プロローグ
世界は、一本の樹から始まった。
それは誰にも見られることなく、誰にも祝福されることなく、ただ静かに、混沌の底に落ちていった小さな種だった。光もなく、時間の流れすら曖昧な場所で、種はゆっくりと、しかし確実に何かを求めていた。
なぜ芽吹こうとしたのか、その理由を知る者はいない。
ただ、あるとき、ほんのわずかな裂け目のように、存在の表面にひびが入り、そこから細い根が伸びた。根は暗闇を探り、何もない場所にしがみつき、やがて確かな「下」を見つけた。そして今度は、上へと向かって、細い芽が押し出される。
その瞬間、世界に「方向」が生まれた。
上と下。光と影。流れと停滞。
やがて芽は幹となり、幹は枝を伸ばし、枝は無数の葉を抱えた。葉は光を集め、光は温度を生み、温度は風を呼び、風は水を運び、水は命を育てた。
すべては、その樹から始まった。
人々は後にそれを「世界樹」と呼んだ。
ある者は神の化身だと言い、ある者はただの偶然の産物だと笑った。だが、どちらにせよ、誰もその樹の外側を知らなかった。彼らにとって世界とは、幹に沿って築かれた街であり、枝に広がる生活であり、葉の隙間からこぼれる光だった。
そして、その光のまだらな揺らぎの中に、一つの街があった。
Dappled Glen。
そこは特別な場所ではなかった。豪奢な塔が立ち並ぶわけでもなければ、権力者たちが集う中枢でもない。ただ、ほどよく人が行き交い、ほどよく商いがあり、ほどよく争いも起こる、ごくありふれた場所だった。
少なくとも、人々はそう信じていた。
だが、忘れられているだけで、そこには確かに積み重なった時間があった。かつてこの地を貫いた戦いの痕跡も、地中を巡る見えない力の流れも、そして誰にも触れられずに眠り続ける、ひとつの小さな遺物も。
それは、洞窟の奥にあった。
子どもたちの多くは、その入口にさえ気づかない。気づいたとしても、暗がりの奥へと足を踏み入れることはない。理由は単純で、そこには「何もない」と教えられているからだ。
けれど、ごく稀に、理由もなく奥へ進んでしまう者がいる。
何かに呼ばれるように。
あるいは、ただ知りたくて。
その日、ひとりの少女がそこにいた。
彼女の名前は、エメリー。
細い枝をかき分け、苔むした斜面を滑り降り、誰にも見つからないような隙間をくぐり抜けて、彼女は洞窟へと辿り着いた。そこに理由はなかった。ただ、行けると思ったから、行っただけのことだった。
洞窟の中は、ひどく静かだった。
水滴が落ちる音だけが、規則正しく、時間の代わりをしている。奥へ進むほどに、外の光は薄れ、代わりに、どこからともなく柔らかな明かりが滲んできた。
やがて彼女は、小さな水面に辿り着く。
天井の裂け目から差し込む光が、水面に揺れ、その揺らぎが洞窟全体を淡く照らしていた。その縁に、まるで最初からそこにあったかのように、それは置かれていた。
繊細な銀の鎖。
そして、その先に吊るされた、小さなペンダント。
複雑な紋様が刻まれたそれは、光を受けて、静かに、しかし確かに輝いていた。まるで星の欠片のように、あるいは、長い時間を経ても消えなかった記憶のように。
エメリーは、それを手に取った。
その瞬間、何かが変わったわけではない。世界が揺らぐことも、雷が落ちることもなかった。ただ、彼女の中に、ごく小さな違和感が残った。
見過ごしてはいけない何かを、拾い上げてしまったような感覚。
それが何なのかを知るには、まだ時間が必要だった。
やがて、この小さな選択が、街を揺るがし、樹を蝕み、そして世界の在り方そのものに触れることになるとは、そのときの彼女は、まだ知らない。
ただひとつ確かなのは――
物語は、いつもささやかな違和感から始まる、ということだった。




