第九話 殿下は、お一人ではありませんわ
——あの日、わたくしは一度死んだ。
公爵邸内は黒一色となり、淡々と機械的に皆が動いていた。
わたくしは何をすればよいのか分からず、真っ黒な服で忙しそうにしている使用人達を見上げるように目で追っていた。
私室の鏡台にさえ、黒い布が掛けられている。窓も全て覆われており、煌びやかだった装飾品は全てどこかへ行ってしまった。
棺の中のお母様の手に縋りついた。あまりの冷たさに驚いて、泣き出すわたくしにお父様はこう言ったの。
『公爵家の娘が、醜態を晒してはなりません』
醜態とは、どのような事を言うのかしら?
わたくしの心は、醜態なのかしら?
たった独り、広い食堂で並べられた料理を前に、わたくしの心はあの日死んだまま止まってしまったの。
◇◇◇◇
パチリ、と火のはぜる音にリダは眉を寄せた。ゆらゆらと揺れる炎の光を呆然として眺めながら、ここはどこだろうかと考える。
火の側に座り、木をくべる人影が見えて、リダは慌てて身体を起こした。
「ミハル?」
彼は一瞬だけ不愉快そうに顔を顰めた後、すぐにいつもの少年のような笑顔を向けてサファイアブルーの瞳を細めた。
「気が付いたようで良かったよ。危うく婚約者を殺した殺人犯になってしまうところだった」
「……アレシュ?」
「不愉快だね。呼び捨てで呼ぶ許可を出した覚えは無いよ」
木の枝を炎の中に放り投げて、アレシュはつまらなそうに言った。必死に状況を把握しようと脳内を回転させていると、リーディアが悲鳴の様にまくしたてた。
≪リダのバカバカバカバカバカバカ!! 死ぬところだったのよ!? 怖くて堪らなかったわっ!!≫
——ああ、悪かったって。でももとはと言えばあたしのせいじゃないだろう!?
慌てて怪我の有無を確認し、幸いな事に目立った外傷が無いことにホッとした。
——ほら、一応助かったみたいだし、約束通りあんたの大好きなクソ野郎も五体満足そうだ。良かったじゃねぇか。
≪この状況の何を見て『良かった』だなんて言えるのかしら!? 暗いし、殿方と二人きりだし、わたくしの人生はもう破滅ですわっ!!≫
殿方って——と、リダは目の前に座るアレシュを見つめた。
揺れる炎の光で照らし出された彼は、ぽたりぽたりと銀髪から雫を零しながら、ジャケットをぎゅっと絞っている。顔や腕には擦り傷や痣があり、谷へ飛び込んだ際の状況が生々しく見えた。
シャツのボタンがいくつか失われており、開けた胸に滴る水滴が嫌に色っぽい。
——あいつ、ひょっとしてあたしを庇って怪我したのか……?
リダは思わず腰のポーチをまさぐった。胡椒入れを取り出したわけだが、すっかりと水浸しになっており使い物になりそうにない。
——最悪だ。乾かしたって意味無いよな?
≪何をする気ですの?≫
——何って、あんたと入れ替わる。
≪はい!? どうしてですの!?≫
——だって、あたしこいつと居たくねぇもん。めちゃんこ気まずい。
≪わたくしだって無理ですわよ!?≫
——なんでだよ!? あんたはこいつの事大好きなんだろ!?
≪それとこれとは別ですわっ!≫
「リーディア嬢」
アレシュが声を放って、溜息を洩らした。濡れた銀髪を掻き上げて、チラリとサファイアブルーの瞳を向けた後、視線を落とした。
「な、何?」
なかなか話し出そうとしないアレシュに痺れを切らして問いかけると、不服そうに眉を顰めた。
「その、ありがとう……一応、礼は言っておく」
——何が!?
