第二十三話 帰る場所など必要ありません
王城内の謁見の間で、ミハルは深く頭を垂れていた。さらりと肩から零れた漆黒の髪が、窓から射し込む光を反射して艶やかに輝く。
「其方が余のもとにこうして訪れるとは珍しいな」
アドルフはどこか疲れたようなしゃがれた声で言った。勿論、傍らには宰相のダヴィットが控えている。
「陛下にお願いがございまして、参上した次第でございます」
「ふむ……」
チラリと、アドルフはダヴィットに視線を向けた。
昨晩、ミハルが使用人に対して激昂したという報告は既に耳に入っていた。いつも温厚で大人しい第二王子が、突然人が変わったかのような状態ともなれば、様々な憶測が飛び交い既に王城中に広まっている。
現に、こうして謁見の間へと訪れる道中は使用人達が皆恭しげに頭を垂れ、通り過ぎる彼の背中を奇異の目で見つめていた。
「顔を上げ、申してみよ」
アドルフの許可を得て、ミハルがすっと視線を上げた。そのアメジストの瞳に意志の炎が宿り、狩猟大会で見たリーディア・ベニーシェクを彷彿させるものがあった。
「陛下、以前王太子よりご報告がございました、隣国トロッケンについての追加の報告です。当該国は急速に情勢が悪化しており、我が国にとっても予断を許さぬ一触即発の危機と見受けられます」
「なんだと!」
思わず声を荒げた国王の隣で、ダヴィットは冷静沈着に淡々と言った。
「我が国の偵察兵からはそのような報告を受けておりません。第二王子殿下、その情報は一体どういった経路でお耳に入ったことなのでしょうか」
ミハルはダヴィットへ視線を一切向ける事なく、アドルフを見据えたままハッキリと答えた。
「この髪色が示す通り、母上は東方の出でありました故、古くからの商人とも繋がりがございます。隣国トロッケンに於いては、疫病の蔓延を隠蔽する為に『聖戦』と称して我が国へ矛先を向け、内部の不満を逸らそうと画策しているのです」
ダヴィットは顔色を一切変える事無く、淡々と言った。
「信用に値する証拠をお見せ願えますか、第二王子殿下」
「無論にございます」
ミハルは紙の束を差し出した。ダヴィットが受け取って目を通すと、薄汚れた紙から真新しいもの、紙質もばらばらであった。
ミハルがアドルフを見つめたまま言葉を放った。
「トロッケンに出入りしている商人達からツテを通して入手した、注文書です。どれも同じ、興奮作用のある煎じ薬の注文書です。国境付近へ集中して納品されており、通常では考えられない数量です。彼等は飢えと病を忘れる為に、狂気へと身を委ね、我が国へと攻め入ってくることでしょう」
アドルフがダヴィットへと視線を向けると、ダヴィットは頷いた。
「信じるに値する情報かと存じます、陛下」
重苦しい空気が流れた。
アドルフは溜息を吐くと、トン、と一度だけ玉座の肘掛けに人差し指を叩きつけた。
「……ミハルよ、何故それを先に王太子に言わなかった」
ミハルは瞳を一瞬伏せた後、ダヴィットを刺す様な視線で睨みつけた。
「……公爵。貴方が教会の犬となりリーディア嬢を差し出したおかげで、この国の内政は綻び始めたのです!!」
肩を上下させ、抑えようの無い怒りをぶつけたミハルに、アドルフはハッとした様にアメジストの瞳を見開いたが、同時に口元を歪めた。
「……其方は、最初に『願いがある』と言っていたな。それは何だ?」
ミハルはすっとアドルフに頭を垂れた。
「陛下。私に出征の命を……」
「ならぬ!!」
謁見の間に、アドルフの怒鳴りつける声が響き渡った。
ミハルはそれを聞きながら僅かに唇を横に引いた。
◇◇◇◇
「……これだけですの?」
リーディアはテーブルの上に並べられている朝食を見て、呆気に取られた。
公爵邸の豪勢な食事とは違い、枢機卿館の朝食は随分と質素だった。
≪……わー。鳥の餌か?≫
——贅沢は言ってられませんわね。
リーディアがナプキンを手に取ろうとすると、「遅くなりました」と声が聞こえ、驚いて振り向いた。
緋色の肩掛けに漆黒のカソックを着込んだリヒャルトが、いそいそと室内へと入って来ると、椅子へと腰掛けた。
リーディアはその様子をポカンとしながら見つめる。
彼は白い手袋を嵌めた手で長い銀髪を後ろへと追いやり、リーディアと目が合うとニコリと微笑んだ。
「如何いたしましたか? ああ、遅くなってしまったので怒っていらっしゃるのですね。聴罪が長引いてしまったのです。務めが少々立て込んでおりまして」
「いえ。リヒャルト様が、まさかいらっしゃるとは思いませんでしたの」
ラピスラズリの瞳をまん丸にして驚いているリーディアに、リヒャルトは口元を綻ばせた。
