第二十二話 誰のことも愛さない女
王城の執務室で、アレシュとミハルは着替えもしないまま椅子に腰掛けていた。
「兄上」
ミハルがポツリと、しかしどこか責めるような声色で言った。アレシュがジロリと視線を向ける。
「リーディア嬢の中に、二人の意識が存在しているのは一体何故なのでしょうか」
ミハルは思い出していた。王城に胡散臭い魔法師達が集まり、それを問おうとしてアレシュにはぐらかされた日の事を。
まるで、『王太子の僕』がやることに干渉するなと言われたようで、大人しく口を噤むしか無かった。
思えば、あの後からリーディアの様子がおかしかった気がする。
『違う! “リダ”って呼んでくれよ! ミハル、あたしはずっと、あんたのことを……!!』
『ミハル、お願いだからあたしを抱きしめてっ! 不安で堪らないんだっ!!』
あれは……つまり、あの時の彼女は『リダ』だったのだろう。
アレシュはうんざりしたようにため息を吐いたが、ニコリと少年のような笑みを浮かべた。
「君の予想通りさ。大臣達に依頼して、魔法師達を呼び、リーディアの中身を入れ替えるように指示したのは僕さ」
ゾッとして、ミハルは首を左右に振った。
「何故そのような事を!!」
「気に入らなかったからさ! 僕に向ける眼差しも、僕との結婚を無駄に待ち続ける様子も、王太子妃教育なんかとっくに終えているはずなのに、健気を装って王城に通っている様子も、何もかも全て虫唾が走った!!」
「ですがそれは、彼女は兄上を……」
「君にもだ、ミハル!!」
アレシュは机を叩き、責め立てるようにミハルに指先を突きつけた。
「君のリーディアに向ける眼差しだ!! 僕がどれほど癪に障ってそれを見ていたか分かるか!!」
ミハルはアメジストの瞳を苦しげに歪めた。
「……それは、申し訳ございません。ですが、私は彼女を兄上から奪う気など」
「君がそのつもりでなくても、僕には信じられない」
その言葉に、ミハルは傷ついたように眉を寄せた。
「何故です!? 私は決して、兄上を蔑ろにするような真似など!!」
「……リヒャルトは、僕の実父だ」
「……!!!!」
空気が凍り付いた。
ミハルは呼吸することもできず、唖然として兄を見つめた。
『愛人の子』と蔑まれていたこれまでの自分と、王に無視され続けてきたアレシュの姿とが重なる。
兄は、『純血』ではない……?
揺れるアメジストの瞳を向けるミハルから、アレシュは視線を逸らし、吐き捨てるように言った。
「リヒャルトと王妃の間に生まれたのが僕なんだ。だから……君が彼女に視線を向ける度、悍ましい過去が繰り返されるんじゃないかと吐き気がした!」
「兄上、ですから私はそのような……」
「最悪だよ、未来の彼女はあろうことか君を想っているんだからね!」
ミハルは、リーディアが自分に抱き着いた時の感触を思い出し、唇を噛みしめた。
「更に、今度はあの忌々しいリヒャルトだって? どれだけ僕を愚弄すれば気が済むんだ、あの女は!!」
アレシュは声も身体も、怯えたように震えていた。
リヒャルトの白い手袋を付けた手が、彼女に触れるかどうかというぎりぎりのところで止まる。まるで彼女を意のままに操るかのように誘導するあの様子に、吐き気が込み上げる。
自分も、あの男の手の上で転がされているだけなのではないかと……!
