第五十九話 期待しない約束
エヴェリーナがアドルフ・ジェハークと婚儀を挙げてから、一年半の月日が経っていた。
魔塔主の部屋で淡々と仕事をこなしていたダヴィットの元に、知らせが届いた。
『エヴェリーナ・ジェハークが懐妊した』と。
いつものように魔塔主の部屋に入り浸っていたテオドルは、その知らせをダヴィットと共に聞いて嬉しそうに微笑んだ。
「あいつの美しさには女に興味のねぇアドルフも落ちたってことか! やるじゃねぇか!」
「違うと思いますよ」
サラリと言ったダヴィットに、テオドルは小首を傾げた。
「……なんだよ、おめでたい報告だってのに、水を差すんじゃねぇよ」
ダヴィットはそれ以上は口を閉ざし、書類を捲った。
コホン、とテオドルが咳払いをする。
「ロザーリア、お前、少しは遠慮したらどうだ?」
テオドルに声を掛けられて、ダヴィットのすぐ隣からひょっこりと顔を出すと、彼女は頬を膨らませた。
「兄様こそ、わたくし達の邪魔をせずにさっさと仕事に戻ってくださいな!」
ロザーリアはダヴィットと結婚して以来、片時も離れず、べったりと纏わりついているのだ。だが、ダヴィットは平然として気にする様子もなく、今まで通り業務をこなしている。
「……俺が言うのもなんだが、ダヴィット、それで良いのか?」
「いいですよ」
「いいのかよ!?」
ロザーリアは書類に目を通すダヴィットの背後から腕を回し、幸せそうに抱きついている。
ダヴィットがさらりと言った。
「先にお伝えしておきます。後から話すと、テオドルは怒って面倒ですから」
「そいつは話の内容によると思うんだがな……」
「エヴェリーナの子が生まれ次第、魔塔主の座を退きます」
「は!?」
裏返った声を発したテオドルをロザーリアは不思議そうに見つめた。
「あら、お兄様ご存知無かったんですの? エヴェリーナお姉様が出した条件通りに、ダヴィット様は魔塔主の椅子をお譲りになると仰っているのよ?」
そして、嬉しそうにロザーリアはダヴィットの頬にキスをした。
「わたくしとダヴィット様は、ベニーシェク公爵家のタウンハウスに移り住むんですの! 今から待ち遠しくて仕方がありませんわ!」
テオドルが唖然として、ブルートパーズの瞳を見開いた。
暫く言葉が出て来ずに、何度か口をパクつかせた。
「いいですよ」
「まだ何も言ってねぇよ!?」
テオドルはそう喚くと、首を左右に振った。
「本気でエヴェリーナに椅子を明け渡す気か!?」
「もう! お兄様、わたくし達の夫婦生活の邪魔をなさらないでくださいな。早くお兄様も身を固めたら宜しいですのに!」
「いや、それはそれだが……!」
「本気ですよ」
ダヴィットは書類に押印すると、パラリと捲った。
先ほどからどれほどにロザーリアに纏わりつかれようとも、一度も手を休めることなく仕事をこなしている。
「エヴェリーナが戻れば、ウィシュテンバーグ王国の観測者が居なくなります。ですので、私が代わりに行くというわけです」
「けど……」
「私の兄が病で亡くなりました。家督を継がなければなりませんので、丁度良いのです」
ダヴィットはそう言いながら書類に署名を書き込んだ。
自分の事だというのに、いつもどこか他人事のようなダヴィットを見つめて、テオドルは眉を寄せた。
——何故だ? こいつは、何故いつも……。
そう考えて、テオドルはダヴィットが常に重要な回答にも即答していた事を思い出した。
——何故、即答できる……? ひょっとして……。
ゾクリ、と背筋が凍りついた。
指先が震え、瞳に涙がにじむ。
「どうして泣くのですか?」
無表情のまま小首を傾げるダヴィットに、テオドルは跪いた。
ポタリ、ポタリと、彼の涙が床へと零れ落ちる。
「……お前は、『全部知っている』んだな」
涙を零すテオドルの姿に、ロザーリアが小さく「お兄様?」と呟いてダヴィットから離れると、心配そうにハンカチを差し出した。
「どうなさったのです? 何故そんなに悲しそうなのかしら? わたくし、ちっともわからなくてよ?」
テオドルはロザーリアの差し出すハンカチを受け取らず、手の甲で目元を拭った。
「ダヴィット。お前はここに居ながら、ここに居ない別の場所から世界を見下ろしていたんだな」
ぐっと、テオドルは拳を握り締めた。
