第二十六話 世俗の剣
僕がその事実を知ったのは、十四歳の時だった。
あの日は、リーディアとの婚儀を控えた前日で、周囲が慌ただしく式の準備をしている様子を、どこか他人事の様に見つめていたんだ。
——どうせ、どれほどの大礼だろうとも、母上である正妃は姿を現さないだろう。
諦めというよりは、既に納得に近かっただろう。僕が知る母の姿は肖像画の中だけで、実際に目にしたことなど一度も無かったのだから。
沐浴の儀として身体を徹底的に清められた僕は、自分の身体からぷんぷん香るハーブの匂いに眉を寄せながら、謁見の間へと出向いた。
謁見の間には、国王と宰相といういつものお約束ペアの他に、王弟にして枢機卿であるリヒャルトの姿があった。
叔父である彼は、そういった祝い事があると必ず王城に訪れてくれた。父である国王以上に、僕に目を掛けてくれている事が嬉しくて、彼の姿が見えると、いつもは真一文字に結ばれていた僕の口元は綻んだ。
だから、何の疑問にも思わなかった。『賜剣の儀』として、国王より賜る剣であるはずが、リヒャルトから手渡されることになろうとも……。
「アレシュ・ジェハーク。この剣を汝に託します。これは敵を討つ牙にあらず、汝が娶るべき妃と、汝を慕う臣民を守護する為の盾なり。弱きを助け、不浄を断ち、正義の刃を振るえ。剣の輝きは、汝の魂の輝きと心得よ」
枢機卿である彼は、こういった儀式にも手慣れている。低く、それでいて透き通る声が心地よく謁見の間に響き、厳かな空気を醸し出していた。
リヒャルトから剣を授かり僕は口上を述べた。
「この剣を授かりし誉を胸に刻み、この命に代えて、リーディア・ベニーシェクを不浄なる外敵から守り抜くことを、ここに宣誓いたします」
声高らかに宣言する様子を、微笑ましそうに見つめるリヒャルトの眼差しが、僕には嬉しかった。
尊敬……というよりも、崇拝に近かったのかもしれない。
王太子でありながら、国王にぞんざいに扱われている自分を慰めるには、それくらい傾倒できる対象がなければ気が狂いそうだったのだから。
リヒャルトが祝ってくれるのなら、それはきっと正しい事だ。
そして、この結婚は僕の望みではなく、国王の望みだ。
影のように国王へ付き従う宰相の、その娘という事は気に食わないけれど、僕は恐らく初めて父の望みを叶え、父に認められる存在になれるのだから、相手が誰であろうとも構わなかった。
——リーディアへと贈る王家の家紋が刻まれた指輪は、代々国王から賜るものなのだから。
初めて、王から賜る『王太子の証』……。
「アレシュ・ジェハーク。この指輪は、我が一族の歴史と誇り。そして主より授かりし統治の証です」
リヒャルトが述べる口上を聞き、僕の顔は強張った。
侍従が掲げ持つ指輪を受け取り、僕へと差し出すリヒャルトの姿を見て、ズキリ、と胸が痛んだ。
指輪を見つめていた視線を、その後ろの数段も高い玉座の上でふんぞり返っている国王へと向けた。
——どうして……?
この婚姻は、貴方が望み、僕に指示した事ではなかったのか……? それなのに、どうして指輪を授けるのが、貴方ではないんだ。
僕の顔が歪んだことを、恐らくリヒャルトは察していたことだろう。それでも彼は淡々と何事も無かったかのように、僕の指に『代々王家に伝わるらしき指輪』を嵌めた。
「……謹んで、拝受いたします。この指輪に刻まれし紋章に懸けて、ジェハークの血の誇りを守り抜き、王国の静謐にこの身を捧げることを誓います」
恐らく、僕の声は震えていたことだろう。
謁見の間を後にしながら、僕は強く唇を噛みしめた。
——父である国王陛下が、これほどまでにも僕に興味を示されないとは。一体何故……?
永遠の呪いであるかのように、この疑問は幼少の頃からずっと抱えて来た事だった。
今夜、僅かなりともこの疑問が崩れるはずだったのだ。
それなのに……。
礼拝堂へと向かう途中、僕はピタリと足を止めた。
脳裏に、絹糸のような金髪を可憐に揺らす、ラピスラズリの瞳をした少女が浮かんだ。
——彼女にも、この呪いを僕は与えてしまうのではないだろうか……。
「王太子殿下」
侍従が恭しげに僕に頭を下げて、銀のトレイの載せた小さな袋を献上した。眉を顰めてそれを受け取ると、「リーディア・ベニーシェク公爵令嬢より賜った『贈呈の儀』の品にございます」と言って、更に深く頭を下げた。
トレイにそのまま返したくなった衝動を抑え、「分かった、下がっていい」となんとか絞り出すように言って、僕は溜息を吐いた。
中を開いてみると、サファイアのピアスが入っていた。
その色合いときたら、悍ましい程に僕の瞳と同じ色だった。
彼女がどれほどに悩み、選んでそれに行き着いたのか。考えるだけでも虫唾が走った。
自分の指を見下ろす。
馬鹿馬鹿しくなって、僕は笑った。
そうだ。そもそも、指輪は立太子の際に賜るものじゃないか。まるでその場しのぎのように渡すようなものじゃない。
共に賜った王太子妃になるものへ授ける指輪……。彼女がこんなものを受け取って嬉しいはずがない……!
