷静さを欠き、躍起になったように、小枝をがむしゃらに繰り出した。表情は無表情なくせに、感情は結構激しいのだ。
「お前さ、次に何処を狙うか目で追っちゃうんだよな、それがよくないぞ」
飄々と小枝をよけながらリッツは忠告するが、集中している時のフランツは何も耳に入らなくなるという特徴がある。
「リッツ、フランツー、出来たよ~!」
そんなこんなをしているうちに時間がかなり経っていたらしく、ようやく料理が完成したアンナが、鍋の近くで二人を呼んだ。
「おい、フランツ、飯だってよ」
相変わらず無茶苦茶打ち込んでくるフランツをよけながらリッツが語りかけるが、もう夢中らしい。
「飯だってばよ」
こうなったら一発こづいてやるしかない。
「……仕方ねぇなぁ」
怪我をさせないように慎重にフランツから間合いを取ってリッツは片手で小枝を構えた。こんな時のための小枝だ。
「さて、いくか」
のんびりと呟きながら、リッツは踏み込む利き足に力を込める。視線をフランツに向けた時、不意に後ろの茂みがガサガサと物音をたてた。明らかに生き物がたてる音だ。
「……?」
トゥシルの村へ行く途中の毒蛇の件を思い出して、リッツはとっさに小枝を投げ捨て後ろを振り返り、大剣を抜いた。
夜の闇の中から何が現れるのかは、旅慣れたリッツですらさっぱり分からない。こういう時が一番緊張するのだ。
リッツはそんな緊張の瞬間に、一つだけ大きな事を忘れてしまっていた。それはフランツが全く状況を理解せずに、彼の後ろにいることだ。
だが、彼とてたまに注意が足りないことがある。ましてや後ろにいるのは仲間だ。この状況で攻撃されるとは露とも考えていなかった。
「誰だ?」
茂みに向かって声をかけたその瞬間に、隙を狙っていたフランツが渾身の一撃をリッツの背中に放った。細い小枝がしなって、ビシっと音を立てる。鞭の用意細くしなった小枝は相当痛い。
「いってぇぇぇぇ<」
何の注意もしていなかった後方からきた、いきなりの打撃にもだえながらも、リッツは前方への注意を怠らなかった。
「リッツ、一本だ!」
息を切らせてリッツに言ったフランツだったが、ここでようやくリッツが向いている茂みの動きに気が付いた。
「あ……ごめん……」
謝ったフランツに目を向けず、小さく頷きを返す。
「何、どうしたの?」
「アンナ、お前は火の側にいろ!」
駆け寄ってこようとするアンナを制して、リッツは剣を手にじわじわと茂みとの間合いを詰めていった。
「僕も援護する」
短く言ったフランツが、手を上に捧げて精霊を呼び出そうと片手を掲げると、茂みが、ざわざわと一層大きな音をたてた。
「炎の精霊よ、我に力を貸したまえ!」
フランツが唱えるのと、リッツが飛び出すのがほぼ同時になった。だが事態は予想外の方向に動いた。
「人間です、殺さないでください!」
茂みに入りかけていたリッツの足下に、薄汚れた男が転がりだしてきたのだ。防寒用に羽織ったマントが、まるで蓑虫のように巻き付いている。
「怪しいものじゃないっす! 道に迷ってるんです!」
脅えてリッツの足下にひれ伏した男は、がたがたと全身で震えている。リッツは男をひょいっとつかみ上げて立たせた。
「お前な、森の中で迷子になるって自殺行為だぞ?」
危険はないと判断して駆け寄ってきたアンナが、立たせた男の服に付いた草や土を払ってやっている。
「大丈夫ですか?」
「ありがとう、お嬢ちゃん」
リッツは大きなため息をついた。もう少し遅ければ、大剣で斬り伏せてしまうところだった。
「済みませんでした」
ようやく顔を上げた男は、何故か落ち着いてもなお、震えが全く止まらないようだった。しかも足下は震えなのか、ふらつきなのか分からないほど揺れている。
「なんだぁ? 寒いのか?」
リッツの質問に男はぶんぶんと首を横に振った。それだけでフラフラと倒れそうになる。
「……恥ずかしい話ですが、腹減って……死にそうです。何か喰わせてください」
リッツは思わずアンナとフランツの顔を見つめてしまった。まさかとは思うが、アンナの料理に引き寄せられてやって来たのだろうか?
