第十九話 永遠の祈りと、永遠の愛
空は薄明に染まり、揺れる燭台の光がアレシュの頬を照らす。
古めかしい机の上に肘をつき、白い手袋を嵌めた両手を口元で組み、その指先にはインクが滲んでいた。
いつも山積みとなっていた書類は全て捌ききり、余計な事を考えまいと無心になって仕事をした結果を物語っていた。
だが、する事が無くなれば自ずと物思いに耽らずにはいられない。
思い浮かぶのはどれもこれも不愉快な事柄ばかりで、僅かに膝が揺れた。
——リーディアの中に居る『二人』は、誰と、誰、か。
恐らく一人は以前の彼女だろう。ところどころに既視感を覚えるので、間違い無い。
では、もう一人は一体誰だ? 魔法師への依頼は、『僕を愛さない女』を指定したのだけれど。
そう考えて、アレシュはゾクリと鳥肌を立てた。
——リーディアの別人格は、僕やミハルを知っていた……。
コツコツと、扉が叩かれた。
こんな時間に何者だろうかと訝しく思っていると、大臣の一人が落ち着きのない様子で入って来た。
「随分と早起きじゃないか」
「こちらのせいで叩き起こされたものですから」
そう言って、彼は銀色のトレイに乗せた封筒を差し出した。アレシュは触れようとはせずに眉を寄せてそれを一瞥すると、「君は中身を知っているんじゃないの?」と問いかけた。
「滅相もございません。私はこの封書を持参した、公爵家の使用人に脅されたのです。リーディア嬢に施したあの儀式は、魔塔の許可を受けていない、非公式の行いであったのだと」
アレシュは眉を寄せた。
「何を言っているのかよくわからない。許可を得ずに、魔法師が王城を訪れられるものか。良い様に使われて見苦しいにも程があるよ」
大臣は安堵して肩の力を抜いたが、ハッとして封書を再びアレシュへと差し出した。
「とにかく、お受け取り願います殿下」
小さく舌打ちし、アレシュはツカツカと大臣の側へと歩み寄ると、銀のトレイから奪い取るように封書を受け取った。
「受け取ってやったんだからさっさと下がりなよ」
「は!」
慌てて立ち去る大臣の背を見送って、アレシュは封書を見つめた。淡い桜色の封筒に、銀の封蠟である事に僅かに安堵して席へと着くと、ペーパーナイフで封を切った。
差出人はリーディアだった。
読み進めていくうちに、アレシュの顔が寂しげに曇る。
窓から射し込む瞳を刺す様な眩い光に眉を寄せ、唇を噛みしめた。
◇◇◇◇
大聖堂の着替えの間で、鏡の中のリダが苦笑いを浮かべた。
≪なんだこりゃ? 下着か?≫
リダの言う通り、聖女の衣裳として着替えさせられた純白の薄布は、リーディアの身体を隠すには随分と心許ない。
≪……真っ裸の方がいっそ潔いな?≫
「こ……この恰好で、わたくしは皆さんの前に出るんですの!?」
涙目になりながら、リーディアはあまりの恥ずかしさにしゃがみこんだ。
先ほど着替えを手伝ったシスター達は、終始無表情のまま、仕事を終えるなり無言で去って行ってしまった。
もやもやと考え事ばかりしていたリーディアが、今になって状況を把握したというところだ。
≪聖女叙任式には王族も参列するんだよな……?≫
リーディアはさぁっと青ざめた。アレシュやミハルの前に自分がこんなはしたない姿で現れる事を想像するだけで、魂が抜けそうなほどの周知を覚えた。
「絶対に無理ですわっ! な、何か羽織る物は無いかしら?」
≪覚悟決めて正々堂々とするしかねぇよ。なんなら、あたしが代わってやろうか?≫
見せつけんばかりにドヤ顔で大聖堂を闊歩するリダの様子を想像し、悲鳴を上げたくなった。
「リダに代わって貰っても、嫌なものは嫌ですわっ!」
ぺたぺたと裸足で駆け、羽織るものを物色しようと衣裳棚に手を掛けた時、コツコツと扉が叩かれた。
「キャア!!」と悲鳴を上げて、リーディアが慌ててカーテンに包まりその身を隠すと、重厚な扉が開き、静かな靴音が聞こえた。
「リーディア嬢。その様なところに隠れて、如何いたしましたか?」
優しく掛けられた男性の声に、リーディアはそっとカーテンから顔だけを出して見つめた。
長い銀髪を束ね緋色のケープを羽織ったその男は、サファイアブルーの瞳を細めてニコリと微笑んでいた。
「あの、枢機卿猊下……! あの、その……!」
頭を下げようにも、カーテンから身を出す事ができず、不敬であると分かりつつもリーディアは顔を真っ赤にしながら困惑した。
「わ、わたくし! このようなふしだらな姿を皆さんの目に晒すことはできませんわ!!」
≪やー……気持ちは分かるけど、あいつが許すと思うか……? どうせ『ふしだらと思う心が穢れてる』云々って言いやがるに決まってら≫
狩猟大会での出来事を思い出し、リーディアは恐怖で身体を震わせた。
物腰は柔らかでありながら、厳格なリヒャルトの物言いは、全てが的確で圧倒された。
——どうしましょう。罰せられてしまいますわ! でも、どうしてもわたくしは無理ですものっ!! デビュタントも終えておらず、華やかなドレスだって許されませんでしたのに、こんな仕打ちはあんまりですわ!