踵を返し、僕は謁見の間へと戻った。『指輪授受の儀』を、正しく行って貰うよう、国王に進言するのだ。
これは、僕だけではなく彼女に対しても軽視する行為じゃないか。
「王太子殿下、どちらへ?」
僕の行く手を塞ぐダヴィットに一瞥し、「陛下に拝謁しにいく」とだけ伝えると、彼は「謁見の間にはもういらっしゃいません」とだけさらりと伝えて去って行った。
去っていくダヴィットの背中を眺めながら足を止め、考えた。
リヒャルトが王城に訪れた日は、大抵二人は国王の祈祷室か、私室の隣の部屋で談笑している。
曲がりなりにも明日は王太子である僕の婚儀だ。僕が礼拝堂に一人朝まで籠る間、枢機卿が国王と酒を飲んで談笑していては、聖職者として違和感があるだろう。それならば、陛下が居るのは恐らく……。
爪先を国王の祈祷室へと向けて歩を進めた。重厚な扉を開け、中へと足を踏み入れた後、二重扉へと手を掛けてふと眉を寄せた。
——陛下がこの中に居るなら、扉の前で騎士が守っているはずだ。
つまりは、ここには誰もいない、ということか。
だが、室内から微かに話声が聞こえたので、止せばいいものを僕はそっと扉を開けたんだ。
室内には誰の姿も見当たらなかった。けれど、話し声は祈祷室の奥から漏れ聞こえてくる。誘われるように歩を進め、奥にある告解室を覗き込んだ時、僕は息が止まる思いで凍り付いた。
艶やかな黄金色の髪に、ブルートパーズの瞳をした女性が描かれた肖像画の下で、リヒャルトが跪いているのだ。
——あれは、母上の肖像画か? 随分と若い。しかし、それに向かって、一体何を祈っている……?
「……ああ、エヴェリーナ。『あの子』はまだ知らない。自分の身体に流れる血が、陛下の薄汚れた血ではないということを」
——なんだ? 誰の事を言っている?
「兄に奪われたあの日から、私のこの復讐は決まっていました。明日は『あの子』の婚儀です。共に祝ってはくれないのですか……?」
——!!!!
僕は……。
僕、は…………?
吐き気が込み上げる。
よろけて、迂闊にも側にあった燭台に手を引っ掛けて倒してしまった。
けたたましい音と共にリヒャルトが振り返った。
サファイアブルーの瞳を細めて、整った形のいい唇を横に引き、背筋が凍りつく程の笑みを浮かべて僕を見つめた。
彼の背後にある母上の肖像画が、明日婚姻する予定の彼女によく似ていることを、僕はその時初めて気が付いた。
慌てて踵を返し、僕は逃げた。
彼女と……結婚するわけにはいかない……。
◇◇◇◇
宣告式に緋色の聖衣を着込んで現れたリヒャルトは、壇上から高らかと声を放った。
「王太子殿下、この憐れな迷える羊を、聖女が主に代わって下した判決を以て、魂の浄化へとお導きくださいました。教会は慈悲深い故、これ以上の穢れは望みません。ゆえに、この男を汝の『世俗の剣』に委ねましょう。それこそが、聖女の祈りに応える唯一の道となるでしょう」
アレシュはチラリと視線を走らせた。すっかりと怯え切り、失神しそうなほどに震えている男を見つめた後、自分の席よりも一段高い場所に座るリヒャルトへと向けた。
リーディアの姿が見えない。
——まあ、別に顔なんか見たくも無かったから構わないけれど……。
アレシュは溜息を吐くと、面倒そうにリヒャルトに言った。
「一応、念の為訊いておくけれど。その聖女様はどこにいらっしゃるのですか?」
リヒャルトはニコリと微笑んだ。
「その男のあまりの罪深さに、昏倒されてしまいました。聖女は自らの身を焦がし嘆き悲しむ程に、慈愛に満ちているのです」
——何が『愛』だ、そんなもの、あんたは少しも持ち合わせていないくせに。相変わらず虫唾が走る。
アレシュはフンと鼻を鳴らすと、つらつらと棒読みで答えた。
「教会の下した厳粛なる裁きを受け入れ、王国の法に基づき、この者に相応しき罰を与えることを約束する」
そう言って憐れな男に視線を向け、眉を寄せた。
——……この男、ベニーシェク公爵邸のバトラーじゃないか?
ああ、なるほど。それでリーディアは昏倒したってわけか。
アレシュは天を仰ぐように見上げた後、下を向いて思いきり深いため息を吐いた。
チラリと後方に視線を向けると、憐れなバトラーの刑罰を執行する為の火刑柱が準備を終えている。
——全く、煩わしいにも程がある。
すっと手を上げ、アレシュは側に立っている騎士に耳打ちした。騎士が頭を下げ、素早くその場を離れた。
観衆が見守る中、兵士に連れられて憐れなバトラーは「いやだ、いやだ!」と悲鳴を上げ、周囲の観衆からヤジを飛ばされながらも、火刑台へと引きずられていく。
漆黒のカソックを身に纏い、紫色のストールを首から垂らした司祭が火刑台の側で震える男に寄り添った。
そして、最期の聖餐として葡萄酒を与える。
皆が見守る最中、葡萄酒を口にした男がどさりと倒れた。




