第十八話 壮大な失恋
——これは、リーディアの未来。つまりは『あたし』の記憶だ。
狩猟大会中の事故で、アレシュが大怪我を負ったと知らせを受けたのは、あたしが王太子妃教育を受けている最中の事だった。
大臣たちの制止を強引に振り切り、アレシュの姿を見たあたしは——絶句した。
室内は、血生臭い匂いが充満していた。
ベッドの上に横たわる彼は、何か強い力で引き裂かれたのか、頭部の半分を、血に染まった包帯で巻かれていた。なんて、痛々しい姿だろう、と震える視線を動かした。
そこにあるはずの右腕が存在していなかった。
悲鳴を上げそうになり、必死に押し殺す。
アレシュが、あたしに気づいて掠れた声で言った。
「リ……ディア。君は……僕……を……」
ゾクリと背筋が凍りついた。片方だけのサファイアブルーの瞳が、まるで憎しみが込められているような鈍い光を宿している。
「貴様! 殿下の婚約者といえど、許しなく病床へ立ち入るなど……」
大臣の怒鳴り声を最後まで聞く前に、あたしは逃げた。
激しく鼓動する心臓は張り裂けんばかりに痛み、覚束ない足を無理矢理に動かす。
——これは、きっと悪い夢なのだわ!!
王城の廊下を、死に物狂いで駆け抜けた。
ドン! と、激しく人にぶつかり、震える瞳を向けると、彼は悲しげなアメジストの瞳を細めた。
「……リーディア嬢。まさか、兄上のご容体をご覧に……?」
わっと泣き出すあたしを落ち着かせる為に、ミハルは王城の客間へと連れて行くと、泣き止むまで黙って側に居てくれた。
アレシュは肉体の欠損と共に、その地位まで揺らいだ。
「王太子の地位を廃されるのでは」
「元々、ミハル殿下の方が優秀であった」
「だが、ミハル殿下は庶子ですぞ」
そんな話が王城内だけに留まらず、王都中に広まった。噂好きな貴族連中の事だから、王国内か、国外にまで広まったことだろう。
それでも、王太子妃教育を受けない訳にいかなかったあたしは、毎日王城に通い続けた。
ミハルからアレシュの容体を聞くうちに、彼とは随分と打ち解けたと思う。元々ミハルは温厚な性分だったわけだけれど、お互い意識的に避けていた。
それは、リーディア、あんたもそうだっただろうから分かるだろう?
けれど、世間がどう言おうと、あたしは初めて出来た友人を手放したくなくなってしまったんだ。
勿論、解っていた。
アレシュが廃太子となれば、ミハルが新王太子となるということも。王室とベニーシェク公爵家との契約上、あたしがミハルの婚約者になるということも……。
そんな最中、公爵邸に一通の封書が届いた。
教会からの『聖銘の託宣』。あたしを『聖女』として祀り上げるという死の宣告に近いものだった。
骨白の封筒に、凝固した血の様な封蠟が刻印されたそれは、開封すると甘くまとわりつくようなミルラの香りが立ちのぼった。
戦慄が走った。
「お父様。わたくしは、例えアレシュ様が廃嫡となられても。一生涯彼の妻として寄り添いますわ! 教会に行きたくなどありません!!」
懇願したあたしに、公爵はつまらなそうに言った。
「お前を『聖女』にするよう教会に進言したのは、アレシュ王太子殿下ですよ」
「え……?」
小さく呟くように唇から声を発し、父を見つめた。
脳裏に、血塗れのままあたしを睨みつける、片方だけのサファイアブルーの瞳が浮かび上がった。
——あれは、憎悪の瞳だったのかしら……?
そう考えて、あたしは首を左右に振った。
彼が感じたであろう凄まじい激痛の最中、その瞳の奥に感じたものは……。
——救済の懇願……。
彼は、そんな事を口に出せない性分だから。一人で孤独を味わって、それでいいと諦めてしまう人だから。
愛される事を望んでいるくせに、誰よりも『愛』を否定する人だから。
そのくせ、わたくしの想いには気づいていらっしゃって。だからこそ、ご自分の側から引き離そうとされたのだわ。
彼の痛ましいお姿から、わたくしが逃げてしまったから……。
二度と、目にしなくても良いようにと……!