「タイミングのいい……」
同じように考えたらしいフランツは、例の無表情で首を捻ったが、アンナは嬉しそうににっこりと微笑んだ。自分の料理を美味しそうといわれれば、嬉しくないわけがない。
「私が作った干し肉とトマトのシチューがありますよ、食べていってください」
アンナは施すことを良しとされて育った、教会の娘。腹を減らした人に施すことは、当たり前の行為なのである。
「アンナが言うんならいいぞ、喰ってけよ。それから話を聞くぜ……ところでアンナ」
リッツが不意に真剣な顔でアンナを呼んだ。
「何?」
「背中、見てくれるか?」
リッツは先ほどフランツに打ち込まれた背中を、さすった。当然それほど痛くはないが、フランツに対するからかいのようなのもだ。フランツはそれを知ってか知らずか、小さくうなだれる。
「……ごめん」
「どうかしたの? 見てあげよっか?」
本気にしかかったアンナに背中を剥かれそうになって、リッツはいつもの笑顔を作った。
「たいしたことじゃないさ。な、フランツ」
「ああ」
「飯、出来たんだろ? 食べようぜ」
リッツはフランツと、ふらつく男に声をかけてから率先して床に座った。気がつけばすっかり日が暮れている。
「本当にいいんですか?」
遠慮がちな男だったが、目の前に置かれたシチューを前に目を輝かせ、よだれを垂らした。
「もちろんです。たっくさん、食べてくださいね!」
「はいっ!」
それからは見物だった。
男はアンナの作ったシチューを、瞬く間にがつがつと流し込むようにがっつきはじめたのだ。みるみるうちに大鍋からシチューが消えていく。
この様子からすると、大分長いことまともな食事にありついていなかったようだ。
「あの……お代わりありますよ?」
遠慮がちに声をかけたアンナに、男は口いっぱいにほおばったまま首をもの凄い勢いで縦に振った。食べる気満々らしい。
三人が各々に自分の分の一杯を皿に確保した分を除いて、鍋の中身はどんどん男の胃袋に収まっていった。そのあまりの勢いにも、アンナもただ笑っている。
「良く喰うよなぁ。見てるこっちが腹一杯だぜ」
呟きつつリッツは、先ほどから男の胸元についている汚れた紋章に注目している。よく見ればその紋章の絵柄が読み取れた。
「全くだね」
リッツの呟きに小声で答えたフランツは、目の前の男の食べっぷりを見て食欲が湧かなくなってしまったのか、シチューをすくう手がお留守になってしまっている。
シチューの後に、パンまで食べ尽くした男は、ようやく人心地付いたように深く息を付いた。その頃には、三人ともとっくに食事を終え、片付ける作業に入っていた。
大量に作るため、いつも残りを鍋に入れて持ち運ぶことになってしまうアンナの料理だったが、今日ばかりは見事に空っぽになった。
いつも作りすぎだと二人から文句を言われるアンナは、空になった鍋にご満悦で、鍋を拭きながらニコニコしている。
「美味しかったですか?」
「はい! 美味かったです!」
力説してから男は困ったような顔をした。
「あの……こんなに一人で喰っちゃってからなんですが……何のお礼も出来ないんですけど……」
「別にお礼なんていいって。こっちは気にしねぇから」
だいたいお礼を要求したら、施しを尊いとする教会の娘アンナに思い切り怒られること間違いない。ヒラヒラと手を振って見せたリッツに安心したのか、男は笑みを浮かべた。
笑って初めて分かったのだが、彼はまだだいぶ若いようだ。泥にまみれて薄汚れ、転がっていた時には気が付かなかったのだが、どうやらまだ二十歳にもなっていないらしい。フランツと同じぐらいの年だろう。
「どうしてあんなになるまで彷徨ってたんだ? ユリスラ王国軍の王都防衛隊が」
リッツが突っ込むと、男は慌てたように立ち上がっり、狼狽して石につまずいて転んだ。
「駐留部隊所属ってとこか? 汚れてていまいち分からねえけど」
「何で分かったんですか?」
あまりに大きなリアクションにリッツの方が面食らったが、男はよほどびっくりしたらしい。
立ち上がりながら男が挙動不審な動作を繰り返すのを、リッツはこみ上げてくる笑いをかみ殺しながら座るように促した。
アンナ達も目を見張ってリッツを見つめている。
「そうだよリッツ、よく分かったね!」
「何故分かるんだ?」
フランツとアンナにまで感心されてしまうと、何だか気恥ずかしくなる。種を明かすと非常に簡単で、本当は感心されるような事ではない。
「お前さん、新兵だろ? まだ制服が板についてねぇなぁ……何処に自分の所属が書いてあるかくらい分かるだろうが」
「あ、ああ、そうでした」
「え、何々?」
リッツは、アンナ達に男の胸に入った刺繍を指さして見せた。
「この国の紋章知ってるか?」
「知らない!」
アンナはきっぱりと宣言した。堂々と宣言できる事ではないのだが……。
「ユニコーンだ。ほら、これを見ろよ」
