第五十一話 ただ、生まれただけ
枢機卿館にあるリヒャルトの私室で、アレシュは窓の閂を外して風を入れると、持って来た新しい蝋燭へ交換し始めた。短くなった蝋燭の火を消して鉄製の箱に入れ、新しい蝋燭を燭台へ据えて火を灯す。
「蝋燭が多すぎやしないか、この部屋……」
独り言を愚痴ると、浴室からリヒャルトの笑い声が響いた。
舌打ちをし、作業を再開する。
「あんた、枢機卿のくせに一人で入浴するのか?」
パシャリ、と湯が揺れる音が響く。
「この私室へ人を入れるのは、私が不在の時だけです」
——普通、逆じゃないのか?
アレシュはそう思いながら、意外な程にシンプルな室内を見渡した。
祭壇もなく、窓辺に置かれている執筆机は立派ではあるものの無駄のない作りで、整然と整頓された筆記具に、書類の一枚も置かれていない。
まるで、いつ誰に見られても問題ないと言わんばかりの室内だ。見られて困るものがあるとすれば、部屋の主自身だろう。
つまりは、着替えもリヒャルトは一人で行っていたということになるのだから。
「……身体にみっともない痣でもあるの?」
悪態をついたアレシュに、リヒャルトが「さて……?」と言って僅かに笑う声が聞こえた。
黙々と作業を続け、室内の蝋燭を替え終わると、アレシュはハッとした。
——最悪だ、浴室が残っているじゃないか。
気づかなかったふりをしてそのまま帰ってしまおうかと考えていると、浴室から自分を呼ぶ声が聞こえたので、うんざりとしてため息を吐いた。
「浴室の蝋燭が消えかかっていますよ」
「あんたが出たら交換してやるよ! 自分が居る時は立ち入りを禁じているんだろう!? だったら、僕だって例外じゃないはずだ!」
「汝には特別に許可しましょう」
「許可しなくていいって言っているんだっ!!」
——最悪だっ!! 蝋燭箱ごと投げ込んでやろうか!!
「仕方がありませんね。ではリーディアを呼んでください」
「はあ!?」
「彼女もまた、特別に許可した者です」
アレシュはゾッとして青ざめた。
——まさか、リーディアはリヒャルトの入浴の介助をさせられていたのか……? いや、ひょっとして、彼女は……。
「アレシュ、邪な想像はいけませんよ」
リヒャルトに釘を刺され、アレシュは少し恥ずかしくなって咳払いをした。
——いや、あいつの真意は分からないけれど、とにかく浴室の蝋燭を替え終わらないうち、僕はこの部屋から解放されそうにないってわけか。
ため息をつき、アレシュは重い足取りで浴室へと向かった。
大理石造りの浴室は、簡素ながらも豪奢で、揺らめく蝋燭の灯で照らされており、なるほど確かにリヒャルトの言う通り、何本かの蝋燭は短くなり灯火が消えかかっていた。
真鍮製のハンギングアームに緋色のローブが掛けられており、木製のスタンドには乾いた布が掛けられていた。
ローズマリーの鼻に抜けるような香りに混じり、重苦しく甘いミルラの香りが充満している。
リヒャルトは背を向けて浴槽に浸かっており、自分へと向ける彼の視線を最も苦手とするアレシュは、少しホッとして蝋燭の交換を始めた。
目に刺さる緋色の聖衣を脱いでいる為か、いつもの『枢機卿』という絶対的権力を誇示するような圧は一切そぎ落とされ、ただ疲れた一人の男の様に見えた。
作業を続けながら、アレシュが言った。
「……僕が陛下から『征討任命勅書』を受け取って、七日が過ぎた。もう間もなく出征の準備が終わるはずだけれど」
小さく笑い、リヒャルトが静かに答えた。
「ええ、聞いていますよ。明後日には前夜祭が行われます。明日、王城に戻りなさい。審判の日に備えて準備が必要でしょう?」
——分かっていたならもっと早くに教えろよ。意地が悪い。
苛立ちながらアレシュは睨みつけるようにリヒャルトの背へと視線を向けた。
「……リーディアには伝えたのか?」
「いいえ」
