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第二十五話 慈悲を分かち合う日

 銀色の長髪をさらりと揺らし、リヒャルトが着替え室へと入って来た。


 リダは必死に息を押し殺し、『こっちに来るな!』と祈る思いで唇を噛みしめた。


 だが、リヒャルトの足音がリダの隠れるクローゼットへと近づいてくる。両手で口を押さえ、ドキドキと激しく鼓動する心臓さえも止まってくれと祈った。


 衣擦れの音が聞こえ、緋色のカソックを手にしたリヒャルトがクローゼットから離れた。


——うは……。あっぶな……。


≪本っ当に無鉄砲なんだから!≫


——だって、あいつの弱味になるものを何か手に入れておいた方がいいと思って。


≪リヒャルト様は完璧ですわ! 弱味なんか一つもありませんわよ!≫


 プツリ、プツリとリヒャルトがボタンを外し、衣擦れの音と共に着込んでいた漆黒のカソックを脱ぎ捨てた。

 手首で止められている手袋のボタンも外し、パサリと脱ぎ捨てる。


 すらりとした、細身ながら、よく鍛えられた大人の男性の肉体が露わとなった。


≪キャアッ! リダ、見てはいけませんわっ!≫


——いちいち煩ぇな。男の半裸なんて、傭兵達で見慣れたっつーの。しかしあいつ、聖職者のくせにいい身体してんな。


 だが、右肩に刻まれている刻印を見て、リダは眉を寄せた。


——なんだ? 一つの文字を潰すように、別の印を重ねて焼き付けたような……?


 リヒャルトが深いため息を吐き、右肩の刻印を撫でる様に左手で触れた。

 左手の親指の付け根にも、くっきりと押された焼き印が見える。


——嘘だろ……? なんで聖職者のあいつが、罪人に押すような焼き印を持ってやがるんだよ……。


 じっと息を顰めながらリダはリヒャルトから目を離せずにいた。

 彼の身体にある焼き印は、醜さよりも、むしろ崇高さすら感じる。そして、そう感じてしまう自分にゾッとした。


≪……今日見た事は口外しないで。お願いよ、リダ。リヒャルト様にはわたくし達が理解できないような苦悩がきっとおありなのよ≫


——言ったところで誰が信じるんだよ。あいつくらいの地位を持ってる奴が、一人で着替えしてんだぞ? 公衆の面前で服をはぎ取らねぇ限り、証明するのは無理だろう?


 他人に触れることも、触れられることも良しとしない『穢れなき身』を持つ枢機卿の秘密を暴露することは、誰にもできはしないのだ。


 恐らく、彼にあの刻印があることを知る者は三人のみ。


 リヒャルト本人と、リーディア。


 そして、『焼き印を押し付けた者』だ。


——ま、とはいえかなりの収穫だったなぁ。しかしあいつ、一体何をしでかしてあんな焼き印を押されやがったんだ? 王弟で枢機卿のあいつにそんな事ができる人間なんて……。


≪リダ、もう二度とやめて頂戴。心臓がいくつあっても足りないわ≫


——そう言いなさんなって、無事に事なきを得たんだからさぁ。……ふあ……


「くしゅんっ!!」


≪……あ、やば!!≫


 ピタリ、とリヒャルトが動きを止めた。


 しん、と室内が静まり返る。


 リーディアは両手で口を押え、震えながら瞳を閉じた。


——嘘でしょう!? お願い、気づかないで!!