リッツは男の襟に付いていた紋章を引っ張った。そこには泥で汚れているが、紋章が付いている。盾の形をした紋章の背景は、上から青、中央に細く赤、下に緑の線が斜めに入っている。その上にいななくユニコーンが描かれていた。
「へぇ~そうなんだ~」
本当に待ったく知らなかったらしい。まあアンナが、子育てと農業に関係ないことを知ってるわけがない。それにフランツは自分に関係のないことを覚える人間ではない。この二人が知っていなくて当然だ。
なにしろ平和な今の時代、軍旗にお目にかかることもないだろう。
だがリッツにとってユリスラの紋章は、嫌と言うほど見慣れたものだった。
「自分の国の王家の紋章ぐらい覚えとけよなぁ」
溜息交じりに頭を掻いてから、リッツは続けた。
「それからこの紋章のユニコーンの前には、楯の絵が入ってるだろ? これはユニコーンを守るって事だ。ユニコーンは王、それを守る楯……つまり王都防衛隊ってわけだ。盾以外にも、剣、精霊の杖、船、旗、なんてのもある。それがそれぞれの所属を表すのさ。分かったか?」
「……そうだったのか」
「へぇぇぇぇ~、リッツ物知りだねぇ」
フランツとアンナは大きく頷いて感心した。こんな事で感心されても嬉しくも何ともない。
リッツがこの紋章に詳しいのには理由がある。実はリッツの懐に、この紋章の付いた物が入っていたりするからだ。だがその紋章にはユニコーンの前に何のマークも入っていない。
「伊達に一五〇年生きてないよね!」
アンナに言われてホッとした。これ以上紋章について突っ込まれると、色々面倒なのだ。
「俺はじいさんの知恵袋か?」
何だか年寄り扱いされたようで癪に障るが、仕方ないだろう。アンナやフランツに比べれば遙かに年上だ。何だか大きくそれてしまった話を、リッツは咳払いを一つして元に戻した。
「で、王都防衛隊が何で一人でこんな所を彷徨ってるんだ?」
「そうなんです、聞いてください!」
半泣きの男がリッツを見つめた。
「指摘の通り、俺、じゃなくて小官は、はこの先の街ファルディナの駐留部隊です。まだファルディナに来てひとつきの、駆け出しです」
男の言葉でアンナがリッツの服をひょいっと引っ張った。
「リッツ、駐留部隊って何? どうして王都防衛隊なのに王都にいないの?」
リッツは大きくため息をつくと再び説明を始めた。
「あのな、俺らが今歩いてる道は旅人の街道だろ? 旅人の街道は隣の国とも繋がってるって話したよな?」
「うん」
「もし戦争になってここに敵が入ってきた時、街道沿いの街に派遣されてる部隊が、王都に進入するのを防ぐための第一の砦になるんだ、分かったか?」
「……ん? よく分かんないなぁ……」
軍人と傭兵の区別が付かず、まとめて『兵隊さん』呼ばわりのアンナに戦略を理解しろという方が無理な話だ。仕方なくアンナの頭を優しく叩く。
「分からないことは後で教えるから、とにかくこの……」
「俺は、ちがくて小官はヒース・アドニスといいます」
「このヒースの話を先に聞こう、いいな?」
「は~い!」
アンナは元気に答えて、静かに聞く態勢に入った。これでようやく話が先に進みそうだ。
「で、俺…ええっと自分は」
「俺でいいよ、慣れてねぇんだろ?」
リッツの言葉でホッとしたように、ヒースは大きく息を付いた。早く軍人言葉に慣れようと努力しているようだが、まだまだ駄目なようだ。
「俺はですね、ファルディナの駐留部隊で、駆け出しの雑用です。今この国戦争してないでしょ? 三十五年前に終結した内戦以来、平和そのものですし。だから俺たちの主な仕事って、街の警備なんです。つまり俺、街の掃除から何から手伝ってるんですよぉ」
暇な軍隊はこんなものだろう。
「で、ファルディナの街でちょっとした騒動が起こって、それがどうにもワケ分かんないうちにどんどん大きくなっていったんです」
「騒動?」
ヒースは頷くと、声をひそめた。こんなところで誰も聞いているわけもないのに何を警戒しているのだろう。謎な男である。
「それが……元は噂一つだったんです」
ヒースが語った話は、それは奇妙なものだった。
ファルディナの街に一つの噂が広まったのは、ほんのふた月ほど前のことらしい。
「個人所有の山にある洞窟に、何だかどえらい宝が埋められているっていうんです」
その噂一つで、街は騒然となった。その山の持ち主が死んだことによって、その宝が何であるのかは一切分からなくなったのだ。だが、その男の存在が、ファルディナの街で一つの謎だった。
ヒースの言うことには、その男が一体どこから来て、何をしていた男だったのかを知っている街人は誰もいないらしい。それでも働いていない男は、生活ができていた。妻と子も養っていたというのだ。
「でもさ、それだけじゃ騒動にならないよね?」
首を傾げるアンナに同意しつつ、リッツはヒースに視線を戻した。
