第五十二話 ただ、愛されたいだけ
窓から射し込む月光が、大理石の床に格子状の影を落とし、リーディアは純白の聖衣を月の光に染めながら祈りを捧げていた。
小礼拝堂を照らす燭台の火は落とされ、白い月明かりは穢れた思考を浄化する神聖な光の様に思えた。
日中に行った施しでの様子が脳裏に浮かびそうになり、首を左右に振った。
恐怖で身体が震える。
縋りつきたいリヒャルトの側には、アレシュが居る。
——主よ、わたくしをどうかお救いください……。
ぽっかりと空いてしまった心の空洞に痛みを感じる。
「……リダ…………」
その声は、悲痛な程に小さく一瞬のうちに消えてしまった。
リヒャルトに与えられた十字架を縋るように握りしめ、リーディアは瞳を伏せた。
すっと、純白の聖衣のポケットに片手を入れる。
「リヒャルト様のお側には、わたくしがいなければなりませんのに……」
ポツリと呟いたリーディアに、「へぇ? それは殊勝なことだね」と、背後から声を掛けられた。
振り向くとアレシュが扉の側に立っており、サファイアブルーの瞳を細めて乾いた笑いを発した。
「アレシュ様……」
「扉を叩いたんだけれど、聞こえていなかったみたいだね」
アレシュは緋色のカーペットを踏みながらリーディアの側へと赴いた。祭壇に飾られている小さな像を見つめて、溜息を吐く。
「そんなにリヒャルトの側がいいのか?」
サラリとしたアレシュの銀髪が月の光を反射する。
リーディアは頷くと、ぎゅっとポケットの中で手を握り締めた。
アレシュからベルガモットの香りがふわりと漂う。
「僕があいつの側に居る事が、そんなに気に入らないの?」
頷くリーディアに、アレシュは溜息を吐いた。
「……心配要らないよ。明日にはここを出て行くからね。明後日は審判の日だ。君も準備を怠らないように。それだけを伝えに来たんだ」
口早にそう言って、踵を返そうとしたアレシュのカソックの裾を、リーディアがきゅっと掴んだ。
「何……?」
不快そうに眉を寄せ、アレシュはリーディアに視線を向けた。
「……アレシュ様は、わたくしの側に居てくださると仰ったのに、リヒャルト様のお側にばかりいらっしゃるのですもの」
「は? 別に僕だって好きであいつの側に居るわけじゃない!」
ぐっとカソックを引き、アレシュは乱暴にリーディアの手を振り払った。
「リダを失った君が、一人きりであいつの相手をするには心細いだろうと思ったから、枢機卿館に身を置くことにしたってのに! 君ときたらヤキモチを妬くんだから、どうしようもないよ!」
「……ヤキモチ、ですの?」
不思議そうに小首を傾げたリーディアに、アレシュは苛立って睨みつけた。
「君、自覚ないの!? あいつの事が好きなんだろう!?」
「あいつとは、どなたですの?」
「リヒャルトだよ!!」
ほんのりと頬を染めて、リーディアは恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「敬慕しては……おりますわ」
「……ああそう!」
もじもじとポケットの中をまさぐっているリーディアに苛立ち、アレシュはプイと顔を背けた。
リーディアが、ホッとしたように言った。
「アレシュ様が王城にお帰りになられるのでしたら、わたくしは安心ですわ」
カチンときて、アレシュは腕を組み、苛立たしげに爪先で床を叩いた。
「……君、いちいち癪に障る事を言うの、止めてくれる!?」
「でも、本当に心配したんですもの」
「心配? 何がさ。僕が君からあいつを取るってこと? 冗談は止めてくれ、僕は……」
「だって、アレシュ様は、リヒャルト様のお側に居る事がお辛そうに見えますもの」
リーディアのその言葉に、アレシュは一瞬脳内が真っ白になった。
「……は?」
アレシュは悲しげに瞳を伏せるリーディアを唖然として見つめた。
「君……え……?」
「お辛そうなアレシュ様を見ているのは、わたくし、嫌ですもの」
リーディアの言う言葉の意図が理解できず、アレシュは額に手を当てた。
「ちょっと待って。よく分からない。君は僕がリヒャルトの側に居るのが嫌なんだよね?」
「ええ。そうですわ!」
「でも、それは……僕が辛そうだからって事かい?」
「そうですわ!」
キッパリと言い切るリーディアに、アレシュの脳内は混乱した。
「いや、待って。理解できない! どうしてそうなるんだ!? 君は、リヒャルトに縋りたいんじゃないのか!?」
