第二十九話 歪んだ歴史
軍旗への刺繍を終えて針を持つリーディアの手を、ミハルは大きな手で包み込んだまま動かなかった。
「……ミハル殿下?」
戸惑ったように声を掛けると、ミハルは僅かに躊躇してリーディアから離れた。
「申し訳ございません、リーディア嬢。いつまでも貴女に触れていたいと、私の心がいう事を聞きませんでした」
リーディアは頬を染めると、俯いた。
「あの、ミハル殿下。それで、王太子殿下が出兵されるというのは……?」
「はい。先ほど枢機卿猊下と話した通り、陛下がお決めになったことです。隣国のトロッケンの情勢が危うく、直ぐにでも対処しなければなりません」
——けれど、アレシュ様は王太子ですのに……。
ぎゅっと拳を握り締めたリーディアに、ミハルは心配そうに眉を寄せた。
「リーディア嬢。昏倒されたと聞き及びました。一体どれほどの心労を重ねたというのです?」
「何も仰らないで!!」
咄嗟に悲鳴のように叫び、リーディアは両手で頭を抱えた。どれほどに目を逸らそうとも、何かに縋りつこうとも、自分の犯した罪から逃げる事などできはしないのだ。
震えるリーディアの前で、ミハルは唇を噛みしめて眉を寄せた。
「あのような冷たい檻に閉じ込められている貴女を想い、私がどれほどに苦しみ、胸を焦がしたことか、貴女は知らないのでしょう」
「わたくしは平気ですわ。だって、枢機卿猊下がお側にいらっしゃるのですもの!」
「あのような所に居れば、貴女の心が壊れてしまいます! 私は、必ず貴女をあの石の檻から救い出してみせます!!」
リーディアの瞳から涙が溢れ落ちた。唇が震える。
「言ったはずですわ。わたくしの事は、どうぞお忘れになってと……」
「……忘れられるはずがありません」
ミハルはリーディアの前に跪くと、漆黒の髪をさらりと肩から零し、独白の様に言葉を吐いた。
「愛しています。リーディア」
リーディアの中で、リダが声にならない悲鳴を上げた。リーディアはラピスラズリの瞳を左右に揺らし、戸惑うように言った。
「ミハル殿下。わたくしは、リダではなくリーディアですわ! ご存知でしょう? わたくしの中には……」
「勿論、存じております。それでも私は——リーディア、貴女を愛しているのです」
——でも、わたくしは……アレシュ様を……。
『そんなものは愛情とは言わない。ただの“依存”だ!!』
——わたくしの、アレシュ様を想う気持ちは依存ですのね……? でも、リヒャルト様は……。
『……リーディア。違う。それは救いじゃない。愛なんかじゃない! その温もりだって“依存”だ』
——わたくしの、リヒャルト様を想う気持ちも、『依存』……?
ミハルはアメジストの瞳を向け、懇願するように言葉を吐いた。
「私は、貴女にこの髪色を認められたその日から、ずっとお慕いしていたのです。兄上の婚約者であることで身を退いていましたが、その必要がないということが分かったのです」
「……その必要が無いとは、どういう事ですの?」
首を左右に振り、後ずさるリーディアを見つめながら、ミハルは悲しげに眉を下げた。
「お話し致します。ですから、どうかそのように怯えないでください。私はただ、貴女をお救いしたい。それだけなのです。例え貴女の気持ちが私に向いていなくとも構いません」
ミハルは立ち上がると、リーディアに手を差し伸べた。躊躇するリーディアに、優しく微笑みを向ける。
「貴女を脅かすような事は絶対に致しません。お約束します。誓っても構いません」
躊躇いながらも手を伸ばし、ミハルの手にそっと指先が触れた。
「感謝致します、リーディア」
ミハルにエスコートされながら、祈祷室の奥へと進んで行く。群青色の垂れ幕に隠れる様に告解室の扉があり、ミハルはそっと開いて、安心するようにとリーディアに笑みを向けた後に室内へと足を踏み入れた。
艶やかな黄金色の髪に、ブルートパーズの瞳をした女性の肖像画が掛けられており、リーディアは思わず呟いた。
「お母様……?」
ミハルは微笑みを浮かべながらゆっくりと首を左右に振った。
——そうだわ。王城にお母様の肖像画があるはずなどないのだもの。つまり、この方は……。
「エヴェリーナ王妃陛下……?」
ミハルがため息をつき、頷いた。
「エヴェリーナ王妃陛下はリーディアの伯母にあたる方ですから、貴女にも大変良く似ていらっしゃいますね」
ミハルは躊躇う様に言葉を止めると、リーディアをアメジストの瞳で見つめた。
「兄上は……リヒャルト枢機卿猊下と、エヴェリーナ王妃陛下との間に生まれた不義の子なのです」
リーディアの心臓が激しく鼓動した。