「そうなんですよ、それだけなら良かったんです。でも新たにその山の持ち主になった、男の妻が問題だったんです」
「問題? 旦那が死んだら奥さんがその山を持つのは当たり前だろ? 何が問題なんだよ」
ますます変な話に首を傾げるリッツに、諭すように男は話を続けた。
「その奥さんが、強欲なんですよぉ。洞窟の入り口を専門家に依頼して封印してしまって、入れなくしたんです。そしたら噂はやはり本当だってことになるでしょ?」
「まあ、そうなるわな。火のないところに煙は立たずだ」
「でしょ?」
ヒースは何度も頷くと、俺も信じてた一人だったと告白した。となると、この噂は駐留部隊の中にまで広がっていたようだ。
「それで噂を聞きつけた街の金持ちが、それが何だか知りもしないのに宝を譲ってくれって女に言い始めたから、大変なことになってきたんです」
本当に問題が大きくなるのはそこからだったのだ。今までひそひそと噂しあうだけだった街の人々が皆、この金持ちの行動に注目した。
そうなったら黙っていられないのが、この金持ちと元から馬の合わない街の土地持ちだ。対抗意識からか、土地持ちはもっと金を出すから、宝を自分に譲れと女に迫ったのだ。
勿論それを聞きつけた金持ちは黙ってそれを見過ごすようなことはしない。更に対抗意識を燃やして直ちに女の元を訪れ、土地持ちよりも更に高い金を出すと交渉した。
だが、女はせせら笑ってどちらの話も受け入れず、この二人を家から叩き出してしまった。宝を持つにふさわしい人にしか譲らない、と言いだしたのである。
そこで土地持ちは街の民衆を味方に付けて、街のためにその宝を譲って貰おうと言い出したのだ。勿論金持ちも対向する。宝を山分けしてやるからこちらに付けと民衆を買収し始めた。
もちろん双方とも宝が何であるのか分かってはいない。ただ凄い物だという噂を耳にしただけなのだ。
最初は相手にしなかった街の人達も、徐々に金持ちと土地持ちに注目するようになり、どちらに着くのが得かの損得勘定を始めた。
元はといえばたった一つの噂だったというのに、今では街全体を巻き込む、大きな騒ぎとなってきているという。
「今では街の人がみんな、どっちが得かで大騒ぎです。このままだと混乱が起きて、暴動になりかねません。でも何とかしようとした、俺らファルディナ駐留部隊が女の元に赴いても、門前払いなんです」
確かにこのまま混乱が激しくなると、街の住民同士で暴力沙汰がおき、酷い時には暴動のようなものになりそうだ。
それも大変だが、可能性としてはこの女が吊るし上げられ、混乱のうちに殺され、宝を奪われる方が高いかも知れない。
「今はまだ、口げんかくらいなんですけど、いつ暴動が起こってもおかしくない状況なんです」
大きくため息をついて、自らのふがいなさをひとしきり嘆いた後で、ようやくヒースは沈黙した。
「なぁるほどなぁ。で、お前さんはその街から何のために出てきたんだ?」
話をあらかた聞き終わってからリッツが尋ねた。話は判ったが、こんなところでヒースが彷徨っている、その理由が分からない。
「俺、このことを王都防衛隊の本部に報告して、王国軍査察官を連れてくるのが任務なんです」
「査察官? 憲兵じゃなくて?」
「はい。だってもし宝が国家クラスの大財宝だったらどうします? 憲兵の手には負えませんよ! 国家の宝なら査察官クラスでしょう?」
ヒースは目を輝かせた。
王国軍査察部。国王と大臣、宰相を唯一の上官とする、特殊な組織だ。なるほどファルディナの住人は、こうして妄想を膨らませていったのだろう事がよく分かった。
「あり得るか? たかが個人のもんだろ?」
「でも大変な宝なのは間違いありません! だからこうして王都に向かっていたんです」
「王都にねぇ……」
リッツはますます持って首を傾げた。王都シアーズは、ファルディナから出ると、こことは全く正反対のはず。
「ヒース、お前さんここがどこか分かってんのか?」
「旅人の街道でしょう?」
「そうだが、ここはファルディナから王都と全くの逆方向に二日ぐらいの所だぞ?」
リッツの言葉が理解できなかったらしく、一瞬ヒースが困惑した顔をした。だがすぐに正気に戻る。
「えぇぇぇぇぇ? 冗談っすよね? 冗談っすよね?」
縋るように三人を見つめる彼に、誰も冗談だと言ってやることは出来なかった。彼らは明日か明後日、ファルディナへ辿り着く予定なのだから、ここが街を通り抜けた王都側であるわけがないのだ。
「ま…マジなんっすね? 俺……どうしよう……」
動かしようのない事実を前に、ヒースは一気に青ざめた。
「お前、何日前にファルディナを出た?」
「馬で三日前です……」
だが一般家庭出身の彼が上手に馬を乗りこなせるわけではなく、出発して一日が過ぎた頃に馬が暴走して、森の中のどこやら分からない場所へと放り出されたのだという。
それから森をさ迷い、街道をさ迷い、やっとの思いで明かりを見付けて、今三人の元に辿り着いたというわけだ。