「僕の最大のミスは、魔法師への依頼を『僕を愛さない女』ではなく、『誰の事も愛さない女』にすべきだったってことだ!!」
アレシュは瞳を固く閉じ、両手の拳を机に叩きつけた。墨壺が倒れ、インクが机の上に広がる。
ミハルは首を左右に振り、アレシュを見つめた。
「兄上、そうではありません。貴方のミスは、彼女の『愛』を蔑ろにしたことです!!」
「煩いっ! そんなものは要らない。信じない!! 僕はあの女にはもう二度と関わらない!! 欲しいなら好きにすればいい、けれど僕にあの女の顔を見せるんじゃない!! 自ら進んでリヒャルトの元へ行ったんだ! 僕が引き留めようとしたのにだぞ!? それなら好きにさせてやればいい!!」
肩で呼吸し、アレシュは顔を手で覆った。
「君も出て行ってくれ。暫く顔を見たくない」
ミハルはすっと立ち上がると、扉の前へと向かった。足を止め、振り返らずに言葉を吐く。
「どんな理由があろうと、兄上が彼女にしたことは間違っておられます!!」
そう言い残すと、静かに扉を開けて出て行った。
机に肘をつき、項垂れたままアレシュはポツリと言った。
「分かっている。でも……分かっていても、どうしようもなかった……。悪いのは、醜く歪んだ僕の存在そのものだ……」
机の上から、ポトリ、ポトリと零れ落ちたインクがカーペットに染みた。
アレシュの背後にある窓からは、大聖堂のステンドグラスを照らす明かりが、その存在感を見せつけるかのように光り輝いている。
けたたましく大聖堂の鐘が鳴り響く。
耳を塞ぎ、頭を覆い、アレシュは発狂せんばかりに叫んだ。
◇◇
執務室を出たミハルは、廊下を歩きながら唇を噛みしめた。
すれ違う使用人達は、ミハルの存在にわざと気づかないふりをして仕事に勤しんでいる。
ぎゅっと、拳を握り締めた。
——私の権威など、今まではどうでも良かった。けれどそれではいけない。それでは、彼女を救う事ができない。
彼女は……リーディアは、決して心から望んで聖女になった訳ではない。アレシュを慕う心を拒絶され、行き場を失って差し伸べられた手に縋りついただけに見えてならない。
……これ以上、傷つく彼女を黙って見ている訳にはいかない。
その為には……。
「……礼です」
零れるようにそう言った後、ミハルは歯を食いしばり、すっと息を吸い込んだ。
「無礼ですよ! 私はジェハークの血を引く王子です!」
ビクリとして、使用人達がミハルを見た。
訝しげに、眉を顰め、蔑み、憐れむように向けられるその目に怯むことなく、ミハルは声を発した。
「その腐りきった目で私を穢すな!! 跪け!! 貴様達の職分は、主の影に徹する事ではなかったのか!! それとも二度と日の光を拝めぬ場所へと、叩き込んでくれようか!!」
慌てて頭を垂れる使用人達を一瞥し、ミハルは廊下を歩いた。
城内に響き渡った彼の声、只ならぬ気迫に怯え、一歩一歩進む度に怯えた使用人達が平伏せんばかりに頭を垂れた。
耳障りな程に大聖堂の鐘が重く鳴り響く。
必死に祈りを捧げる使用人達を忌々しく思いながら、怒りを静かに押し込めて燭台の明かりが揺れる廊下をミハルは歩いた。
——リーディア。貴女を救い出す為に、私は影でいることを辞めます。
◇◇
鐘が鳴りやむと、リヒャルトはゆっくりと十字を切り、深く息を吐いた。
長い睫毛を揺らして固く閉じていた瞳を開け、傍らで祈りを捧げるリーディアに微笑みを向ける。
「汝の祈りは、主へと届きましたよ。安らかな顔をなさい。汝の魂は、この私が守っているのですから」
リーディアはラピスラズリの瞳をリヒャルトへと向けて、喜びを嚙みしめるように微笑んだ。
——わたくしは、もう一人で祈らなくても良いのね……。
「枢機卿猊下がわたくしの魂に寄り添って頂ける事ほど、心強い事はございませんわ」
リヒャルトはリーディアの耳にそっと唇を近づけ、囁いた。
「貴女は聖女なのですよ、リーディア。二人きりでいる今、そのように私を崇める必要はございません」
リーディアを甘い香りが包み込む。
『それと、気安く名前で呼ばないでくれ。虫唾が走る』
アレシュが放った言葉が、リーディアの脳裏に浮かぶ。ズキリと胸を痛め、唇を噛みしめた。
「私の愛しき神の子よ」
リヒャルトが再び囁いた。彼の吐息が熱となって、リーディアを包み込む。
「……はい。リヒャルト様」
ラピスラズリの瞳から溢れた涙が頬を伝った。
リダがどれほどに叫ぼうとも、リーディアの耳には届かなかった。




