第四十二話 今だけは祈ってやる
崖の中腹から伸びている木の枝に辛うじて捕まり、リダは溜息をついた。木に擦れて両手は傷だらけで、衣服は引っ掛けてところどころ破れ、擦り傷がじりじりと痛む。
「痛ぇが、とりあえずは無事っちゃあ無事だな」
≪アレシュ様やミハル様はご無事かしら?≫
「さぁて、確認しようにも……」
リダは見上げて、顔に当たる雨粒に瞳を細めた。ごつごつとした岩肌は雨水が流れており、指を掛けても滑りそうに見えた。
「……流石に登れそうにねぇな。降りるしか無さそうだ」
木の枝を伝い、慎重に崖に足を掛けて、崩れた土砂の上へと着地すると、上方から流れ込む泥水に足を取られないように気を付けながら崖下へと向かった。
ずるりと足が取られて転び、純白の聖衣が泥だらけとなった。
「ってぇ……」
≪リダ、気を付けて≫
「うん。こんなところで死んでたまるかよ。それにしても、酷い雨だ……」
谷底には川が流れており、普段は流れの穏やかそうな渓谷だが、上流から流れ込む雨水で水量が増していた。
降り始めの為か濁流にはなっていないものの、このまま激しい雨が降り続けば危険であると思えた。
「あたしは泳げないし、早い所水辺から離れてぇんだが……」
リダは辺りを見回してため息をついた。自分が居る場所は崖側で、安全な場所に行くには対岸まで渡るしかない。
≪リダ、見てあそこ!!≫
対岸の川から何かが打ち上げられたように、砂利が乱れており、黒髪の男性が横たわっている様子が確認出来て、リダはさあっと血の気が引いた。
「ミハル!!」
リダは慌てて聖女の聖衣を脱いだ。
≪リダ! 何をする気なの!?≫
「泥に付けるんだ! 浮袋になる! あたしが泳げねぇからって、前につるんでた傭兵が教えてくれたんだ!!」
聖衣の袖口を縛った後、裾から空気を溜め込んで泥水をつけた。それに捕まり、必死になって水を掻いた。だが、水の流れに流されて、上手く泳げない。
「くそ! 早くしねぇと!!」
聖衣の浮袋の空気が抜け、少しずつ沈んでいく。リダは水を飲み、涙目になりながらも藻掻いた。
≪頑張って!!≫
——やってるって! くそ、寒ぃ……!
滑り落ちた時についた傷がじりじりと痛む。身体が重くなり、リダは意識が一瞬遠のいた。
水を掻く手が遅くなる。
≪リダ、お願い。頑張って!! ミハル様を助けられるのは貴女だけなのよ!!≫
——……ミハル。
リダは対岸で倒れているミハルへと視線を向けた。
——こっちのあんたは変わっちまったけれど。それでも……未来のあんたは、いつもあたしを助けて寄り添ってくれていた……! 今度は、あたしが助ける番だ!!
ずるりと聖衣の浮袋が滑り、リダは大量に水を飲み込んだ。
「くそっ!!」
流されながらも必死に手を伸ばすと、指先に何かが触れた。対岸から水面へ張り出した枝だ。細い枝が次々と折れ、死に物狂いで何度も手を伸ばし、ようやく太い枝を掴んだ。それを手繰り寄せるようにしてなんとか対岸へと渡り切った。
はあはあと肩で呼吸しながら手の甲で顔を拭うと、黒髪の男性の元へと急いだ。大きい砂利に足を取られ、何度もよろけて転びかけながらも、足を前へと進ませる。
ミハルの側へと膝をついて、白くなった彼の顔を見てリダは戦慄を覚えた。
「ミハル!! おい、しっかりしろ!!」
口元へ耳を近づけ、呼吸を確認した後、頬を軽くパチパチと叩く。
≪お願い、気づいて!!≫
「ミハル!! 起きろって!!」
祈る思いで身体を揺さぶると、彼は整った眉を寄せ、アメジストの瞳をうっすらと開いた。
「……美しい、聖女様が……見えます」
リダはホッとしてため息を吐いた。
「……喋れんなら、死んでねぇな。ここを離れるぞ。歩けるか?」
ミハルは僅かに微笑むと、「少し、待ってください……」と言って咳き込んだ。
眉を寄せてミハルの頬に手を触れた。かじかんだ手が震え、僅かに感じる彼の温もりに安堵する。
「川が増水してる。少し休んだら、森の方へ避難しよう。……一緒に行こう。見捨てたりなんか、絶対にしないから」
降りしきる雨が、容赦なく二人の体温を奪っていく。
鬱蒼と茂る森は薄暗く、そこも安全な場所には思えなかった。
◇◇
横転した馬車はすんでのところで崖から落ちることなく、車輪がゆらゆらと回っていた。
リダの放った『ヤバイ!! 馬車から飛び降りろ!!』という言葉で、アレシュは素早く飛び降りたが、あとに続いたミハルが遅れ、馬車の遠心力に振り回されて崖の下へと転落してしまった。
ズキズキと痛む頭を左右に振り、自分が昏倒している間にどの程度の時間が経過したのだろうかとアレシュは唇を噛みしめた。
「腹立たしいったらない!!」
怒鳴りつけるように叫んで、アレシュは痛めた足を引きずった。
——無事でいてくれ!!