 悲鳴の様に願う。


 だが、リヒャルトは物音のした方へ冷たい視線を向けたまま、緋色のカソックへ手早く袖を通した。新しい手袋のボタンを留める音が、静まり返った室内に響く。


 そして、つかつかと真っ直ぐにクローゼットへと向かって来ると、リーディアを隠しているカソックをシャッと手で分けた。


 怯えながら見上げたリーディアを、リヒャルトは訝しげに見つめる。


 その瞬間、穏やかだった瞳がすぅっと冷たく光り、整った形の唇を横に引き、背筋が凍りつくような笑みを浮かべた。


「……悪い子ですね。一体どうやって入ったのです?」


「あ……あの、お散歩していて。いえ、館の中を見学していたらいつの間にか!」


「私室の前には警護の騎士が何人も居るのですよ。それはありえない事です」


 リヒャルトは小首を傾げ、何かを思い出したようにリーディアの手を掴んだ。


「リヒャルト様! お許しください!!」


 涙を零しながら訴えるリーディアの手を引き、リヒャルトは着替え室から隣室へと移動した。


 かんぬきが外され、開いた窓を見て眉を寄せ、呟く様に言った。


「まさかここから? しかし、公爵令嬢の貴女が一体どうやって……」


 ぶつぶつと、リヒャルトは更に言葉を続けた。


「……狩猟大会の熊を倒したのは、アレシュのはったりかと思っていましたが、まさか」


「違います、わたくしは……」


 リーディアは震えながら首を左右に振り、唇を震わせた。


「本当に、リヒャルト様を困らせるつもりなど無かったのです!!」


 じっと、リヒャルトは怯えるリーディアを見下ろした。強く掴んでいた手を離し、涙を零しながら床へと崩れ落ちる彼女を、サファイアブルーの瞳で見つめる。


≪おい、リーディア。あたしと替われ!! こいつを蹴飛ばして逃げてやる!!≫


「二度とこのようなことはしません! お願いですからご慈悲を!!」


≪こんな奴に赦しを乞う必要なんかない! 目を覚ませ! こいつは罪人だぞ!!≫


「ご慈悲を、リヒャルト様……」


 リヒャルトは深いため息を吐いた。


 室内にリーディアの嗚咽が響く。


 肩を震わせ、怯えながら涙の粒をいくつも零した。


「わたくしはリヒャルト様のお側で一生を遂げると誓ったのです! お願いですから、わたくしをお見捨てにならないでください!!」


 リヒャルトの視線が一瞬だけ自らの右肩へと向いた。だが、リーディアに何を見たのかとは問うことはせず、すっと早足で部屋を出た。


 廊下に控えていた騎士に言葉を掛ける様子が聞こえてくる。


「暫くの間、この階への立ち入りを警護の者含め禁じます。直ちに去りなさい」


 そう言って扉を閉じると、床に座り込んで泣いているリーディアの側に屈んだ。


「……リーディア」


「リヒャルト様に見捨てられてしまったら、わたくしはもう……残されているのは死しかありませんわ!」


 白い手袋をつけた人差し指を、リヒャルトは自らの唇に押し付けて僅かに笑みを向けた。


「取り乱すのはおやめなさい。取り乱していては、夕方に行うと貴女に伝えていた務めを全うすることができません。聖女としての初仕事ですから、大切な仕事です。戻りなさい。戻って心を落ち着かせるのです。今の貴女では、務めになりません」


 泣きじゃくるリーディアの頬に張り付いた髪を、リヒャルトはそっと耳に掛けてやると、ニコリと少年のような笑みを向けた。


 耳元へと唇を近づけ、低く透き通った声で囁く。


「さあ、お行きなさい。迷える子羊よ。貴女の道は主が選び、導いてくださるのです。従い、進むのです。さすれば全ての罪が赦されることでしょう」


「はい……リヒャルト様……」


 リーディアは震える膝を押えながら立ち上がると、深く頭を垂れた。

 そして、怯えきった身体で気品を保とうと精一杯の努力をしながら、部屋から出て行った。


 彼女のその背を、リヒャルトは静かに見送った。



◇◇◇◇



 純白の聖女の聖衣に身を包み、リーディアは緋色の聖衣に身を包んだリヒャルトに案内されながら、大聖堂の中へと足を踏み入れた。


≪おい、リーディア!! そいつに従うな!!≫


 ステンドグラスから光が差し込むその場所には、貴族達がひしめき合い、リヒャルトが足を踏み入れた瞬間に一斉に席から立ち上がった。


 背筋を伸ばし、優雅に歩くリヒャルトを深く頭を下げて皆が出迎える。

 その後ろをリーディアはついて歩きながら、彼の歩く速さに遅れを取らないようにと歩を進めた。


≪リーディア!! あたしの言葉を聞けっ!!≫


 祭壇の前に設置された椅子へと腰掛けると、リヒャルトは透明感のある声で言い放った。


「楽になさい、迷える羊たちよ。今日は慈悲を分かち合う、喜ばしい日なのです。聖女の初の務めを目にする幸福を、神は皆にお与えくださったのです」


 貴族達が椅子へと腰掛けると、兵士に引きずられるようにして一人の男性が連れて来られた。暴行を受けたのか、体中が傷付き衣服も破れている。


「聖女よ、主の代弁者として、この者の魂を見極めなさい」


——初仕事ですもの、絶対に失敗できないわ。これ以上リヒャルト様にがっかりされてしまったら、わたくしは……。


 リーディアはリヒャルトの言葉にはっきりと答えた。


「はい、枢機卿猊下。わたくしは、主の御心の赴くまま、曇りの無き目で見極めます」


 しんと静まり返る中、リヒャルトがすっと薄汚れた男へと視線を向けた。男は怯えたように身体を震わせ、叫ぶように声を張り上げた。


「私は何もしていません!! ただ、街で少し、教会の徴税に対しての疑問を呈しただけなのです!!」


 リヒャルトは淡々と声を放った。


「教会の決定に対し、汝は疑義を呈したということですね。それは即ち主への反逆に値する行為です。そして、報告によれば、汝は当初の取り調べでその行為を『隠蔽』しようとしましたね?」


『あ……あの、お散歩していて。いえ、館の中を見学していたらいつの間にか!』


 リヒャルトの私室で、リーディアがついた嘘が脳内に響き渡る。


——嘘は、良く無いわ……。


「聖女よ、この男の言葉に、『真実』は感じられますか?」


 リヒャルトがリーディアへと視線を向け、促す様に頷いた。


「……いいえ。主を疑い、欺く心は、魂を曇らせますわ。この者の言葉には、迷いと不敬しか感じられません」


 ニコリと、リヒャルトが笑みを浮かべる。


「素晴らしい。聖女がそう仰るのだ、汝に救いはありません。連れて行きなさい」


 兵士が男を拘束しようとすると、彼は暴れ、必死になって叫んだ。


「ああ、聖女様!! リーディアお嬢様!! どうかご慈悲を!! ベニーシェク公爵邸に仕えたこの私をお忘れですか!!」


——え……?


 眉を寄せるリーディアの前で、男は兵士に殴られ、「リーディアお嬢様!!」と叫びながら引きずられて行った。


 ポツリと、書類に目を落としながらリヒャルトが言う。


「……ほう、本日の執行立ち会いは王太子殿下ですか。聖女の初仕事を目にする誉を、神は彼にお与えくださったようですね」


——……アレシュ…様……?


 サファイアブルーの彼の瞳が、リーディアを絶望に満ちて見つめる様子が脳裏に浮かんだ。


「そ……そんな……。わたくしは……!」


——わたくしは、今……何をしてしまったの……?


 顔面蒼白になり、リーディアは膝の力が抜け、ふっと意識を失った。

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