第1章 木漏れ日の街 エピソード1
朝は、音よりも先に匂いでやってくる。
焼いた樹皮のパンの香ばしさ。樹液を煮詰めた甘い湯気。湿った葉がゆっくりと温められていく匂い。それらが混ざり合って、Dappled Glenの一日は静かにほどけていく。
エメリーはその匂いで目を覚ました。
窓の外では、枝と枝のあいだを渡す細い橋に人々が行き交い始めている。商人が荷を担ぎ、子どもが駆け、誰かが朝の挨拶を投げ、それが別の誰かに軽く受け止められる。すべてが、特別でもなんでもない速度で進んでいく。
「起きてるなら、降りてきなさい。冷めるわよ」
階下から母の声が飛んできた。せっかちで、よく通る声だ。
「今行く」
そう返しながら、エメリーは枕元に置いていたものに手を伸ばした。細い銀の鎖。その先に吊るされた、小さなペンダント。複雑な模様は、朝の光を受けて、わずかに揺らいでいる。
洞窟から持ち帰って以来、手放したことは一度もなかった。
理由は説明できない。ただ、置いておくべきではない気がしていた。
「聞いてるの? 今行くって言ってから三十秒以上経ってるわよ」
「数えてるの?」
「数えるまでもないの。遅いものは遅い」
エメリーは苦笑して、鎖を首にかけた。服の下に滑り込ませると、ひやりとした感触が一瞬だけ残る。
階段を降りると、母はすでに三つの作業を同時にこなしていた。片手で鍋をかき混ぜ、もう片方で布を絞りながら、足元では小さな光の粒を走らせて床の埃を集めている。
「おはよう。顔、ちゃんと洗った?」
「今から」
「今じゃなくて先にやるの。順番って大事よ。冒険でも、研究でも、料理でも」
「全部一緒にやってる人が言う?」
「私は例外。才能ってそういうもの」
さらりと言い切るあたりが、いかにも母らしい。元冒険者で、今は考古学者。効率と好奇心でできているような人だ。
父はその隣で、静かにカップを並べていた。手つきが丁寧で、無駄がない。
「おはよう、エメリー。今日は橋の補修が入るらしいよ。南側は少し混むかもしれない」
「ありがとう。北から回る」
「判断が早いのはいいことだね」
母が鼻で笑う。
「その代わり、考えすぎる癖があるわ。この子は。決めたら突っ走るくらいでちょうどいいの」
「突っ走って洞窟まで行ったのは誰だっけ」
「それはそれ。結果が出てるならいいの」
エメリーは席に着き、温かい飲み物に口をつけた。樹液を薄めたそれは、ほんのり甘く、喉の奥に柔らかく広がる。
ペンダントが、かすかに脈打つような気がした。
気のせいかもしれない。
「今日も依頼?」
父が尋ねる。
「まだ小さいのばかりだけどね。探し物とか、行方不明のペットとか」
「立派な仕事よ」と母が言う。「小さい問題をちゃんと扱える人間が、大きな問題に向き合えるの。逆は成り立たない」
「覚えておく」
「覚えるだけじゃなくて、使いなさい」
母はそう言って、鍋の火加減を指先ひとつで調整した。炎が静かに形を変える。
日常の中に魔法がある。それはこの街では当たり前のことだった。
食事を終えると、エメリーは外へ出た。
Dappled Glenの朝は、光がまだらに降り注ぐ。葉と葉の隙間から差し込む光が、橋や家々の壁に模様を描き、風が吹くたびにそれが揺れる。
街の名前は、その光景から来ている。
歩きながら、エメリーは人々の動きを観察する。誰が急いでいて、誰が立ち止まり、どこで視線が交差し、どこで逸れるか。癖のようなものだった。
「おい、エメリー!」
聞き慣れた声が上から降ってくる。
見上げると、太い枝の上に腰を下ろしたランドンが手を振っていた。相変わらず、危なっかしい場所が好きらしい。
「またそんなとこにいる」
「近道だよ。下より風が気持ちいい」
「落ちたら?」
「落ちない」
言い切るあたりが彼らしい。根拠よりも感覚で生きている。
ひらりと枝から降りてくると、軽い音を立てて着地した。
「今日の依頼、手伝う?」
「報酬は半分だけど」
「それでいい。どうせ筋肉使う仕事だろ」
「決めつけないで。今回は観察がメイン」
「じゃあ俺は暇か」
「そうでもない。荷物持ちくらいはできる」
「それ、ただの雑用じゃないか」
「役割分担よ」
エメリーがそう言うと、ランドンは少しだけ笑った。
二人のやり取りは、昔からほとんど変わっていない。変わったのは、背丈と、背負うものの重さくらいだ。
「で、どこ?」
「北区画。光るキノコの群生地の近く。ペットが逃げたらしい」
「またあそこか。滑るんだよな、あの辺」
「だから観察が必要なの」
歩き出そうとしたそのとき、エメリーはふと足を止めた。
視線の先、幹の表面に沿って走る細い亀裂。
それはこれまでも何度か見たことのあるものだった。乾燥や温度差で生じる、ごくありふれたひび。
けれど——
「どうした?」
ランドンが覗き込む。
「……何でもない」
そう言いながらも、エメリーは目を細めた。
亀裂の縁が、わずかに黒ずんでいる。
焼けたような色。あるいは、腐り始めた果実のような。
一瞬だけ、洞窟の水面に揺れていた光が脳裏をよぎる。
「行こう。遅れる」
自分に言い聞かせるように、エメリーは歩き出した。
ペンダントが、胸元で静かに揺れる。
まだ名前のない違和感が、確かにそこにあった。
それがやがて、この街だけでなく、樹そのものを揺るがすことになるとは——
このときの二人は、まだ知らない。