「早馬でファルディナから王都に向かうなら、手慣れた軍人ならおおよそ一日半。素人に毛が生えた程度のお前でも、片道に絶対に三日は掛からないぞ」
大体の計算をしてリッツはそう呟いた。ファルディナからシアーズまでの道をリッツは昔、幾度か往復したことがあるのだ。それを聞いて結論が分かったのか、ヒースが泣きそうな顔をしている。
「だとしたら、お前はもう王都に着いてなきゃいけない計算になるな」
多頭立ての王都直通馬車でも使えばまだ何とかなりそうだが、彼の身なりを見る限りではそんな金はなさそうである。
「どうしましょう、どうしたらいいんでしょう!」
混乱して立ち上がってウロウロするヒースに、リッツはため息をついた。こんな事をしていても、状況が良くなるわけではない。
「まあ座れよ、落ち着いて考えれば何か浮かぶかもしれないだろ?」
本来はリッツは男に親切をしないたちなのだが、民衆の命とその女性の命がかかっているかもしれないというのでは、動くしかない。他の国はまだしも、リッツはユリスラ国内で暴動に発展するかも知れない状況を放置しておくことなんて出来ない事情がある。
しかし、それは万策尽きた時だ。
が、こちらには、アンナという万人に親切な奴がいる。黙っていてもリッツ達三人が動くことになるのだろうが……。
「そうだよ、リッツなら何とかしてくれるよ。だってリッツ見かけによらず強いんだから!」
やはり目を輝かせて力説するアンナの言葉に、黙っていたフランツが力無く突っ込んだ。
「アンナ、強いのはこの際関係ないと思う」
その通りである。
「でもでも、リッツ助けてあげようよ。何だか街の人大変そうだよ? 困った人がいたら助けてあげないと、女神様の加護を受けられなくなっちゃうよ」
アンナの瞳は、曲がったことを許さない輝きでキラキラ満ちている。これが、リッツに何とかしろと無言のプレッシャーをかけてくるのだ。
リッツは真摯に真っ直ぐ、自分を見つめてくる視線にかなり弱い。特に信念に満ちた瞳には刃が立たない。これは昔、唯一無二の親友に出会ってしまって以来のことだ。
「リッツさん! お願いします!」
アンナに倣って、ヒースも目をキラキラ輝かせる。
「なんだお前は! 目を輝かせるな! 気持ち悪いだろうが!」
胸の前で手を組んで、お願いポーズで目を輝かせる奴が二人。二人はじりじりとリッツににじり寄りつつ、目を潤ませる。
三人はしばらく無言の対峙をしていたが、どうあってもお互い引く様子はない。
どれだけの時間が経っただろうか? 誰かがため息混じりにリッツの肩を叩いた。言うまでもない、以前アンナとリッツにこのキラキラ攻撃をしかけられた覚えのあるフランツだ。
「リッツ、覚悟を決めて動けば? このまま夜が明けるのは僕は嫌だ。疲れたから休みたい」
「フランツ、お前まで!」
頼みの綱フランツまでもがそんなことを言い出してしまったので、リッツはしばししかめっ面で、懇願する二人と、しらっと鞄の中の残り予算を計算し始めたフランツを睨んでいた。
しばらくたって抵抗を諦め、リッツは小さくため息をつきつつ、頭を掻いて苦笑した。
「分かった、分かったからその顔をやめてくれ」
「ほんとうっすか?」
「よかったね、ヒース!」
喜ぶ二人を後目に、フランツはやれやれとため息をついてそっぽを向き、当事者のリッツは更に大きなため息をついた。
「多頭立ての乗合馬車なら、間に合うぞ」
リッツ達が歩く旅人の街道は、ユリスラ王国各地から王都へ続く正式な道で、色々な方面から王都に向かって伸びている。
旅をする人間は、勿論全員が徒歩だとは限らない。金持ちは個人で馬車を仕立てて王都へ向かったり買い出しに行ったりするし、急いでいる人間は馬に乗ったり乗合馬車を利用する。
リッツ達が乗ることは、金銭の面から考えてもまずない代物なので、通るのを横で眺めているだけだったが、本来この街道には乗合馬車が一日数本通っている。
何時頃に何処に着くのかは、彼らの全く関知しないところではあるのだが。
「馬車! 乗りた~い」
指をくわえてみていただけの馬車を羨ましがり、目を輝かせるアンナを後目に、フランツがまだ考え込んでいるリッツに尋ねる。
「いつ頃ここを通るのか知っているか?」
「知らん。乗る予定なかったしな」
違った意味で三者三様にため息をつく彼らに、今迄黙って目を輝かせていたヒースが手を挙げた。
「俺分かります、馬車の時間!」
ファルディナを警備しているヒースは、時間と本数を熟知していた。街道沿いを警備する仕事なら、知っていて当然だろう。
「それ以外ないよなぁ……」
リッツが腕を組んでそう呟くと、ヒースも頷いた。確かにそれ以外は全く思いつかない。
もっと早いのは馬だが、ここにはいないし、そもそもヒースは馬から落ちて方向を見失ったのだ。同じ轍を踏ませるわけにはいかない。
