第五十話 主の所有物
鏡台の前に座り、リーディアは俯いたまま拳を握り締めた。
この状態のまま、もう随分と時間が経った気がする。
——顔を上げても、きっとリダは居ないわ……。
心の中にぽっかりと穴が空いたように感じ、そこに彼女がいないことは解っていた。
——それでも、もし……。
そんな風に考えて、顔を上げられずにいた。
廊下を歩く足音がし、リーディアはハッとして、つい顔を上げた。
鏡には——自分の困惑した顔が映っていた。
眉が下がり、視界がぼやける。
——リダ……! 貴女に会いたいわ!! もう、二度と会うことができないの!?
いつものように軽口を叩いてわたくしを笑わせて頂戴! わたくしの身体を使って、少しくらい、お転婆が過ぎても構わないわ! 貴女の強さを、わたくしに教えて!!
ポタポタと零れる涙を手の甲で拭うと、シャラリと、鈴を転がすような音が聞こえた。
リヒャルトがリーディアへと贈った十字架のペンダント。『Ego te possideo(私は汝を所有する)』と刻まれた文字を見つめて、リーディアは唇を噛みしめた。
——『所有』とは、何かしら……。わたくしは、リヒャルト様の持ち物なのかしら……?
リヒャルトの圧倒的な存在。彼を崇拝する群衆。
リーディアもまた、憧憬の眼差しで彼を見つめる群衆の一人に過ぎない。聖女として彼の傍らに立とうとも、皆の視線は自分ではなくリヒャルトへ向けられるのだから。
——彼はわたくしという『所有物』に、愛情を向けてくださるのかしら……? わたくしが、どれほどに愛情を乞おうとも、彼にとってわたくしは……。
ゾッとして、リーディアは思わず両肩を抱いた。
アレシュが指輪礼をした時の事を思い浮かべる。
リヒャルトはあの時、ずっと欲しくて堪らなかったものを手に入れたような恍惚とした表情を浮かべていた。
——リヒャルト様は、最高の『所有物』を手に入れたということなのかしら………?
わたくしは、捨てられる……?
アレシュ様はわたくしの側に居てくださると仰っていたけれど、もしリヒャルト様のお側に居れば、わたくしは不要となるのではないかしら……?
リーディアは十字架のペンダントをぎゅっと握りしめた。
——リヒャルト様、どうか、わたくしをお見捨てにならないで……。
鏡台の前で瞳を閉じ、縋る様にリーディアは祈った。
鏡に映り込む彼女の姿だけが僅かに顔を上げ、寂しげに瞳を細めていた。
◇◇◇◇
大聖堂前の広場は、施しを求める人々でごった返していた。
設置された舞台は格調高く荘厳であり、高々と掲げられているタペストリーには、百合と十字架に鋭い茨が幾重にも絡みついた紋章が、豪華絢爛な刺繍で描かれている。
緋色のビレッタに、緋色のケープ。そして、緋色のカソックを着込んだリヒャルトが現れた瞬間、広場の活気は最高潮となった。
轟音にも似た歓声が嵐のように空気を揺るがす中、リヒャルトは銀髪を靡かせ、長身を真っ直ぐに伸ばして颯爽と歩いた。
その姿は圧巻だった。
自分とよく似た青年を引き連れ、リヒャルトは舞台の最も高い位置へと鎮座する。
背後には、リヒャルトの身体に刻まれたものと同じ紋章が掲げられている。リヒャルトはそれを人々の目に焼き付けるかのように、世界を包み込むような笑みを向けた。
群衆が「枢機卿猊下!!」と声を揃えて称える中、その一段下の舞台へと純白の聖衣を身に纏ったリーディアと、紫色のベルベットに金色の刺繍が施されたコートを身に纏ったミハルが立った。
リーディアの前には大量のパンが配置され、ミハルの前には大きな銀杯に山積みにされた金貨が配置されていた。
周囲には教会に従事する聖職者や従者が、整然と並ぶ人形の様に立っている。
リヒャルトがすっと手を上げると、騒がしかった群衆が一瞬のうちに静まり返り、前方の者から順々に跪いていった。
広場に凛とした声が響き渡る。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる……」
低く、それでいて透き通るようなリヒャルトの聖読を耳にしたいが為に、皆静寂を守り、一字一句聞き逃さんとしている。
アレシュは自分の肩にリヒャルトの手を置かれたまま、無表情を貫き通し微動だにしなかった。
リーディアは背後に鎮座する二人の様子が気になって仕方が無かった。いつもならば、リヒャルトのその隣には自分が立っていたはずだというのに。
ミハルは、リーディアの隣で彼女の様子を気にしつつ、寂しげなその横顔にズキリと胸を痛めていた。
「主の慈悲を受け取りなさい。汝らの飢えは、信仰の深さを試す為の聖なる負荷。主の肉を味わい、この金貨の輝きに、主の愛を見出しなさい」
祭壇の前に並ぶ多くの群衆達へと、パンと金貨が配られる。
リーディアとミハルを中心に、聖職者達も機械仕掛けのように淡々と作業をこなした。
——リヒャルト様がご覧になっているのですもの、少しでもお役に立てるように、わたくしも頑張らなくてはならないわ。
リーディアは張り切ってパンを配った。絹糸のような金色の髪が揺れる。ラピスラズリの瞳を細めて微笑みを浮かべながら、持ち前の気品を惜しげもなく漂わせる。