リヒャルトは僅かに振り返り、サファイアブルーの瞳をアレシュに向けた。
「彼女には殿下からお伝えください。ここを去り、彼女を一人置き去りにする別れの挨拶もあるでしょうから」
その視線に怯み、アレシュは吐き捨てる様に言った。
「随分と冷たいじゃないか。『Ego te possideo(私は汝を所有する)』なんて刻み付けられた十字架を贈って、可愛がっていたんじゃないのか?」
リヒャルトが笑うと、パチャリと湯が揺れた。
——なんでそこで黙るんだよ……。
アレシュは苛立ったものの、黙々と作業を続け、脱衣場の蝋燭を数本交換し終えて、浴槽の近くにある蝋燭へと手を伸ばした。
リヒャルトの右肩に痛々しいほど深く焼きつけられた、百合と十字架に鋭い茨が幾重にも絡みついた紋章に目を留めて、眉を寄せる。
——悪趣味だな。成程、これのせいで自分が居る時は私室内に人を寄せ付けないのか。聖職者としては致命的だからね。けれど妙だ。自分の身体を傷つけたがる様な男には思えないけれど……。
「何を見ているのです?」
そう言って、リヒャルトは左手でゆっくりと右肩の紋章をなぞった。
その左手の親指の付け根にも同じ焼き印が刻まれており、アレシュは小さく舌打ちをした。
「そんなにその紋章が好きなの? 聖職者としては禁忌だろう? 人目を避けなきゃいけなくなるってのに、理解ができない」
「……どちらも、アドルフ兄上に刻まれた『Treason(反逆)』を表す『T』の焼き印を覆い隠すため、自ら重ねて刻んだものです」
アレシュは絶句し、次の言葉を発するのに時間を要した。
リヒャルトとアドルフは、アレシュの目からは信頼し合う兄弟に見えていた。王の私室でワインを飲み交わす事も多く、隣接する王族用の礼拝堂にもリヒャルトは足繁く通っているように見受けられた。
——母上絡みが原因か? だとしたら、陛下が僕を嫌うのも理解できるけれど……。
恐る恐る、言葉を発した。
「……何をしたのさ?」
リヒャルトは寂しげに、静かに答えた。
「何も。ただ、生まれただけです」
ズキリ、とアレシュの胸が激しく痛んだ。
「いったいいつ刻まれた?」
「私が十歳の頃でしょうか。五歳上の兄上は常に身体を鍛え、屈強な肉体を持っていました。力で敵う相手ではなかったのです」
「一体どうして!!」
「ですから、私はただ、生まれただけですよ」
アレシュはズキズキと胸が痛んだ。
——何故、こうも痛みを感じるのだろう。何もかも完璧に見えるこの男が、いくつもの深い傷の上に今の姿を築いている。その事実を、僕は認めたくないのだろうか……。
僕もこの男も、人を信じる事ができず、純粋な愛情を向けられる事を恐れるだけの似た者同士なのだと、認めたくないのだろうか……。
「私を教会という檻に押し込めたのも、アドルフ兄上です」
唇を噛みしめるアレシュに構わず、リヒャルトは話し続けた。
「私は、イルジナを愛していた。……ミハルは私の子です」
「……止せ! 聞きたくない!!」
「エヴェリーナのことは、愛してなどいませんでした。兄上の命令で、私は自らを差し出したのです」
「止めろ……!!」
「私は、兄上の道具に過ぎなかったのです」
アレシュの頬に、つっと涙が伝った。
揺らめく蝋燭の明かりが、滲むように幾重にもぼやける。
「……何故、僕にそんな話を聞かせた? 僕も望まれない子だからか? 僕だって、『生まれただけ』じゃないか」
リヒャルトが静かに笑った。
「絶望から生まれた貴方という存在を、この上なく愛しく思うがゆえの、私の懺悔です」
——この男は、何もかも口を閉ざすしかなかったのか。
愛するのはただ、主のみとされ、子を想う親心すら、語ることを許されずに。
僕に対するリヒャルトの行動はつまり……。
「……僕は、本当に貴方に愛されていたのか?」
その問いに、リヒャルトは何も答えずに、ただゆっくりと瞳を閉じた。