やはり、ヒースが一番早く王都に辿り着き、事件が起きていることを報告するには、この馬車がしかないという結論が出た。
問題は、金である。
浮浪者同然にまで落ちぶれているヒースには、勿論ほとんど持ち合わせがない。リッツ達には、トゥシルの村で商人達から巻き上げた金がある事にはあるが、ここであげてしまったら路銀が乏しくなる。
たとえ彼に貸したとしても絶対に帰ってくる保証がないことにはどうにもならない。
そんな不確かなことにフランツが快く財布の紐をゆるめるだろう事は、どう考えてもない。
「どうしたもんかなぁ……」
呟いたリッツに、横で何やら勘定していたフランツは、多めの路銀を手渡した。わけの分からないリッツが怪訝そうに彼を見ると、フランツは残りの路銀をしまいながらリッツを見もせずに答えた。
「僕は初めて会った奴にこんな大金を貸してやる事に賛成出来ない」
「じゃあ、何で渡すんだよ?」
突っ込むリッツに、フランツは涼しい顔で答えた。
「リッツが決めればいいだろ、僕は信用できない、僕からは貸したくない」
つまり、この金が本当に返ってくると思ったらリッツが貸せばいい、返ってくる保証がなかったらリッツの責任ということになるのだろう。
だがリッツは気がついた。
フランツももしかしたら、暴動が起こりそうな事態なら防ぎたいと思っているのかも知れない。サラディオで父親を嫌った理由といい、薬草を取り返したことといい、フランツは実は正義感に溢れた奴だ。
顔には出ないが。
「じゃあ、返ってこなかったら?」
「リッツが稼いで穴埋めしてくれ」
あんまりといえばあんまりなフランツの言葉に、リッツは唸るしかなかった。
「う~~ん……」
考え込むリッツを見て、ヒースはため息をついた。
「やっぱり駄目でしょうねぇ……」
「リッツ~」
アンナも縋るようにリッツを見つめる。
ヒースがこの仕事を成功させないと、ファルディナには帰ってこれない。ということは金も戻らないかもしれない。
「でも王都についても……俺なんかが査察官に会えるんですかね」
悲観的な表情でヒースが呟いた。何も知らないアンナが首をかしげる。
「何でですか?」
「だって査察官って、国王と、大臣と、宰相の直属部隊なんですよ? 主な役割は軍内部だし、そりゃあ地方で何らかの犯罪が起こると聞けば、内政調査をする部署でもあるけど、一介の防衛部隊員に会ってくれますかね」
「……大変なんだ……」
「大変なんですよ。もう三日も時間を無駄にして、しかもいつ着けるか分からなくて、その上会って貰うのに時間がかかったら、この街、どうなっちゃうんでしょう……」
ヒースの言葉に、普段意図的に思い出さないようにしている三十五年も会っていない友の顔が浮かんだ。
彼が望んだユリスラの平和は、もう三十五年も維持されている。なのに暴動が起こり、多数の死者が出たりしたら、心を痛めるだろうなと思ってしまったのだ。
そう思うと心がざわつく。何か出来ればした方がいいのでは、と心の中の何かが囁く。
リッツは腕を組んで考えこむ。ヒースの願いを叶える方法をリッツは持っている。フランツに渡された金で馬車に乗せ、そして奥の手を使えば、あっという間に査察官は来る。だがそれは友にリッツが今、この国にいることを教えてしまうことになるのだ。
まだ友に会うには心の準備が出来ていない。会いたくて仕方がないのに、会う勇気がなかった。だから自分の存在を知らせたくない。
苦悩していたリッツだったが、ふと気がついた。そうだ。昔とは違い今の立場では、リッツの友がここに来られるわけがない。ならば奥の手を使ってやっても構わないかも知れない。
そうと決まれば話は早い。金も取り戻せるだろう。
「フランツ、お前紙持ってないか? なるたけ立派な紙」
「……? あるけど」
よく分からないままにフランツが自分の鞄から、紐で束ねてある厚めの紙を取り出した。ついでとばかりにペンとインクも渡してくれた。
「よ~し、これで奥の手を使ってやる」
紙とペンを受け取ったリッツは、紙を広げて思案する。あまり仰々しいことを書くのもなんだし、適当に書きすぎるのもなんだ。
「何書いてるの?」
「見たら御利益がなくなるぞ」
覗き込むアンナを微妙に脅しながら、リッツはペン先をインク瓶に浸し、紙にペンを走らせた。そこに現在ファルディナにいること、そこである宝を巡り暴動が起きかかっていること、そして査察官が着くまでは街に自分がいると言うことを書き記した。
それから一番重要な物を探す。
「確かこの辺に……」
リッツは懐に手を突っ込むと、三十五年もの間肌身離さず持っている布にくるまれた小さな筒状のものを取り出した。
リッツの親指ほどの太さのあるそれは、王国軍の印章である。その印章には、王国軍の紋章が図形化して彫り込まれていて、かなり高価なものだ。
この紋章、この王国にはたった一つしかない。それが今リッツの元にあるのだ。
