第四十五話 本当に欲している救い
あと僅かで唇が触れ合うというところで、ミハルはピタリと止めた。
——違う。私は彼女を傷つけたくない。それなのに、彼女を求める熱情に任せて、その唇を奪うなど、あってはならない……。
ミハルは身を退くと、リーディアの頬を撫でた。
「リーディア、私は……」
「おい」
ミハルの肩を乱暴に引っ張って、アレシュが怒りを露わに低い声で問いただした。
「お前、今、何をしようとした?」
ポタポタと体中から雫を垂らし、肩で息をしながらそう凄むと、顔を手の甲で拭いた。ジロリとリーディアを睨みつけて舌打ちをする。
「リーディア、君も君だ。何をされるがままにしているんだ。リダはどうし……」
「アレシュ様っ!!」
リーディアはアレシュに飛びつくように抱きつくと、ぐすぐすと泣きじゃくりながら取り留めも無く言葉を吐いた。
「リダが! ……崖から落ちて、水が!! 体中痛くて、流されて!! 聖衣を置いてきてしまったの!! でも、リダが!! リダが!!」
「ちょっと、落ち着……」
「リダが居なくなってしまったのっ!!」
わんわんと声を上げて子供のように泣きだし、アレシュは困り果ててチラリとミハルに視線を向けた。
切り裂かれたシャツを肩に掛け、俯くミハルから視線を外し、暖炉の前に放り投げられているミハルの上着と、すり潰された薬草の残骸を見て、自分に縋りつくリーディアへと視線を向けた。
彼女の両手と足には包帯らしき布が巻かれており、薬草の様な匂いがふわりと香った。
はぁ……とうんざりしたようにため息をつき、アレシュはボソリと言った。
「とりあえず、何となくの状況は解ったけれど。リダが居なくなったって、どういうことさ?」
「声を掛けても全然答えてくれなくなってしまったの! 今までは何となくリダが居ると分かっていたのに、わたくしの心が欠けてしまったような……寂しくてたまりませんのっ!!」
リーディアがリダを失った虚無を埋めるかのように、ぎゅうっとアレシュに抱き着いた。
ほとんど下着姿である彼女の身体の柔らかさや温もりが伝わり、アレシュは慌ててリーディアの両肩を掴んで引き離した。
「やめろ! 抱き着くなっ!」
「……アレシュ様」
「いいから、分かったから一回離れてくれ!」
しょんぼりとしながらリーディアはアレシュから離れると、ぐすぐすと瞳を擦りながら涙を零した。
——アレシュ様に拒絶されてしまったわ……。
アレシュが顔を真っ赤にしながら言った。
「あのさ、君。自分が薄着だってこと忘れてない?」
——薄着……?
リーディアは俯いて自分の姿を見て、すぅ……と青ざめた。
「%$&@#!!」
慌ててアレシュから離れると、暖炉の前に放置されているミハルのコートを奪い取るように拾い、それを被って暗い部屋の隅でガタガタと震え出した。
「お嫁にいけませんわぁっ!!」
「大丈夫です。私が責任を持ちますから」
「ミハル、そういう事を言うような状況じゃないよね?」
ため息をつくと、アレシュは手に持っていた聖女の聖衣を放り投げた。
「泥だらけだし使い物にならないかもしれないけれど、一応持ってきた。騎士達が君を見つけた時、その姿のままよりは泥だらけの方がまだマシだろうからね」
そう言って、自分のずぶ濡れになったコートを脱いで、裾に溜まった水を絞り、うんざりしながら問いかけた。
「それで? どうしてリダは居なくなってしまったのさ?」
「み、ミハル殿下が、あの……!」
「君はいいから、暖炉で温まってなよ。僕等二人は背を向けているから!」
ピシャリと言い放たれて、リーディアは口を噤むと、背を向けている二人の後ろにそっと向かった。
アレシュに横目で睨みつけられて、ミハルが渋々口を開いた。
「……どうやら私が追い出してしまったようです」
「へぇ? 魔塔に聖女と認定された彼女を、どうやって?」
「彼女を……不要だと言いました」
アレシュの背後でリーディアが嗚咽を洩らす。
