第七話 ベルガモットのハンカチ
静寂に包まれた豊かな森が、その日は大勢の人々で賑わっていた。
見晴らしの良い丘の上には天幕が張られ、美しく着飾った令嬢達は、お目当ての異性にリボンを贈り、殺伐とした狩猟大会に花を添えていた。
そんな中、颯爽と馬に乗って現れたリダは令嬢達を一瞥し、プイと顔を背けた。
「ご覧になって、ベニーシェク公爵令嬢よ」
「まあ! デビュタント前のご令嬢が、殿方に混じって狩りなどと」
「宰相閣下がご参加をお許しになったそうよ」
リダは控えめな狩猟服に身を包み、飾り気のない帽子を被っていた。
勿論万が一に備えてポーチには胡椒入れが入っており、リーディアと入れ替わってしまった時用の備えは万全だ。
≪恥ずかしくて死にそうですわっ!≫
リーディアが頭の中で声を震わせ、リダは声を上げて笑った。
「あはは、最高っ!!」
心ない嘲笑の声に一切の物怖じも見せず、リダは意気揚々と馬を進め、周囲に聞こえないように小声で言った。
「そういじけなさんなって。ちゃんとサイドサドルは守ってやってるだろ?」
≪当然ですわ! 跨ったりなんかしようものならお嫁に行けませんものっ!!≫
そんなリダの様子をアレシュは一瞥し、不快そうに眉を寄せた。
宰相に至っては視線すら向けようとしない。
「……変だな。あいつ、王太子なのになんであんなところに」
前方に見えるアレシュの背を見つめ、呟くようにリダは言った。
国王の傍らには宰相とミハルが馬を並べており、そこから随分と離れた位置にアレシュは配置されているのだ。
≪ねぇ、リダ。わたくし達も随分と後ろだけれど、大丈夫なのかしら? ちゃんとアレシュ様をお救いできるのよね?≫
「ああ、一応王族と同じグループに配属されているあたり、優遇されている方だろ。お前案内をちゃんと聞いてねぇのかよ」
≪だって、狩猟用の武器だとか恐ろしくて直視できないのですもの!≫
ファンファーレが鳴り響き、森に緊張感をもたらした。参加者達の士気が一気に高まり、王室主催の狩猟大会の開幕の辞を宰相が述べた。
国王がミハルに何やら話しかけ、談笑している様子が見て取れる。ピンと張ったアレシュの背を見つめながら、リダは顔を曇らせた。
——王太子って、ああいう扱いされるのは普通なのか? あれじゃ、まるでミハルが王太子みたいじゃないか。
気を散らしていたせいで、角笛の音に驚き出遅れた。
リダは慌てて馬を走らせ、最後尾に追いついた。そして、木々の生い茂る森の中へと身を投じると共に、巧みに馬を操り一行から離れた。
≪リダ!? どこへ行くの!?≫
「王様の後ろばかりをついていっても、事故の原因は見えねぇだろ?」
≪え!?≫
「獲物が逃げる先を見るんだ。あたしに任せとけって!」
≪そんな! すぐに戻って頂戴っ!! アレシュ様を助ける約束でしょう!?≫
「だから、必ずやるって!」
リダはぐんぐん馬の速度を上げ、護衛を巻きつつ森の奥へと突き進んで行った。
リーディアは先ほどのアレシュの寂しげな背中が脳裏から離れなかった。
≪アレシュ様のお背中は、今も昔も、どこか傷ついて孤独に見えますわ……。初めてお会いした時も……≫
◇◇◇◇
たった独り。リーディアは王城の庭にある椅子にポツンと腰かけて、ふわふわと舞う蝶を眺めていた。
父に呼び出され、久しぶりの親子の対面に期待し、十二歳の少女は心許ない気持ちを押し殺しながら、馬車に揺られて王城にまで訪れたというのに……。
——きっと、お父様はお忙しいのだわ。きちんとお行儀よく待っていなければ。
誰の出迎えもなく、暫く王城正門で途方に暮れていたリーディアを、見かねた使用人が庭へと案内してくれたのだ。
いくら宰相の姓であるベニーシェクを名乗ろうとも、出迎えや許可証を持たない者を客室に案内するわけにはいかなかったのだ。
ふわふわと舞う蝶を眺めていたリーディアの視線の先に、銀髪の少年が立っていた。彼は蝶や花に一切の目もくれずに義務的に歩いていた。
——わたくしと同じくらいの子かしら?
興味を惹かれて、リーディアは椅子から降りると、少年の後を追った。薔薇の垣根で曲がり、姿が見えなくなってしまうことに焦りが生じ、慌てて駆けたリーディアは躓いて転んでしまった。
じりじりと膝が痛む。慌てて起き上がり、ドレスが汚れていることに青ざめた。
——こんな姿では、お父様にお会いできないわ!
