第四十六話 美しい不浄
夜が明けて、暖炉の側でうたた寝をしていたアレシュは顔を上げた。
「……雨はまだ止んではいないようだけれど、嵐は大分遠ざかったようだね」
リーディアとミハルも顔を上げ、外から射し込む頼りない光に瞳を細めた。
——お腹が空きましたわ……。
リーディアがそう考えた時、アレシュの腹が盛大に鳴り響いた。カッと顔を赤らめて、笑う二人を睨みつける。
「仕方がないだろう! 魔塔ではろくに食べられなかったし、昨日だってまともに食事をする時間なんか無かったんだから! その状態で君達を探しに来てやったんだから、そんな風に笑うなっ! 不敬だぞ!」
不貞腐れるアレシュに、ミハルは微笑んだ。
「いえ、私もお腹が空きました。何か探して来ましょう。と言っても、野草くらいしか探せませんが」
リーディアも何か手伝えることは無いかと辺りを見回した。
「では、わたくしは……」
「君はとりあえず聖衣を洗ってきたら? どこかに雨水が溜まっているところくらいあるだろうからね。僕は……そうだな、その辺の壊れた家具を叩き割って薪でも作っておくよ」
リーディアが泥に塗れた聖衣を手に取ると、アレシュがボソリと言った。
「やれやれ、リダならイノシシの一匹や二匹捕って来ただろうけれどね」
——わたくし、役立たずですわね……。
落ち込むリーディアを見て、ミハルが申し訳なくなって庇う様に言った。
「……罠か何かを作ってみましょうか」
「あのねぇ、上手く捕まえられたとして、誰が仕留めて捌くのさ? ここに居るのは知識があるだけの無能だよ」
アレシュは肩を竦めた後に剣を抜くと、壊れた家具を叩き折った。
「……うわ。虫食いだらけだよ。汚いなぁ」
「わ、わたくし! 聖衣を洗ってきますわっ!!」
虫が大嫌いなリーディアは裏返った声を発してそそくさと礼拝堂から出て行こうとし、ミハルが「礼拝堂のすぐ横に、桶がありましたよ」と声を掛けた。
外は昨夜の豪雨のせいで地面がぬかるみ、滑りそうになりながらも歩を進めた。
木板で閉じられた井戸を見つけ、その傍らに置いてある苔の生えた桶に、雨水が溜まっているのを発見した。
リーディアは固く結ばれた聖衣の袖を苦労しながら解くと、桶の中に浸した。
——これでいいのかしら?
桶の中で聖衣をゆらゆらと揺らしてみると、何やら固い感触があり、不思議に思って取り出した。
エヴェリーナから貰った小箱だ。
聖衣のポケットに入れたままであったことを、すっかりと忘れていた。たしか彼女は、『もう限界だ』と思ったら開けろと言っていたはずだ。
——お腹が空いて限界というのも、有りなのかしら……? 後でアレシュ様とミハル様に使いどころを相談してみましょう。ねぇ、リダ……。
つい、リダに話しかけてしまい、答えがない事にリーディアは寂しげに瞳を伏せた。
——もう、鏡を見ても貴女は居ないのね……。
ポタリ、とリーディアの瞳から涙が零れ落ちて、桶の中へと吸い込まれた。
◇◇
大して泥汚れは落ちなかったものの、聖衣を洗い終えたリーディアは上手く絞る事ができず、びしょ濡れの状態のまま手に持って礼拝堂へと戻って来た。
ゴオォッ! と燃え盛る暖炉の炎の前で、唖然として立ち尽くすアレシュと、何の収穫もなく戻って来た様子のミハルを不思議そうに眺める。
「……どうなさったんですの?」
ポツリと掛けたリーディアの声に、二人はびくりとして振り返ると、アレシュは咳払いをし、ミハルは慌てたように説明をした。
「いえ、ええとですね。これは少し火を強くしようと思っただけなのです! リーディアの濡れた聖衣を乾かす為にはその方が良いだろうと……」
「いいよもう。僕が木をくべすぎた。こんなに良く燃えるとは思わなかったんだよ」
アレシュがぶっきらぼうにそう言うと、ため息交じりに「壊滅的だ……」と言って舌打ちした。
リーディアは微笑みを浮かべた。
——よくはわかりませんけれど、色々とダメかもしれないという事だけは解ったわ……。わたくし達、生き延びられるのかしら……。
アレシュはリーディアの引き攣った微笑みを見て、自尊心を傷つけられたのか苛立ったように言った。
「なんだか妙な匂いがするし、ベトベトしたものが出ているし、理解不能だよ。何なんだこの木は!」
「それは松材でございますよ。松脂が多く含まれているのでしょう、アレシュ王太子殿下」
突然掛けられた声に驚いて皆が振り返ると、無表情で淡々とした様子のベニーシェク公爵と、どこかぎこちない笑みを浮かべているリヒャルトの姿があった。
ガラン……! と、音を立ててアレシュの手から火掻き棒が落ちる。
しん……とした沈黙の中、暖炉の炎だけが元気にゴオゴオと燃え盛っている。
