第三十二話 冷やすのも、温めるのも
大理石の浴槽の中で、リダは立ち膝となりかじかんだ手を握り締めながら、必死に寒さと戦っていた。
絹糸のような髪が濡れそぼり、胸の下までを冷水に浸かっているため、純白の聖衣も冷えて身体へと張りつき、彼女の体温を奪っていく。
すっかり色を失った震える唇を動かして、リダは目の前の椅子に腰掛け、本を読んでいる男に声を掛けた。
「お願いだよ、枢機卿猊下……。このままじゃ……さ……寒くて……し、死んじゃう……」
呼吸すらも震え、歯がカチカチと鳴った。
リヒャルトはサファイアブルーの瞳をリダへと向けると、小さくため息をついた。揺れる燭台の光が彼の銀髪を照らし、リダはその灯の熱ですら渇望した。
「……リーディア、貴女の中に住まう悪魔はまだ祓われていないようですよ。いけませんね、この程度で音を上げているようでは、聖女としての修練も足りません」
「悪魔なんかじゃない!! あ……あたしは……!!」
「名を名乗りなさい、穢れた霊よ。汝はいつから、この清らかな聖女の奥底に潜み続けてきたのですか?」
「名前は、『リダ』だよ!! リーディアの愛称だ!! あたしは、未来のリーディアだ!! 何度も言ってるだろう!? もう……限界なんだ!!」
リヒャルトは溜息をつくと、首をゆっくりと左右に振った。
「主の炎に焼かれる前に、この冷徹な真実に屈し、立ち去りなさい」
この問答を、もう何度繰り返しただろう。震え続ける身体は疲れ果て、意識も次第に朦朧としていた。
——ダメだ。何を言っても、こいつは最初から聞く気なんか無い。あたしが居なくなるまで続ける気だ。あたしだって、自分の意思で未来に帰れるならとっくにやってるっての……。
「猊……下……」
震えが消えていく。
——このままじゃ、この身体が持たない……。リーディアが反応しなくなっちまってる。リヒャルトを怒らせてでも、何とか……。
リダは朦朧としながらも唇を動かした。
「これは、本当に……神の為……か?」
凍えた身体から感覚が失われていく。
「あんたに……悪魔祓いなんかする権利……が。本……当にある……のか?」
リダは意識を失いかけながらも必死になって声を放った。
「その身体には……絶対に、消す事の……できない……罪の、跡が残っている……くせ…に!!」
ガタリ、と椅子が動く音が聞こえた。
「その……焼き印が……ある、穢れ…た、手に……あたし……を……」
ぐっと、力任せに顎を掴まれた。
温もりが、伝わる。
「……舌を切り落とされたいのですか?」
はぁ……と、息を吐き、リダはその温もりに縋りながら言葉を吐いた。
「アレシュのせいだ……!! あい……つ……が!」
サファイアブルーの瞳が鋭く、冷酷な光を帯びた。
悴んだ手を伸ばし、リダがリヒャルトの衣服を掴む。
「………………く、しゅんっ」
潤んだラピスラズリの瞳をリヒャルトへと向けた。
「……り……ひゃる……とさま……」
眉を寄せ、リーディアはリヒャルトを見上げながら言った。
「わた……くし……は……貴方の……お側…で……一生を……」
ふらり、と倒れ込むリーディアの身体を、リヒャルトが支えた。
濡れた衣服に忌々しげにため息を吐くと、彼女を抱き上げた。
◇◇
揺れる暖炉の炎が、チラチラとリーディアの頬を照らす。
瞳を開くと、甘い香りと共に、喉に張り付くような苦味を感じた。
右肩を優しく抱かれる温もりに微睡みながら視線を上げると、さらりとした長い銀髪を肩から零し、緋色のガウンの隙間から端整な鎖骨が覗いていた。
——温かいわ……。
「気が付きましたか?」
低い声が直ぐ耳元で聞こえ、リーディアは驚いて顔を上げた。