唖然としているリダの前で、アレシュはチラリとリダを見て、再び視線を落とした。
「煩いな。あの時君が来なければ、熊に襲われ確実に死んでいたと思う。だから、助けてくれてありがとうと言ったんだ。二度も言わせないでくれ、腹立たしい」
「……あんた、変な物でも食べた?」
「変なもの?」
「あんたが素直にお礼を言うだなんておかしいじゃねぇか」
アレシュがムッとした様に眉を寄せた。
「助けられたのは事実だからね。正直腹立たしいし、頼んでなんかいなかったけれど。後からどうこう言われても面倒だ」
「ああ、別に頼まれた覚えなんかねぇな。あたしが勝手にやったんだ」
アレシュがフ、と笑った。リダもつられて笑い、照れた様に頭を掻いた。
「それで、あのさ……。あたしも、ありがとう」
「……何がさ?」
不思議そうに小首を傾げたアレシュに、リダは気まずそうに視線を逸らした。
「えーと、あんたが庇ってくれたから、あたしはこうして殆ど無傷で居られてるんだろうなーって。だから、ありがとう」
アレシュはサファイアブルーの瞳でリダを見つめた後、つんと片眉を吊り上げた。
「……別に、頼まれた覚えなんかないさ。僕が勝手にやったことだ」
「まあ、そうだけど」
パチリ、と焚火の中で小枝がはぜた。火の粉が散り、アレシュの首筋を伝う水滴が光を反射する。
——こいつ、こんな色気あったっけ!? まじで嫌だ。助けて……。
リダは心の中で叫んだ。リーディアに至っては先ほどから悲鳴しか上げていない。
「それで? 一体どこであんな狩り方を覚えたのさ? 『新しい君』が何者なのか、興味があるのだけれど」
「あ、あんたに教えてやる義理なんかねえよ。あんたがあたしに興味があったって、あたしはあんたなんかに興味はないんだからな!」
アレシュは肩を竦めると、薪を火の中にくべた。
「まあ、そうだろうね。君は僕を嫌っている様だからね。それなのに何故助けたのさ?」
「あ……ああ、見殺しにしたら後味悪いし? 勿論、あんたの事は大嫌いだ!」
「嫌いで結構だよ。けれど、キミはミハルの事は随分と好いているみたいだね? それなら、僕が死んだ方が、君にとって都合がいいんじゃないのかい?」
ピタリと言葉を止めて、リダは苦笑いを浮かべた。
「……何ソレ、尋問?」
「さあ? ただ知りたいだけだけれど。そう捉えて貰っても構わない」
「あんたの死なんか、望んじゃいねぇよ。でもまあ、ミハルはあんたよりマシだって事は確かだな」
アレシュが唇を噛みしめた。
リダは身震いして両肩を擦りつけると、滴り落ちる雫を邪魔そうにして濡れた髪をかきあげた。
「はぁ、っつーか寒いな。あたしにも火に当たらせてよ」
リダは立ち上がると焚火の側へと腰を下ろした。切り裂かれたスカートからスラリとした脚が見え、アレシュは思わず視線を逸らし、頬を染めた。
「その、悪いけれどもう少し隠してくれるとありがたい」
「何をだよ」
「その……」
コホン、と咳払いをした後、アレシュは顔を背けたまま人差し指でリダの脚を指さした。
≪キャ—————ッ!!≫
脳内でリーディアが断末魔の悲鳴を上げる。
「うわ、うるさっ!!」
咄嗟に立ち上がり両耳を塞いだものの、脳内の悲鳴を防げるはずもなく、リダは顔を顰めながら首を左右に振った。
「どうした?」
リダの突然の奇行にアレシュが眉を顰めた。
「ちょっと待って、今お取込み中!」
「何と取り込んでいるんだ?」
「煩いってばっ!! んなモンいちいち気にしてんじゃねぇ!」
「だから、一体どうした? 君、おかしいぞ?」
リダは自らの腿をパン!! と平手で叩くと「たかが脚ごとき何だってんだ!? いくらだって見せてやろうじゃねぇか!」と息巻いた。
アレシュが顔を真っ赤にして首を左右に振った。
「いや、待て、脚ごときって、僕はその……見たくなんか、いや、そんなもの見たくもない……だから、僕は……」
「別にあんたに言ったワケじゃねぇよ。大丈夫か?」
慌てふためくアレシュに、リダは冷たく言い切った。
≪はしたないですわ!! お止めになってリダ!! もうわたくしは生きていけませんわっ!!≫
「んな大げさ……っくしょん!」
しん……と静寂が訪れた。
「$#“&☆!!!!!」
≪だから落ち着けったら!!≫
リーディアは声にならない声を上げ、必死になって切り裂かれたスカートを直そうとして、どうにもならずに半狂乱で駆けて行った。
「おい、何処へ行く!」
アレシュが慌てて立ち上がった目の前で、リーディアは川縁の浅瀬へ膝まで入った。
「どうした? 何をしている!?」