それから紙を丁寧に折り畳み、もう一枚の紙で簡単な封筒を作って中に入れる。仕上げに布の中のものを取り出すとまだ燃えている竈の炎にくべた。
それは印章を封印として使うためのろうだった。溶けたロウを封の所に垂らすと、垂直に封印を押す。
「これでよし!」
固まったろうを確認して、リッツはそれをヒースに渡し苦笑した。本当は気が進まないが仕方ない。
「いいか、これはかなり効果のあるお守りだ。王城に着いたら真っ直ぐ軍務部に行って『宰相閣下に、大至急お目通り願いたい』と言え。たぶん面倒くさい政務部よりも先に会えるはずだ」
「宰相に? そんな偉い人に会えませんよ!」
「大丈夫だよ、その封印見せれば何とかなるって。とりあえず、乗合馬車で明日王都に行くんだ、金は貸してやるよ。絶対返せよな。街の方は査察官が来るまで、俺らが何とか動いてみるから」
なだめすかしてリッツは大きく伸びをした。
「あ~肩凝った」
「ねぇねぇ、何書いたの? あの印章は何?」
アンナが興味津々で聞いてきたが、リッツは曖昧に笑って誤魔化した。あの印章を見られたら、リッツの秘密が一発でばれてしまう。リッツは紙を束からもう一枚抜き取ると、ヒースに渡した。
「ここにファルディナ駐留部隊の隊長さんへの紹介状を書いてくれよ。その方が動きやすいからさ」
「はい、でもどういう風に書いたらいいんでしょう?」
下っ端の彼は生まれてこの方隊長への紹介状なんてものを書いたこともない。分からなくて当然だ。だがリッツは相当適当に答えた。
「え~っと、そうだなぁ……親切な旅の傭兵と、精霊使いたちが、迷った僕にお金を貸して王都へ行かせてくれました。街のことを知って助けてくれるみたいです……てな感じに書いてくれ」
悲壮な顔つきのヒースがリッツを下から恨めしそうに見上げた。
「俺の失敗まで書くんですか? 嫌っすよ」
隊長に迷ったことまで報告するのはヒースはどうしても嫌なようだ。彼にとって隊長は怖い人らしい。
「仕方ねぇだろ、ホントに迷ってんだから。そう書かねぇと、お金借りる意味分かんねえだろ?」
まだ恨めしげながらヒースが何やら一生懸命書き込んでいるのを覗き込んでいたリッツが、ため息をつきながら言った。
「あと、俺たちに金を必ず返すことを約束したことも書いといてくれよ。踏み倒されたら俺はフランツに殺されるかもしれない」
リッツはあわよくば貸した金を隊長から取り返そうとしているのだ。フランツがムッとした顔でリッツを睨んだが、別に異論はないようだった。金を貸したことをきちんと何かに残しておくのは大切なことだと、商人の息子だった彼は信じている。
悲しげなため息をつき、怒られるかもしれないと嘆きながらも、やっとヒースが書き終えたところで、一同はもう休むことにした。
事件に巻き込まれると、絶対に大変な事が起こって忙しくなると、今までの経験上三人とも良く知っている。眠れるうちに寝ておいた方がいいのだ。
「明日、馬車に乗り遅れんなよ。本当に洒落になんないからな」
リッツの一言で、四人は竈を囲むように寝支度を整えた。全員がそれに倣う。
彼らの休息に見張り役はいらない。いつも全員一斉に寝てしまうのだ。何故なら彼らには頼もしい見張り役がついている。
寝ずの番は、たき火の中にいる火とかげ(サラマンダー)のサラが一匹でこなしてくれる。それに微かな異変であってもリッツがすぐに気がつくから見張りがいらない。
サラの主であるフランツは毎晩物忘れが激しい精霊に、堅く言い聞かせている。
「サラ、何か来たら教えるんだ、いいね?」
「きーっ」
「すぐに起こすんだ、分かるか?」
「きー、わかきーっ」
彼(彼女?)なら絶対に火を絶やすことがない、何しろ自分が燃えているからだ。その上ほとんど眠ることもないのだ。
こうして四人(と見張りの一匹)の夜が更けていく。
翌朝、支度をし終えた四人の元に、運良くその日一番の乗り合い馬車がやってきた。夜通し走る馬車にはありがちな、四頭の馬で引き、屋根と壁、窓も付いている結構大きい物だった。客席と馭者の間は布で仕切られていて、行き来が出来るようになっている。
「さあ、ヒース頑張って行って来いよ」
「ありがとうございます」
急いで馬車に乗り込もうとするヒースの姿をぼんやり眺めていたリッツの服を、誰かが後ろから引っ張った。犯人はアンナである。
「リッツ~、馬車乗ってみたいよ、乗ろうよ~」
憧れの馬車にのるヒースが、どうしても羨ましくなってしまったらしい。
「だ~め、フランツが怒るだろ?」
振り返ってフランツをみると、彼は何やら財布から金を取り出しているところだった。リッツと目が合うと、フランツはそっぽを向いて呟いた。
「街に行ったら忙しくなりそうだから、馬車で疲れないように行くのも悪くない」
どうやら彼も馬車に乗る気満々なようだった。歩くよりは馬車の方が遙かに楽なのは確実だし、ここに来てフランツにかなりの疲労が溜まっているのも確かだった。