パサリ、とリーディアの手から濡れそぼった聖衣が落ちた。
「一体どこから来た!? おかしいじゃないか! 川は濁流で渡れないはずだぞ!?」
失態を見られた事がよっぽど恥ずかしかったのか、アレシュが顔を真っ赤にしながら喚いた。
ミハルは、そっと歩を進めてリーディアの前に立ち、彼女が薄着であることをさりげなく二人の視線から遮ると、ンンっと喉を鳴らした。
「騎士達も川を渡ってこちらに向かっているのですか?」
騎士達が来るのなら、一刻も早くリーディアの姿を隠さなければならない。そう焦るミハルに、公爵はあっさりと「いいえ。私と猊下の二人のみです」と答えた後、ラピスラズリの瞳をすっとリーディアに向けた。
「リーディア、あの外道……いえ、エヴェリーナ様から渡された小箱は使わないのですか?」
リーディアはハッとして先ほど洗濯中に発見した小箱を取り出した。
「お父様、あの……エヴェリーナ王妃陛下が仰った『もう限界』のタイミングがよくわかりませんでしたの……」
おずおずと話すリーディアに、公爵は淡々と話した。
「なるほど、確かにそうですね。恐らくあの俗悪、いえ、エヴェリーナ様はもっと早くに使うものと踏んでいたのでしょう。つまりはあの雷が落ちたタイミングです」
ひゅ、と喉を鳴らしたあと、アレシュが喚く様に言った。
「ピンポイント過ぎないか!?」
その突っ込みに、公爵はサラリと答えた。
「魔塔の役割は『世界の観測者・記録者』です。その彼等が、天候の悪化を予測できなかったはずがありません。食堂から早めに席を立ったのも、その準備のせいでしょう」
アレシュが乾いた笑いを発した。
「……つまり、あの女は雷が落ちて嵐になると知りながら、僕達を弄んでいたわけか?」
「あの下種……いえ、陰険、おや、失礼。人でなしはいつもそうやって人をからかって楽しんでおられるのですよ」
『公爵。本音がそのままになっています……』
と、その場に居た全員が思ったが、誰一人として突っ込みを入れなかった。
すっと、公爵がリヒャルトに深く頭を下げた。
「さて、猊下。既に魔塔の者ではなくなった私が、こうしてここに訪れる為に魔術を使用してしまいました。それは禁忌。故に異端者として追われる身となりましょう」
ヒヤリ、とリーディアの背筋が凍りついた。
脳裏に浮かぶ、ただ残酷に人を死に追いやる為に作られた火刑台の映像……。
リヒャルトが静かに言葉を吐いた。
「汝がその身を穢してまで守りたかったものとは何ですか?」
「さあ? 私には分かり兼ねます」
リヒャルトが上品に十字を切った。
「主は汝を赦しませんが、この私は、汝のその美しい不浄を見届けましょう」
ひっ……と、僅かに喉を鳴らしたリーディアに気づき、ミハルが公爵を見つめた。
「ベニーシェク公爵! 貴方が居なくなってしまったら、残されたリーディアは一体どうなるのです?」
公爵が無表情のまま言った。
「公爵家の全ての財産をリーディア・ベニーシェクへと譲る手続きは、とうの昔に済ませてあります」
そして、ラピスラズリの瞳をリーディアに向けた。
リーディアは震えながら首を左右に振った。
「お父様! 一体、いつの間に……」
「ロザーリアを失ったあの日です。私がいついなくなっても、お前が公爵家を守れるように。だから言ったでしょう。『公爵家の娘が、醜態を晒してはなりません』と。お前の婚姻が成立した暁には、その夫へと全権が委ねられる手筈となっています」
リーディアはボロボロと涙を零した。
「嫌!! 火刑だなんて! あんな残酷な仕打ちをお父様がお受けになるだなんて、絶対に嫌ですわっ!! そんなの、わたくしは耐えられませんわ!!」
——お母様も、リダも失ったのに、お父様まで失ってしまったら、わたくしはもう……!!
「わたくしがお父様の身代わりになりますわ!! リヒャルト様、どうかお願いです。わたくしが……!!」
「リーディア、いけません!」
ミハルがリーディアを宥める様に支えた。
その様子を見て、リヒャルトの眉が僅かに動く。
リーディアは取り乱して首を左右に振った。
「あのような、あのような恐ろしい目にお父様が遭うだなんて、そんなの、絶対に……!!」
「『あのような恐ろしい目』とは、何の事ですか?」
公爵がさらりと言った。
「私は教会の手の及ばぬ魔塔へとこのまま身を寄せる所存です」
——え……?
公爵はラピスラズリの瞳をリヒャルトへと向けると、しれっと言った。
「それでは、枢機卿猊下。お先に」
パチリ、と指を打ち鳴らすと、彼は止める間もなく一瞬のうちに姿を消した。
公爵が消えた後も、暖炉の炎だけが場違いなほど元気に燃えていた。