「殿下、向こうへ行ってくださいな! わたくしはこの中に居りますわっ!!」
「突然一体何事だ?」
「わたくし、お嫁に行けないわっ!!」
水の中でしくしくと泣きだすリーディアに、アレシュは困り果ててしまった。熊をも倒す凄腕の狩人かと思いきや、突然羞恥し夜の川へと入るとは正気の沙汰とは思えない。
「『新しい君』は、情緒不安定にも程が無いか?」
先ほど水気を絞っていたコートをつかみ取ると、アレシュはリーディアへと差し出した。
「あれだけ見せつけておいて、一体なんだってのさ?」
「こうして殿方と一夜を明かすというだけでも赦されないことですのに!」
「どうせ君は僕の妻になる女性じゃないか」
「でも、殿下はわたくしの事がお嫌いなのですもの!!」
「結婚に好き嫌いは関係ないだろう」
「あるに決まっていますわ! わたくしは殿下の事をお慕いしていますのにっ!!」
≪おい!! 血迷って何言ってやがんだ!?≫
アレシュがあからさまに顔を歪めた。
「……全く。本当に虫唾が走る。理解不能の極みだよ。嫌いと言ったり好きと言ったり、わけがわからない」
はぁ、とため息をつきアレシュは静かに言った。
「とにかく水から上がってよ。このまま君を見殺しにして、面倒事に巻き込まれるのはご免だ。僕は後ろを向いているから」
背を向けるアレシュを見て、リーディアは僅かに冷静さを取り戻した。その瞬間、凍えるような寒さに襲われ、ガクガクと身体を震わせながら覚束ない足取りで必死になって水から上がった。
アレシュが背を向けたまま差し出しているコートを受け取り、腰に巻き付ける。
「ごめんなさい殿下。わたくし、取り乱してしまって……」
「全く君と居ると疲れる。早く焚火の側に行って温まってなよ。僕は少し薪を集めてくるから」
アレシュはリーディアに背を向けたままそう言い残すと、焚火から火を取り心もとない明かりを頼りに森の中へと入って行った。
≪おい≫
リダに突然話しかけられて、リーディアは飛び跳ねんばかりに驚いた。
「な、何かしら!?」
≪何かしらじゃねぇよ、あんたも薪を集めるんだ。その辺の乾いた流木をさ。火が消えたら死ぬぞ!?≫
「わ、わかったわ!」
リーディアは慌てて乾いた木の枝を手あたり次第に拾って焚火の中へと放り込み、アレシュが戻る前に再び濡れたスカートを絞った。
「リーディア」
アレシュが森の中から戻って来ると、その手には薪と共に馬の手綱が握られていた。艶やかな毛並みの馬が首を左右に揺らし、主人との再会を喜んでいる。
「まあ! お利口ですこと! 殿下をずっと探していたのですわね」
「皮肉なものだな。人は誰一人として僕を探しに来てはくれないというのに」
≪あたしはあんたを助けたけどな? それに、お人好しのミハルの事だから今頃全力で探してるだろうさ≫
リダの言葉に、リーディアはクスリと笑った。
「殿下は、お一人ではありませんわ」
——わたくしと違って……。
「……君に僕の何が解る」
アレシュは小さくため息をついた後、馬のサドルバッグの中から布や馬着を取り出した。リーディアへと「これを使え、それと、目障りだから焚火の向こうへ行ってくれ」と差し出して、焚火の側へと腰かけた。
≪おい、何やってんだよ。馬着は一枚しか無いんだぞ? あいつに借りなんか作るんじゃねぇ≫
——借り? でも、離れてくれと言われましたわ。
≪あー、もう! こいつが死ぬのは構わねぇが、厄介な状態になってミハルやあたしに被害が及ぶのだけはご免だからな!? あんたの大好きなアレシュ坊ちゃんが風邪を引いてもいいのか!?≫
「よ、よくありませんわ!!」
突然声を張り上げたリーディアに驚いて、アレシュは顔を上げた。
リーディアは馬着を広げてアレシュの肩へと掛けると、その傍らに腰かけた。
「で、殿下は王太子ですのよ? 風邪を引かれてはそれこそ一大事ですわ」
「いや、こういった時は女性が優先だろう? 僕は平気だから、向こうへ行っててくれ。煩わしい」
「緊急事態ですもの、男も女もありませんわ!」
その一言を聞き、アレシュは冷笑を浮かべた。
「君、僕を馬鹿にしているのか?」
「どうしてですの? わたくしはただ、殿下に風邪を引いて欲しくないだけですわ」
「……ふぅん? 解ったよ」
アレシュはリーディアの肩を引き寄せると、自分と彼女の両方を馬着で包み込んだ。
「で、殿下!?」
「無駄に騒がないでよ。鬱陶しい。効率が悪いのは嫌いなんだ」
プイと顔を背けるアレシュを、リーディアは顔を真っ赤にして見つめた。
星々が瞬く空の下、心の中で悲鳴を上げるリーディアに、リダはうんざりとした。