リヒャルトとアレシュの顔を思い浮かべ、二人が随分と似ている事を思えば、ミハルの発言が虚偽であるとは言い切れないと思った。
震える声で、リーディアはミハルに問いかけた。
「ミハル殿下。どうしてわたくしにこのような事を? わたくしが、枢機卿猊下の穢れを知る事で、共犯者であると断罪するおつもりなのかしら?」
「そうではありません!」
ミハルは慌ててリーディアの前に跪いた。
「先ほども言った通り、私は貴女をお救いしたいのです! 兄上——いえ、アレシュは、陛下の血を引いてなどおりません。ならば、私こそが王太子であるべきなのです。私が王太子となれば、陛下のご助力を仰ぎ貴女を助け出す手立ても生まれる事でしょう」
リーディアは首を左右に振った。
「ミハル殿下は、アレシュ王太子殿下に死ねと仰るの!?」
「いいえ! そうではありません!! ですが、『未来の貴女』が現れなければ、アレシュはあの日再起不能になっていたのでしょう? 歪んだ歴史を正すに過ぎません。私はただ、貴女をお救いしたいのです!!」
絶句するリーディアの頬を、涙が幾筋も零れ落ちた。
「わたくしは……!」
「アレシュは……貴女を愛していません」
ズキリ、とリーディアの胸が痛んだ。
「そんなこと、解っていますわ!」
「……すみません。貴女を傷つける気は無いと言っておきながら、結局はこうして傷つけていますね」
ため息をつくと、ミハルは優しく微笑んだ。
「必ず、貴女を取り戻してみせます。愛しています、リーディア……」
涙を零すリーディアが痛ましく思えてハンカチを差し出したが、受け取ることをせずに肩を震わせた。
ミハルは立ち上がると、リーディアの瞳を優しく拭いてやった。
「貴女は覚えていらっしゃらないようですが、初めて貴女と出会った日、アレシュではなく私が婚約者であれば良かったと仰ってくださった」
『わたくしの、婚約者が。アレシュ様ではなく、ミハル様ならよろしかったですのに!』
「私は、アレシュが『純血』である為、諦めざるを得なかったのです」
『だって! ミハル様の方がお優しいのですもの!』
「貴女は、私を『優しい』と言ってくださいました。本当は、ただ自分の生を諦めていたに過ぎなかったというのに」
ミハルは、リーディアの頬に張り付いた絹糸の様な髪をそっと耳に掛けてやった。吸い込まれそうな程に美しいラピスラズリの瞳を見つめて、狂おしい程にその唇を求めたが、目を逸らして自分を諫めた。
「戻りましょう。軍旗への最後の一針がこうも時間を要しては、あらぬ噂を立てられかねません。王城の侍従達は、あまり品がいい者達ばかりとは言えませんので」
ミハルのエスコートを受け告解室を後にし、祈祷室へと戻った矢先、扉が叩かれた。
「ミハル殿下、失礼致します。国王陛下、ならびに枢機卿猊下より招集が掛かりました。隣国への遠征に関する最終決定の場に、殿下と聖女の列席を求めておいでです。直ちに、諮問会議室へお越しください」
◇◇
ミハルとリーディアの二人が諮問会議室へと足を踏み入れると、全出席者の視線が集中し、リーディアは足がすくんだ。ミハルがサッと前へと進み出て、深く頭を垂れた。
「陛下、ならびに枢機卿猊下。お呼びにより、聖女リーディアと共に参りました」
リヒャルトが笑みで出迎え、アドルフは僅かに間を開けた後に言葉を放った。
「……うむ、よく来た。ミハルよ、王太子の隣へ。聖女よ、其方は猊下の隣席に着け」
リーディアはリヒャルトの元へと急ぎながら、中央に座らされているアレシュへと視線を向けた。
アレシュはリーディアと目が合うと、直ぐに無関心を装ったように視線を逸らし、出兵を控えているというのにどこか他人事の様な素振りをとっていた。
その隣へと、ミハルが腰掛けた。
リーディアの隣で、甘いミルラの香りを纏いながら、リヒャルトが透き通った声を放った。
「陛下、そして諸卿。我が国の至宝たる王太子を、ただ漫然と死地へと贈るなど、あまりに無策です」
アドルフが忌々しそうに眉を寄せたが、リヒャルトは笑みを浮かべたまま続けた。
「ミハル殿下。汝は兄に代わり、この国を背負う覚悟があるのでしょう? ならば、聖女リーディアに二人の王子の『正当性』を間近で検分させましょう」
リーディアは驚いてリヒャルトへと視線を向けた。だが、彼は淡々と言葉を続けた。
「出征前夜の晩餐までに、聖女の祈りに応え、軍旗を掲げるに相応しい『真の指揮官』がどちらなのか、その唇から神の審判を下させるのです。主の加護は、より強き者にこそ宿ることでしょう」
参加者達が軍隊の如く一斉に立ち上がると、深い一礼を捧げた。
椅子に掛けたままつまらなそうにしているアレシュの横で、ミハルは唇を噛みしめてリーディアを見つめていた。




