第四十九話 愛と呪い
「……エヴェリーナに会ったか」
アドルフはそう言いながら、緊張した面持ちでリヒャルトを見つめた。
リヒャルトは銀杯を揺らしながら微笑んだ。
「ええ。お会いしましたよ。彼女が魔塔に居る事を、陛下もご存知だったのですね。元魔塔主であるダヴィットは、一筋縄ではいかない相手であるとは思っていましたが、まさかこういったことまで黙っているとは、驚きました」
どこか嬉しそうにも見えるリヒャルトに、アドルフは眉を寄せた。
エヴェリーナとの再会は、確実にリヒャルトの精神を抉ったはずだというのに、血のような色のワインを味わうその姿は、以前にも増して余裕を帯びているように思えた。
アドルフは忌々しげにリヒャルトを睨み、盃を握る手を震わせた。
「よくもぬけぬけと。魔塔からの帰路で事故に遭い、魔塔主の魔術によって枢機卿館へ強制転移されたという話は、すでに噂となっている。王室の品位を貶めた責任を問われるべきは、同行していた其方なのではないのか?」
その言葉に、リヒャルトは同情でもするかのように眉を下げた。
「陛下もお困りでしょう。信頼していたベニーシェク公爵を失い、アレシュ王太子殿下は私の手の中にあるのですから」
「余にはミハルが居ればそれでよい」
アドルフの言葉に、リヒャルトは鼻を鳴らした。
「……彼も私の血ですよ、陛下。あのアメジストの瞳は、イルジナの面影です。お忘れですか?」
アドルフはリヒャルトから顔を背け、ぎゅっと拳を握り締めた。
「忘れてなどおらぬ。それでも、余はそれに縋るしかない」
リヒャルトと瓜二つなアレシュより、せめて瞳だけは自分と同じアメジストの輝きを持つミハルへ執着するまで、そう時間はかからなかった。
ミハルこそ自分の本当の息子なのだと、縋るように自らへ言い聞かせた。アドルフがミハルに執着すればするほど、それを面白そうに観察するリヒャルトの瞳が不愉快でならなかった。
それでも、アドルフにはミハルが必要だった。
リヒャルトを愛していたエヴェリーナに対する憎しみも……。
自分が王に相応しくないと言いたげに、完璧な存在として君臨するリヒャルトへの劣等感も……。
ミハルが居るからこそ、アドルフはその歪みの全てを、呪いの塊の如くアレシュへぶつけられるのだ。
傷つくアレシュを見つめることで、劣等感が僅かに薄まる気がした。
「ご安心ください、陛下。ミハルはまだ、自らの身体にも私の血が流れているとは知りません。そのように不安に頭を悩ませる必要などないのですよ。勿論、今後も私のこの口から伝える事はありません。このジェハークの血筋は、絶えることなどないのです」
くっと銀杯を傾けるリヒャルトを、アドルフは忌々しげに睨みつけた。
「トロッケンへの出征の準備は間もなく整う。其方はミハルを戦場に送りつけたいのではないのか?」
リヒャルトが肩を揺らして笑った。さらりと長い銀髪が肩から零れ、細めたサファイアブルーの瞳をアドルフへと向ける。
「それは違います。どちらの王子も、私にとっては大切なのですよ」
「だが、選ぶように仕向けたのは其方だろう」
「あのか弱き少女が、いずれの王子も選べるとお思いですか?」
「……なんだと?」
ニコリと、リヒャルトは微笑んだ。
「私は審判の日に皆の前でこう言うだけです」
そう言って、ワインを口にして、白い唇を僅かに血の色に濡らした。
「……『二人の王子が遭難したのは、陛下の信仰心が足りないからです。自ら剣を取り、その血で大地を清めよと主は仰るでしょう』と」
異端の疑いを掛けられた国王が、王として最大限の威厳を示すには、親征こそが最適解だ。
アドルフは全身に鳥肌が立つのを感じて、震える唇を動かした。
「……其方は……最初から、余を戦場へと送り込むつもりであったか……」
「人聞きの悪い。私ではなく、主の思し召しですよ。それとも、神に見放された異端として裁きを受けますか?」
ガタリと、重厚な椅子が音を立てて引きずられ、アドルフはリヒャルトの緋色の胸倉を鷲掴みにした。
