第三十一話 従うか、失うか
鏡に映るリダからは、いつもの明るさがすっかりと失われ、憂鬱そうな面持ちで俯いていた。
「リダ、一体どうしてしまったの? 全然話してくれなくなってしまったから、居なくなってしまったんじゃないかと心配していたのよ?」
リーディアは枢機卿館にある自室の鏡台の前で心配そうに呼びかけた。
だが、リダは押し黙ったままで、リーディアは困った様にため息を吐いた。
「……ミハル様の事を気にしていらっしゃるの? わたくしに想いを告げてくださったから? でも、リダが愛するミハル様と、今のミハル様は別の方でしょう?」
≪解ってる。……あんなのは、あたしが愛したミハルじゃない≫
「リダ。『あんなの』だなんて。わたくしを助けようとしてくださっているのに、そんな言い方は良くないわ」
≪そうじゃない!! ミハルは、あんな汚い真似をするような奴じゃなかったんだ!!≫
リーディアは眉を寄せ、鏡の中で叫ぶリダを見つめた。
「リダ、『汚い真似』とは、一体何の事を言っているの?」
≪あいつが、アレシュの奴を戦地に送り込もうとしたってことだ!!≫
リダの言葉に、リーディアは血の気が引く思いで問いかけた。
「国王陛下のご命令なのでしょう? ミハル様は関係ないのではなくて?」
リダが、ラピスラズリの瞳からボロボロと涙を零した。初めてリダが泣く姿を見て、リーディアはハッとして唇を噛みしめた。
≪ミハルは、あんな目をするような奴じゃなかった! アレシュの為を思って、アレシュを一番に気遣って! 自分は選ばれなくても構わない、ただ寄り添っていたいだけだって寂しげに微笑んでいた様な奴だったのに!! 今のあいつは違う!! アレシュを蹴落として自分が王太子になろうとするだなんて、そんなのはあたしが愛したミハルじゃないっ!!≫
涙を零しながら叫ぶリダを見つめ、リーディアはぎゅっとハンカチを握りしめた。
馬車の中でリヒャルトから手渡されたそのハンカチは、甘いミルラの香りが染みこんでいる。
「……ごめんなさい、リダ。わたくしにはまだ、愛する事がよくわかりませんの。けれど、貴女がそう言うのなら、ミハル様は変わってしまった所もあるのかもしれませんわ」
リーディアはそう言った後、「でも」と、言葉を続けた。
「そんなにすぐ、人の本質まで変わるものなのかしら……」
リダは鏡の中で悲しげに俯いた。
≪分からない……。あたしには、もう……≫
ため息をつき、リダは言った。
≪……あんたはどうしたい? 本当にこのまま、リヒャルトの側に居る気なのか?≫
緋色のビレッタを脱ぎ、首元のボタンを一つ緩めたリヒャルトの姿を思い出し、リーディアは頬を染めた。
「そうですわね。わたくしはリヒャルト様のお側を離れませんわ。あの方のお側で一生を添い遂げると誓いましたもの。決して、わたくしにはリヒャルト様を裏切ったりなんかできはしないわ」
≪そうか。あんたがそう決めたんなら、あたしはもう何も言わない。でも、これだけは覚えておいて。あいつは、あんたを愛してなんかいない≫
コツコツと扉がノックされた。返事をすると、廊下からシスターが声を掛けた。
「聖女様。ヴェスペレのお時間です。枢機卿猊下がお待ちでございます」
◇◇
大聖堂の大鐘が王都に鳴り響く中、緋色の聖衣に身を包んだリヒャルトと、純白の聖衣に身を包んだリーディアが門の前へと到着した途端、小鐘がけたたましく鳴った。
重厚な扉が開け放たれると同時にパイプオルガンの音色が大聖堂内に響き渡り、十字架と大きな蝋燭を掲げ持った侍者たちが先導して入場した。
むせ返る程の煙を撒き散らしながら香炉が振られ、その後ろを聖職者達が列を成して続く。
緊張して唇を噛みしめるリーディアに、リヒャルトはニコリと笑みを向けた。
最後尾を悠々と歩くリヒャルトの隣に、リーディアは隠れる様に小さくなって並んだ。
ヴェスペレに集まった沢山の人々の間を行列は進み、リヒャルトの緋色の聖衣が見えた途端に、ピリリとした緊張が走る。
パイプオルガンの音色がやかましい程に響き渡っているというのに、静寂を感じる。
リヒャルトが歩く度に聞こえるその衣擦れの音さえ聞き逃すまいと、皆が耳を澄ませているように思えた。
≪……確かに、リーディア。あんたの言う通り、こいつには誰も逆らえねぇ。裏切ったりなんかしたら最後、どうなることか≫
リダがため息交じりにそう言った。
祭壇の前で深く一礼をするリヒャルトを、全ての者達が陶酔したような眼差しで見上げる。
詩編の朗唱が終わり、やがてリヒャルトが口を開いた。
「マグニフィカート……私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜び讃えます」
透き通るような、低く聞き取りやすい声色で唱え出したリヒャルトに続き、聖歌隊が歌い継ぐ。
≪神を崇めてるってよりも、これはもう……≫
リヒャルトの隣に立ち、祈りを捧げているリーディアなど誰の視界にも入っていない。
皆、緋色の聖衣を身に纏う高貴で崇高な存在にのみ、注目しているのだから。
むせ返る程に甘いミルラの香りが、全ての者達を包み込んでいた。
◇◇
枢機卿館へと戻る馬車の中で、リヒャルトは品良く座り、開け放たれたカーテンから彼の姿を一目見ようと集まる者達に微笑みを向けていた。
「っくしゅん!」
リーディアのくしゃみに、リヒャルトは心配そうに視線を向けた。
「……主が汝を祝福されますように。風邪でも引きましたか?」
「風邪っつーか、あんたと馬車に乗ってると、ミルラの臭いで鼻が曲がりそうなんだっつーの!」
リダは悪態をつくと、苦笑いを浮かべた。
≪リダ、お行儀良くして頂戴!≫
リヒャルトの眉がピクリと僅かに動いた。
「……リーディア。この間も思いましたが、貴女は突然、別人のようになることがありますね」
——やべっ!