「……リダは、深く傷ついていましたわ……! ミハル殿下の事を愛していたのですもの!」
ミハルは気まずそうにアメジストの瞳を細めたが、ぎゅっと拳を握り締めて言った。
「リダの存在は、リーディアにとって危険です。あのような無茶をすれば身体が持ちません。現に彼女は傷だらけになり、こうして暗い森に迷い込んでしまっているのですから!」
「違いますわ! リダは、わたくしがミハル殿下を助けて欲しいとお願いしたから……!」
リーディアの言葉を聞き、ミハルはハッとしたように瞳を見開いた。
アレシュが舌打ちをした。
「ミハル、君の言い分も分からなくはないよ。狩猟大会の時も彼女は無茶をしたからね。僕等は二人共彼女に救われたってワケだ……でも、まいったな……」
そう言って、アレシュは盛大なため息を吐いた。
「川が増水して濁流と化している。この雨の勢いだからね、水が引くまで数日はかかるだろう。僕は野外での生存技術を持ち合わせていない上に、足に怪我を負っている。頼みの綱のリダが居ないとなれば、僕等は遭難状態にある上に、食料の確保もできず、完全に詰んでいるということだね」
「多少ならば、私が……」
「へぇ? その痛めた手足で、何ができるっていうのさ? 精々薬草集め程度のものだろう?」
リーディアは絶望に震えながら、心の中でリダを呼んだが、リダは何も答えてはくれなかった。
「全く、厄介な事をしてくれたよ。狩猟大会での借りを、僕はまだ彼女に返しきれていないってのに……」
ガシガシと煩わしそうに頭を掻くと、アレシュは言葉を続けた。
「それに、少なくともリダはリーディアにとって心の支えだった。リヒャルトの側に居ても平気だろうと僕が思えたのは、リダが居たからだ」
アレシュは魔塔でエヴェリーナが言った言葉を思い出していた。
『地獄の沼から引きずり出す為には、あの娘が本当に欲している救いでなくてはならない。だが、それはお前にとっては最も残酷な方法だろう。あの娘のことは諦めた方がいい。ミハルの方が恐らく、最もその救いに近いものを提供できるだろう』
——あんたの読みは外れてるよ。ミハルは彼女の救いにはならなかった。
「……リーディア、もしも無事帰る事ができたら、審判の日まで僕が君の側にいて、リダの代わりにあいつから守るよ」
「アレシュ様……」
「リヒャルトの目的は解っている。僕を後継者に据えたいんだ。だから、僕があいつの側に居る事を拒みはしないだろうさ。だから、ピアスを禁じられていたんだ。聖職者は、ピアスを開けてはならないからね」
そう言って、アレシュは脳裏に高笑いを発するエヴェリーナの姿を思い浮かべて、唇を噛みしめた。
——まさか、あの女。僕がこういう行動に出ることまで予測してわざと煽るような事を言ったのか……?
苛立つアレシュに、リーディアがそっと声を掛けた。
「……あの、わたくしは望んでリヒャルト様のお側にいるのですわよ?」
「………」
アレシュとミハルは揃って渋い顔をした。
◇◇◇◇
夜が明けても、雨脚は弱まったものの、しぶとくシトシトと降りやまず、空はどんよりと曇ったままだった。
修道院の窓を叩きつけていた風は収まり、外は静けさを取り戻していた。
「猊下、ベニーシェク公爵が参られました。お通ししてもよろしいでしょうか」
リヒャルトは、すっと立ち上がると「どうぞ」とだけ言った。
扉が開かれ、公爵は室内へと入って来ると娘が行方不明だというのに全く動じていない様子で、さらりと言った。
「少々相談がございます。人払いをお願いします」
「……良いでしょう。皆、下がりなさい」
騎士達が深く頭を垂れて小祈祷室から出て行くと、扉を閉じた。
公爵は暫く耳を澄まし、騎士達の足音が遠ざかったのを確認すると、リーディアと同じラピスラズリの瞳をリヒャルトに向けた。
「僭越ながら、猊下。私に拉致されて頂きます」
そう言うと、公爵は眉を寄せたリヒャルトの腕を掴んだ。