緋色のガウンに身を包んだリヒャルトが床に座り、暖炉の前でリーディアを抱いたまま、書籍を片手にニコリと笑みを向けた。
「あ……わたくし……」
リーディアの衣服はまだ濡れており、その上から緋色のケープが掛けられていた。
「昏倒した様です。少し無理をさせ過ぎた様ですね。それでも、成果はありましたよ。未来の貴女を名乗る悪魔を追い出す事が出来たようですから」
≪……くしゃみで入れ替わっただけだっつーの≫
リダの声を聞き、リーディアは胸を撫でおろした。
——リダ、本当に居なくなってしまわなくて良かったですわ。
≪どうでもいいけど、このエロ野郎、あんたを抱きしめてるぜ?≫
「!!!!」
ハッとして身体を起こすと、リーディアは顔を真っ赤にしながらリヒャルトから離れた。
「申し訳ございませんリヒャルト様!! わ、わたくし!! 御身に触れて!!」
オロオロとするリーディアを見て、リヒャルトはフと笑った。
「謝罪など不要です。貴女を冷やしたのは私ですが、温めるのも私の役目です。主も、貴女という貴重な聖女の器がここで壊れることは望まないでしょう」
≪いい気なもんだ。こっちはマジで死ぬかと思ったってのに……≫
「でも……リヒャルト様も濡れてしまいましたわ」
「案ずることはありません。私の衣服が濡れる事など、貴女の命が失われる事に比べれば些細な問題です。さあ、暖炉の熱でしっかりと温まりなさい」
リーディアはリヒャルトに言われた通り、暖炉の前へと腰かけた。パチリと火が爆ぜて、ラピスラズリの瞳を強く照らす。
書物のページを捲る音が静かに響いた。
「……リヒャルト様。『リダ』の存在を、教会はお許しにならないとは思いますが、これはわたくしのせいではないのです」
リヒャルトは瞳を上げ、リーディアへと視線を向けた。
「『リダ』が言ったとおり、アレシュ王太子殿下のせいである、と言いたいのですか?」
一瞬、リーディアは躊躇った。だが、射抜くようなサファイアブルーの瞳に臆し、すっと目を逸らした。
「……わたくしが存じていることは、あの日、王城に魔法師が呼ばれていたということだけですわ」
——大臣達が行ったあの行為の裏に、アレシュ様が関わっていた可能性は高いわ。けれど、たとえアレシュ様が関わっていたとしても、魔塔の術で起きたことなら、教会が王太子殿下を裁くことはできないはず。
リヒャルトが眉を寄せた。
リーディアはドキドキとしながら唇を噛みしめた。
「魔法師、ですか。つまりは魔塔が関与している、と……?」
「……はい。恐らくは」
リヒャルトが押し黙り、リーディアは恐る恐る「リヒャルト様?」と彼に視線を向けた。
持っていた書物を閉じ、リヒャルトはニコリと笑みを向けた。
「……わかりました。近日中に、共に魔塔へと向かいましょう。ですが、魔塔は教会の者が領域内に足を踏み入れる事を極端に拒みます。二人の王子に協力を仰ぎましょう。審判を下す為にも、彼等の同行は都合が良いですから」
リヒャルトは「それと……」と、言葉を続けると、珍しく厄介そうに眉を寄せた。
「貴女のお父上であるベニーシェク公爵に、手紙を書いてください。彼は元魔塔主ですから、顔が利くはずです」
リーディアは、リヒャルトの役に立てる事を純粋に喜び、「はい、リヒャルト様!」と頷いた。
暖炉の中で、再び炎が爆ぜた。微笑むリーディアの絹糸の様な髪が強く輝き、リヒャルトの目にはエヴェリーナの姿と一瞬だけ重なって見えた。
◇◇◇◇
赤く重たい色合いのワインが入ったグラスを傾けながら、アドルフは口元を歪めた。
「……余をあまり侮るなと言ったはずだぞ、リヒャルト」
揺らめく燭台の明かりが、アドルフの銀髪を静かに照らしていた。




