第二話 リダと呼んで
揺らめく燭台の灯りの下で、アレシュはペンを走らせながら大量の書類の処理に追われていた。
書類を一枚手に取り、わずかに眉を下げた。
「……魂は、無事に定着したようだね。なかなかに優秀な魔法師達じゃないか」
——彼女の目に浮かぶ、疑いのない好意。あれほど始末に困るものはない。
報告書の末尾に署名すると、何事もなかったように次の書類へと目を移した。
——守る価値のない伝統なら、壊してしまえばいい。人も、婚約も、王太子という役目も……。
ふぅ、とため息をついて前髪を掻き上げると、執務室の扉がノックされた。
顔を出したのは長い黒髪を肩の上で一つにまとめた、嫌に色気のある男だった。彼はアメジストの瞳をアレシュに向けた後、口元に笑みを浮かべた。
「兄上、捗っていらっしゃいますか?」
ミハル・ジェハーク。アレシュの腹違いの弟であり、この国の第二王子だ。
「ミハル。丁度良かった、実は少し手間取っていてね。この書類の照合を手伝ってくれるかい?」
「勿論です。その為にこちらへ来たのですから」
「助かるよ」
アレシュが差し出した書類の束を受け取ると、ミハルは応接用の椅子へと腰掛けた。素早く内容を検め、不備のある箇所へ次々と印をつけていく。
相変わらずの有能ぶりだとミハルの様子を見つめながら、アレシュは困った様にため息をついた。
——僕よりもミハルの方がずっと王太子に相応しいというのに……。
「兄上」
ペンを走らせながら、ミハルがポツリと言った。
「王城に胡散臭い魔法師達が集まっていましたが、何かあったのですか?」
アレシュは少し考えた後、「さあ?」と言って書類に視線を落とした。
執務室に、二人がペンを走らせる音が響く。
「リーディア嬢が……」
「ミハル」
アレシュの声は柔らかかった。だが、ミハルに向けた眼差しには、有無を言わせぬ圧があった。
アレシュはにっこりと笑うと、「書類に集中してくれると有難い」と言って、ペンを走らせた。
◇◇◇◇
ベニーシェク公爵邸の自室で、リーディアは鏡に映った自分を見つめて頬をひくつかせた。
手には銀色のヘアブラシを握り締めており、絹糸の様な髪の手入れをしようとしている所だった。
「め……目つきが悪いですわ……」
≪悪かったな!?≫
鏡に映った自分が不貞腐れた様にそう言った。
どうやら鏡には未来のリーディアの姿が映りこんでいるらしい。
「こ、こんなの使用人達に見られたら困りますわ!」
≪誰が『こんなの』だっ! 使用人達には見えやしないよ。あたしはあんたの中にいるんだから≫
リーディアは青ざめて両頬を手で覆った。鏡の中の自分はプイと顔を背けて、苛立った様に腕を組んでいる。
「貴方、出ていってくださる!?」
≪あのなぁ! あたしだって好きであんたの中にいるわけじゃない。出ていけるならとっくに出てる!≫
困った様にリーディアは深いため息をついた。ころころと鏡の中で表情を変える自分を気味悪く思う。まるで悪魔とでも対話しているような気分だ。
——ひょっとして、本当に悪魔だったりして……!?