「……一人での食事は寂しいものです。これからは、私が居る場所こそが貴女の家ですよ。他にはもう、帰る場所など必要ありませんから」
≪おめぇ、家だったのか……≫
「リヒャルト様! わたくし……。実はこうして誰かと食事を共にすることが久しくなかったものですから、あまりその……自信がありませんの」
カッと顔を赤らめて言うリーディアに、リヒャルトは小さく笑った。
「分からない事は全て、私が教えて差し上げますよ。ご安心なさい」
すっと、白い手袋をつけた手を組むと、「まずは祈りましょう」と言って、リヒャルトは聞き惚れるような美しい声で祈りを捧げた。
「夕方に聖女としての初仕事がありますので迎えにきます。それまではご自由にお過ごしください」
リヒャルトは手袋をつけたまま果物の皮を剥きながら、リーディアにそう言った。
「自由にと言われましても、何をしたらよいのか困りますわ」
リヒャルトはフッと微笑むと、皮を剥いた果物をリーディアの皿へと取り分けた。
「枢機卿館の中を見学されては如何ですか? お望みでしたら、シスターをお供につけさせますよ」
「あ、いえ。それは……一人でも大丈夫ですわ。ありがとうございます、リヒャルト様」
≪鉄仮面シスター、こえーしな? つーか、こいつ手袋いつ外すんだ?≫
リダの突っ込みに小さく笑いながら、リーディアは食事を進めた。
ふわふわのパンは噛みしめる度に甘く、こんなにも美味しい食事をするのは初めてだった。
リヒャルトはリーディアが食事をする様子を微笑ましそうに見つめている。
「あの、リヒャルト様……?」
リーディアが恥ずかしそうに俯くと、リヒャルトはすまなそうに笑った。
「失礼を。貴女の食事を摂る姿が美しかったものですから、魅入ってしまいました。私の愛しき神の子は、完璧ですよ。だからこそ、壊さぬよう、大切に扱わなければなりません」
扉がノックされ、侍従が足音を忍ばせながら急ぎ足でリヒャルトの側へ歩み寄ると、一礼してそっと耳打ちした。
頷きながらリヒャルトが聴き、リーディアと目が合うとニコリと微笑んだ。
「……恐らく二週間後に王城で大規模なパーティーが開催される事でしょう。リーディア、聖女として出席しなければなりませんので、衣装を仕立てなさい」
「……パーティーですの? でも、わたくしは社交界デビューをしておりませんわ」
「そういえば、そうでしたね。本来であれば聖女らしく聖衣を纏う事が原則とされていますが、今回は特別に世俗的な衣装でも構いませんよ」
リーディアは少し困って俯いた。デビュタントも終えておらず、どのようなパーティーなのかも分からない彼女にとっては、どういった趣向の衣裳が良いのか、見当がつかない。
リヒャルトが静かに頷いた。
「良い事を思いつきました。私から贈らせていただきましょう。記念すべき日の装いとなるのですから、貴女の美しさを引き立てるよう、最善のものを用意いたします」
——なんて、お優しいのかしら!
「わたくしの為にお気遣いくださって、感謝いたしますわ」
簡単に祈りを済ませ、リヒャルトはすっと立ち上がると、「次の務めが控えておりますので」と言って、慌ただしく部屋から出て行った。
仄かに甘く穏やかなミルラの香りが残っている。
≪まじで忙しいんだな≫
——お忙しいのに、わたくしの為にこうしてお時間を作ってくださるだなんて。本当にお優しい方だわ。それに、パーティーですって! 楽しみですわ!
≪……うーん。あんたさ、ちょっとあのイケオジにハマり過ぎじゃね? 今度は透け透けのドレスだったらどうすんだ?≫
——あら、こんなにもわたくしの為にお心を砕いてくださる方に失礼ですわ。聖女叙任式でも衣装の交換に応じてくださいましたもの。それに、リヒャルト様はイケオジと言うにはまだまだお若いですわ。
≪だから余計危ういっつーか……。あのな、リーディア。あたしは傭兵達とつるんでたから、あんたよりは世間の事を知ってる方だ。だからこそ言わせてもらうけど、聖職者だからって聖人だとは限らねぇぜ? 見てみろよ、この豪華絢爛な枢機卿館を。あくどいことを一つもせずに、どうやって金を集めるんだ?≫
リダの言葉を聞き、リーディアは寂しげに瞳を伏せた。
——……それでも、構いませんわ。リヒャルト様が、たとえリダの言うような方であったとしても、わたくしは構いませんの。
リーディアは食事を終えると、簡単に祈りを捧げて席を立った。
先ほどまでリヒャルトが掛けていた席に触れ、心が温まる思いで微笑んだ。
「わたくしは、リヒャルト様のお側で一生を遂げますわ。それこそが、わたくしに与えられた役目ですもの」
祈りのように呟くリーディアに、リダは押し黙った。