「あ、いや。えーと、き、気分転換!?」
背にだらだらと汗をかき、リダはリヒャルトから目を逸らした。リヒャルトはサファイアブルーの瞳を向けてじっとリダを見つめる。
「あ……す、枢機卿猊下? そんな風にあんまりじっと見てっとさ、あらぬ噂とやらが立つかもしれねぇぜ?」
上ずった声でそう言ったリダに、リヒャルトはにこりと笑みを向けた。
笑みを向けたリヒャルトに少し安心し、リダもへらへらと笑う。
「……狩猟大会での目を疑う様な活躍といい、枢機卿館の外壁をよじ登り、私の部屋へと忍び込んだ行動といい、貴女の中には、何か不穏なものが潜んでいるように思えます」
ドキリとして、リダは顔を引きつらせた。
「不穏だなんて。そ、そんな人聞きの悪い……」
「……そのままではいけませんね」
少し考えた後、溜息まじりにリヒャルトは言った。
「然るべき処置を行う必要があるでしょう」
「し、然るべき処置……?」
ごくり、と息を呑むリダに、リヒャルトはサファイアブルーの瞳を向けて言った。
「悪魔祓いの儀式を行わなければなりません」
ゾッとして、リダは慌てて立ち上がった。
ゴッ!! と激しく馬車の天井に頭を打ち付けて、思わず悶絶する。
「……落ち着きなさい、皆の目があるのですよ。愚かな姿を露呈してはなりません」
「ちょっ!! 待ってくれよ、悪魔だなんて誤解だっ!!」
「品位を守りなさいと言っているのです」
リダは大人しく姿勢を正して座ると、ぎこちない笑みを浮かべた。
「あ、悪魔祓いって、何すんの……? 聖水ぶっかけられるだけじゃ、きっと済まねぇよな?」
リダの質問には答えずに、リヒャルトは静かに笑みを浮かべたまま窓の外へと視線を向けた。
集まる群衆達がリヒャルトの視線に歓声を上げる。
リダは引き攣った笑みを浮かべて脂汗を垂らし、突然迎えた絶体絶命に既に昇天するような思いを味わった。
——ヤバイヤバイヤバイヤバイ!! これはマジでヤバイ!! これだけの権威を持っていて且つ、鬼畜ときた! 超絶拷問されるんじゃ!?
「えっと、お行儀よくするからさ。恐ろしいことするのはやめてくれよ」
「……それ以前に、『悪魔に魅入られた者』となれば世間が貴女をどう見るかを考えてはどうですか?」
リヒャルトのその言葉にゾクリとして、リダは背筋を凍り付かせた。
——異端者……。そんなの、社会的『死』じゃねぇか……。
いや、それだけじゃない。つまり、それは……。
「じ……冗談キツイ……」
——あたしが、消される……?
≪そんな、リヒャルト様は酷い事をなさる方じゃありませんわ!≫
——あんたにはそうだろう。でも、あたしには……。
膝の上で握りしめた拳が震える。
瞳が宙を泳ぎ、縋る様に笑みを浮かべるリヒャルトへと向けた。
「頼むよ。悪魔祓いだなんて、そんなこと止めてくれ……」
唇が震え、じんわりと瞳に涙が浮かんだ。
「あんたの言う事を何でも訊くから。頼むよ……」
リヒャルトは溜息を吐くと、少年のような無邪気な笑みをリダへと向けた。
「……深夜に私の私室へと来なさい。そこで選ぶのです。従うのか、失うのかを」
震えながら、リダはぎゅっと瞳を閉じて頷いた。
揺れる馬車を囲む群衆達の歓声が、死の道へと進む為の呪いの歌であるかのように、リダの耳には聞こえた。