リヒャルトはテーブルの上にある鈴を鳴らすと、声を掛けた。
「誰か、リーディア嬢の衣裳を見直してください。彼女は『国の静謐を守る聖女』です。その魅惑的な美しさで混迷を呼んではなりません」
≪……まじか≫
まさか聞き入れられるとは思ってもおらず、リーディアは暫くの間微笑むリヒャルトの顔を見つめ、ハッとしてカーテンの中から精一杯頭を下げた。
「ご配慮に深謝いたします、枢機卿猊下!」
リヒャルトはサファイアブルーの瞳を細めて僅かに頷くと、「主祭壇でお待ちしておりますよ」と言って、部屋から出て行った。
先ほど立ち去ったシスター達が純白の聖衣を手に持ち、ゾロゾロと室内へと入って来る。
リーディアはホッとしてそっとカーテンから出て来ると、無表情だったシスター達が僅かに口元に笑みを浮かべた。
「猊下は本来、儀礼を重んじる厳格なお方ですが、貴女のために特例を認めてくださったのです。お優しい方ですから」
——特例……? わたくしの為に……?
不意に溢れた涙が、止める間もなくポタリと床に零れ落ちた。
「私共が、お手伝い差し上げますから」
肩を震わせるリーディアに、シスター達は素早く着替えを整えた。
着替えの間に射し込む光が、柔らかに感じた。
◇◇
『敬愛なる王太子 アレシュ・ジェハーク殿下』
リーディアは純白の聖衣に身を包み、静々と主祭壇へと進み入った。アレシュへと綴った手紙が、脳内でゆっくりと流れる。
『主のお導きにより、わたくしは、この身を聖なる教会へ捧げる決意を致しました』
頭には花嫁のヴェールのような純白の布を被り、長い生地は緋色のカーペットの上をさらりさらりと音を立てて揺れた。
『殿下と共にすごした時間は、わたくしの人生に於いて最も輝かしく、そして美しく、幸せなひと時でございました』
絹糸の様な黄金の髪には純白のリボンが編み込まれ、リーディアが一歩進む度に可憐に揺れる。
『たとえこの身が聖域の檻に閉ざされ、二度とお目にかかることが叶わずとも、わたくしは“聖女”として、殿下の歩まれる道が、光に満ちる事を永遠に祈り続けます』
参列した全ての者達が息を呑んで、彼女の一挙一動を見守った。
『永遠の祈りと、永遠の愛を込めて。 リーディア・ベニーシェク』
祭壇の前に立つリヒャルトは、緋色のビレッタに、緋色の祭服を着込み、穏やかな表情でリーディアを迎え入れた。
——猊下は、わたくしを受け入れてくださるのね。
跪くリーディアを、身廊の最前列からアレシュとミハルは見つめていた。空席となっている王の席が霞む程に、皆がリーディアに注目していた。
リヒャルトが静かに口上を述べる。
「陛下はお心の痛みゆえに、この聖なる儀式の全権を私に委任されました」
広い室内に、低く透き通ったリヒャルトの声が反響する。
「リーディア・ベニーシェク。貴女は今、この穢れた現世の絆を断ち切り、主を唯一の伴侶として、その身を、その魂を捧げる事を誓いますか?」
リーディアはハッキリとした口調で答えた。
「はい。わたくしの全てを、主に捧げます」
「宜しい。ならば、貴女を『聖女』として認め、我が慈悲のもとに保護いたしましょう。さあ、忠誠の証を……」
リヒャルトはそう言うと、チラリとアレシュへと視線を向けた。
不愉快に思い、眉を寄せたアレシュを見つめながら、すっと自らの指輪へと口づけをした。そして、その指輪をリーディアへと差し出した。
「……兄上」
ミハルが小さく声を発した。アレシュは唇を噛みちぎらんばかりに噛みしめて、震える拳を握り締めた。
リーディアはリヒャルトが差し出した指輪へと口づけした。
静まり返っている室内の空気が、ずっしりとアレシュの肩にのしかかる。
「主を讃えましょう」
リヒャルトの合図と共に、参列者達が一斉に声を放った。
「神に感謝を!!」
響き渡る声を断ち切る様に、リヒャルトの言葉が響く。
「見なさい、我らが王国の新たな光、聖女リーディアを。主の慈悲は、今ここに完成したのです」
パイプオルガンの音が鳴り響き、大聖堂を満たす中、アレシュはじっと静かにリヒャルトを睨みつけていた。




