第四十三話 愛していたのに
リダとミハルは、森の奥に崩れかけた石造りの礼拝堂を見つけ、そこに身を寄せていた。
マリア像の背後の屋根は崩れかけ、叩きつける雨が聖母の背を濡らしている。
リダは冷たい床に座りそれを見上げながら、寒さに悴む両手を下げたまま、ふぅっと息を吐いた。
視界が歪む——。
「リダ、奥の暖炉が辛うじて使えそうでしたので火を起こしました。燻っていて頼りなくはありますが、少しでも身体を温めましょう」
ゆっくりと頷くだけのリダを見て、ミハルは『これはまずい』と思った。
「……リダ?」
声を掛けたが、そのまま前のめりに倒れそうになるリダを、ミハルは慌てて支えた。どれほど中身が屈強なリダであろうとも、身体はか弱いリーディアなのだ。
彼女の身体を抱き寄せると、ズキリとミハルの右足と左手首が痛んだ。恐らく折れてはいないが、酷く捻っている。ミハルは痛みに耐えながらリダを抱き上げて、優しく労わるように運んだ。
聖衣を脱いだリダの姿は、濡れた薄い下着越しに白い身体の線が透けており、ミハルは出来る限り彼女に視線を向けないようにと気遣った。
暖炉の前へと寝かせた後、ミハルは水気を絞った自分のコートを視線を外したまま掛けてやった。
彼女の腕や足の切り傷が痛々しく、唇を噛みしめる。
——何か、少しでも彼女の役に立たなければ……。
リダは命がけで馬車を止めようとしてくれたのに、それなのに私は何と不甲斐ない……!
ミハルは外へと出て、降りしきる雨の中、右足を引きずりながら辺りを見回した。
紫の花のついた野草と、長い茎がいくつも伸びた葉を見つけて、ホッとしながら摘みとる。
——止血と炎症を抑えるにはこれで足りますね。
よろけて転びそうになりながら、リダの元へと戻って来た。
シャツを脱ぎ、歯で切り裂いて包帯を作ると、先ほど摘み取ってきた薬草をてのひらですり合わせた。
「……すみません、少し触れますよ」
リダの手に触れて、その驚くほど華奢な様子に瞳を細める。
——これほどにも細い身体で、彼女は……。
不甲斐なさと情けなさとが入り混じり、歯を食いしばりながら傷の手当を進めた。
燻っていた炎に僅かに勢いがつき、揺らめく炎の温かさが天の助けに思えた。
「……何、してんだ? ……ミハル……痛ぇよ……」
掠れた声を発するリダに、ミハルは笑みを浮かべた。
「少し我慢してください。応急処置ですから」
リダが肩を揺らして笑った。
「……あんたは、いつも……そうやって。あたしの怪我の手当ばっかり、してくれたっけ……」
ミハルは手を止めることなく、だが、上手く動かない左手に難儀しながら手当を進めた。
「未来の私は、少しは貴女の役に立てていましたか?」
リダは僅かに頷いた。
「……いつも、助けてくれてばかりいたよ。……それなのに」
つぅっと、リダの瞳から涙が零れた。
「なんで、変わっちまったんだ……? ミハル……」
ミハルはリダの手の包帯を丁寧に巻きながら、問いかけた。
「変わった? 私がですか?」
リダが震える声を発した。
「王太子に……なろうとする……なんて……!」
「!!!!」
ぽたり、とリダの涙が頬を伝い、床へと零れた。
「あたしは、前のあんたを……愛していたのに……。今のあんたは、あたしが愛したあんたじゃない……!」
「……」
ズキズキと、ミハルの胸が痛んだ。
——違う。私が愛しているのは、リーディアであって、リダではないのです。リダに嫌われようとも、関係ない。リヒャルト枢機卿の手から、リーディアを救い出す為にはあのままの私では駄目だった!!
リダの手当を終えて、ミハルは改めて自分の身体を見下ろして自嘲した。
滑落した時についた痣が、至る所に浮かんでいる。この程度で済んだのは不幸中の幸いと言えるだろう。
下手をすれば死んでいた。
——アレシュは滑落せずに済んだ様ですね。これは、私への天罰なのでしょうか……。
「……リーディア。たとえ罰せられようとも、私は貴女を助け出したいのです」
俯き、更に言葉を続けた。
「例え、貴女自身に嫌われようとも……」
崩れかけた礼拝堂の外は、豪雨となり、更に強い風が吹きつける嵐と化していた。
◇◇
豪雨により増水した川は濁流となっていた。アレシュは上流の古い橋を渡って対岸へ出たが、その直後に端が濁流で流され、帰路を断たれた。
雷が鳴り響く中、足を引きずり、川岸を歩きながら懸命にリーディアの姿を探した。
ほとんど視界が利かない。日が沈み、目に雨粒が入り、風が行く手を阻む。
——川に落ちて一命を取り留めていたとしても、この濁流では……。
唇を噛みしめるアレシュの視界に、濁流に巻き込まれるギリギリの川岸で揺れる何かが、稲光に照らされて一瞬だけ見えた。
慎重に近づいて手を伸ばし、引きずり上げる。
泥に塗れたそれは、リーディアが纏っていたはずの聖衣だった。袖口が結ばれており、何かに利用したのだろうという痕跡と、川岸から森へと続くいくつかの足跡から、彼女の無事を確信した。
——これがここにあるということは、つまりは下着姿ということか。リヒャルトに見つかればまた面倒な事になる。
ため息をつき、アレシュは周囲を見回した。
——増水の危険を察知して、森の奥に逃げ込んだのだろう。相変わらず、リダは強い……。
足先を木々の生い茂る森へと向けて進んだ。
先ほどまでの重い足取りから、僅かに解放されたように思える。
足の痛みすらも和らいだ気がして、アレシュは馬鹿馬鹿しくなりながらも口元に僅かに笑みを浮かべた。
◇◇
リヒャルトは近くの修道院へと避難していた。修道院の者達は突然の枢機卿の来訪に恐れ慄きながらも、受け入れざるを得ない。
大慌てで貴賓室を整えたが、リヒャルトは人を寄せ付けず、たった独りで小祈祷室に籠った。
食事も断り、重要な報告時以外は扉にすら近づく事を禁止した。
外は最早荒れ狂う嵐となっており、雨が窓を叩きつける。リーディアとミハルの捜索は一時中断され、嵐が治まるのを待つ事を余儀なくされた。
騎士の報告により、無事が確認されたはずのアレシュも戻らない……。
リヒャルトは一言の祈りも口にせず、手を組み項垂れたまま祭壇に背を向け、祈祷台に座っていた。
もしも、アレシュとミハルの両方の命が潰えてしまったのだとしたら。
——私は再び、あの地獄を味わうことになるのか……。
リヒャルトの手には小さな十字架のペンダントが握られていた。
騎士がリーディアの乗っていた馬車の近くに落ちていたと、届けたものだった。
『Ego te possideo(私は汝を所有する)』
シャラリと鈴の音にも似た響きが、小祈祷室に微かに広がった。