「たった一人で世界の全てを把握していた。誰にも言うこともできず、一体どれほどの孤独に耐えていたんだ! それなのに俺は、何も知らずに親友を名乗って! なんて情けねぇんだ!!」
ダヴィットは書類を書く手を止めて、すっとラピスラズリの瞳をテオドルへと向けた。
テオドルが涙を零しながら言葉を続ける。
「イルジナが去る事も、エヴァの運命も、ローザの事も全て把握しているのか!?」
「……そうですよ」
ダヴィットは無表情のまま淡々と言葉を放った。
「私が魔塔に身を置くということは、つまりはそういうことです。『世界を観測・記録・調整』する魔道器と、私の魔力が共鳴し、理に刻まれた重大な因果の情報が、強制的に脳内に入り込んでしまいますから」
そして、「ですから……」と、言葉を続けた。
「ここを出た暁には、二度と戻りたくはありません」
それを聞き、テオドルは力強く頷いた。
「分かった。お前が魔塔に戻るような事になっちまったら、俺がなんとかする。この牢獄から、お前を助ける為に!!」
ダヴィットはさらりと言った。
「期待しません」
「お前! そこはもっと熱く『待ってるぜ!』とか、『約束だぞ!?』とか、言えねぇのかよ!?」
テオドルが喚き、ダヴィットは完全に無視して書類をパラリと捲った。
◇◇◇◇
「わたくしの祈る場所は、アレシュ様、貴方の隣ですわ」
リーディアの宣言に、広間内は喧騒に包まれた。
アレシュは眉を寄せ、首を左右に振った。
「……何を、言っているんだ……。死ぬかもしれないんだぞ!?」
「だからこそ、お一人になど絶対にさせませんわ」
周囲が声を上げた。
リーディアを聖女と称える声と、動揺とが入り混じる。
耳を覆いたくなるほどの混乱が起きているというのに、リヒャルトはそれを制する事なくサファイアブルーの瞳でリーディアを見つめていた。
≪大騒ぎだなぁ。ちょっと行って来るだけだってのに。収拾つくのか? これ……≫
アレシュが眉を寄せ、リーディアの手を握った。
「君を危険にさらすことを易々と許すほど、僕を無能だと思っているのか!? そんなに僕が信じられないのか!?」
「アレシュ様……」
「兄上!!」
席を立ち、壇上でミハルが声を放った。
その切実な気迫は、いつもの控え目な第二王子の様子とは明らかに異なり、騒然としていた広間内が僅かなざわめきを残しつつも静まった。
「……今の私には、守るべき『魂』がありません。ならば、この身を戦火に投げ出し、盾となって聖女を守ることこそが、唯一の救いとなるはずです」
≪ミハル……!≫
「私も共に戦います。兄上の剣を、そして聖女の祈りを、何者にも汚させはしないと誓います」
ミハルの隣で、アドルフが卒倒しそうな程に青ざめている。
「……国王陛下、私の勝手をどうかお許しください。我が国の誇りと、聖女の祈りを守り抜く事は、ジェハークの血を引く者の義務なのですから」
広間内が再び喧騒に包まれた。
だが、先ほどまでのどよめきや迷いとは明らかに異なっていた。
「ジェハークの青き光に勝利を!!」
「アメジストの守護に栄光あれ!!」
「不浄なるトロッケンを、聖女の祈りで浄化せよ!! 枢機卿猊下のお導きに万歳!!」
熱狂的に称える声で広間内が埋め尽くされ、アレシュが唇を噛みしめた。
リーディアが恐る恐る壇上のリヒャルトへと視線を向ける。
彼は、アレシュと同様に唇を噛みしめて、悲しげにリーディアを見つめていた。
——リヒャルト様……。
突如——、扉が開け放たれて、広間の中に甲高い耳鳴りのような音が鳴り響いた。
アレシュは咄嗟にリーディアを庇うように身を乗り出し、剣の柄に手を添えた。
黄金色の髪を無造作に束ね、かつての軽薄さを残しながらも、目元に年相応の皺を刻んだ男がたった一人、灰色のローブを揺らしながら広間の中へと入って来た。
「なんだなんだ? 魔塔抜きでお祭り騒ぎとは、権力の偏りの匂いがぷんぷんしやがるじゃねぇか」
男はそう言うと面倒そうに肩を竦め、アドルフをブルートパーズの瞳でじっと見据えた。
「どうも、お初にお目にかかるな。俺はテオドル・ツァレトカ。魔塔より派遣された観測者さ。お見知りおきを」
言葉とは裏腹にふてぶてしい態度を取る男を、リーディアはポカンとして見つめた。
≪誰だ? こいつ……≫
おそらく、広間にいた誰もがリダと同じことを思っただろう。
一斉に向けられた視線を受けて、テオドルは居心地が悪そうに苦笑いを浮かべていた。




