オオカミとヒツジ その6
逃げようか逃げまいか散々迷って、でもどうせ逃げたって同じ学校なんだから逃げきれるわけがないし、昨日の今日で会いたくはなかったけれどどうせ私が播いた種なんだから潔く散ったほうがまし、という結論に至り、覚悟を決めてこのドアの前にいる。
ごくりと生唾を飲み込み、震える足を無理やりしゃんとさせる。深呼吸して、いざ。
無駄だとは知りつつ、音を立てないようにそぅっとドアを開けて、8組の教室を静かに覗き込む。 教室には人の気配が全くなくて、静まり返っていた。
…誰もいない?
その事実に、先程までの極限の緊張が一気に緩んだ。その瞬間。
「…遅い」
「わぁ!?」
いきなりの背後からの声に、文字どおり飛び上がってしまった。
振り向くと、危惧していた通り。そこには、ぶすっとした無表情の瀬川君が立っていた。どこから出てきたんだろう。慌てて教室の中に入り彼との距離を取ろうとはかるが、彼は無表情のまま教室のドアを後ろ手で絞めてしまい、むしろ退路を断ってしまったことが悔やまれる。飛んで火にいるなんとやら、だ。
彼の眉間にはくっきりとしたしわ。目つきはいつも以上にするどく感じられ、唇もしっかりと閉じられている。瞬時に昨日自分がやった事が脳裏に蘇って、自然と顔が火照った。
「えぇと…遅くなってごめんなさい!ななな、何か用?」
はたして昨日の例のアレを気づいているのか気づいていないのか、必死になって彼の表情を探ろうとしたが、一匹オオカミの表情が読み取れるはずもなく。
こちらの意図を知ってか知らずか、彼は無表情のまま右手に持っていた日誌をぱらぱらとめくり始めた。
「…ここ」
「へ」
ずいっと日誌を突き出されて、覗き込む。瀬川君が指さしているのは、私が昨日書いた部分。昨日の授業の内容と日直の感想。
「読めねぇ」
「………。」
淡々と言われると、ますます恥ずかしいんですけど。確かに彼がごついと思いきや意外に奇麗な手で示している箇所は、うにょうにょと曲がりくねった私の文字で書かれていて、ものすごくわかりにくい。
というか、読めない。
恐らく、緊張しすぎて手が震えたんだろう。恥ずかしくて顔だけじゃなく、体じゅうが火照ってきた。
「…えーと、ごめん、なさい。書き直し、ます。」
恐る恐る日誌を受け取り、一番近かった机の椅子を引いて、ゆっくりと座った。
すると、当然のように彼が前の席の椅子を引いた。
震えを隠すように足に力を込めるけど、全然言うなりになってくれない自分の体がもどかしい。右手も足同様、彼が近くにいると思うだけで震えが止まらない。
前の席だなんて、隣の席よりも太刀が悪い。椅子の背もたれに両腕を乗せ、その上に顎を乗せた彼との距離は昨日よりもずっと近い。…そして、去年のあの頃よりも。
「先帰ってていい、よ?」
「元はといえば俺の仕事」
間髪入れず言われてしまった。そう言われてしまったら、無理に帰らせるわけにもいかない。
早く書いて、一刻も早くこの心臓に悪い状態から抜け出したい。必死になって日誌に向かうが、焦れば焦るほど字は乱れる。昨日よりも近い距離からの強い視線が、今日はどうしても違う意味を込めたものだと思ってしまう。
…逃げたい。
もう自分の顔は半泣きになっているだろう。どうしても、彼に意識がむいてしまう。
「…昨日」
突然、彼がボソリとつぶやいた。驚いた拍子に、シャープペンがぽろりと手の中からこぼれ落ちた。
私がそうするよりも早くしゃがんだ彼が、椅子の下に落ちたペンを器用に拾って、私に差し出す。
「なんで?」
かしゃん。
再びシャープペンの落ちる音が、2人きりの教室に大きく響いた。
ペンを受け取ろうとした私の右手が。て、手首が、しっかりと彼の手に握られている。
状況を把握できずに視線をさまよわせる私を逃がさないとばかりに、瀬川君は真正面から見つめ返してきた。
「な、なにがなんで?」
完全に裏返った私の声が、緊迫した空気の中に間抜けにとけた。
眉間のしわを濃くした瀬川君が、少し低めの耳に心地よい声を、さらに落とす。
「コレ」
言いながら、彼は人指し指でトン、と自分の右頬を指し
……………あ。
「あー、こら待て、逃げんな」
彼の手を振り切ろうとして腰をあげた私を、彼はすぐさま両手で押さえ込んだ。つまり、私の両手首は彼の両手によってしっかりと握られているのでありー…ちょっと、近い!すごく近いんですけど!!