でも、それをリッツに頼むのは嫌なのだろう。あくまでも結論はリッツに委ねているようだった。
「ほら~フランツもそう言ってるよ! 乗ろうよ!」
この状況で乗らないなんて選択をしたら、アンナとフランツはきっとファルディナにつくまでブツブツ言い続けるだろう。それは相当うっとうしい。
「お兄さん、乗るの? 乗らないの?」
馭者の中年男が、早く馬車を出そうと彼らをせかす。こうなったら仕方ない。
「ファルディナの街まで三枚」
「毎度、四五〇〇ベルセです」
ちなみにヒースには一〇ギルツ渡してある。この値段なら、往復しておつりが来るだろう。
リッツはやけくそ気味に馬車に乗り込んだ。フランツは何も言わずに乗り込んでお金を馭者に手渡した。アンナははしゃいで馬車にのり、物珍しそうにキョロキョロと中を見渡している。
朝早いこともあってか、乗合馬車は意外に空いていた。十人ほど乗れる内部に乗っているのは彼ら四人を含めても七人ほどしかいない。そのうちの一人はこの馬車の馭者で、先ほどの男の交代要員らしかったが、仕切られた所に毛布を敷いて寝こけていた。
順番に休みなく王都へ行く馬車は多くない。この馬車に当たった彼らは、相当ラッキーだと言っていいだろう。
「はい、じゃあ出発するよ」
馭者の男の鞭一振りで、馬車はごとごと動き始めた。アンナは相変わらず立ってウロウロしている。
「危ないから座ってろ、アンナ」
リッツの注意も何処吹く風と、アンナは布をたくし上げて馭者に話しかけた。
「馬車乗るの初めてなんです!」
馭者もアンナの外見と言動に惑わされて、ニコニコと受け答えしている。
「そうかい、よかったねぇ。おじさんもお嬢ちゃんみたいに可愛い子が乗ってくれるのは大歓迎さ」
リッツは心の中で、アンナはあんたとそんなに年変わらないぞと呟いてみたが、意味がないので口には出さない。
「景色が見たいから横に座っていいですか?」
「勿論さ! 落ちないようにおいで」
アンナが馭者と仲良くなって、ちゃっかり馭者席に居座ってしまった間に、目覚める時間がいつもより早かった寝起きの悪いフランツは、すぐにウトウトまどろみ始めた。
リッツとヒースは、ただぼんやりとがたがたと揺れる馬車の動きに身を任せていた。
「最近お前は王都に行ったか?」
「勿論っす。王都で採用試験受けて最近こっちに来たんですよ。元々の出身地は、南東部です」
「ランディア自治領区辺りか?」
「はい。ランディアの片田舎っす」
ヒースの話す王都は、リッツの知っている頃と大して変わっていないようだった。
ただリッツの唯一無二の友は年を取ったらしい。
リッツの友……それはユリスラ王国の国王だった。
だがそれはもう三十五年も前のことだ。それだけ長い間、リッツは友に会うこともせず放浪していたのである。友はきっと、怒っているだろう。もう忘れ去られてしまっただろうか。
近々国王が息子に位を譲るかもしれないという噂も出ているようだ。だがリッツの頭の中では、友はまだ二十代後半で、リッツは一人、過ぎ去った時間の重さを噛みしめた。
会いたい。でも会いたくない。会えばきっと自分が永遠を生きている事を思い知らされてしまう。大切な友と同じ時代を生きられないことを、実感してしまう。
リッツは黙って目を閉じた。今は何も考えたくなかった。
そんなこんなで彼らはお昼前にはファルディナの街にたどり着いた。馬車が止まったのは街の中心部であるかなり広い一角だった。
「おじさんばいば~い! また乗せてね!」
「お嬢ちゃん、達者でな!」
馬車は三人を降ろして次の乗客を乗せると、再び王都を目指して走り出した。
「ありがとうございます、なるべく早く戻ってきます!」
馬車の窓から顔を出して手を振るヒースにも別れを告げて、彼らは街の中央広場へ降り立った。
長い時間座っていたので体が固くなっていたリッツと、不自然な態勢で寝ていたせいで節々の痛いフランツが、大きく伸びをした。
「……やっぱり馬車は楽だね」
ぽつりと漏らしたフランツに、アンナが笑顔で頷いた。
「早いし、ごとごとして面白いし、おじさんは楽しいし馬も綺麗だよね! また乗ろうね!」
「機会があったらな」
はしゃぐアンナに苦笑しながらリッツは答えた。そんなに余裕のある旅ではないはずなのだが、そんなことは頭のどこかにおいてきてしまったらしい。
自らの感傷に浸っていたリッツは、自分の意識をこの二人の保護者へと戻した。昔の自分でいては、彼らに対して見せると自分が決めた、自分自身でいられなくなる。
馬車はもうすでに彼らの視界から消えていた。このまま進めばちゃんと王都に着くはずだ。後はヒースに任せて、彼らは彼らのやることをやればいい。でもとりあえず今は昼だ。
「さぁて、まずは久しぶりにまともな飯でも喰うか」
「やった~! ご飯だご飯だ!」