パンを手渡す度に「主のご慈悲を」と桜色の唇から、耳に心地よい声を響かせた。
ミハルは押し寄せる群衆達を見つめ、不安を掻き立てられていた。列は崩れ、あちらこちらで殴り合いの喧嘩が勃発し始める。
押し合いになり、老人が転び、子供が跳ねのけられた。
聖騎士団にも緊張が走った。
リヒャルトが「皆に祝福を、神のご慈悲を」とアレシュに囁いた。
不穏な空気が立ち込める。
心配そうに見つめるミハルの視線に気づき、リーディアは顔を横に向けた。
——どうしたのかしら? ミハル様、なんだか……。
「ああ聖女様! なんとお美しい!! どうか私にその祈りを持って主の祝福をお与えください!!」
リーディアのか細い手首が祭壇越しに男から強引に掴まれた。「キャ!」と、小さく悲鳴を上げる。
「彼女に触れるな!!」
壇上からアレシュが怒鳴りつけた。
ミハルは金貨を男の顔面へ投げつけると、群衆に背を向けてリーディアの前へ回り込み、左腕で彼女を後方へと庇った。次の瞬間、振り返りざまに抜剣し、男へ剣先を突きつけ、叫んだ。
「下がりなさい!! その行為は聖なる者への冒涜。主への反逆です!!」
ミハルの後ろで、リーディアはカタカタと怯え、震えた。
男に捕まれた手首がズキズキと痛む。しかし、それ以上に恐怖が体中を蝕んだ。
縋るように振り返り、リヒャルトを見上げる。
彼は、眉一つ動かさず、アレシュの肩に手を置いたまま冷たいサファイアブルーの瞳をリーディアへと向けた。
——リヒャルト……様……?
民衆たちが暴徒と化し、押し寄せる。聖騎士団と王室騎士団が食い止めんと整列し、抜剣した。
アレシュは漆黒のカソックに身を包んでおり、帯剣を許されていない。
屈辱に震えながら、睨みつけるようにリヒャルトへと視線を向けた。
「おい、あんたじゃないとこの騒動は止められない。さっさと動いたらどうなんだ?」
リヒャルトが静かに言った。
「牙を抜かれた気分はどうですか?」
アレシュは舌打ちして苛立ちを露わに言った。
「……最高に最低だね。あんたも同じ気分を味わったんじゃないのか? 分かったから、さっさとどうにかしなよ。彼女をこれ以上傷つけるんじゃない」
「傷つけるとは、どういう意味です?」
苛立ちを露わに、アレシュは吐き捨てる様に言った。
「恍けるな。虫唾が走る」
リヒャルトは失笑すると、すっと手を上げた。
アレシュが訝しげに眉を寄せた時、大聖堂の鐘がけたたましいほど激しく打ち鳴らされた。
異常なほどに鳴り響く鐘の音に、広場に集まった群衆も騎士達も、そして聖職者達ですら訝しげに大聖堂の方へと視線を向けた。
そして、荘厳な大聖堂を背後に微笑みを浮かべる、緋色の衣を纏った男へと全ての視線が向けられる。
鐘が鳴り止み、静まり返った広場にリヒャルトの澄んだ声が響き渡った。
「主の所有物をその欲望で穢した罪は重い。その者の不敬のせいで、主は汝らを見捨てられました」
リヒャルトはミハルへとサファイアブルーの瞳を向けた。
「ミハル第二王子殿下、この憐れな迷える羊を、汝の『世俗の剣』に委ねましょう。その不浄な部位を彼の魂から切り離し、救って差し上げなさい」
アレシュが口の中でギリリと音を発し、リーディアはゾッとして青ざめた。
ミハルが僅かに視線を下げた。
——拒む訳にはいかない。ここで拒めば、私は異端者として断罪され兼ねない。
私は、少しでも彼女の役に立ち、その檻から出る為の手助けをしなければならないというのに……!
肩で呼吸をしながら男を見つめ、そしてリーディアへと視線を向けた。
「……ミハル殿下」
不安げに首を左右に振るリーディアに、ミハルは優しく微笑んだ。
ふわりと、ヘリオトロープの悲しくなるほどに優しくも甘い香りが、リーディアを包んだ。
「ご心配は無用です。リーディア、貴女は何も悪くありませんから。そんな風に悲しまないでください」
騎士たちが男を取り押さえ、聖女に触れたその右手を祭壇前の石床へ押さえつけた。悲鳴を上げ、涙を流しながら慈悲を乞う言葉を口にした。
ミハルは唇を噛みしめた。
——この男へ振り下ろす剣は、同時に自分自身へと振り下ろす剣だ。
「……これは、リダを傷つけ、彼女という尊い存在を失う道へと誘った、私の罪に対する罰なのです」
——この先、私は男の悲鳴も、手に残る感触も忘れられないだろう。己の残虐さに苛まれ、苦しみ続ける。
リーディアもまた、私を恐れ、遠ざけるに違いない。もう二度と、あの優しい眼差しを向けてはくれないかもしれない。
それでいい。リダを傷つけ、失わせた私など、この先も苦しみ続ければいい。
その記憶も、彼女を失う痛みも、私の受けるべき罰なのだから。誰も救われはしないと、分かっているのだとしても……。
すっと剣を振り上げるのを見て、リーディアは血の気が引いた。
ミハルが静かに言った。
「どうか目を閉じ、耳を塞いでいてください」
血しぶきが舞い、凄まじい悲鳴が広場に響き渡った。
——それでも、リダの声は戻らない……。