「そ……そもそも貴方が未来のわたくしだなんて、俄かには信じられなくてよ!?」
リーディアは一旦落ち着こうと、震える手でお茶の入ったティーカップを持った。鏡の中の自分がジロリと見つめる。
≪そのティーカップ。アレシュから貰ったやつだろ?≫
ドキリとして、リーディアは手を止めた。
「ほ……ほほほ、そんなこと。わたくしはアレシュ様の婚約者ですもの、贈り物があることくらい、誰にでも予想がつきますわ」
フフンと勝ち誇った様にそう言って、お茶を一口飲んだリーディアはカップをサイドテーブルに置いた。
淡い水色の紋様が美しい上品なティーカップは、リーディアのお気に入りだ。
鏡の中のリーディアが、うんざりした様にため息をつき、頭を掻いた。
≪じゃあ……あんたは机の引き出しの小箱に、アレシュから借りパクしたハンカチを大事にしまってあって、気分が滅入った時に取り出して、たまに愛でて……≫
「キャ————ッ!!!!!」
悲鳴を上げ、リーディアは顔を真っ赤にしてまくし立てた。
「どうしてそんな事を知っていますの!? あのハンカチは殿下が返さなくて良いと仰ったんですのよっ!? わざとお返ししていないわけではありませんわっ!」
≪だからー……≫
「それに、貴方が本当にわたくしだと仰るのなら、どうしてそんなに口も目つきも悪いのかしら!?」
鏡の中のリーディアは、一瞬だけ答えに詰まった。
≪……令嬢みたいな口を利いていたら、身分を隠せなかったんだよ。逃げてる間、傭兵達の真似をしてるうちに、すっかり抜けなくなっただけだ≫
「逃げていた……? 逃げなきゃならなくなるような、悪い事をしたということなのかしら!?」
ムッとした様に唇をへの字に曲げると、≪じゃあもういいよ!≫と言い放った。
≪あんたがあたしを未来のあんただなんて信じなくたって結構だ! ただ、何度も言うけどアレシュは止めておけ! あいつは……≫
「絶対に嫌ですわっ! わたくしはアレシュ様を心の底から愛しているのですものっ!」
キッパリと言い切ったリーディアに、鏡の中のリーディアが地団駄を踏む。
≪あ――ッもうっ! 過去の自分をぶん殴りてぇっ!!≫
「だって、彼は少年の様な笑みを浮かべ、花を愛でる、とっても素敵な方でしょう? そんな彼を好きにならない人なんていませんわ」
≪……うへぇ。花なんか愛でねぇよ、あいつ≫
リーディアの頭の中では、薔薇の花を口に咥え美化したアレシュが、くるくると回転している。
思いきり顔を顰めて両肩を擦る鏡の中のリーディアを見て、ハッとして咳払いをした。
「それにしても、どうしてこんな事になってしまったのかしら」
≪よくわからないけど、大臣達の仕業なんじゃないの? 変な連中とつるんでただろう?≫
——そういえば、大臣達は『中身を変える』やらと言っていたような……。
≪大方、なんかやろうとして失敗したってクチだろ。途中、あんたとあたしが入れ替わったのもそのせいだろうね≫
それを聞き、リーディアは憤然として立ち上がった。
「そうですわ! あなた、アレシュ様に『大嫌い』だなんて!!」
≪仕方ねぇだろ? 嫌いなモンは嫌いなんだから。でも、良かったじゃねぇか。あいつ喜んでたし≫
リーディアは『それは何より』といって満足げに微笑んだアレシュの姿を思い出し、俯いた。
ストンと椅子に座り、髪にブラシを当てる。
「……アレシュ様は、わたくしに嫌われたいのかしら」
しょんぼりとしながら言うリーディアを、鏡の中のリーディアが悲しげに見つめる。
——せめて、アレシュ様には嫌われたくないわ。彼にまで嫌われてしまったのなら、わたくしは……。
静かに髪を梳かしながら溜息を洩らしたあと「ところで」と、瞳を上げた。
「貴方をなんとお呼びすれば良いのかしら? いつまでも『貴方』なんて呼ばれるのは嫌でしょう?」
≪ああ、それなら……≫
そう言って、鏡の中のリーディアが恥ずかしそうに頬を染めた。
突然しおらしくなった彼女を見て、小首を傾げる。
「どうかなさって?」
≪その……あたしの事は『リダ』って呼んでくれたらいい≫
「まぁっ!! わたくしの愛称ではございませんこと!? まだ家族からしか呼ばれた事が無いというのにっ!?」
≪いや……えーと≫
リダは恥ずかしそうに口ごもると、頬を掻いた。
≪ミハルが、あたしをそう呼んでくれてたから……≫
「ミハル……?」
そう呟いて、リーディアは、ひゅっと息を呑んだ。
「ええ!? まさか、アレシュ様の弟君のミハル様の事を仰っているの!?」
リーディアの脳裏に、艶やかな黒髪を上品に結わえた、アメジストの瞳の男が思い浮かんだ。
リダはコクリと頷くと、顔を真っ赤にした。
≪その……≫
甘く優しい笑みを浮かべたミハルを思い出し、リダは彼に会いたいという気持ちでいっぱいになった。
≪ミハルは、あたしに愛していると言ってくれたんだ≫