ブツリ、とリヒャルトの首に下げたロザリオの鎖が切れて、ホワイトトパーズが床へと散った。
カツリ、カツリと音を立てて大理石の床を石が逃げ惑う。
「リヒャルト!! 貴様のその聖衣をはぎ取り、皆の前で焼き印を晒してやろうか!!」
怒鳴りつけたアドルフに、リヒャルトは少年のような無邪気な笑みを向けた。
「陛下にそのような権限がおありですか? それより先に、主は陛下をお裁きになるでしょう」
「貴様の戯言と主の意向を混同するな!!」
「お忘れですか? 私にこのような権限を与えたのは、陛下ですよ」
「貴様!!」
「その穢れた手で私を傷付ける前に離した方が賢明ですよ、陛下。取り返しのつかない罪の跡を、わざわざ晒すおつもりですか? 即刻玉座を明け渡さざるを得なくなるのです。それでも構わないのですか?」
アドルフは乱暴に手を離した。
カタカタと、身体を小刻みに震わせて怯え切った様にアメジストの瞳を揺らした。
「……何をそこまで恐れるのです? 私は既に全てを失っていますよ。身体に残る焼き印という呪いも、教会という檻も、『私』を抹殺するには十分だったのですから。陛下はまだ、何も失ってなどおりません」
乱れた衣服を正すと、リヒャルトは床に散らばった壊れたロザリオを一瞥し、不快そうに視線を外した。
「それでは、近いうちにまたお会い致しましょう、陛下」
ニコリと微笑むと、緋色のケープを揺らめかせ、リヒャルトはアドルフの前から去って行った。
◇◇
捌き終えた書類の山が整然と執務室の机の上にまとめられている。
ミハルはアレシュが抜けた穴を埋めるべく、アドルフの命令により、王太子の執務室で業務を行っていた。
窓辺に立ち、大聖堂のステンドグラスを見つめる。その奥に建つ枢機卿館に想いを馳せながら、唇を噛みしめた。
突然、リダに抱き着かれた時の事を思い出し、溜息を吐く。
『“リダ”って呼んでくれよ! ミハル、あたしはずっと、あんたのことを……!!』
ベニーシェク公爵家のお茶会での惨劇を思い出し、僅かに笑った。
『ホント、ごめん。熱いよな!? 早く脱いだ方がいい! 火傷してたらどうすんだよ!』
——あれは、確実にリダだった。
枢機卿館でも、彼女はミハルに抱き着いた。
『やっぱり良い匂い!!』
魔塔に行く途中で寄った修道院では颯爽と室内に足を踏み入れ、泣きじゃくっている子供の薄汚れた頭も何の躊躇もなく撫でて、彼女の優しさを見た。
暴走する馬車では、勇敢にも御者席へと飛び移り手綱を操った。
真っ直ぐで可愛らしく、優しく勇ましい彼女の姿に、惹かれないはずがない。
崖下へと落下し昏倒したあの時。ミハルは夢を見ていた。
燃え盛る炎の中、絹糸の様な金色の髪を惜しげもなく振り乱し、自分の手を引いて駆ける『リダ』の姿を。
『愛しています。リダ。永遠に……』
泥に塗れた彼女の頬を撫でて、そう言った自分を。
『ミハル!! 起きろって!!』
狂おしい程の想いと幸福感に包まれていた自分を、絶望的な身体の痛みという世界へと引き戻したというのに……。
夢の中と変わらずに、泥に塗れていたというのに……。
彼女は美しく、輝いていた。
『……美しい、聖女様が……見えます』
あの時言った言葉は、紛れもなく本心だった。
——それなのに……。
『あたしは、前のあんたを……愛していたのに……』
思い出す度に、ミハルは心臓が抉られる痛みを感じた。
——では、貴女はもう、私を愛していないのですか……?
絶望の淵に立たされた気分だった。暗闇に飲み込まれ、呼吸が出来ない程に苦しかった。
藻掻き苦しみ、言ってしまったのだ……。
『貴女の存在は不要です』
ガツリ、とミハルは執務室の壁に額を打ち付けた。
——なんと、私は愚かなのだろう……!!
あれは、本心ではなかった!! 彼女が消えることなど、望んでいなかった!!
「……リダ。……愛しています」
ミハルの頬を、つ、と涙が零れ落ちた。