それでなくても目が。目が、真正面から絡み合っている。強い、強い視線が、すぐ目の前から。
「なんで」
「ななななななんでといわれましてもなんのことやら」
「なんのことやらって…昨日、俺のココに、キスしてた」
そう言って、また一段と顔を近づけて来る。
それこそ、手どころか唇だって届きそうなぐらい、近くに。
生まれてからこのかた、とんと異性との縁に恵まれない私にとっては、刺激が強すぎる。
-…も、だめ。限界~~!!
「ま…魔がさしたかな~…なんて」
あぁぁ何言ってんだろう自分。まるで若い子に手を出した親父が奥さんに問い詰められて白状しているみたいな、間抜けな声が出た。
ほとんど考えることのできてない頭で、精一杯とりつくろう。にへら、と力のない笑い。顔やら手やら、体じゅうが熱い。もう、ほんと、て、手を離してほしい。それしか考えてなかった。
「…へー。あんた、魔がさしたら誰にでもすんの。変態?」
「ち、ちがいます!だって、だって…あの、せがわ、君…かわいかったから」
本音がぽろりと出てしまった。かわいい、の言葉で彼の顔が、無表情から少しゆがむのを見て、本格的に身の危険を感じる。
「かわいい…だと?」
「ごめんなさいごめんなさい!だって、本当にそう思っちゃったから…なんかこう、触りたくなるっていうか、ぎゅーっとしたくなるっていうか、だから、つい…」
あれ?なんだか私、本当に変態ちっくな事を言っていない?
だが言ってしまったものはもう遅い。眉間に刻まれたしわが深くなり、彼を包むオーラが怒りの様子に変わっていくような気がして、恐ろしくなった私はぎゅっと目を閉じて思い切り防御態勢をとる。
うつむき、ひたすらにごめんなさいごめんなさいと呟く私をどう思ったのか、やがて手首を握る彼の力が緩んだ。
解放されかけた手首に、ほっと安堵した瞬間―…再び手首を強く掴まれ、ぐいっと、引き寄せられた。
そして。
―――――――――――……。
…ん?
唇に、なま温かい感触。
「…かわいかったから、した。」
目をぱちりと開けると、目の前にあったのは、無表情でもなく、眉間にしわもなく、だけどにやりという言葉がぴったりの彼の笑顔。離れる瞬間、とどめとばかりにれろりと湿った何かが唇の上を這い、だがそれはすぐに離れた。
一瞬のことで、すぐにいつもの表情にもどった彼は、机の上の日誌を手に取り呆然としている私の頭にそれを一度軽くぶつけて、あっさりと教室から出ていった。ごく自然に。
なんだろう。頭の中の情報処理能力が追い付いていない。
これは犬に咬まれたと思ったほうがよいのか、いや瀬川君だから犬じゃなくて狼か。
でも狼だったら咬まれたら痛いどころの話じゃなくて、致命傷だよねぇ…そんなことをのろのろと考える。
しかも、よくわからなかったが、さいごのあれはし…し…舌で舐められた…ような…気が。
あぁそうか、狼って舌長そうだもんねぇといまだ混乱が頭の中を駆け巡るっている。
しばらくして、触れたばかりの唇に手をあて、如月はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「こ、腰、抜けた…」
かわいらしいヒツジの顔をして、オオカミに咬みついたのは彼女。
だけどオオカミはやはりオオカミだった。
はたして、ヒツジはオオカミに食べられてしまうのか、それとも、ヒツジがオオカミを食べてしまうのが先か…それは、彼らのみが知る。