第四十話 救えないなら、寄り添う
魔塔最上階の窓辺から、エヴェリーナはパイプをふかし、外に張られた緋色の天幕を見下ろしていた。
「やれやれ。折角あの男が気に入るように部屋の趣向を凝らしてやったというのに、私の苦労が水の泡ではないか」
独り言を言いながら肩を揺らしていると、コツコツと扉が叩かれた。
サラリとした銀髪を靡かせて、サファイアブルーの瞳の男が部屋へと入って来ると、エヴェリーナはふぅっと煙を吐いた。
「どうした? 坊や、眠れないのか?」
若い頃のリヒャルトと瓜二つであるその男は、ハ、と乾いた笑いを発した。
「魔塔内を見学させて貰っていた。なかなか来る機会なんか無いからね、割と興味深かったよ」
そう言って、アレシュはソファへと腰を下ろした。乱雑に散らばっている書類に目を落とし、興味を惹かれるような内容ではなかったようで、少し不満そうに視線を外した。
「それで? 大冒険を満喫して、何故わざわざここへ来た? 明日はまた長旅が始まるのだろう。少しでもゆっくりと身体を休めたらどうだ」
「煩いな、あんたなんかに心配される筋合いはないよ。ただ僕は……」
はぁ、とため息をつくと、煩わしそうに銀髪をバサバサと掻き、唇をへの字に曲げたままサファイアブルーの瞳をエヴェリーナへと向けた。
「……首のそれ、リヒャルトにやられたのか?」
アレシュの指摘に、エヴェリーナはハッとして首に触れた。ズキリと痛んだが、パイプを口に咥えて吸い込んだ。
ふぅっと煙を吐きだしながら、「別に大したことではないよ」と言い、窓の外へと視線を向けた。
「それより、良いのか? 今頃あの天幕でリーディアが調教されているのではないのか?」
アレシュは立ち上がると、窓辺へと向かった。闇夜に浮かぶ緋色の天幕がこの地で唯一の聖域であるはずだというのに、不気味に見えてならない。
「彼女が自分で選んだ道だからね、僕にはどうすることもできないよ。一度は救おうとして差し伸べた手を払ったのは、彼女なんだから」
「……それは、あの娘にとって本当に救いの手だったのか?」
エヴェリーナはそう言うと、パイプを口に咥えた。
「救いに種類なんか無いだろう?」
眉を寄せてそう言ったアレシュを、エヴェリーナは笑いながらふぅっと煙を吐いた。
「それはどうだろうか。お前は誰の手でも、差し伸べられたら取るのか?」
「彼女が僕の手は取りたくなかったと言いたいの?」
「そうではないよ」
すっと、パイプでエヴェリーナは眼下に設営された緋色の天幕を指した。
「地獄の沼から引きずり出す為には、あの娘が本当に欲している救いでなくてはならない。だが、それはお前にとっては最も残酷な方法だろう。あの娘のことは諦めた方がいい。ミハルの方が恐らく、あの娘が求めている救いに、最も近いものを与えられるだろう」
「そうやってけむに巻くのは止めろよ。何が言いたい? ハッキリ言え」
エヴェリーナは声を上げて笑うと、瞳を細めた。
「あの娘が欲しているものは……お前には分かっているはずだ。あの娘は飢えている。だが、お前もまた同じだ。いや、お前の場合は飢えているだけではなく、そもそも信じていない。憎んですらいる。その状態では、彼女を救うことなどできはしない」
顔を顰め、「……その煙、酷い匂いだな」と愚痴た後、アレシュは溜息をついた。
「成程ね。確かに僕には彼女を救えない」
ポイと小瓶をエヴェリーナに向けて放り投げて、エヴェリーナはそれを受け取った。
「ミハル特製の薬だよ。傷口に塗るといいさ」
アレシュは踵を返すと、扉の方へと向かった。エヴェリーナはその背に声を掛けた。
「逃げるのか?」
足を止める事なく、アレシュはサラリと言った。
「いいや。魔塔主殿、あんたと一緒にしないでくれよ。僕はただ、救えないのなら彼女に寄り添うだけさ。……それくらいしか、僕には出来ない」
扉を開き、部屋から出て行く彼を見送りながらエヴェリーナは寂しげに微笑んだ。
「……まともなのは、アレシュ、お前だけなのかもしれないな」
パイプの煙がふわりと室内へと広がり、薬草の香りで満たされていった。
◇◇
緋色の天幕の中、甘いミルラの香りに包まれて、リヒャルトが祈るその後ろでリーディアも祈りを捧げていた。
「リベラ・メ・ドミネ……」
低く、それでいて透き通るような声に耳を傾けながら、熱心に祈るリヒャルトの背を不安げに見つめる。
——エヴェリーナ王妃陛下と会ってから、リヒャルト様は少しいつもと変わられた気がするわ。
≪変わったって、どの辺がだ? いつも通りの祈り馬鹿じゃねぇか≫
——うまくは言えないけれど。少し、お心に痛みを感じていらっしゃるような……。
≪こいつに痛覚なんかあるかよ? 脛強打したって平然としてそうじゃねぇか≫
俯くリーディアに、リダは面倒そうに言った。
≪……あんたがあの時、二人の為に怒った気持ちは解るよ≫
エヴェリーナに放った言葉をリーディアは脳裏に思い浮かべ、唇を噛みしめた。
『あなたに、人を傷つけていい理由なんか無いはずですわっ!!』
≪でも、あたしはあの王妃サマを嫌いにはなれねぇよ。あたしの存在を認めてくれた唯一の人だから。それでも、あんたの言う通り、あの人が自分の興味以外の事には冷酷なくらいに無頓着だってのは分かる。だけど、それは……そこにいるそいつも、同じじゃないか?≫
リーディアは溜息をつき、リヒャルトを見つめた。