————翌朝、あたしは公爵邸を離れた。
誰にも見つからないように持ち物は最低限に抑え、必死に馬を走らせた。少しでも早く公爵邸から離れなければならなかった。
だが——薄闇の中、馬を走らせていると、前方から一頭の馬が駆け寄って来た。
あたしは絶望した。
浅はかなあたしの考えなんか、聡明な父はお見通しだったに違いないのだから。連れ戻されたのなら、教会へと直ぐにでも送りつけられて、あたしは一生をそこで過ごす事になるのだろう。
「……リーディア嬢」
駆け寄って来た馬の上からかけられた優しい声色に、あたしは眉を寄せた。薄闇よりも色濃い漆黒の髪を揺らし、彼はアメジストの瞳を細めた。
「私も共にゆきます。王室から私という存在が消えさえすれば、兄上のお心を少しでもお救いできるでしょうから」
勿論、あたしはミハルに戻るように何度も言ったけれど、そんな言葉を簡単に受け入れる程、彼の決意は生半可なものではなかった。
そう、あたし達は、それぞれアレシュを思って逃げたんだ。
聖女になってしまえば、二度と彼の側で支える事ができなくなってしまう。
ミハルが王太子となってしまえば、アレシュの心はズタズタになってしまう。
王城から派遣された追手と、教会から派遣された追手を巻く為に傭兵を雇い、いざこざが全て収まるまでの間、国外で過ごそうと決めた。
何年かかろうとも構わない。
一人じゃなかったから、乗り越えられると思った。
逃亡中、あたしの事を彼は『リダ』という愛称で呼んだ。初めての事だったから、正直嬉しかったし、高鳴る胸はどうにも抑えようがない。
ミハルと過ごす時間が長くなるにつれ、あたしの心は揺れた。
「愛しています。リダ」
彼は、あたしが答えられない事を解っていても、そう言ってくれた。落ち込んだ時や、傷ついて、寂しさや悲しみに打ちひしがれた時、その言葉で支えてくれていた。
あたしが、誰からも愛された事が無い寂しさを抱えているのだと、知っていたから。
だから、それだけだったんだ。
恋人同士と呼ぶには、お互いを隔てる壁が余りにも分厚かった。
二年間。逃げ続け、心身共に疲弊していた。追手を巻く事は不可能だった。
迫りくる騎士達の足音が聞こえる最中。あたしはこれが最期であると確信し、彼の口づけを赦した。
ミハルが寂しそうに笑った。
「貴女は、謝るばかりで一度も私に『愛』を告げた事がありませんね」
「……ごめん」
だから、誓ったんだ。もしもいつか、二人の間に壁が無くなったのなら、その時は必ず彼に『愛している』と伝えよう、と。
断頭台で最後に目にしたのは、アレシュの絶望に歪んだサファイアブルーの瞳だった。
◇◇◇◇
リダの話を聞き終えて、リーディアは俯いた。
ため息を吐いた後、ベッドから降りて鏡台の前へと座った。鏡の中のリダは、リーディア同様顔中を涙で濡らしていた。
「……リダったら。みっともない顔ですわ」
≪お互い様だ。でも、あんたの前でなら、どんな無様なあたしでも見せられる≫
鏡越しに目を合わせ、二人は僅かに笑みを交わした。
——わたくしには、聖女になったとしてもリダが居る。一人では無いわ。
「……決めたわ。わたくし、教会からの招集をお受けしますわ。逃げ場がないのなら、こちらから中に入って差し上げます」
リーディアはぎゅっとアレシュのハンカチを握りしめた。
「分かっていた事ですわ。アレシュ様は、最初からわたくしの想いを受け取るおつもりがなかったのですもの」
どこかふっきれた様にリーディアは腕を伸ばした。
「王太子妃は、わたくしでなくとも務まりますわ。アレシュ様を『聖女』としてお支えする方が、きっと良いと思いますの」
≪受け入れるしか無い状況になっちまったしなぁ……。アレシュの奴が怪我しなけりゃ、あんな手紙も届かねぇと思ったんだが≫
「アレシュ様がご無事だったのですもの。それだけで十分ですわ」
≪でも、あたしがミハルを想う気持ちに変わりはねぇぜ?≫
リーディアは頷くとニコリと微笑んだ。
「わたくしも、アレシュ様を想う気持ちに変わりはありませんわ」
そして、リーディアはハンカチを鏡台の上に置くと、すまなそうに肩を竦めた。
「わたくし達、壮大な失恋ですわね」
≪待て待て、あたしは諦めちゃいねぇぜ? 聖女だろうとなんだろうと、裏でいちゃいちゃ……≫
「絶対ダメですわっ!!」
キッパリとリーディアが言い切って、鏡の中のリダが苦笑いを浮かべ、≪やっぱり駄目か≫と言った。
ミルラの鼻にまとわりつくような甘い香りが、室内に漂っていた。