「……っく!」
しくしくと泣きだすリーディアの周りをふわふわと蝶が舞う。晴れ渡る空や燦々と降り注ぐ太陽の光の下で、まるで全ての幸せを失ってしまったかのように絶望に打ちひしがれた。
「どうして泣いているの?」
ふと気づくと、目の前に先ほど歩いていた銀髪の少年がしゃがんでおり、リーディアをサファイアブルーの瞳で覗き込んでいた。
「……ドレスを、汚してしまったの!」
グスグスと泣きじゃくるリーディアの肘や手に、血が滲んでいる。
「ドレスなんかより、怪我をしているみたいだけれど」
「怪我なんか、どうだっていいわ! お父様は、こんなわたくしにはお会いになってくださらないに決まっていますもの!」
少年は溜息をつくと、すっとハンカチを差し出した。
「そんな風に泣いていたら、それこそみっともないと言われるんじゃないかな。顔を拭いたら?」
リーディアは差し出されたハンカチをじっと見つめた後、その視線を少年へと向けた。
「何? 受け取らない気?」
「……そうではなくて。わたくし、ハンカチなら持っていてよ?」
彼は不愉快そうに眉を寄せた。
「人の厚意は素直に受け取っておくものだよ。僕に恥をかかせる気?」
リーディアは慌ててハンカチを受け取ると、「ありがとう」とお礼を言った。
ほんのりとベルガモットの香りが鼻をくすぐる。
じんわりと、仄かに心が温まった様な気がした。
「ハンカチは洗ってお返ししますわ」
「リーディア」
掛けられた声に、リーディアはヒヤリとして慌てて立ち上がった。ドレスの埃をパタパタと払い落とし、必死に取り繕う様に膝を折り、頭を下げた。
「お父様、申し訳ございません。わたくしは……」
「なるほど、そなたがリーディア嬢か」
宰相である父の隣に豪奢な上着を羽織った銀髪の男性が居り、声を掛けた。
「はい。リーディア・ベニーシェクですわ」
膝の痛みに耐えながら、リーディアは頭を下げたまま挨拶をした。
「ダヴィットよ、なかなかに可愛らしい娘ではないか」
「勿体ないお言葉にございます」
「リーディア嬢、そのように改まらずとも良い」
銀髪の少年は呆然としながらその一部始終を目にしており、ハッとして深く頭を下げた。
「陛下、お健やかにお過ごしのご様子、何よりに存じます」
——陛下、ですって……?
瞳を見開いて驚くリーディアの前で、国王が宰相に何やら耳打ちした。
宰相が事務的に言葉を述べる。
「アレシュ殿下。陛下は『淑女の前で見苦しい顔をするな』と仰せでございます」
アレシュが僅かに拳を握り締めた。
国王がリーディアに笑みを向け、頷いた。
「そなたが王太子妃となる時を心待ちにしておるぞ」
——王太子妃……? わたくしが……? お父様はその為にわたくしをお呼びくださったの?
リーディアの胸がドキドキと鼓動した。
——そうしたら、わたくしはもう『寂しく』なんかなくなりますわ。だって、ここにはお父様もいらっしゃるのですもの。
だが、隣で深く頭を下げたまま、必死に震える身体を抑え込むアレシュの姿を見て、リーディアは眉を寄せた。
「リーディア。その方が第一王子アレシュ・ジェハーク殿下。お前の婚約者です」
父の言葉に、リーディアはアレシュを見つめた後、再び父へと視線を戻し、そして国王を見つめた。
うまく言葉にはできない違和感を覚え、リーディアは小首を傾げた。
「……なんだか、おかしいわ」
その言葉に国王が肩を揺らして笑い、宰相は何も言わずに瞳を伏せた。
「突然の婚約に困惑するのは無理もない。何、そのうち慣れるだろう。そなたには期待しておるぞ」
そう言い残すと、すっと歩を進め、アレシュは頭を下げたまま数歩下がり道を開けた。
リーディアも習って頭を下げ、国王と宰相の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
アレシュがすっと頭を上げ、小さくため息をついた後無言で立ち去ろうとしたので、リーディアが慌てて呼び止めた。
「アレシュ様、ハンカチは必ずお返ししに……」
「いらない」
アレシュはピシャリと言い放つと、リーディアを睨みつけた。
「それと、気安く名前で呼ばないでくれ。虫唾が走る」
そう言い残すと、ほんのりとベルガモットの香りを残し立ち去った。
擦り傷が、ひりひりと痛んだ。




