第五十三話 自由は誰のもの
——あやつに引導を渡させてなるものか。
アドルフは出征前夜の晩餐会に参加する為の衣裳を、従者の手で念入りに準備させながら考えた。
深い赤みを帯びた紫色の厚手の絹に、金糸で細かに刺繍が施されているダブレットを着込んだ。
そして、深い紫色のマントを肩から掛ける。それは毛皮に縁どられた国王の威厳を表す重厚なものだった。
——自ら親征を宣言した方が、余の威厳も保たれよう。リヒャルトなんぞには屈さぬ。
余は、自らの実力でこの地位に居るのだ。武の才は今も健在なのだからな、トロッケンなんぞに後れは取らぬ。
カツリと靴音を立てて廊下へと一歩出ると、近衛騎士達が抜剣し、ずらりと並んだ。
——どれほどにあ奴が狡猾であろうとも、余が負けるはずなどないということを、証明してみせようぞ!
「父上のそのお姿を見ていると、ジェハークの血の尊さを改めて感じます」
漆黒の髪を艶やかな紫色の絹のリボンで纏め、ミハルが温厚そうな笑みを浮かべて頭を垂れた。
深い夜空のような紫色のベルベット地のダブレットは、胸元に銀糸の刺繍が豪華に施されており、長身でスラリとした体形を包んでいる。
アドルフから授かったアメジストのブローチが光り輝き、肩に掛けられた紫色のマントは豊かな折り目の陰影が美しい。
アドルフの一歩後ろをついて歩く様は、第二王子であるはずの彼を、次期国王であると示唆するかのようだった。
「ミハル、其方こそがジェハークの未来そのものだ。リヒャルトの牽制に負けるでないぞ、良いな?」
「無論でございます、陛下。あのような緋色ではなく、父上の放つ『真の王の光』を皆も待ち望んでいる事でしょう」
笑みを浮かべていながらも、ミハルの瞳の奥はひどく暗かった。
侍従達が平伏す廊下を、二人は堂々と歩き会場へと向かった。
◇◇
王城へと向かう馬車に揺られながら、リーディアは左手の中指の指輪を見つめていた。
深い紺色のサファイアを見つめる度、アレシュの瞳の色を彷彿させてドキリとする。
「今日の装いにはあまり似合いませんね」
指輪を見つめるリーディアに、リヒャルトがため息交じりに言った。言葉とは裏腹に、心なしかどこか嬉しそうに見える。
「でも、リヒャルト様が今日はわたくしが好きな装いをしても良いと、お許しくださったのに……」
つんと片眉を吊り上げて、リヒャルトは言った。
「それに、そのアメジストのネックレスもです」
リーディアの首には、アメジストが連結されたネックレスが巻かれており、トップにはダイヤモンドに囲まれたひと際大きなアメジストが揺れていた。
「これは、ミハル様からの贈り物ですもの。今日、身につけてくるようにと仰せでしたわ」
そして、リーディアは僅かに寂しげにため息を吐いた。
「……リダはいなくなってしまいましたけれど、きっと、リダがいたのならこのネックレスを大喜びでつけていたと思いますの。だからどうか、お許しになって」
ニコリとリヒャルトが微笑んだ。
「咎めはしませんよ。そういう約束でしたから。ですが、そのドレスは良く似合っていますよ」
リーディアの装いは、リヒャルトがこの日の為に用意してくれたドレスだった。社交界デビューを果たせなかったリーディアにとって、初めて袖を通した華やかで大人っぽいデザインに、高鳴る胸の鼓動が抑えきれない。
「わたくし、まさかこのような素敵なドレスを着る事ができるとは思っておりませんでしたわ。リヒャルト様、本当に感謝いたします」
リーディアの言葉に、リヒャルトは満足げに微笑んだ。
「その美しさを存分に見せつけておやりなさい。とはいえ、主の代弁者は御身に傷を刻まぬことが求められます。その為、ピアスは赦されません。耳が少し寂しいのは我慢してください」
「十分ですわ! これ以上を望んだりなどしませんわ!」
慌てて首を左右に振るリーディアを見て、リヒャルトは困ったように肩を竦めた。
「皆がリーディアに愛情を与えたがりますね。貴女は主の花嫁であるというのに」
そう言って、馬車の外へと視線を向け、枢機卿の姿を一目見ようと集まった群衆達を一瞥した。
寂しげな様子のリヒャルトに、リーディアはおずおずと声を掛けた。
「あの、リヒャルト様。こちらを……」
恥ずかしそうに小袋をリヒャルトへと差し出して、リーディアは頬を染めた。
「いつお渡ししようかと迷っているうちに、今日になってしまいましたの」
「……私に、ですか?」
「あの! 大したものではありませんの! あまり期待なさらないでくださいな!」
