第三十八話 愛という憎しみ
日が落ちた魔塔の最上階は、魔術で灯された無機質な光が辺りを照らし、リヒャルトの白い肌を透き通る程に美しく映し出していた。
緋色のケープに掛かる銀髪は、触れれば氷の様な冷たさに指が悴むのではと想像させる程に繊細で、神が人の姿を借りてこの世界に舞い降りたならば、恐らくこのような姿をしていることだろうと、エヴェリーナには思えてならなかった。
リヒャルトは、左手の親指の付け根に刻まれた焼き印を、右手の親指でゆっくりと撫でつけた。
『Treason(反逆)』を表す『T』の文字をアドルフに焼き付けられた後、彼自身の印章を模した焼き印が、上から重ねて刻まれていた。
百合と十字架に鋭い茨が幾重にも絡みついているそれは、彼の過去を彷彿させる痛みと呪いが入り混じった印章だった。
彼は自ら、己の肉を焼き、アドルフに焼きつけられたときよりも長い苦痛に耐え、過去を上書きしようと試みたのだ。
どれほどに痛めつけようとも、過去が消える事はないというのに。
エヴェリーナは静かに言った。
「……アレシュは、あの子はお前に似すぎている。だからこそ、アドルフは毛嫌いするのだろう。対してミハルは、イルジナ譲りの漆黒の髪に、アドルフと同じアメジストの瞳を持つ。イルジナが死んだ今、あの子をアドルフの子だと誰もが信じている」
エヴェリーナは立ち上がると、リヒャルトのすぐ隣へと腰掛けた。甘える様に寄り添い、今も尚深く刻まれた焼き印が存在しているであろう右肩を、緋色のケープの上から撫でた。
「私は昔から、お前の事を愛していた。アドルフよりもね」
しばらくの間を置いた後に、リヒャルトは答えた。
「……知っていましたよ。貴女は私を、常に獲物を見るような目で見つめていましたから。ですが、貴女は勘違いをしています」
リヒャルトは僅かに肩を揺らして笑った。
「私は自分の意志で貴女との関係を持った。私は、貴女を愛しているのです」
「私を、お前がか?」
リヒャルトは笑みを浮かべたまま言った。
「勿論です。そうでなければ貴女を探したりなどしませんよ。やっと見つけ出す事ができました。どれほどにこの日を待ちわびていたことか」
「……違う。お前のそれは憎しみだ」
こうして寄り添って身を預けているにも関わらず、リヒャルトは指一本たりともエヴェリーナに触れようとはしない。寧ろ、触れる事を頑なに拒み、触れられる事に対する拒絶を必死に耐えているようにすら見えるのだ。
「お前は私が憎くて堪らないのだろう? 復讐したくて堪らなかったはずだ!! 自分では気づかぬのだろう。だが、その瞳には憎しみの炎が宿っている!!」
——もし初めから、歪な形ではなく恋人同士としての関係を築けていたのなら……。
そう考えて、エヴェリーナは嘲笑した。
——過去は変えられない。だが、未来は変えられる。その為に、私は聖女を呼び寄せたのではなかったのか……?
世界の均衡を保つ為の『調整者』として、聖女を呼んだなど方便だ。
私は自分の為に魔塔主としての立場を利用したのだ。
狂おしい程に愛するこの男を、憎しみの沼から引き上げる為に……。
いいや、壊れたこの男を、修復する為に……。
「憎しみをリーディアに向けるのは止せ。あの娘はお前に所有させる為に呼んだのではない」
「憎しみ? そうではありません。私はあの子を愛しているのです」
「……リック」
エヴェリーナは眉を寄せてリヒャルトを見つめた。
「あの娘は魔塔の保護下に入った。教会は一切の関与ができな……」
エヴェリーナは話し終える前に、声を出す事ができなくなった。
焼き印の刻まれたリヒャルトの手はエヴェリーナの喉を締め付け、爪が皮膚に食い込み、肉を裂いた。
「あの娘まで、私から奪うのか!!」
激昂したリヒャルトが声を張り上げた。
「だが、残念だったな!! あの娘は自ら望んで私の側に身を置き、自ら望んで私と一生添い遂げると誓いを立てたのだ!! 本人の意志には、何人たりとも干渉できるものか!! アレシュも渡さない!! 今更母親面をするな!! お前はあの子を捨てたのだ!!」
喉を押し潰される——エヴェリーナがそう覚悟し、意識を失いかけた寸前、リヒャルトはパッと手を離した。
床へと倒れ、エヴェリーナはむせながらも必死に息を吸い込んだ。ズキズキと痛む首に、つぅっと鮮血が滴る。
リヒャルトはニコリと微笑んだ。
「貴女が私の行く道を阻もうとも、構いませんよ。ただ、これだけは覚えておきなさい。教会は、貴女を異端者であると認定しているということを。この狭苦しい塔から出る事もできずに、一体何ができるというのですか?」
——アドルフよ、私たちはとんでもない化け物を作り出してしまったようだ。
エヴェリーナはゾッとして、唇をニヤリと歪めた。
「そうすることで、お前が何を護ろうとしているのか、自分で分かっているのか?」
リヒャルトは微笑みを崩さないまま「勿論ですよ」と答えた。
エヴェリーナがフと鼻を鳴らす。
「知っているぞ。トロッケンがウィシュテンバーグに戦を仕掛けるよう仕向けたのは、リヒャルト、お前だろう?」
リヒャルトは何も答えずに手袋を嵌めて、手首のボタンを一つ留めた。
エヴェリーナが言葉を続けた。
「かの国で疫病を蔓延させ、そのタイミングでウィシュテンバーグ王国が大量の特効薬を世界中からかき集めたとあれば、自ずと矛先が定まるというものだ! 何故だ? 何故そこまでアドルフに執着する!?」
すっと立ち上がると、漆黒のカソックの裾を払い、リヒャルトはニコリと微笑んだ。
「……それでは、魔塔主殿。私のこの身は主のもの。例え神に見放された不浄の地に於いても、祈りは欠かすべきではありません。失礼しますよ」
ハ……と、乾いた笑いを発すると、エヴェリーナも立ち上がった。
別れを惜しむように……いや、昔を懐かしみ、彼の心の平穏を祈るかのように、エヴェリーナはリヒャルトを見つめた。
だが、彼から返される眼差しからは、何の感情も窺えなかった。
「……部屋までご案内するよ、枢機卿猊下。この魔塔の中でも選りすぐりの豪華な部屋を用意させた」
リヒャルトは笑みを崩さないまま僅かに頷いた。
「貴女の服は埃だらけですよ、魔塔主殿。その、豪華な部屋とやらが不浄に満ちているようでしたら、ご心配には及びません。荷馬車に天幕を積んできております故、私はそちらで結構です」
エヴェリーナは強引にリヒャルトの腕を掴むと、自動階段へと向かった。
「案ずるな、汚いのは私の部屋だけだ」
自動階段に運ばれながら、恐らく元魔塔主のダヴィットは、あの部屋の惨状を目の当たりにして耐えられず、直ぐに出て行ったのだろう、とリヒャルトは思った。




