第八話 君に死なれたら困る
風切り音が森の中を貫き、大鹿が悲鳴を上げた。
「陛下、お見事でございます」
宰相と共に周囲の貴族が称賛し、国王は得意気にしながらも僅かに小首を傾げた。
「だが浅いな。あれでは逃げ足も速かろう」
チラリとミハルに視線を送ると、ミハルは「はい、陛下」と答えて馬を走らせようとしたが、それよりも早くアレシュが颯爽と進み出た。
「あの獲物は僕にお任せください、陛下」
単騎で森の奥へと突き進んで行くアレシュを、ミハルが心配そうに見つめていると、国王がポツリと言った。
「……捨て置け」
ミハルは我が耳を疑い、アメジストの瞳を王へと向けた。
「獲物はいくらでも居る、先へ向かうとしよう。ミハル、そなたも来い」
国王が馬を進め、皆が従う中、ミハルは森の奥へと消えていった兄の方へと視線を向けた。
鬱蒼と茂る森はアレシュの姿をたちまちに覆い隠し、ミハルは唇を噛みしめた。
「ミハル、早く来い」
国王が再び声を掛けた。
ミハルは仕方なく馬を操り、国王の一行へと付き従った。
◇◇
王が仕損じた大鹿を追い、アレシュは森の奥へと無我夢中になって馬を走らせた。木の根が馬の進みを悪くし、木の枝が視界を遮る。
点々と続く血痕を見つけ、耳を澄ます。小枝が折れる音が微かに聞こえ視線を向けると、大木の影に痛めた脚を跳ねらせて揺れる大鹿の角が見え隠れした。
——捉えた!
静かに馬から降り、死角を狙って歩を進めると矢を番えた。
ヒュン!! と風切音を発すると共に、同時に持っていたもう一本の矢をすぐさま番えて間を置かず二射目を放つ。
つんざくような悲鳴と共に大鹿がドウと倒れ、アレシュは大きく息を吐いて獲物の元へと歩を進めた。
——やれやれ、これで父上への面目も立つだろう。
弓を背に掛けて短剣を引き抜き、止めを刺そうとした矢先、大鹿が角を振り上げて抵抗した。
——しまった!!
そう思った瞬間、アレシュの身体が弾き飛ばされ、木の幹へと頭を激しく打ち付けた。
手に握っていたはずの短剣は弾みでどこかに落としてしまったようだ。
ズキズキと痛む頭を左右に振り、自分の失態に苛立っていると、低い唸り声が聞こえた。
ゾッとして、アレシュは息を殺した。
静まり返った森に、轟音のような呼吸音が響く。
ソレが、アレシュを敵であると認識した瞬間、容易に死のイメージが膨らみ全身の血の気が引いた。
黒い大岩のような巨体を揺らし、凄まじい速度でアレシュ目掛けて駆けて来る。
——たった独り、こんなところで。僕には似合いの最期だ……。
唇を噛みしめた。
誰の助けも来ない。今更ながらにそんな事に気づいて、瞳を閉じた。
風切り音が鳴り響くと同時に黒い巨体は咆哮を上げた。
「馬鹿野郎!! 諦めてんじゃねぇよっ!!」
服を引き千切らんばかりに力任せに引かれ、アレシュはハッとして瞳を開いた。
「ほら、あんたも応戦するんだよ!! 急いで!!」
絹糸の様な金髪を揺らし、ラピスラズリの瞳を細めて彼女は次々と矢を放った。
全てが命中し、そのうちの一射は熊の目を射抜いた。
断末魔の悲鳴が轟く。
「クソ、邪魔くさいっ!!」
彼女は短剣を引き抜くと、ドレスのスカートを引き裂いた。スラリとした美しい脚が露わとなり、木々の根を飛び越えて森を駆け抜けながら更に矢を浴びせた。
呆気に取られているアレシュの前で、熊はその巨体をドウと地面に倒した。
「よっしゃあ!! 仕留めた!! あー、ギリギリ間に合ったぜ! あっぶなっ!」
勝ち誇ったように拳を突き上げる婚約者を、アレシュが夢でも見ているかの様に見つめていると、彼女が意気揚々と獲物の側へと歩を進めたので、慌てて引き留めた。
「待て! 直ぐに近づくのは危険だ。止めは僕が刺そう」
「は? あんたにできるとは思えないね、大鹿ごときに遅れをとってる坊ちゃんは黙って見てなよ」
「坊ちゃんだって!? 君、随分と無礼じゃないか!」
「煩いなぁ! 今それどころじゃないだろ? ああもう、煩い煩い、頭の中も煩い!! 約束は守ったんだからいいじゃねぇか!」
彼女が意味不明な事を言い、強引に歩を進めようとした矢先、ピタリと足を止めた。唇を噛みしめて、周囲を伺う様に視線を走らせる。
「……まずい、血の匂いに誘われて集まったか。囲まれた」
「何に?」
「しっ!」
パキリ、パキリと小枝を踏みながら複数の足音が近づいてくる。揺れる茂みを目ざとく察知し、彼女は咄嗟に矢を放った。
飛び掛かって来た獣の鼻面に矢が突き刺さり、ギャン! と悲鳴が轟いた。威嚇する唸り声が周囲から聞こえてくる。
「クソ、馬が逃げちまったか。仕方ない、走って!!」
アレシュは言われるがまま駆けた。彼女はアレシュを追いつつも矢を打ち放ち、一匹、また一匹と狼を射抜いていく。
その正確な弓の腕といったら見事なもので、アレシュは逃げながらも感心し、負けじと矢を放った。
数匹を射抜いたものの、狼の数は減るどころか更に集まってきた。
「ええい、きりがない!! 殿下、矢を頂戴! あたしのはもうすぐ……」
「……リーディア、矢どころか、どうやら逃げ場がないようだ」
「は!?」
二人の前方は断崖絶壁となっており、深い谷底からは川の流れる音が聞こえている。
「最悪だ。ちょっと、なんだってこんなところに逃げたんだよ!?」
「煩いな、僕だって無我夢中だったんだよ!」
青ざめる彼女に、アレシュは苦笑いを浮かべた。
二人を追い詰めるかのごとく狼の群れは取り囲み、完全に退路が断たれた。
威嚇する唸り声がこだまする。剥きだした白い牙は見ているだけで噛まれた時の事を想像し、ゾクリと背筋が凍りつく。
「おいおい、あたしは食われるなんて真っ平だっ!」
「同感だね」
もとはといえば自分の失態が招いたことだ、とアレシュは苛立った。
「……仕方が無い」
アレシュがため息交じりに言った。
「いやいやいや、諦めるわけにはいかないんだって! あんたは好きに死ねばいいけど」
「随分と無礼な事を言ってくれるじゃないか。仮にも僕は王太子だぞ? それに、諦めたりなんかしていない」
「だって、今『仕方ない』って」
アレシュはニコリと笑みを浮かべると、彼女をさっと抱きしめた。
「ちょっ!?」
「君に死なれたら困るんだ」
「それとこれとどう関係あるんだよ!?」
「諦めたんじゃなく、覚悟を決めたってことだよ」
数歩下がり、崖際へと向かう。
「待って、ひょっとして、いや、まさかっ!」
「そう、そのまさかだよ」
アレシュは彼女を抱きしめたままトンと大地を蹴り、谷底へと飛び降りた。
「あたし、泳げないのにいいいいいっ!!」
悲鳴が谷に反響してこだまし、大きな水音が鳴り響いた。