リヒャルトは小袋を受け取ると、「開けてもよいのですか?」とサファイアブルーの瞳をリーディアに向けた。恥ずかしそうに頷く彼女の様子に僅かに微笑み、そっと袋を開いた。
中に入っていたのは上等なシルク地のハンカチで、淡い空色をしていた。隅に『三本の百合と鳥の翼』が丁寧に刺繍されている。
「あまり、上手ではないのでお恥ずかしいのですが、わたくしが心を込めて刺しましたの……」
リヒャルトの紋章にもある百合を、リーディアは敢えて三本にし、『尊敬』を込めた。翼の刺繍と生地の空色には『自由』を込めた。
ハンカチを見つめたまま、言葉を発しないリヒャルトに、リーディアは不安になった。
「あの……お気に召しませんでしたかしら……」
「いえ、そうでは……」
リヒャルトは右手の手袋を外した。そして、刺繍をそっと親指で撫でて、瞳を細めた。
「このような素晴らしい贈り物をいただいたのは初めてで、言葉を失ってしまいました……貴女の優しさ、美しさ、繊細さの全てが込められているようです。ありがとう、リーディア。大切にします」
「わたくしが、例えリヒャルト様のお側を離れたのだとしても。この敬愛する想いは変わりませんわ」
リーディアの言葉に、リヒャルトはニコリと微笑んだ。
「どこかへ行くおつもりなのですか? 貴女の自由は、私が握っているのですよ。お忘れですか?」
リーディアはラピスラズリの瞳を細めて寂しげに微笑んだ。
「わたくしは、リヒャルト様の所有物ではございませんわ」
「ですが、一生を私の側で添い遂げると誓ったはずでは?」
「リヒャルト様は主のもの。わたくしもまた、主のものですわ」
リヒャルトは、すぅっと瞳を細めて、リーディアに冷たい視線を向けた。
「いいえ。貴女は私の所有物に過ぎません」
「わたくし一人では、リヒャルト様はご満足なさらないのでしょう? アレシュ様をお望みなのでしょう?」
長いため息をリヒャルトは吐き出した。リーディアから視線を外し、馬車の外の群衆へと視線を向ける。
「……貴女に、何の意志があるというのです?」
リーディアに視線を向けないまま、言葉を続けた。
「所詮は二人の王子をおびき寄せる為の餌に過ぎませんよ。貴女を聖女に迎え入れたのは、狩猟大会の断罪の場で、二人が貴女を庇ったからです」
そう言いながらも、リヒャルトはハンカチを大切そうに握っていた。
周囲に集まった群衆達は、皆しきりに『枢機卿猊下!』と熱狂的に叫んでいる。
恐らくリヒャルトにとっては、その群衆とリーディアとの価値は大して変わらないのだろうと、リーディアは寂しく思った。
——わたくし自身の事などどうでも良かったのですわね……。ただ、リヒャルト様はアレシュ様を……。
そう考えて、リーディアはリヒャルトが『二人の王子』と言った言葉に引っ掛かった。
左手の中指に指輪を見つめ、そっと首のネックレスに触れた。
——リヒャルト様が、わたくしにこの二つの着用をお許しになったのは、お二人からの贈り物だから……? お二人を支配下に置きたい、いえ、所有なさりたいというの……? ミハル様に罪人を罰するようにと促したのも、その為……?
それは、『普通の愛』では無いわ……。
「……歪んで、いらっしゃいますわね」
「この世に歪んでいないものなど有りはしませんよ、リーディア」
「リヒャルト様にとって、わたくしが無価値であろうとも。リヒャルト様を癒して差し上げたいというわたくしの想いは本当ですわ」
リヒャルトは失笑すると、サファイアブルーの瞳をリーディアへと向けた。
「自分を『無価値』だなどと卑下する必要はありませんよ、リーディア。餌にだって、十分価値があるのですから。腐っていては、おびき寄せることすらできません」
王城の門へと馬車が到着した。
従者が扉を開くと、リヒャルトは緋色の聖衣を優雅に揺らしながら降り立った。
歓声が上がる。
リーディアは耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、すっと馬車から降りた。
さらりと上質なワインレッドの生地が揺れる。白くか細い首筋にアメジストが輝き、開いた胸元を美しく飾り立てる。
リーディアの細い腰を際立たせ、上等な生地をふんだんに使ったスカートに華やかに彩られている。
背にあしらわれたボックスプリーツが、歩くリーディアの後ろを折れた翼の様に豪華に続いた。
あまりの美しさに、わっと声が上がった。
満足げに微笑むリヒャルトの後ろを、リーディアは静々と続いた。




