第四話 未来の私にも譲れません
執務室へと向かう道を歩きながら、アレシュは小首を傾げた。
先ほどのリーディアの態度に違和感を覚えた。昨日の礼拝堂での彼女は、口が悪く粗暴で、明らかに嫌悪をにじませた眼差しで睨みつけていたというのに。
それなのに、まるで『いつもの』リーディアのように、陶酔するような眼差しを向けてくるので、虫唾が走った。
——本当に術は成功していたのだろうか?
ピタリと足を止め、アレシュは考え込んだ。
——術が成功していたのなら、あの目は戻らないはず……。
ふと、顔を上げてアレシュは眉を寄せた。
腕に立った鳥肌を隠すように、ぎゅっと拳を握り締めた。
——確かめなければ……。
踵を返し、城の正門方向へと歩を進める。
——『愛情』などといった不確かな感情は僕には不要だ。
◇◇
「リーディア嬢……?」
ミハルが戸惑うような声で呼びかけた。
「違う! リーディアじゃない。『リダ』って呼んでくれよ!」
ミハルは困惑しながらリダの両肩に優しく触れた。
「落ち着いてください、一体どうなさったのです?」
「そうじゃなくて、あたしは……!」
≪リダ!! 止めて頂戴っ!! わたくしの身体ですわ!≫
リーディアが必死になって叫んだ。だが、リダは首を左右に振ると、ミハルの胸に顔を埋めた。
「ミハル、お願いだからあたしを抱きしめてっ! 不安で堪らないんだっ!!」
「しかし、リーディア嬢……」
「へぇ? 二人はそういう関係だったのか」
突如、頭上から掛けられた声に顔を上げると、階段の踊り場の手すりに肘をついたアレシュが、サファイアブルーの瞳を細めて見下ろしていた。
「あ、兄上。これは……!」
ミハルはリダの両肩に触れていた手をパッと離し、一歩下がった。
彼の温もりが離れ、リダが寂しげに眉を下げる。
「その、リーディア嬢の体調が思わしくなかった様で……」
アレシュは冷たい笑みを浮かべたまま、溜息をついた。
「ミハル。君は体調が悪い女性を見ると、誰彼構わず抱きしめてやるのかい?」
「いえ……そういうわけでは……」
困り果てた様にミハルは首を左右に振ると、「申し訳ございません」と頭を下げた。
ズキリと、リーディアの胸が痛む。
だが、リダはキッとアレシュを睨みつけた。
「あんたはあたしに嫌われたいんだろう? だったら、どうだっていいじゃねぇか」
アレシュはわずかに視線を上に上げた後、微笑んだ。
「……ああ、そうだね。確かにどうだっていいさ。ただ、醜聞は困ると思っただけさ。邪魔をしてすまなかったね」
踵を返すと、アレシュは振り返ることなく立ち去ってしまった。
「兄上! お待ちください、誤解していらっしゃいます!」
ミハルが慌てた様に声を放ち、アレシュを追って数歩駆けた後、振り返った。
「リーディア嬢、今日のところは公爵邸にお帰りください。兄上には私から説明をしておきますゆえ! そこの侍女、リーディア嬢をお願いします!」
そう言い残すと、ミハルはアレシュを追って駆けて行った。
頭の中でリーディアが悲痛な叫びを放っている。
ロビーにポツンと残されて、リダは唇を噛みしめた。
◇◇
公爵邸の自室へと戻り、鏡の中で塞ぎこむリーディアの前で、リダは俯いて座っていた。
「ごめん……」
呟く様に謝罪をしたが、鏡の中のリーディアは瞳に涙を溜めたまま俯いていた。
「悪気は無かったんだ。ホントにごめん。そんなに泣かなくても平気だって、あいつはどうせ気にしてなんかいねぇだろうし、本人だってそう言ってたじゃねぇか」
≪気にしていらっしゃらないから、悲しいんですのっ!!≫
リダは溜息を吐くと、首を左右に振った。
「あんたの気持ちはわかるよ。あたしは、未来のあんたなんだから。だからこそ言うんだ。アレシュだけは止めておけって。あいつは……」
≪リダが未来のわたくしだと言うのなら、わたくしがアレシュ様をお慕いする気持ちだって理解できるはずですわ!!≫
リダは鏡の中のリーディアをキッと睨みつけた。
「ああ、わかってるさ!! だからこそ言ってるんだよ、あいつのことが、ここまで嫌いになるような何かが起きたってことだ!!」
≪分かりたくなんかありませんわっ! 何が起きてもわたくしはアレシュ様を愛しているのですもの!≫
「あっそ! あたしだってミハルが好きだし、これからもずっとミハルだけを選ぶからな!!」
鏡の中のリーディアが憤然として立ち上がった。
≪わたくしだって、アレシュ様一筋のこの想いを変える気なんか一生ありませんわっ!!≫
鏡を挟んで睨み合う二人は、プイとお互い顔を背けた。
コツコツと扉がノックされる音がして扉の向こうから使用人が声を掛けた。
「お嬢様、お食事の準備が整いました」
リダと鏡の中のリーディアが同時にため息をつく。
「……解った」
億劫そうにリダが立ち上がろうとすると、鏡の中のリーディアが『待って!』と声を掛けた。
≪少しくらい化粧直ししてから向かってくださる?≫
「いいよ。どうせいつも通り、あんた一人だ」
≪そうかもしれないけれど……≫
仕方なく、リダは鏡台の上に置いてある陶器製の白粉入れの蓋を開け、パフを顔に押し付けた。
「これでいいか?」
≪もう少しちゃんと……≫
「っくしゅんっ!!」
その瞬間、視界がぐらりと揺れ、リーディアの意識が身体の表へと押し戻された。
鏡の中には苦笑いを浮かべるリダがいた。リーディアは訝しげに眉を寄せた。
「ひょっとして、入れ替わるきっかけは『くしゃみ』ですの……?」
≪どうやらそうらしいな≫
「馬鹿馬鹿しいですわ!」
リーディアはうんざりしながら鏡の中のリダを見つめた。
「あら? リダったら、目つきが悪いだけではなく少し大人びているような気がしますわ」
≪そりゃあそうだろ。今のあんたは18歳。あたしは20歳だからな。色々あったんだよ。それよりさっさと食堂室に向かおうぜ? ただでさえ美味くもない飯が冷めちまう≫
リーディアはため息をついて立ち上がると、食堂室へと向かった。
丁寧に掃除された廊下は埃一つ無く清潔ではあったものの、どこか寒々しい。広い邸宅だというのに静まり返り、人けのなさが家族の不在を物語っていた。
食堂には重厚で立派なテーブルにポツンと一人分の食事が用意されているのみだ。
椅子に腰掛けると、静かに口へと運んだ。
≪ほらな? 誰もいねぇだろ?≫
「……」
≪期待するだけ無駄だからやめておけ。この先も、あたしはこの家で誰かと食事をすることは一度もなかった≫
味のしない食事を飲み込みながら、リーディアはちらりと視線を上げた。卓上に飾られた花から、一枚の花びらが落ちる音さえ聞こえた。
壁に掛けられた絵の中では、色鮮やかな花々が咲き乱れている。それさえ今は、どこか暗く陰鬱に見えた。
≪わかってる。寂しくて堪らない。解ってるよ≫
殆ど手を付けないまま、リーディアは唇をナプキンで拭いた。
広い食堂室内に椅子を引く音が響く。
≪辛かったよな……≫
——わたくしは、食事の時間が一日の中で最も嫌いな時間ですわ。
誰からも愛されていない現実を突きつけられているから。