リーディアは顔を真っ赤にすると、潤んだラピスラズリの瞳をアレシュに向けた。
「それは……アレシュ様には縋れませんもの。醜く怯えたわたくしを、アレシュ様のお目に触れさせたくはありませんわ。これ以上アレシュ様に嫌われてしまったら、わたくし耐えられませんもの!」
「僕に、嫌われる……?」
ふらり、とよろけて、アレシュは首を左右に振った。
「いや、だって君……僕が枢機卿館から出してやろうとした時、それを拒絶してあいつを選んだんだよね!?」
「わたくしが、アレシュ様の婚約者で居ることをお気に召さなかったのですわよね? だからわたくしは、聖女となればアレシュ様がお辛くないのかと思いましたの。仰っていましたでしょう? わたくしの気持ちを『虫唾が走る』と。でも、わたくしも独りでいる事は……」
瞳に涙を溜めて、リーディアは眉を寄せた。
「誰かに縋らなければ、寂しくて耐えられなくて、心細くて堪らなかったんですの! ああ、アレシュ様。わたくしの弱さに幻滅されたかしら……?」
アレシュは「いや、そうじゃないけれど……」と言いながら、サファイアブルーの瞳を泳がせた。
「でも、君はその呪いの言葉が書かれたペンダントを貰って、随分嬉しそうにしていたよね!?」
「わたくしの居場所をいただいたようなものですもの。嬉しくないはずがあって?」
リーディアはポケットの中から、大切そうにハンカチを取り出した。『半月に絡みつく棘』が刺繍されたそれは、昔アレシュがリーディアに渡したハンカチだった。
「わたくしが心からお慕いしているのは、アレシュ様だけですわ。リダからは『依存』と言われましたけれど、それでも……。わたくしのこの想いは、止めようがないんですの……」
リーディアは祭壇に掲げられている像へと視線を向けた。
彼女の絹糸の様な金色の髪が差し込む月明かりに照らされ、純白の聖衣が神々しく輝く。
「けれど……愛情に飢えた子供では、もう居られないわ」
震える手を合わせて、リーディアは祈りを捧げた。
「明後日は審判の日、ですのね……。わたくしは、一体どうすれば良いのかしら……」
ポロポロと涙を零し、リーディアは咽び泣いた。
「わたくしは、当然アレシュ様を選べませんわ! でも、ミハル様を選べるはずもないわ! 誰かを死地へと送り出す事など、わたくしにできるはずがありませんもの!」
声が震える。
「わたくしは……誰にも、傷ついたり、辛い思いをして欲しくなどないのですもの……!」
小刻みに肩を震わせ、痛々しい程にリーディアは泣いた。
「リヒャルト様にも、傷ついて欲しくなどありませんわ。あの方が抱える深い傷を、わたくしでは埋める事ができませんもの」
アレシュは隠し切れない戸惑いをその顔に浮かべ、リーディアに触れようとした手を止めた。
リーディアが、肩を震わせながら言った。
「どうして、皆破滅を好むのかしら……! ただ、愛されたいだけですのに……! 自分の居場所が、欲しいだけですのに!!」
アレシュは、困ったように息を吐き、リーディアが見つめる祭壇の像へ視線を向けた。
どんなに愛しく思っていても、伝えなければ相手には何も残らない。つい先ほど知ったばかりのその事実が、胸の奥へ重く沈んだ。
「……正直驚いた。間違いだらけの中で、君だけは正しかっただなんて。一番危ういと思っていたのに」
ほんの少し、指先だけをリーディアの肩に触れた。
振り返るリーディアのラピスラズリの瞳を、アレシュは真っ直ぐにサファイアブルーの瞳で見つめた。
「……僕を選べ、リーディア。トロッケンの戦場で死ぬようなヘマはしない」
「そんなこと、できませんわ! だって、わたくしは……」
取り乱すリーディアの前にアレシュがぶっきらぼうに指輪を差し出した。
そして、照れたように舌打ちすると、跪いて、咳払いをした。
「渡せずじまいだったけれど、五年前、贈呈の儀で渡すはずだった指輪だよ。だから、これは君のものだ。実のところ、何度も捨てようとして結局捨てられなかった」
口に両手を当て、リーディアは首を左右に振った。
「ですが、アレシュ様……」
「これだけ長く待ったんだ。僕が戦場から帰って来るまでなんて、君にとって大したことじゃないだろう? だから、待っていてくれ」
差し出された指輪の宝石が、深い藍色の光を放った。
月明かりの差し込む小礼拝堂は静寂を守り、頷いたリーディアが指輪へ手を伸ばす、微かな衣擦れだけが響いた。