苛立ちなのか、迷いなのか、怒りなのか……。彼は何かの感情を祈りによって必死に消し去ろうとしているように思えた。
「父と子と聖霊の聖名において。アーメン……」
祈りを唱えながらゆっくりと十字を切り、リヒャルトが振り向いた。
「……さあ、祈りは終わりました。これからは私と貴女だけの『告解』の時間です」
≪別に赦しを乞うような事なんか、何一つねぇよ≫
毒づいたリダに、リーディアは困った様に僅かに微笑んだ。リヒャルトはリーディアのその表情を見て、小さくため息をついた。
「『リダ』ですか? 一体何を言ったのです?」
「『赦しを乞うような事などない』と」
「……罪深いですね」
リヒャルトは侍従を呼ぶと、お茶を淹れさせてリーディアに勧めた。
椅子に腰掛け、リーディアはお茶を口にすると、ホッとしてため息をついた。
緋色のビレッタを外し、サラリと零れた銀髪を白い手袋を嵌めた手で掻き上げるリヒャルトの様子に見惚れる。
「リヒャルト様は、お美しいですわ」
ポツリと言ったリーディアの言葉に、リヒャルトは困ったように微笑んだ。
「そういった言葉を口にするのは好ましくありませんよ」
リーディアは顔を赤らめて「そういう意味ではなく!」と恥ずかしそうに俯いた。その隣の椅子へとリヒャルトは腰掛けると、自分の茶に口をつけた。
「……エヴェリーナ王妃陛下の様に、逃げずにお側に居てくださいますもの。主のようにいつでも寄り添ってくださいますわ。その慈愛は、美しいと思うのです」
「私はただ、呪縛に囚われて、逃げる事ができずにいるだけの弱者に過ぎませんよ」
「そんなことはありませんわ! わたくしは! 少なくともリヒャルト様に救われておりますもの!」
リーディアはラピスラズリの瞳を潤ませた。
「わたくしでは、リヒャルト様の傷付いたお心を癒す事はできないのですか? わたくしのような、いつもリヒャルト様に救われてばかりいるような者では、何の力にもなれないのですか?」
≪ちょ……! リーディア、そいつは……!≫
「リヒャルト様の熱は、わたくしを癒してくださったわ。わたくしの熱では、リヒャルト様を癒せないのかしら……」
身を乗り出し、リーディアはリヒャルトを見つめた。リヒャルトから漂う甘いミルラの香りが、誘うようにリーディアを包んだ。
「リヒャルト様、わたくしは……」
「枢機卿猊下。よろしいでしょうか。アレシュ王太子殿下がお見えでございます」
天幕の外から騎士が声を張り上げ、リーディアは慌ててリヒャルトから離れた。
リヒャルトが騎士に言った。
「……これはこれは、珍しい客人ですね。どうぞ、お通ししなさい」
すると、騎士が僅かに誰かと相談するような話し声が聞こえ、再び声を張り上げた。
「ミハル第二王子殿下もいらっしゃいました。お二人方ともお通ししてもよろしいでしょうか」
≪……何か厄介事でもあったのか?≫
——普段はどちらかというと、お二人共リヒャルト様を避けていらっしゃるのに。どうしたのかしら?
「構いませんよ。二人共お通ししなさい。客人の分もお茶の用意を」
「はい。承知致しました!」
リヒャルトはリーディアにニコリと微笑みかけると、静かに形の良い唇を動かして言った。
「貴女の私を労わる優しい心で、僅かばかり心が癒された気がします。感謝いたしますよ、リーディア」
バサリと天幕が開かれて、つまらなそうな表情をしたアレシュと、申し訳なさそうな顔をしたミハルが訪れると、リヒャルトに頭を下げた。
「このような夜更けに突然の来訪とは、何かあったのですか?」
リヒャルトの言葉に、アレシュがわしゃわしゃと銀髪を掻いてぶっきらぼうに言った。
「あの頭のオカシイ魔塔主に宛がわれた部屋があまりにも酷くてね。耐えられないから僕達も今日はここで寝ることにした」
リーディアはリヒャルト共に宛がわれたハートと薔薇だらけの『ウッフン部屋』を思い出し、アレシュやミハルにも同様の部屋を宛てがわれたのだろうかと、気まずそうに微笑んだ。
リヒャルトがため息をつき、額に手を当てて項垂れた。
「……因みに、お二方にはどういった部屋を?」
ミハルは苦笑いを浮かべ、「乾燥させたバレリアンの根が、部屋中に吊るされておりました……」とため息を吐いた。
「薬効は心得ておりますが、何分匂いが……。履き古した靴下に囲まれて居るような気分になり、耐えられずにこちらに……」
≪それ、完全に嫌がらせじゃねぇかっ!≫
アレシュは明らかに苛立ちを露わに腕を組み、吐き捨てるように言った。
「僕に宛がわれた部屋は、酷いセンスの服だらけでね。どれもこれも虫唾が走る程に際どいもので、これでも火をつけるのを我慢してここに来てやったんだ」
≪ぶっ!! なんだそれ! 着たところ見てぇっ!!≫
——リダ! なんてことを言うの!?
アレシュがビシッ! とリーディアを指さし、リーディアは驚いて瞳を丸くした。
「今、リダが笑っただろう!? いいか!? カボチャパンツの服だぞ!? そんなものが足の踏み場もないほど、トルソーに着せて並べてあるんだ! あの女、くだらないことに労力を割く暇があったら、自分の部屋を掃除したらどうなのさ!?」
怒り狂うアレシュに、リヒャルトは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、「わかりました、皆今宵はこの天幕で休む事を許可します」と言って深いため息を吐いた。




