第四十八話 心細くない日など
シスターが聖書を朗読する中、リーディア達は豪華な昼食にありつき、久方ぶりに安心して食事を口に運べる幸せを味わった。
アレシュとミハルは見習い修道士が着るような、安っぽい生地の黒いカソックに身を包み、腰帯もリヒャルトの物とは明らかに異なる飾り気のないものだった。
純白の聖衣に身を包んだリーディアは、胸にリヒャルトから授かった十字架のペンダントが揺れており、従者からの報告に耳を傾けるリヒャルトと目が合う度に、崖下での不安な夜から解放された安心感に包まれて、ニコリと微笑んだ。
——あの夜は、リダもいなくなって怖くて堪りませんでしたもの……。
ようやく少しだけ平穏を取り戻せたような気がして、リーディアは小さくため息をついた。
以前は少し煩わしいと思っていたシスターの聖読も、今はすんなりと耳に入って来る。食事を摂るリヒャルトの姿にも、ホッとした。
——あとは、リダが戻ってくれさえすれば……。
空腹が満たされたアレシュは、「ところで枢機卿猊下」と笑みを浮かべてリヒャルトを見つめた。
リヒャルトは従者の報告を手で制して、アレシュと同じサファイアブルーの瞳を細めた。
「聖読に耳を傾けなさい、アレシュ王太子殿下。ここでは世俗のルールはまかり通りませんよ。主は汝を常に監視しておいでなのですから」
アレシュは乾いた笑いを放った。
「勿論、主に対しては申し訳ないけれど。猊下に大切な話があるんだ」
そんな風に刃向かうアレシュの様子を、リヒャルトは瞳を細めて見つめた。
ガタリ、と椅子を引いて席を立つと、アレシュはリヒャルトが腰掛ける椅子の前へと赴いた。
黒いカソックが揺れる。アレシュのその姿は、若き日のリヒャルトも、きっとこのような姿だったのだろうと思える程、良く似ていた。
「これはこれは、アレシュ王太子殿下、良くお似合いですよ」
満足げに言ったリヒャルトの側で、アレシュは僅かに笑みを浮かべた後、跪いた。サラリと銀髪が揺れ、深く頭を下げた彼の顔を覆い隠す。
その姿を見た瞬間、ズキリとリーディアの胸が痛んだ。
——アレシュ様……?
枢機卿館の従者やシスターは、普段は決して騒ぎ立てないその口から、どよめきの声を思わず発してしまった。
チラリとリヒャルトに視線を向けられて、館の者達は慌てて口を噤む。
「……不躾にどうしたのですか? 私に跪く事のない、気高い王太子が突然そのような態度を取られては、皆動揺を隠せません」
アレシュは僅かに顔を上げると、少年のような無邪気な笑顔をリヒャルトへと向けた。
——我慢するんだ。これが最も確実に、リーディアの側に留まる方法なのだから。
「ああ……慈悲深き枢機卿猊下。この僕に、心の穢れを浄化すべく贖罪をお与えください。審判の日までの間、この枢機卿館で猊下の下、主に尽くす恵みの時をお与えください」
その言葉に、聖読をするシスターの声がピタリと止んだ。
誰も声を発しない。だが、その沈黙こそが、彼らの動揺を物語っていた。
王太子が、枢機卿の権威の下に身を置く事を求めたのだから……。
リヒャルトはすぅっとサファイアブルーの瞳をアレシュへと向ける。
唇を横に引き、背筋が凍りつく程の美しく冷酷な笑みを浮かべた。
アレシュはピリピリとした冷たさと、鳥肌が立つ感覚に耐えながらも、表情は崩さないままリヒャルトを見つめた。
リーディアは二人の様子を見つめながら、胸がざわついた。
——リヒャルト様のお側に居る事は、素晴らしいことですのに。それなのに、何故かしら。アレシュ様がとてもお辛そうに見えますわ……。
すっと、リヒャルトは席から立ち上がった。緋色のケープとカソックが、目に染みるように鮮やかに揺らめく。
「では、指輪礼をもって、貴方を見習いとして大神殿へ受け入れる事にいたしましょう。可能ですね?」