崖へと近づき、祈る思いで覗き込んだ。
サファイアブルーの瞳を左右に動かし、必死になって探しても二人の姿が見当たらない。
「殿下!! アレシュ王太子殿下!!」
追いついて来た騎士達が叫び、馬から降りた。
「ご無事で何より……」
「無事なもんか!! 例え暴走していたとしても、馬車よりも単騎の方が早いはずだろう!! 一体今まで何をしていた!!」
怒鳴り散らすアレシュに困惑しながらも、騎士は跪いて答えた。
「……落雷により、馬が……」
「黙れ!! 子供でも騙されない言い訳をするな!!」
アレシュの傷ついた額から滲む血液が、雨水と共に頬を伝いポタポタと滴り落ちた。
騎士は躊躇うように間を空けた後、静かに口を開いた。
「……最も優先すべきは、枢機卿猊下であらせられます故……」
ハ……と、アレシュは乾いた笑いを発した。
——僕の価値は、所詮その程度だ。百余名の騎士のうち、王室の騎士団は半数を占めるじゃないか。それでも王族である王子二人よりも、リヒャルトを優先させるのか!! 異端者扱いされることが、それほどに恐ろしいか!!
落ち着け、と言い聞かせながら深く何度か呼吸して、額の血を手の甲で拭った。
「……聖女とミハルが崖から転落した。直ぐに探せ。猊下と、ベニーシェク公爵にも報告を」
「は!!」
急ぎ戻っていく騎士達の背を見つめながら、アレシュの口の中でギリリと歯が鳴った。
「……王城に戻り次第全員処罰してやるからな。覚悟していろよ」
騎士たちが捜索の準備を始めるのを待たず、アレシュは痛めた足を引きずり、谷底へと降りる道を探して、獣道へと踏み込んだ。
騎士達は恐らく、皆リヒャルトの指示を仰ぎに戻っている事だろう。雨は勢いを増し、風も強まってきた。
嵐の中、騎士達の命を顧みず捜索を指示するとは到底思えなかった。
「頼む。無事でいてくれ……」
——神に祈るなんて真っ平だけれど、今だけは祈ってやる。
雨でずぶ濡れとなり、重くなった衣服を腹立たしく思いながら、アレシュは歩を進めた。
——落下の時、彼女は『リダ』になっていた。狩猟大会で見せた、異常な程の身体能力を持つ彼女ならば、何かしらの手立てで無事である可能性も高い。
だが、ミハルは……?
眉を寄せ、アレシュは首を左右に振った。
「僕よりは運のいいあいつの事だ、そう簡単に死ぬもんか」
——正直複雑な気分だ。どれほど周囲が僕たちの争いを望み、囃し立てようとも、同じ穴の貉となった僕達は、そうそう思い通りになって堪るかと意固地になってでも、極力仲の良い兄弟のように振舞っていたはずだった。
それなのに、リーディアの存在が、僕たちの関係を掻き乱していく。
『わたくしの、婚約者が。アレシュ様ではなく、ミハル様ならよろしかったですのに!』
彼女の手当をする為に戻った僕に、容赦なく叩きつけたその言葉が、頭から離れない。
『馬鹿野郎!! 諦めてんじゃねぇよっ!!』
あの女は、僕に罵声を浴びせた。
『わたくしがお慕いしているのは、アレシュ様ですもの!!』
『止めろ! 二度と口にするな!!』
『どれほどにお怒りを買おうとも、わたくしは……!!』
『やめろと言っているんだ!!』
ベニーシェク公爵家でのお茶会で、そんなみっともないやりとりをした。
『たとえこの身が聖域の檻に閉ざされ、二度とお目にかかることが叶わずとも、わたくしは“聖女”として、殿下の歩まれる道が、光に満ちる事を永遠に祈り続けます。永遠の祈りと、永遠の愛を込めて。 リーディア・ベニーシェク』
忌々しい手紙を送り付けて、彼女は僕の手から離れた。
『お捨てになったのでしたら、二度と関わるべきではなかったはずですわ!!』
『王太子殿下に謝ってくださいな!!』
魔塔でエヴェリーナに向かって彼女は勇ましく言い放った。
「これ以上、僕の心を搔き乱すな!!」
アレシュは足を引きずりながら吐き捨てる様に言った。
降りしきる雨が忌々しい。
「……虫唾が走る」
ボソリと呟いて、胸のタイピンを握り締めた。