リヒャルトはそう言うと、アレシュの前へと黄金の指輪を嵌めた右手を差し出した。
アレシュは喉元まで出かかったため息をぐっと堪えて、僅かな躊躇いを見せつつも、黄金の台座に輝く、リヒャルトと自分の瞳の色に瓜二つなサファイアへと口づけをした。
「……よろしい。審判の日まで、己の罪と向き合い清めるのです」
恍惚とした表情を浮かべるリヒャルトを、リーディアはじっと見つめていた。
——リヒャルト様のあのような嬉しそうなご様子を見るのは初めてですわ。まるで、ずっと欲しくて堪らなかったものを手に入れたような……。
ミハルは唇を噛みしめて、その様子を見つめていた。
自分は決して、リヒャルトには受け入れては貰えないだろうと歯がゆく思った。
彼のその身にも、リヒャルトの血が流れているということを、彼自身は知らないのだから。
◇◇
聖書の複写を延々と続けていたアレシュは、ヴェスペレに参加する為に廊下を急いでいた。遅れようものならば、リヒャルトにどんな嫌味を言われるか分からない。
苛立ちを覚えながら急ぐ彼を、枢機卿館の面々がすれ違いざまにやたらと媚びを売るように深く頭を垂れる。
彼が王太子であり、リヒャルトのお気に入りであるということを承知している枢機卿館の者達は、アレシュの姿を目にするとあからさまに敬うのだ。
その様子にひそめそうになる眉を押さえ、無表情のまま接する。
だが、心の中では自嘲した。
——ここ最近、リヒャルトとの接触が多かったせいか、認めたくはないけれど、随分とあいつにも慣れてきた気がする。僕も丸くなったものだ。母上があんなだと知った事で、余計に鈍くなったのだろうか。
慣れる、とは良くも悪くも、自分の意志が曖昧になる。本当はそうではないはずだというのに、どこか流されて、それでもいいかと思えるのだ。
けれど、奥底に燻る灯火は決して消える事は無い。
ひらりと揺れる純白の聖衣が見えて、アレシュは眩しく感じて瞳を細めた。
彼女が振り返り、柔らかに微笑む。
「アレシュさ……王太子殿下。ヴェスペレには殿下もご一緒くださるのですわね。わたくし、いつも枢機卿猊下の後ろをついて歩くだけで、心細かったんですの」
——心細い。僕は、いつだってそうだった……。心細くない日など、僕には無かった。
……けれど、僕は王太子だから。そんなことを言うのは、赦されなかった。
アレシュは頷いて、サファイアブルーの瞳をリーディアへと向けた。
「……約束したからね。君の側に居てやるよ」
ぶっきらぼうに言ったアレシュに、リーディアはきゅっと両手を結んで瞳を細めた。
「お側に居てくださるのは、嬉しいですわ」
ドキリと胸が強く鼓動して、アレシュはその鼓動に腹が立って視線を逸らした。
「分かっているのか? 審判の日に、君は僕かミハルのどちらを戦地へと送り込むのか選ばなきゃならないんだぞ?」
意地悪な問いだと分かっていた。
その話題を出した途端、リーディアはラピスラズリの瞳を揺らした。柔らかそうな唇が震え、噛みしめる様子がアレシュには痛々しく感じた。
「……先に、馬車に向かっていますわね」
立ち止まるアレシュから、逃げるように去っていく彼女の後姿を、すまなそうに見つめた。
——僕の婚約者なんかにならなければ、リヒャルトに目をつけられる事も無かっただろうに……。
馬車に乗り込み、ゆっくりと広場を一周する間に、大聖堂の鐘が鳴り響く。
リヒャルトは甘く、重苦しいミルラの香りをその身に纏いながら、到着と共に主の降臨の如く馬車から降り立った。
群衆が歓声を上げる。
——ああ、彼にはやはり、僕は……。
それ以上の考えを言葉にするのは止めて、アレシュはリヒャルトの緋色の衣を見つめた。
願わくば、この男がこれ以上の罪を重ねなければいい。
大聖堂の祭壇の前で祈るリヒャルトを見上げながら、アレシュは唇を噛みしめた。




